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『資本論』の“蒸留法”批判


 
第1部 廣松渉著 資本論の哲学  現代評論社 1974年発行

          ・・・・・廣松渉 1933年-1994年 哲学者として高名な学者です。

 第2部 ヘーゲル哲学とコリン・レンフルー



 資本論ワールド編集部 はじめに

 第1部 『資本論の哲学』では、『資本論』の“難点”を要領よく摘出しています。何が“問題となっているのか”、当時の論争を手際よく整理してありますので、じっくりと探求してゆく素材として現在にいたるまで伝承されています。
今回は、“蒸留法”とあだ名された「使用価値の抽象・捨象」に焦点をあてて、解読してゆきます。
 また、第2部では、(1)ヘーゲル哲学、(2)コリン・レンフルー著 『先史時代と心の進化』 に手助けしていただきながら、探索してゆきます。
なお、文中にドイツ語を挿入しましたが、『資本論』翻訳に際して語義説明がありませんので、第2部注意書きとして参照いただくものです。



 第1部 『資本論の哲学
 序破章 端緒的商品規定と価値実体
   第3節 「商品世界」の与件と価値の実体規定
      二、 価値の実体論的規定と導出の論理

 第2部 ヘーゲル哲学とコリン・レンフルー
   (1) ヘーゲル哲学
   (2) コリン・レンフルー著 『先史時代と心の進化』


  第1部 『資本論の哲学』 
  
二、 価値の実体論的規定と導出の論理
                                 
   〔
注:この小論は、対話形式となっています。なお、文中のドイツ語はすべて編集部による挿入。〕


―. マルクス経済学では、使用価値と価値という「商品の二要因」が論考されるとはいっても、両者が同位的な考察対象になるわけではない。「使用価値はたとえ社会的欲求の対象であり、社会的関連のうちにあるにもせよ、それはいかなる社会的生産関係をち表現するものではない」し、「
使用価値としての使用価値は経済学の考察圏外にある」。それでは、どういうかぎりで使用価値が経済学の考察圏内に入るかといえば、「使用価値そのものが形態規定である場合」であって、「使用価値は、直接的には、交換価値(これは一定の経済的関係である)が表わされる質料的土台である」とみなされる。 ・・・そして、この交換価値という現象形態を通じて、価値という本質を規定する手続がとられている。

―. 「交換価値は、さしあたり、或る種類の使用価値が別の種類の使用価値と交換される量的関係・比率として現われる。それは時と所に応じて不断に変動する一関係である。だから交換価値は何かしら偶然的なもの、純粋に相対的なものであるかのようにみえる。商品に内的な内在的交換価値などというものは、それゆえ、形容矛盾であるかのようにみえる」。マルクスは、こう言っておいて、事柄の分析的討究に移るわけだ。

―. そこでのマルクスの議論は、僕なりに整理していうと、結局のところ、次の三つのテーゼに帰着すると思うのだがどうだろう?  つまり、
第一には、商品どうしが交換・等置されるのだから、そこには或る共通な量が存在するということ、しかるに、量的規定というものは質的同一性を前提するから、そこには質的な共通者が存在する筈だということ、この意味で「所有交換価値は一つの同じもの」を表わしているということだ。
第二には、交換価値はさまざまな表現様式で量的規定性を表現しうるけれども、それは当の「同じもの」の「現象形態」であって、この現象形態と「実質」とは区別さるべきだということ、
第三に、言うところの「共通の第三者」たる「同じもの」を価値と呼ぶことにすれば、この「価値」は、まさしく相異なる使用価値どうしが等値・交換されるのである以上、使用価値とは端的に区別さるべき「或るもの」だということ……そして、ここで、この「価値」とは実質的に言って何であるかの考察が実体およびその量的大きさに即して展開される。

―. 一応はそう言っていいだろう。

―. マルクスは商品のもつ一切の自然的性質を使用価値に属させる。だから、交換において等置gleichsetzenされるところの「この共通なものは、商品のもつ幾何学的・物理学的・化学的その他の自然的属性ではありえない。商品の物体的諸属性は、そもそもそれらが商品を有用物たらしめ、使用価値たらしめるかぎりでしか問題にならない。しかるに、
商品の交換関係を特性づけるものは、まさしく使用価値の捨象である(編集部注1)ということになる。マルクスは「使用価値としては諸商品は、なにはおいても、さまざまな質であるが、交換価値としてはさまざまな量でしかありえないのであって、それゆえ、使用価値の一原子だに含んではいないのである」という言い方もしている。


(編集部注1) 著者自身がここでマルクスを引用している「商品の交換関係を特性づけるものは、まさしく使用価値の捨象である」を、対話者は忘れていますー「使用価値の捨象」は、「商品の交換」が「行っている(関係)」こと。したがって、以下「残留するものが問題になる」、のではなく、商品の交換」が「行っている(関係)」自体を分析し考察することにあるのです。

―. そこで、商品価値の実体を規定するに当っては、商品体の使用価値の端的な捨象、従って一切の自然的属性の捨象をおこなったのちに「残留」するものが問題になる
それは何かといえば「労働生産物という属性である」。「とはいえ、
この労働生産物という属性も、使用価値の捨象にともなって、変化してしまっている」とマルクスは附言する。というのも「使用価値を捨象すれば、労働生産物を使用価値たらしめている所為の物体的な諸成分や諸形態をも捨象することになるからである。そのとき、その生産物はもはや、机や家や糸うなどの有用物ではない。それのもつ一切の感性的性質は消失してしまっている。それは、また、もはや、指物労働や建築労働や紡績労働その他、特定の生産的労働の生産物ではない。労働生産物の有用的性格と共に、そこに示されている労働の有用的性格が消えており、従って、これらの諸労働のさまざまな具体的形態も消えている。これらの諸労働はもはや相互に区別されず、すべてが相等な人間労働、抽象的人間労働に還元されてしまっている」。「そこで今度は、労働生産物の残基を考察してみよう―とマルクスは続ける―。そこには同じ幽霊みたいな対象性dieselbe gespenstige Gegenständlichkeit  無差別的な人間労働の単なる凝結 eine bloße Gallerte unerschiedsloser menschlicher Arbeit しか残留していない。・・・・こういう共通な社会的実体の結晶としてAls Kristalle dieser ihnen gemeinschaftlichen Substanz 、それらは価値、商品価値なのである」。
このようにして、商品価値は抽象的人間労働という
「社会的実体」の結晶であることが定立される。

―. 
僕がひっかかるのはまさにそこなんだ。交換における等置が論理的には或る共通な量を前提するということと、そしてこの定量が同一の質規定を前提するということ、このことまでは否定できない。それが使用価値的ないし自然的な諸属性とは存在性格を異にするということも諒解できる。しかし、抽象的人間的労働の凝結ということが判らないのだ〔編集部注2〕


 〔編集部注2〕 廣松渉と一緒に、私たちは「社会的実体」と「結晶」、「抽象的人間労働」の「凝結 Gallert 」とは“何か”をもう一度初心から検討しなおしていきましょう。その点で、以下の対話は、大いに参考になります。
ちなみに、「
実体 Substanz」も「結晶 Kristall」も共に、ヘーゲルの『自然哲学』(a 形態Gestalt § 310~316)のキーワードです。◆ヘーゲル用語集を参照してください。

―. 
難しい問題だということは僕も認める。マルクスの価値論が理解に困難だとされたり、形而上学的な妄言だといって非難されたりするのも、まさにこの点に懸っていることだし……

―. 昔から指摘されていることの蒸し返しかもしれないけれども、僕にはどうしても納得できないのだ。
交換において等置される或る共通な同一者が、論理的に要請されるということと、そういうものが客観的に実在するということとは別問題の筈だろう? マルクスが引用しているように、アリストテレスは「交換は同等性なしにはありえないが、同等性ということは通約可能性なしにはありえない。しかし、このように種類の違う諸物が通約可能だということは、真実にはありえないことだ」と言っている。アリストテレスの形而上学でさえ認めなかったものを、事もあろうにマルクスが認めるとはおかしな話だ〔編集部注3〕

〔編集部注3〕 対話者は、ここでアリストテレスを登場させていますが、ヘーゲルこそ、“ふさわしい”ペルソナでしょう。最終行第2部にて役割を検討してゆきます。

―. 君の話を聞いていると、マルクスがアリストテレス以上に形而上学的ということになりそうだが、マルクスとしてはアリストテレスが一体なぜ価値的同一性ということを認めることができなかったのか、時代的・歴史的制約を剔抉(てっけつ:えぐりだす)してみせている。

―. それぐらいのことは僕だって憶えていないわけではない。しかし、
商品から使用価値の一切を捨象し、商品のもつ自然的属性の一切を捨象してしまうとき、あとには何も残らないと考えるのが正当だろう。形而上学的存在ということを言い出せば別だろうけれど、そうでないかぎり、実在的なものはすべて捨象されてしまっているのだから、レアール 〔*編集部注:réel(?):フランス語 実在的、実体的 〕には何も残留しない筈〔編集部注4〕


〔編集部注4〕
 対話者は「実在的なもの」、「具体的規定性」と「幽霊のような対象性」をそのままマルクスの“言(ことば)”として正直に“真に受けて”信じて疑いを見せていません。ここから、マルクスの本線から外れてゆきます。


―. 現にマルクス自身、そこには「労働生産物である」という規定性しか残らないと言っているし、このさいの労働は、これまた、「指物労働、建築労働……といった特定の具体的規定性」が捨象されるわけで、だから「幽霊のような対象性」と言ってるじゃないか。


―. 
そこがおかしいと言うんだ。「幽霊みたいな対象性」だから、そんなもの存在しないというのなら話が判るけれども、マルクスは「幽霊みたいな対象性」として価値が存在するということを肯定的・積極的に言うのだから、僕にはさっぱり判らんわけだ。


―. 一応は尤もな疑問だと思う。‟抽象的人間的労働の凝結です”とか‟価値は幽霊みたいな対象性です”とかいって、判ってしまったつもりの人々の大半は、自己欺瞞に陥っているのかもしれない。君の疑問に正面から答えうるだけの論理が要求されることは否めない。さもないと一部の信徒には‟判って”も外部の者には形而上学的な妄言だと思われかねないことになる。……さしあたって、手掛りになるのは、マルクスが「社会的実体の結晶」という言い方をしている点だ。


―. マルクスは、自然的実体のほかに社会的実体というものを考えて、これら両者を使用価値と価値とに対応させている、と言うのか?

―. いや、そういう単純なロジックではないと思う。便宜的には、マルクス自身、
社会的実体の結晶と言っているのだから、そういう言い方を全面的に否定するわけにはいかないかもしれないけれど……

―. その点、ゾンバルトが、マルクスのいう価値は、「経験的事実ではなくして、一つの論理的事実である」と解釈したり、コンラ-ト・シュミットが、「擬制」「科学的仮説」と解釈したりしているのほうが、判るような気がする。



―. 僕はエングルスの『資本論第三巻への補遺』を通じてしか知らないけれど、そういう見方に対してはエンゲルスの批判が当っていると思う。エングルスを持出しても駄目だと言われるようなら、マルクス自身、君がさっきふれたアリストテレスの議論、つまり、かの同等性・通約可能性は「実際上の必要のための応急手段」だという議論を批判していることを援用してもいい。或いはまた、
マルクスがガニルその他の「価値のうちに社会的形態だけをみる」議論、「価値のうちに実体のない仮象だけをみる」発想を批判している個所を援用してもいい

―. そうか、それじゃ謎解きを承るとするか。・・・・ 君は、「
社会的実体」ということを手掛りにするつもりらしいが、しかし、マルクスは抽象的人間的労働という規定をいわば生理学的な準位で問題にしている面もあるだろう? 「商品の価値は、端的な人間労働を、人間労働一般menschliche Arbeit überhauptの支出を表わしている。……それは、普通の人間が、各自、身体組織のうちにもっている、単純な労働力の支出である」と彼は書いている


また同じく「第2節、商品に表わされる労働の二重性」の
最後のパラグラフでは
「凡そ労働というものは、一面では生理学的な意味での人間的労働力の支出であって、同等な人間労働すなわち抽象的人間的労働というこの属性Eigenschaftにおいて、労働は商品価値を形成する。他面では、労働はすべて、特定の目的に規定された人間的労働力の支出であって、具体的な有用的労働というこの属性Eigenschaftにおいて、労働は使用価値を生産する」と明言されている〔編集部注5〕。どうだ? マルクス自身の言によれば、抽象的人間的労働というのは、有用労働の具体的諸形態を捨象してあとに残る純粋に生理学的な労働力・労働力能の支出のことじやないか。このかぎりでは、社会的実体の結晶などということは問題にならない筈だ。


〔編集部注5〕
 マルクスは、第2節の最後のパラグラフで、「属性Eigenschaft」について上記のように確かに記述しています。しかしながら、私たちは、ヘーゲル論理学の研究を通じて「属性Eigenschaft」概念は、もっと複雑で西洋史を哲学しなければならないことを学んできました。是非とも、ヘーゲル論理学を参照してください。全く違った世界が見えてきます



―. そういう具合に問題を立てられると、こちらとしてはかえって話が進めやすい。僕は君がてっきり、矛盾を指摘するという形で攻めてくると予想していたんだが……

―. お望みとあれば矛盾を指摘してやってもいいぜ。一方では「社会的実体の結晶」と言いながら、他方では純然たる、つまり、一切の社会的・その他の規定性を没却した「生理学的意味での人間的労働力の支出・凝結」と言っている。これは矛盾だ、という次第だ。



―. そういうことを言いたければ、どうしてもっと端的にこう言わないんだ? つまり、マルクスは、価値形成的な労働は、従ってまた価値は、幾何学的・物理学的……その他一切の自然的属性Eigenschaftをもたないと言っている。しかるに、生理学的な意味での労働力の支出というときには、一種の自然的属性が考えられている筈で、これは矛盾・前後撞着だ、云々という″批判”がそれだ。


―. おいおい、君は自分自身をそこまで追いつめて大丈夫なのか? それでもなおかつマルクスを弁護するというのか、整合的に解釈できるというのか?

―. 一般論として、優れた理論家といわれる人が、一見して明らかな″矛盾″を平然と犯しているような場合、かえって気をつけるのが順当ではないだろうか。もう少しあとまで読んでみれば、案外″矛盾″も氷解するかもしれない。

―. そういうことがありうるということまでは認めてもいい。しかし、問題の解決を先へ先へと延ばしたのでは仕様がないじゃないか。

―. 勿論そうだ。しかし、一挙には解決できない。マルクスの叙述が一見“矛盾”した表現を含むことになった所以でもあるのだが、
彼の労働価値説は古典派経済学のそれを批判的に継承しているとはいっても、そこには或る質的な飛躍というか、ゲシュタルト・チェンジ〔形態変化〕がある

 
そういう新しい理論をマルクスとしては新規に、読者に理解されるように論述しなければならなかったわけで下手な書き方をすれば先行思想と一視同仁にされてしまうし、さりとて先行経済学の価値論と懸隔した議論を初めから展開したのではおよそ理解されがたいという危険に直面していたと言える

詳しくはあとで主題的に論じたいと思うが、多少ともこの間の事情を念頭におきながらマルクスの言わんとするところを聞いていこう。


  ・・・・~  ・・・・~  ・・・~

  以上で、「二、価値の実体論的規定と導出の論理」を終わります。

 続きまして、〔編集部注〕に焦点を当てながら、探究を続けてゆきます。



 第2部 ヘーゲル哲学とコリン・レンフルー  4月15日オン‐エア(on the air)


 (1) ヘーゲル哲学、 実体と属性Eigenschaftの哲学史

 (2) コリン・レンフルー著 『先史時代と心の進化』