資本論ベーム・バヴェルク

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ベーム・バヴェルク著 『マルクス体系の終結  (2)  未来社

                                                    

 第4章 マルクスの体系におけるあやまり

           ― その根源とその諸分枝

                                  八木紀一郎著「ベーム・バヴェルク」紹介抄録

                         *『マルクス体系の終結』 第1章 価値の理論と剰余価値の理論

 第1節
1.
 著作者が自己矛盾していたという証明は、事物に即して実りの多い批判の、必要な一段階ではありうるが
 最終目標であってはならない。ある体系のなかに、ある欠点―その著者のもちろんただ偶然的な個人的な欠点に
 すぎないであろうと考えられうるような―が、ひそんでいるのを知る、ということは、批判的な認識の比較的に貧弱な
 程度のものにすぎないのである。
堅固に組み立てられた体系をほんとうに克服することは、あやまりが体系の
 なかへ入りこんだ地点と、あやまりが体系のなかでひろがり枝を出していった道すじとを、きわめて精確に指摘
 する
ことに成功するばあいのほかには、ありえないのである。あやまりの出発点と展開とを、そしてまた、自己矛盾に
 おいて頂点に達するそのあやまりの破局〔大詰め〕を、―このはんたいのばあいであるが帰依する体系の連関を
 理解しようと努力しているのと同じように―よく理解しなければならないし、また、―わたしはほとんど次のように
 いいたいくらいだが―敵対者としても帰依者がその体系の連関を理解しようと努力しているのと同じようによく共感して
 理解しなければならないのである。
  まったく独特の尖鋭化した事情のために、マルクスのばあいには自己矛盾の問題が、ふつうのばあいよりも、
 はるかに大きい意義を、かちえた。したがって、わたしも、その問題に広い紙面をあてたのである。しかし、このように
 重要でえいきょうの大きい思想家にたいしてこそ、なおさら、われわれは、〔批判的な課題の第一の部分である自己
 矛盾の問題におとらず〕批判的な課題の第二の部分―わたしの考えではマルクスの〕このばあいにも事実上〔事物に
 即して見れば〕なおいっそう実り多くいっそう有益な部分―を、さけてはならないのである。
  われわれをただちに主要な点へみちびく問題から、はじめよう。すなわち、マルクスは、どのようなやりかたで、かれの
 学説の理論上の根本命題へ―すべての価値はただもっぱら体化されている労働量にだけ基づいているという命題ヘ―、
 到達したのであるか?
  この命題が自明なそれゆえ証明をまったく要しない公理のようなものではないことは、うたがいの余地がない。・・・・


2.
  マルクスは、すでに、むかしのアリストテレースにおいて、「交換は同等性なしにはありえないが、また、同等性は
 通約性なしにはありえない
」(第一巻35ページ)という考えを、見いだした。マルクスは、この考えを話の糸口にしている。
 かれは、ふたつの商品のあいだの交換を等式のかたちのもとに思いうかべて、この交換され交換により等置された
 両方の物のなかに「おなじ大きさの共通なもの」が存在しなければならないと推論し、この共通なものI等置された物が
 交換価値としてこの共通なものへ「還元されることができる」ものであらねばならない―を探し出そうとくわだてるのである。
 (第1巻11ページ)


3.
 ついでに、わたしは、つぎのことをいっておきたい。第一の前提―これにしたがえば二つの物のたがいの交換において
 これらの物の「同等性」が明示されるべきはずである―が、もうすでに、わたしには、ひじょうに古くさく(もちろん、
 古くさいというようなことは、けっきく大して重要なことではないであろうが)、また、ひじょうに非現実的に、―これを簡明に
 〔わかりやすく〕いえば―まちがって、かんがえられているように見える。同等性と精確な均衡とが支配しているところでは、
 いままでの安定状態の何の変化も入りこむ余地のないのが、つねである。したがって、交換のばあいに諸商品が
 それらの所有者を代えることで事態がおわるならば、このことは、はるかによく、つぎのことを示している。すなわち、
 このことは、なにかある不同等性や一方がより重いための不均衡がはたらいていたのであって、この偏倚によって
 変化を余儀なくされたのである、ということの、しるしである。このことは、ちょうど、つぎの例と同じようなことである。
 すなわち、たがいに近づけられた化合物の諸成分のあいだに、あたらしい化学化合物がつくられるのは、
 ちかよせられた他の物体の諸成分にたいする「化学親和力」が、これまでの化合物の諸成分にたいするのと、ちょうど
 同じ強さのばあいではけっしてなくて、ちかよせられた他の物体の諸成分にたいする「化学親和力」がこれまでの
 化合物の諸成分にたいするよりもいっそう強いばあいである。じっさいに、まさに近代の〔国民〕経済学も、交換される
 べき諸価値「諸価値物」の「等価」という古いスコラ神学的な観念がまちがっていることについては、〔意見が〕
 一致しているのである。しかし、わたしは、この点を、さらに立ち入って間題としよう〔それ以上に重要視しよう〕とは、
 おもわないのであって、〔ここでは〕わたしは、もとめられた「共通なもの」として労働をマルクスが蒸留して取り出す
 論理的な方法的な操作の批判的な研究に向かう。


4.
 さて、わたしがすでに前のところで予示しておいたとおりに、この操作は、わたしにはマルクスの理論の最大の
 弱点をつくっているように見えるといったあの操作のこと
である。この操作は、思考の環〔項〕数とほとんど同じ数の、
 科学上の重大なあやまりを、しめしている。その数たるや、けっして、すくなくないのである。この操作は、先入見を、
 現実の探究行程から自然にでてきた結果のように見えるものとして、あらわさせるために、あとから、知恵をしぼって
 案出され、まとめ細工仕上げされたものである。このことの、あきらかな痕跡を、この操作は、もっているのである。

5. マルクスは、交換価値にとって特徴的な「共通のもの」を求めるにさいして、つぎのような手順をとる
 かれは、交換において等置される物〔諸客体〕が、いっぱんに持っているいろいろの属性に、目をとおし調べて、
 それから、除外の方法によって、検査に不合格な諸属性をすべて除去していく。こうして、ついには、ただ一つの
 属性だけしか、もはや残っていないようになる。このばあいに、この〔のこっている唯一の〕属性―これは労働生産物だ
 という属性である―は、もとめられた共通の属性でなければならない。
  この手順は、すこし奇異ではあるが、しかし、それじしんは排斥されるべきものではない。この推測された特徴的な
 属性〔労働生産物であるという属性〕を積極的に検査する―このことはマルクスが故意に避けた前述の二つの方法
 のうちの一つへ確かにみちびいたであろう―かわりに、ただ、ほかのすべての属性はそうではないがしかし何としても
 一つの属性はそうでなければならない、という消極的なやり方だけで、まさに〔おしはかられた特徴的な〕この属性
 こそが求められた属性だという確信をかくとくするのは、たしかに、すこし奇異なことである。それでも、この方法が、
 つぎのように必要な注意と完璧さをもって用いられる場合には、のぞみどおりの目標にいたることはできる。
 すなわち、ふくまれているあらゆるものをば論理の篩〔ふるい〕のなかに、じっさいにも入れてみるように、綿密すぎる
 くらいの細心さで注意がはらわれ、それから、ふるいにかけて除去される部分〔環、項〕のただの一つにでも見誤りが
 犯されないように、綿密すぎるくらいの入念さで注意がなされる、というばあいである。

6. だが、マルクスは、どのように、やっていくか?
 
かれは、はじめから、ただ、かれが篩(ふるい)にかけて最後に「共通の」ものとして取り出したい属性をもっている
 交換されるねうちのある物だけを、ふるいのなかに入れておいて、そして、ほかの種類の物をすべて外へすてる。

 つぼから白球が出てくるであろうことを切望して、つぼのなかへ白球ではない球を入れないことによって、この結果
 〔白球が出てくること〕を用心ぶかく確保する、というような人のするとおりに、マルクスは、しているのである。というのは、
 マルクスは、かれが交換価値の実体を探究する範囲を、はじめから「商品」に限定しておいて、そのさいに、
 この概念〔「商品」〕を、きっちり正確入念に定義することなく、とにかく「財」の概念よりも狭くとらえ
、自然の賜物
 〔天然物〕に対立する労働生産物というわくのなかに制限している、のだからである。
 しかし、いまや、
つぎのことは、手にとるように明白である。すなわち、ほんとうに交換が、「ひとしい大きさをもつ共通な
 もの」の現存を前提する等置を、意味するならば、この共通なものは、やはり、
交換に入るあらゆる種類の財において、
 もとめられ見いだされなければならない
。〔くわしくいえば〕この共通なものは、たんに労働生産物においてだけではなくて、
 また、土地、立ち木、水力、炭層、石切り場、石油層、鉱泉、金鉱、などのような、自然の賜物においても、もとめられ見い
 だされなければならないのである。
(注1)
  交換価値のきそになっている共通なものを探求するさいに、労働生産物でない交換されるねうちのある財を
 除外する、ということは、この事情のもとにおいては、方法上のゆるすべからざる死罪である
。これは、あたかも、
 物理学者が、ある個別の群の諸物体-たとえば透明な諸物体-の諸属性をふるいにかけることで、すべての物体に
 共通な属性―たとえば重さ―の根拠を探し求めたくおもい、―透明な諸物体に共通なあらゆる属性を検査することに
 よって―、これら透明物のこのほかの〔共通ではない〕すべての属性が重さの根拠ではありえないと証明し、
 このことに基づいて、さいごに、〔重さのほかには透明性だけが透明の諸物体に共通な属性として残るから〕透明性が
 重さの原因でなければならないと宣言する、というようなばあいと、かわるところはないのである!


  (注1) カァル・クニースは、マルクスにたいして、つぎのように適切な異議をさしはさんでいる。
   「1クォータァの小麦=山林〔営林または造林〕において生産されたaツェントナァの木材、という等式と同じように、
    また第二の等式―すなわち、1クォータァの小麦=aツェントナァの野生の樹木=bモルゲンの処女地=cモルゲンの
    天然の草原のままの牧草平地、という等式―が、なぜ、あらわれてはならないのか、という何らの根拠も、
    マルクスの説明のなかにおいては、ぜったいに、みとめられることはできない。 
〔注5〕
    (『貨幣』第1版121―122ページ、第二版157ページ。) 

     〔注5〕*ベーム・バーヴェルクは募穴をほっている。マルクスは、拡大された価値形態において、商品化の拡大という
         観点から、「第二の等式〔方程式〕」を行っている。

7. 土地のように、財産と交易とのもっとも重要な目的物〔諸客体〕に属する天然物〔自然の賜物〕が、すくなくないだけに、
 そしてまた、いくら何でも交換価値が自然の賜物のばあいにはつねにただ全く偶然に勝手気ままに決められるという
 ようなことは、まさか主張されえないだけに、自然の賜物の除外
〔注6〕を是認することは、なおさらいっそうできないのである。
   
〔注6〕マルクスはペティを引用して「ウィリアム・ペティがいうように、労働はその父であって、土地はその母である。」
  (交換における等置という考えの生みの父であるアリストテレースは、自然の賜物を除外することを、けっして思いも
 しなかったであろう。)一方において、偶然的な価格は、労働生産物においても生じる。また他方において、自然の賜物の
 価格は、しばしば、堅固な拠り所や決定根拠への、もっとも明白な連関を、しめしている。たとえば、土地の買い入れ価格が、
 ひろく行われている普通の利子率を標準とするその土地の地代の倍数である、ということは、よく知られている。このことと同様
 に、つぎのことも、よく知られている。すなわち、立ち木や炭坑内の石炭が、いろいろ品質も異なっているので、また、
 〔それらを市場へ〕もってくるのに事情が等しくはないこともあっていろいろ状態も異なっているので、これらのために価格は
 いろいろちがってくるが、これらの価格のいろいろのちがいが、たんなる偶然から生じるものではないことなどは、たしかだと
 いうことも、よく知られているのである。

8. マルクスは、また、かれが、交換されるねうちのある財のなかの一部を、はじめから研究の外へしめ出した、ということと、
 なぜ、しめ出したか、という理由とについて、はっきりしている説明をしないように用心している。かれは、ひじょうにしばしば
 そうであるように、ここでもまた、かれの推論のとりあつかいにくいところを、ぬらりくらりとして捕えどころのない弁証法的な
 器用さで、すべりこえてゆく術〔すべ〕を心得ている。
 かれは、まず、
かれの「商品」という概念が、交換されるねうちのある財いっぱんの概念よりも、せまいのだ、ということを、
 かれの読者に気づかせないようにしている
。かれの著書のさいしょに、「資本制生産様式が支配している諸社会の富は、
 とほうもなく大きい商品集積としてあらわれる、」という一見まったく悪意のない〔無害な〕ように見える一般的な文章が
 おかれているが、かれは、この文章によって、あとになって商品に研究を局限するための、わざとらしくない結びつきを、
 はなはだ巧みに用意しているのである。商品という表現が、これにマルクスがあとになって付加した意味―労働生産物という
 意味―において理解されるならば、この命題〔いま引用されたマルクスの文章〕は、まったく間違っている。なぜなら、
 
土地をふくめて自然の賜物は、国富のひじょうに重要な・どうでもよいのでは決してない・構成部分を形成しているから
 である。しかし、先入見のない〔無心の〕読者は、マルクスが商品という表現に、あとから、はるかにより狭い意味を付与する
 であろう、ということを知るよしもないから、この不正確なこと〔まちがい〕を、かるく見のがしやすいのである。


9.
 このことは以下〔いま右に引用されたマルクスの文章につづくところ〕においてもまた、やはり、明らかにされていない。
 それどころか、〔第1巻の〕第1章のさいしょの諸パラグラーフにおいて、いれかわり立ちかわり「物」とか「使用価値」とか
 「財」とか「商品」とか、いわれているのであるが、この「商品」と、前三者〔「物」、「使用価値」、「財」〕とは、はっきり区別されて
 いないようである。〔第1巻の〕10ページにはつぎのようにいわれている。
 「
物の有用性は、この物を使用価値にする。」「商品体は、……使用価値または財である。」11ページには、
 つぎのように書かれている。「
交換価値は、……ある種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的な
 関係
〔比率〕・・・として、あらわれる。」 注意せよ、ここでは交換価値現象の主役として、そっちょくに、まだ、使用価値=財が
 表示されている。しかるに、より狭い他の研究領域への飛躍を予告するのに確かに不適当な文句―「
ことがらをいっそう
 立ち入って考察しよう
」という文句―をもって、マルクスはつづけて、つぎのようにいう。

 「
ある単一の商品―たとえば1クォータァの小麦―は、きわめていろいろの比率において、ほかの諸品目と交換
 される
。」 それからまた、「さらに二つの商品をとってみょう、」など。その上に、おなじパラグラーフにおいて、
 もう一度、「物」という表現が、もどってくるのであって、それが、しかも、こともあろうに、いまの問題にとって重要な
 言いまわし―「
おなじ大きさをもつ共通なものが二つの相異なっている物のなかに、存在している
 (これらの物はまさしく相互に交換において等置されている)という文句―においてなのである。
  ところが、
マルクスは、つづく12ページにおいては、「共通なもの」の探求を、ただ「諸商品の交換価値」だけに
 たいして遂行する
。そして、このことによって、かれが探究範囲を、交換されるねうちのある物のうちの一部だけに、
 どうしても限定したことにしておきたいのだ、ということをば、かいもく、ただの〔ほんの、かすかな〕言葉の端にも
 気づかせないのである。そうであるのに、すぐ、つぎのページ ―13ページ― においては、この限定は、ふたたび捨てられ、
 そして、ちょうどいま商品といういっそう狭い範囲のために得られた成果は、使用価値または財といういっそう広い範囲に
 適用される。「
したがって、使用価値、または財が価値をもつのは、ただ、そのなかに抽象的人間労働が対象化されて
 いるからにほかならないのである!
」〔p.123〕

   (1)バーボンBarbonからの引用においては、この同じパラグラーフのなかにおいてすら、商品と物との区別が、もう一度、
     けし去られる。「一方の商品種類は、その交換価値が等しい大きさならば、他方の〔商品種類〕と同じである。
     ひとしい大きさの交換価値をもつ物どうしのあいだには、なんの差異も区別もしないのである!」 
                                              〔
『資本論』第1章第1節 注8.老バーボン
     
*編集部追記バーボンにおける「商品と物との区別」に関連した『交易論』「商品の価値」を参照して下さい。


10. かりに、マルクスが、決定的なところにおいて探究を労働生産物に局限しないで、交換されるねうちのある
 天然物においてもまた、共通のものを求めた、とするならば、労働が共通物ではありえないことは手にとるように
 明らかだった
ことであろう。かれが、あの限定を、はっきり明白におこなった、と仮定するならば、かれじしんも、かれの
 読者たちも、きっと、〔かれの〕あらっぽい〔ひどい〕方法上のあやまりに、つまずいたにちがいないであろう。
 〔また、いまのべた仮定のばあいには、〕ひとしく一範囲のなかへ本来〔天性から〕属しながら労働生産物ではない
 あらゆる交換価値物〔交換されるねうちのある物〕を、ことさらにこの一範囲からあらかじめ除去しておいたのち、
 労働生産物だという属性を、この一範囲の共通の属性として、つごうよく蒸留抽出する、この素朴な〔幼稚な〕
 手品
を、読者たちは、にやにやと、あざ笑ったにちがいないであろう。この手品は、ただ、マルクスがしたように、
 とりあつかいにくい点をすばやく軽妙にすべりこえてゆく弁証法をもって、ひそかに、なされる、というようにしてのみ、
 なされることができたのである。
わたしは、マルクスがこのように欠点のあるやり方を受容できるいいものだとして
 提起する術
〔すべ〕を心得えていた器用さについて、わたしのそっちょくな驚歎をのべながら、もちろん、それにも
 かかわらず、わたしは、そのやり方が全くあやまっているものであった、ということだけは確認できるのである。

 さて、しかし、さらに立ち入って見よう。ちょうど今のべた手品によって、マルクスは、労働がともかく
 〔ほかの諸属性と競いあらそって共通の属性という栄冠をうけようとする〕競争に入りこみうることだけを、どうにか
 やっと達成したのであった。
範囲を人為的に局限することによって、労働は、とにかくやっと、このせまい範囲に
 とっての「共通な」ひとつの属性にだけは、なったのであった
。しかし、労働のほかにこれと並んで、もちろん、なお
 他の諸属性も共通なものとして問題になることができたのである。ところで、これら他の競争者たち〔労働という属性と
 ならび立って属性の共通さを競争する他の諸属性〕は、どのようにして、とりのぞかれるのか?


11.
 このことは、思考の〔連鎖の〕さらにつづく二つの環〔項〕によって、なされる。この二つのどちらも、
 ただ数言しかないが、しかし、それらのなかに論理上きわめて重大なあやまりの一つを、ふくんでいるのである。
  〔この二つのうちの〕さいしょの環〔項〕において、マルクスは、「諸商品の、幾何学的な、物理的な、化学的な、
 また他の自然的な、諸属性」のすべてを、しめ出している。なぜなら、「諸商品の物体的な諸属性が考察されるのは、
 ただ、これらの属性が諸商品を有用にしそれゆえ諸商品を使用価値にするかぎりにおいてのみだ」からである。
 「しかし他方において、
諸商品の交換関係は、諸商品の使用価値の捨象によって、あきらかに特徴づけられている。」
 なぜなら、「その(交換関係の)内部においては、ある使用価値は、これがただ適当な比率で現存しさえすれば、
 ほかのどの使用価値とも、ちょうど同じだけのものとして通用する〔みなされる〕」からである。 (第1巻12ページ。)
 この論証を解明するために、わたしが12年まえに、わたしの『資本利子理論の、歴史と批判』のなかで書きおろした
 (435―436ページ)のと同じととばを〔ここで以下において〕利用して、さしつかえないであろう。・・・〔p.125〕


  「だが論証過程の次項〔つぎの環〕は、なおいっそう悪い状態にある。「
諸商品体の使用価値が捨象されるならば、
 ―マルクスのことばどおりにつづけると-、「
これらの商品体には、もはやただ一つの属性すなわち労働生産物という
 属性しか、のこっていない
。」 ほんとうか? わたしは、12年まえに問うたように今また問う。もはやただ一つの
 属性しがないか? 交換されるねうちのある財にとっては、たとえばまた、これらの財が欲求 〔需要〕にくらべて
 希少であるという属性も、共通なものとして残っていないのか?
 また、それらの財が需要と供給との対象であると
 いう属性は、共通なものとして残っていないのか? また、それらの財が所有されているという属性は、共通なものとして
 残っていないのか? あるいはまた、それらの財が「自然生産物」であるという属性は、共通なものとして残っていない
 のか? というのは、
「商品体は自然素材と労働という二つの要素の結合である」と、かつてマルクスがのべている
 ところでは、交換されるねうちのある財が労働生産物であると同じように自然生産物であるということを、
 ほかならぬマルクスじしんほど明白にいっている者はいないからである

 あるいはまた、諸交換価値物がこれらの生産者たちに費用を負担させるというこの属性も、―この属性はマルクスが
 第3巻においてひじょうに精確に想起しているものであるが―、これらの交換価値物にとって共通ではないのか?

12. こんにちまた、わたしは、ふたたび問う。では、いったい、なぜ価値の原理が、労働生産物だという属性において
 存立するかわ
に、〔いま右のパラグラーフのなかでのべた〕これら共通な諸属性のうちのどれかあるものに
 おいても、おなじようによく存立してはならないのか? というのは、労働生産物だという属性のための積極的な
 根拠の痕跡すらをも、マルクスは提示しなかったからである。

 かれの唯一の根拠は、運よく捨象し去った使用価値が交換価値の原理ではないという消極的なものである

 だが、この消極的な根拠は、〔労働生産物だという属性の〕ほかの―マルクスによって見落とされている―共通な
 諸属性のすべてに、まったく同じように帰属しないのか?

  いな、いま右にのべてきたことだけではない! ある使用価値はただ適当な比率で現存しさえすれば他のどの
 使用価値とも同じだけのものとして通用する〔みなされる〕という理由をあげて、マルクスが交換価値にたいする使用価値の
 影響を捨象し去った、その同じ〔第1巻〕12ページにおいて、かれは労働生産物について、われわれにつぎのとおり、
 のべている。 
「しかし、この労働生産物も、われわれの手のなかにおいては、すでに変化している。われわれが
 労働生産物の使用価値を捨象しているのであるから、われわれはまた物体的な諸成分や諸形態―これらが労働
 生産物を使用価値にしている―をも、捨象しているのである。この労働生産物は、もはや机や家や糸やこの他の
 有用物ではない。この労働生産物の感性的な諸性質は、すべて消し去られている。この労働生産物はまた、
 もはや指物師の労働の生産物や建築労働の生産物や紡績労働の生産物やこの他の一定の生産的労働の
 生産物でもない。諸労働生産物の有用な性格
〔が消えてなくなる〕とともに、これら労働生産物において
 あらわされている諸労働の有用な性格も消えてなくなり、したがってまた、これらの労働のいろいろの具体的な
 形態も消えてなくなる。これらの労働は、もはや、たがいに区別されないで、すべて一緒に、おなじ人間労働、
 抽象的人間労働へ、還元されているのである。」


13.
 交換関係〔比率〕にとっては、たんに使用価値だけではなく、また、ある種類の労働や労働生産物も、「ただ適当な
 比率で現存しさえすれば、ほかのどの種類とも、ちょうど同じだけのものとして通用する〔みなされる〕ということを、
 ― いいかえるならばマルクスが丁度いま使用価値にたいする彼の排除の判定をのべた根拠になっているのと全く
 同じ事態が労働についてもまた存立するということを―、〔いま右のパラグラーフにおいてマルクスが、とくに強調の
 傍点が付されているところで、のべているよりも〕いっそう、はっきりと明確に、いうことができるか? 
 労働と使用価値とは、質的な側面と量的な側面とを、もっている。使用価値が机や家や糸として質的にいろいろ
 違っているのと同じように、また労働も指物師の労働や建築労働や紡績労働として質的にいろいろちがっている。
 そして、いろいろの種類の労働がその労働の量によって比較されることができるのと、ちょうど同じように、
 いろいろの種類の諸使用価値も使用価値の大きさ〔量〕によって比較されることができるのである

 なぜ、この同一の事態が、一方の競争者〔使用価値〕にとっては〔この競争者=使用価値が〕排除されることに
 ならねばならず、他方の競争者〔労働〕にとっては〔この競争者=労働が〕賞賛されて栄冠を受けることにならねば
 ならないのか、ということは、ぜったいに不可解である! もしマルクスが偶然に探究の順序をさかさまにしたと〔仮定〕
 すれば、かれが使用価値を排除するのに用いたのと丁度おなじ推論の道具立て〔装置〕をもって、かれは労働を
 排除することができたであろうし、そこでまた、かれが労働に栄冠を授けるのに用いたのと同じ推論の道具立て〔装置〕
 をもって、かれは使用価値を唯一の残存のそれゆえ求められた共通の属性として宣言することができたであろうし、
 そして
価値を「使用価値の凝固物」として説明することができたであろう。わたしは、冗談にではなく全くまじめに、
 つぎのような主張がなされることができると思う。
 〔第1巻の〕12ページの〔いま問題の〕その二つのパラグラーフ ― その第一のパラグラーフにおいて使用価値の
 影響が捨象し去られ第二のパラグラーフにおいて労働が求められた共通のものとして証明されている ― において、
 外面上の論理的な正しさをなんら変えることなしに、たがいに主語が取り替えられることができるであろう。すなわち、
 第一のパラグラーフの文の組み立てを変えないでそのなかに使用価値と書いてあるところではどこでも代わりに
 労働と労働生産物と〔いうことば〕を書き入れ、第二のパラグラーフの組み立ての中へはどこでも労働〔ということば〕の
 代わりに使用価値〔ということば〕を書き入れる、ということができるであろう!


14.
 マルクスが価値の唯一の基礎としての労働についての彼の根本命題をその体系のなかへ持ちこむのに用いている
 論理と方法論は、いままで右にのべてきたようなものである。この弁証法的な手品〔ごまかし〕がマルクスじしんにとって
 確信の根拠と源泉だったというようなことは、まったくありえないことである、と、わたしは思う。かれじしんの確信を
 初めてつくり事物の事実上の連関をほんとうに初めて自由な公平な目で求めることが、かれにとって問題であったと
 〔仮定〕するばあいには、マルクス級の思想家 ― わたしは彼を最高級の思考力の人とおもっているのである―が、
 このような曲げられた不自然なやり方で求める、ということは、はじめから、まったく、できなかったであろう。すなわち、
 かれが、たんなる不運な偶然から順次にすべての上述の論理上のおよび方法上のあやまりの中へよろよろと入りこんで、
 あげくの果てに、そのような研究のやり方の―あらかじめ知られていなかったしまた前もって欲していなかった ― 
 当然の〔つくり事ではない〕結果として、労働が唯一の価値源泉だという命題を持ってくる、ということは、まったく、
 できなかったであろう。
  ほんとうの事情は、こうではなかった、と、わたしは思う。マルクスがかれの命題をほんとうに心から確信していたことを、
 わたしは、すこしも疑わない。しかし、かれの確信の根拠は、かれがその体系のなかへ書きこんだものとは、
 ちがっている。それは、およそ、根拠というよりはむしろ印象〔感じ、感想〕というようなものだったであろう。


  とりわけ、権威からの印象〔感想〕であった。スミスとリカードウという偉大な権威たちは
、まさに―すくなくとも
 当時はこのように信じられていたのであるが―おなじ命題を教えていたのであった。もちろん、かれらもマルクスと
 同じように、その命題を根拠づけたのではなくて、ただ、ある一般的な漠然とした印象〔感想〕から要請したのに
 すぎなかった。それどころか、かれらがよく注意して見ていた場所では、そして、もっとよく注意して見ることが避けられ
 えなかった領域にたいしては、かれらのいうところは、あきらかに、その命題に矛盾していたのである。
 発展した経験的な国民経済については、スミスは、第3巻におけるマルクスとちょうど同じように、労働のほかになお
 中位の資本利得〔平均利潤〕をもふくむ費用水準へ、価値と価格とが引きよせられる、と説いた。そして、リカードウは、
 「価値について」という章〔
『経済学と課税との諸原理』第1章〕の有名な第4節において、おなじように、この上もない
 明々白々さをもって、つぎのようにのべた。すなわち、直接のおよび間接の労働のほかに、これらと並び立って、また、
 資本投下の、大きさと期間も、財の価値にたいして、ある決定的な影響を及ぼすのである、と。明らかな矛盾なしに、
 価値の「真の」源泉としての労働についての、哲学的な、お好みの思想に、ふけることができるように、かれらは、
 この思想をもって、まだ資本家と地主とが一人も存在しなかったおとぎの国へ、伝説時代へ逃避〔避難〕しなければ
 ならなかった。そこ〔おとぎの国、伝説時代〕においては、その思想は、検証されずに主張されることができたから、
 反論されずに主張されることができたのである。〔その思想は、おとぎの国のお話で事実経験がないから、〕その思想に
 とっては存在しない経験によって、〔その思想が〕検証されることはなかった。かれら〔スミスとリカードウ〕は、
 ―ちょうどマルクスと同じように―科学的心理学的な分析をさけたので、〔その思想は〕そのような分析によって
 検証されることもなかった。すなわちかれらは、労働価値の牧歌を根拠づけたのではなくて、「自然的な」状態として
 労働価値の牧歌を要請したのである。
  (1) わたしは、スミスとリカードウとが労働価値説にとって占めている位置〔立場〕を、わたしの『〔資本利子理論の〕
    歴史と批判』428ページ以下において、くわしく論じ、その同じところにおいて、いまあげた古典学派〔スミスと
    リカードウ〕のばあいに、あの命題〔ただ労働だけが価値の源泉であるという命題〕―の根拠づけの痕跡が
    何ら見いだされない、ということを、とくにまた証明した。クニース『信用』第2部60ページ以下をも参照せよ。


15. スミスとリカードウとの権威によって、とほうもなく大きい―もちろん異論の余地のないわけではない―威信をかも得た
 そのようなムード〔感じ方〕と意見〔見方〕を、マルクスは後継者として受けついだ。そして、マルクスは熱烈な
 社会主義者として、このムードと意見とを欣然として信じた。マルクスが、かれの経済的世界観をささえるのに大へん
 見事に適合していた思想にたいして、リカードウのような人―だがリカードウにはその思想ははなはだ心外であったに
 ちがいないが―よりも懐疑的な態度をとらなかったのは、すこしも、おどろくに足りない。また、マルクスが、古典学派の
 矛盾している諸意見によって労働価値の命題にたいする批判的な疑惑を起させられることができなくて、これらの
 意見を、ただ、都合の悪い真理の好ましくない結論を回り道をして避けるための古典学派のこころみにすぎないと解した、
 ということも、なんら、あやしむに足りない。―つまり、こうだ―、古典学派をさそって、かれらの一面的な半ば曖昧で半ば
 矛盾していてぜんぜん根拠づけられていない発言〔意見の発表〕をさせた、その同じ資料に、もとづきながら、
 マルクスはといえば、この同じ命題を信じ、しかも強く無条件にそして熱烈な確信をもって信じた、ということは、なんら、
 おどろくべきことではない。かれは、じぶんじしんのためには、それ以上の根拠を必要としなかった。ただ、かれの体系の
 ためにだけ、かれは形式的な根拠づけを必要としたにすぎないのである。
  かれが、この根拠づけにおいて手がるに古典学派をたよりにすることができなかったのは、自明である。なぜなら、
 古典学派は、じつに何も根拠づけなかったからである。かれが経験にうったえることもできなかったし、
 また経済心理学的な根拠づけをこころみることもできなかった、ということをも、われわれは知っている。なぜなら、
 これらのやり方は、あきらかに、かれの論証の主題のちょうど正反対のものへ、かれをみちびいたであろうからである。
 そこで、かれは、かれの精神の傾向にほんらい〔そうでなくてももともと〕適合している論理的弁証法的な思弁に、
 たよったのである。そして、ここで肝心なのは、〔ほかにないのであるから〕役に立ちうるものを役に立てろ! 
 ということであった。かれが何をとり出したかったかを、また何をとり出さなければならなかったかを、かれは知っていたので、
 かれは、驚嘆すべき洗練さをもって、辛抱づよい諸概念と諸前提とを、ながながと、ねん入りに細工してまわり、
 ねじりまわして、ついに、うわべでは世評の高い〔りっぱな〕推論形式において、あらかじめ知っていた結論が現実に
 出てくるにいだったのである。おそらく、かれは、それと同時に必然的にまぎれこんだにちがいない論理上および
 方法上の奇怪なことがらに、ぜんぜん気づかなかったほど、そのさいに、かれの確信によって目をくらまされていた
 のであろうか、ということ。あるいは、おそらく、かれは、この奇怪なことがらに気づいてはいたが、しかし、かれのもっとも
 深い確信にしたがって実質上基礎づけた真理をたすけて、じっさいにも、この真理にふさわしい体系的な表現を得させる
 ために、かれは、この奇怪なことがらを、たんなる外形上の補助として、自分にたいして正当化した〔正当とみとめておいた〕
 のであろうか、ということ。これらのことについて、わたしは判断することができないし、また、おそらく、だれも今では
 もはや、とうてい判断することができないであろう。だが、わたしが主張したいことは、つぎのことである。すなわち、
 マルクスがかれの基本命題の体系的な根拠づけにおいてしているような、それほど重大に、それほど連続的に、しかも、
 それほど明白に、まちかっている論理を、マルクスのような思考力の強大な頭脳が、どしどしふるまったことは、
 よもや他にはあるまい、ということである。


 
・・・第1節 終わり・・・

  → 『 マルクス体系の終結 』 第1章  価値の理論と剰余価値の理論