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宇野経済学蒸留法批判

 宇野弘蔵編 『資本論研究  

 
   
                 Ⅰ 商品・貨幣・資本 筑摩書房  1967年発行


第1扁 商品と貨幣 第1章商品

        
第1節 商品の二つの要因―使用価値と価値(価値実体、価値量)


 〔対象〕

 マルクスはまずこの節の冒頭で、経済学が「商品」の分析から始められねばならぬ理由をのべ、商品を使用価値、
交換価値の順序で考察する。そしてある使用価値と他の使用価値との交換比率としてあらわれる交換価値を、
第三のものに、さらに抽象的人間労働に還元し、価値の大きさは、社会的に必要な労働時間の量によって決定される
ことを明らかにする。

 〔要約〕
 経済学の研究は商品の分析から始まる。というのは資本主義社会における富は、一般的に商品としてあらわれ、
ひとつひとつの商品は、その富の基本的な形態をなすからである。・・・

      → 編集部より: 宇野の誤りの原点となっています。方程式Gleichungを等式と誤訳・誤読の
                
弊害がここに見事に現われています。第2部、第3部で詳細に解説します。

 二つの商品、たとえば小麦と鉄との交換関係は、
1クォーターの小麦=aツェントネルの鉄、という
 等式Gleichungは方程式で誤訳と誤読。注:価値方程式とは?〕であらわすことができる。(3) 

 
この等式は、同じ大きさの共通なものが二つの異なった物のうちに存在するということを意味する
この第三のものは、小麦でも鉄でもなく、いずれも交換価値であるかぎり、これに還元されるものでなければならない。
そしてこの共通のものは、商品の自然的属性ではなく、使用価値とは関係がない。
商品の交換関係の特徴は、
使用価値の捨象ということである
。使用価値としては商品は相互に異質であるが、交換価値としては商品は互に
同質で、ただ量的にのみ異なることになる。

 
(3) ここでマルクスは、二つの商品の交換関係を等式であらわしている。しかしのちに商品の価値形態を
  説明するさいにも、価値表現関係を
同じ等式であらわすために、両者の区別がはっきりしなくなり
、さま
  ざまな問題をうみだすことになる。より立ち入っていえば、
商品であるかぎり、小麦と鉄とが直接交換される
  ということはありえない
のであり、商品は貨幣で購買さえる以外にその所有者をかえることはできない。
  価値形態論はこの点を論証するのである。
  ところが価値形態論の展開以前にここで
直接商品相互の交換を想定し、またそれによって使用価値の捨象、
  価値の実体の把握をおこなおう
とするため、価値形態の発展をとおして商品の使用価値が捨象されていく
  具体的機構の理解が、かえってさまたげられることになる。
  この点については、さらに〔問題点〕と〔ゼミナール〕において検討する。


 そこで商品の使用価値を無視すれば、商品に残るのは、ただ労働生産物という性質だけである。だがこの労働生産物
についても、その使用価値を捨象すれば、その労働は、指物労働、建築労働、紡績労働などの具体的な有用的性格も
なくなり、ただ抽象的な人間的労働に還元されてしまう。こうして労働生産物に残っている「無差別な人間的労働の、
すなわちその支出の形態にかかわらない人間的労働力の支出の、ただの凝固物」という「それらに共通な社会的実体
の結晶」が商品の価値なのである。
(4)    

 
(4) マルクスはここで、価値の考察についての二つの異なった方法を示している。すなわちその一つは、商品の
  交換関係では、商品の交換価値はその使用価値とはまったく独立してあらわれるから、
労働生産物からその使用
  価値を捨象して、抽象的人間労働を価値の実体として把握する方法
であって、これがこの節で主題としてとられて
  いる方法である。
もう一つは、価値が必然的に交換価値として「表現」される、あるいは「現象」する過程を、
  価値形態としてあきらかにする方法
であって、この節でも最初はそれによって入りながら、第一の方法に転じ、
  本格的には、第3節「価値形態または交換価値」で採用することになっている。このように価値の実体の究明と、
  価値の形態の考察とを分離し、しかもまず価値の形態と区別してその実体を「独立」に分析するかれの方法は、
  のちにふれるように、価値論の展開に根本的な論点をなすことになるのである。


第2部 問題点


 
④ 労働価値説の論証

 二つの商品の交換関係を前提としつつ、両者に共通の第三者をみちびきだし、これを抽象的人間労働であるとして、
かかる社会的実体こそが交換価値として現象するところの価値にほかならないとするマルクスの論証は、
蒸溜法」なる呼称のもとにベーム・バヴェルク以来批判の対象とされてきた
 ベームはこの論証の欠陥としてつぎの諸点をあげる。
               (前掲、『マルクス学説体系の終焉』中の「4、マルクス学説体系における誤謬」参照)

 
1. 2つの商品の共通物をさがすのに、はじめからこの商品を労働生産物にかぎり、それ以外のもの、たとえば土地
   などは除外されている。

 
2. マルクスは商品の交換関係を特徴づけるものは使用価値の捨象であるというが、このばあい使用価値がとる
   特殊な形態は捨象されても、使用価値一般は捨象されない。使用価値が存在しないところに交換価値が存在する
   はずがないのである。

 
3. さらに使用価値を捨象したばあいに労働生産物という属性だけが残るというが、需要にくらべて稀少であるとか、
   欲求と供給の対象であるとか、占有せられるとか、自然生産物とかいう属性も残りはしないか。


 
結論としてベームは、マルクスが使用価値を捨象して労働をとりだしたのと同じ方法で労働を捨象し、価値をもって
「使用価値の凝結物」であるとすることもできるというのである


 これにたいしヒルファディングはつぎのような反批判を展開した。
             (前掲、「ベーム・バヴェルクのマルクス批判」の中の「1 経済学的範躊としての価値」参照)

 
1. 使用価値はその具体的有用性においてこそ使用価値であり、具体性における使用価値を捨象することは、
   使用価値一般を捨象することと同じである。

 
2. 経済学は社会科学であり歴史科学である。したがってその対象となる商品も、人間と人間との社会的関連の
   表現たるかぎりで問題となるのであり、その自然的側面すなわち使用価値は、経済学の考察範囲外にある。

 
3. 人間社会の発展が労働の質と量、すなわち組織と生産力とによって終局的に支配されているとするのが
   経済学の基本概念であり、これは唯物史観の基本概念と一致する。価値の原理とは社会秩序の変化の終局的
   決定原理であり、そのようなものとして労働をとりあげるのである。つまり、あらゆる社会の物質的基礎は社会的
   労働の組織によって規定され、商品生産社会では、これが、商品をつくる労働が商品の交換関係のうちに
   交換価値としてあらわれる、という特殊の様式において貫徹している。価値を労働として把握するという操作は、
   以上のような意味での歴史科学としての経済学の基本的方法によるものである。

 このようなベームとヒルファディングにおける労働価値説についての批判と反批判とは、そのままわが国に輸入され、
小泉信三(前掲論文)と櫛田民蔵(前掲論文)の対立としてあらわれ、その後の価値論論争の原型を形成することになる。
 ・・・

 戦後、宇野弘蔵によって提起された一連の価値論についての再検討の主張は、唯物史観と経済学について
のこのような通説的理解の否定のうえに成立しており、
価値法則の純粋なる展開をいわゆる単純商品社会に
おいてでなく、資本主義社会において把握するという宇野の見解は、その必然的帰結であった

 ほぼ戦前の価値論理解を集約継承しつつ「経済学が史的唯物論のうちに包摂され、また同時に史的唯物論が
経済学のうちに包摂される」(「価値論と史的唯物論」、『経済思潮』第11集所収、19頁)と主張する遊部久蔵に
たいして、宇野はつぎのようにいう。

 「唯物史観は、社会の経済的過程がそれ白身に発展する物質的過程であることを明らかにしたが、これを科学的に
論証するのは経済学の任務であったものと、私は理解している。それは遊部氏のいわれるように、<結局価値の
根底をここに見出すのであって、されば二つのもの(経済学と唯物史観- 宇野)は共通地盤に立つ>といえるので
あるが、しかし少くともその対象範囲には非常な差異があり、また経済学は唯物史観によってその論拠を与えられると
いうものではない。唯物史観をとると否とに関わらず何人にも承認せざるを得ない論証を与えるものでなければ
科学的論証とはいえないであろう。……経済学が唯物史観によってその論証をされるようでは、経済学も唯物史観も
共にその客観性を主張し得るものとはいえないであろう。」(『価値論の研究』、144~145頁)


 唯物史観を直接の前提としてではなく、たんに「二つの商品」の交換関係からのみ労働価値説を論証しようとすると、
さらにつぎのような問題が考慮されねばならない。
もし「1クォーターの小麦=aツェントネルの鉄」という関係が
単純商品生産者同士の交換関係を意味するとすれば、そのような単純商品生産者の社会が一定の生産様式と
して完全にひとつの社会的生産を支配する自立的生産関係たりうることは、歴史的にありえないということである

たしかに封建社会から資本主義社会への過渡期には、部分的にはこのような単純商品生産者がかなり重要な存在を
なしていたであろうが、それらはつねに支配的生産様式を補足する付随的関係としてしか存在しえなかった。この点は、
問屋制家内工業に対するマニュファクチュアでさえ、その技術的基礎の狭隘さのゆえに支配的生産様式たりえず、
産業革命による資本家的生産様式の確立とともに、はじめて商品経済による社会的生産の支配が完成したことを
考えれば自明であろう。

 したがってここで単純商品生産者による社会的生産の完全なる支配を想定することは、歴史的には存在しない
観念的な仮構の生産様式をつくりだすことになろう。もちろん部分的な単純商品生産者相互の交換では、
その生産過程において「社会的に必要な平均的な労働時間」を支出するものとしての「一個同一の人間労働力」と
して、それらの「無数の個人的労働力」を把握することは不可能である。
機械制大工業をとおして人間の技能が
奪いさられ、あらゆる労働力が単純なる労働力として機能する現実的基盤が与えられないかぎリ、
労働価値説を論証すべき現実的根拠を欠くのである


 さらにまた「一クォーターの小麦=aツェントネルの鉄」という関係は、交換関係としては、発展した商品経済
したがって資本家的生産様式にあっては現実に存在しえない。このばあい交換関係としては商品と貨幣の
交換関係としては商品と貨幣の交換―正確には貨幣による商品の購買―以外にはない。

もしまた「1クォーターの小麦=aツェントネルの鉄」という関係を直接交換関係としてではなく、
価値表現の形態の抽象的なあり方として理解するとすれば、いわゆる使用価値の捨象についての理解も
異なってこなければならない。
つまりこのばあい使用価値の捨象というのは、両者の使用価値が問題とならないというのではなく、
1クォーターの小麦の価値がaツェントネルの鉄の使用価値によって表現されるという意味である。いずれにしても
かかる関係において、「二つの商品」の使用価値から完全に分離した第三者を導きだすことは不可能であり、
ましてそれを直接「抽象的人間労働」と結びつけることはできない
。そしてこのような商品の価値関係における
特有の使用価値捨象の機構こそ、マルクスがその価値形態論において強調
してやまない点であったし、そこに
またかれの価値論が古典派のそれを克服した意味があった。以上の諸点を明確にしつつ、マルクスの価値論を
整理しなおし、「形態規定の発展を媒介にして〈価値の実体〉を〈価値の本質〉において把握しようと試み」
(『価値論』、232頁)たのが.宇野の『価値論』であった。

・・・以上、宇野弘蔵編『資本論研究』1商品・貨幣・資本 抄録終わり・・・・