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熊野純彦著 『マルクス 資本論の思考  せりか書房 2013年発行


  
熊野純彦:哲学史家(1958年-)

                    ・・・この著者の‟哲学”は、「勉強する」に値いする・・・


   
 第1篇 資本の生成

 
1・1 商品と価値   (p.36)


1.
  〔編集部注:「資本→貨幣→商品」と言うけど、論理的解説なしに「かくて商品の分析から」は、何語か?〕

 
資本制への問いは、それではいったいどこから開始されなければならないのだろうか。
・・・ここではとはいえすくなくともいったんは、『資本論』そのものの体系構成法それ自体にしたがっておくことにしよう。
 
資本制とはなんであるかを理解するためには、資本とはなにかを知らなければならない
資本とはなにかを把握する前提として私たちは、貨幣とはなんであるかを知らなければならない、貨幣とはどの
ようにしてなりたつものであるのかを了解するにさいしては、そもそも商品(Ware)とはなにかが劃定(かくてい:画定)
されていなければならないはずである。
マルクスはかくて商品の分析からその経済学批判を開始する。・・・(p.36)

2.      〔編集部注:「概念を破壊する」と言うけど、解説なしに何を言う?〕
 資本制的な生産様式が支配的に行われている社会にあっては、その「富」が「商品のあつまり」としてあらわれ、
そのあつまりが「
とほうもないungeheuer」ものであることである。ちなみにカントによれば、なんらかの対象は
その量が
対象の概念を破壊するほどのものとなるとき「とほうもない」と呼ばれる。・・・(p.37-38)

3. 使用価値としての商品
        〔編集部注:「商品とは運動であり、関係である」としても、使用価値はどうなるの?
 使用価値は使用されることで「現実化する」。商品はたんに可能性として使用価値であるにすぎない。
事物は他方、消費されたときすでに商品ではない。商品とはただ使用価値となる過程のなかで、商品として
生成しつつあるものなのだ。商品とはほんとうはものではない。
すこしだけ先ばしりしていえば、
商品とは運動であり、*関係である

4. 交換価値と価値
 交換価値とはとりあえず、「或る一種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係」として
あらわれるものである。交換価値は、すなわち、一定の「割合」としてさしあたり現象する」



5.
 価値と、労働の二重性

     〔
編集部注: 使用価値は交換価値の‟担い手”だから入りこんでいる!」、
      私たちは、この著者・熊野氏が
自称“哲学史家”であるから問題視しなければなりません。
      単純に、「価値は商品の自然的属性ではない」と言って済ませてしまってはいけません。
      価値表現において、等価形態の商品は「自然形態・使用価値」で、「
すなわち、使用価値が
      その反対物の現象形態、価値の現象形態となる
」(3等価形態、岩波文庫p.104)ー
      ー物神性の始元となりますー この‟哲学者”はこれを
忘れて ? います。〕


 価値は商品の自然的属性ではない。
商品の価値には、使用価値のかけらも入りこんではいない
 マルクスはつづけて書いている。
 「そこで
商品体の使用価値を度外視するとすれば、商品体になお残るものは、ただ労働生産物という
属性だけ
である。しかしながら私たちにとってはまた、労働生産物も手のなかですがたを変えている。
労働生産物の使用価値を捨象するならば、それを使用価値としている、物体的な成分や形態も捨象する
ことになる。それはもはや机や家や糸や、その他の有用物ではない。・・・労働生産物の有用性とともに、
労働生産物に表示されている労働の有用な性格も消えさり、したがってまたこれらの労働のさまざまな具体的
形態も消失している。それらの労働は、もはやたがいに区別されることもなくことごとく同等の人間労働に、つまり
抽象的人間労働に還元されているのである。」
    〔
編集部注:「商品の自然的な性質が脱落する」と言うが、3.では「商品とは運動であり、*関係」だった〕
 
商品の自然的な性質が脱落することにより、「商品体」の使用価値も度外視される。目のまえの「労働生産物」は、
いまや机でも家でも糸でもなく、具体的な労働の産物でもない。使用価値を生産するのが具体的に有用な労働で
あるとするなら、価値を生むものは「同等の人間労働」あるいは「抽象的人間労働」にほかならない。
具体的商品のさまざまに「共通した社会的実体」の「結晶Kristalle」として、さまざまな商品は「価値-商品価値」となる。

6.      編集部注:ただちに”とは?― マルクスも軽く見られたものです。〕

 
マルクスは、ここでただちに、「価値を形成する実体」とは労働、抽象的な人間労働であり、
その量を測るのは労働の「継続時間」つまり時間的持続の幅である、と説いてゆく。
マルクスが一見ごくあっさりと通りすぎたかに見えるこの論法こそが
いわゆるマルクス価値論における<蒸留法>として、くりかえし問題とされてきた論点にほかならない。」(p.47)


7.
 「社会的実体」の意味するもの  ・・・・この「節、p48.」は、哲学史家とは到底理解不能、下劣・・・
             〔
編集部注:この人、自分で何を‟実体”というのか、理解しているとは思えない〕

  ヘーゲルが、その哲学の「真の誕生地であって、その秘密である」『精神現象学』のなかでも、すでに、「個別的
な人間がその個別的な労働にあって、あらかじめ普遍的な労働を意識することなく遂行している」と説いていた。
その「人倫的(sittlich)実体」とは「普遍的な仕事」であり、「万人の、また各人の行為」にほかならない。
人倫的であるとは、ここではおおよそ社会的であることとひとしく、したがってヘーゲルの語る
人倫的実体とは
社会的な実体のことを意味しているのであって、その内実は社会的な諸関係のこと
であるといってよい。
ヘーゲルの視角はいうまでもなく、近代市民社会を「欲求の体系」と呼ぶ、『法哲学綱要』へと引きつがれてゆく。

 とりあえずマルクスも
「社会的」な実体について語っていたことに注意しておく必要がある。量としての人間労働
について語るさいにもマルクスは、あくまで「社会的平均労働力」とり上げていること、したがって問題となる労働の
継続時間も「ひとつの商品においてただ平均的に必要な、または社会的に必要な労働時間」として問題とされて
いるしだいが注意されなけさばならない。
社会的な実体であるなら、それはふつうの意味での実体ではない
むしろ関係である。社会的に必要な労働時間が問題となるなら、商品の価値を形成するものは、投下された
労働そのものではない。
それは、かえって、資本制が支配する社会にあって、当の社会の編成を決定する
関係の総体を前提としながら、「一箇の社会的な過程をつうじて、生産者の背後で確定される」 
労働と
労働時間との社会的配分がもたらす、ひとつの構造的な効果
 〔編集部注: これを「価値」ということ
にほかならない。
価値の実体とされる人間労働とは、*関係の別名なのである。


8. <蒸留法>の難点  
 
〔編集部注:「具体的で有用な労働と、抽象的人間労働とをつなぐ枢要な論点」との提言は賛成です〕
 いまのところはやや結論を先どりするかたちで、そのように考えてもなお、いわゆる
<蒸留法>には当面は
消しさることができない論理的難点がある。それは具体的で有用な労働と、抽象的人間労働とをつなぐ
枢要な論点を、マルクスがここでいったん消去してしまっているところから生じる難点
にほかならない。・・・


9.
 「他者に対する使用価値」
 〔
*編集部注:世界が物質代謝であるとき、「他者・・・」ではなく、「互いに交換手段である」と定義すること〕
 ここでとり上げておく必要があるのは、
商品とは「社会的使用価値」でなければならず、商品とはすなわち
「他者に対する」使用価値であるとする認定である。・・・
この項で確認してきた、
価値をめぐるマルクス暫定的な分析にあっては、使用価値が捨象されるとともに、
「他者に対する使用価値」という側面の同時に度外視されて
いた。この件は、いわゆる
<蒸留法>と、
抽象的人間労働の規定をめぐってひとつの
論理的空隙をかたちづくっている。使用価値である生産物は、
それが他者に対する使用価値であるがゆえに商品となる。
そのように商品となることで、生産物をつくり出す
具体的な労働が、同時に抽象的な人間労働である
。その背後にあるものは、交換によってなかだちされた
*関係の総体にほかならない。
      〔編集部注:この「*関係の総体
とは、ヘーゲル小論理学の「実体」を‟モジッタもの”です。〕


  ・・・以上で、「第1篇資本の生成 1・1 商品と価値」を終わります。・・・

  
世間では{悪法も法」と言いますが、学者が「権威を持つ」、とはこういう世間を言うのでしょう。
    
    “マルクス産業”
(「ダーウィン産業」の流行り言葉)も、いよいよ来るべき時が来ています。

・・・・