ホーム

ジェームズ・スチュアート『経済学原理』1767年
  訳者・中野正 序     ー岩波書店 1967年発行

 本書は、サー・ジェイムズ・ステュアートの『経済学原理の研究―自由諸国民の国内政策の科学に関する試論、
云々』ロンドン 1767年刊、Sir James Steuar (1712-1780)、An Inquiry into the Principles of Political Oeconomy,
being an Essay on the Science of Domestic Policy in Free Nations, London 1767 の邦訳である。

 この本はスミスの『諸国民の富』(ロンドン 1776年刊)よりもほぼ10年前に出た。経済学の母国であるイギリスで、
はじめて『経済学原理』の名を冠して出版された書物である。が、名前だけでなく、実質的にもそうであった。イギリス
の資本主義の勃興期にあたる18世紀のはじめから『諸国民の富』が出るまでの76年のあいだに、イギリスで刊行
された経済関係文献、資料はおびただしい数にのぼっている。これらの観察を古典派経済学の立場で総括した
スミスの原理的な考察は出るべくして出たといいうるのだが、ステュアートのこの著作は、スミスよりも一足さきに、
商品経済的な近代社会の成り立ちについての省察を、経済学原理の形に体系化しようとしたものであった。

 ステュアートはA・スミス(1723-1790)よりも約10年はやく生まれて、10年はやく主著を出し、そして10年はやく世を
去った。二人の生涯と学問的主要事件はちょうど10年のズレをもっている勘定になる。マルクスも、ステュアートを
目して、「ブルジョア経済学の総体系をはじめてつくりあげた最初のイギリス人」といっているが、経済学の体系付け
にあずかったこの二人のスコットランド人は、同時代に生き、同時代に経済学を書いたわけである。
けれども『経済学原理』が表現する資本主義の基盤と、『諸国民の富』において表現されるそれとのあいだには若干
の懸隔がある。『諸国民の富』が、19世紀の予感と産業資本の明確な予料をもって書かれているとすれば、
『経済学原理』は、産業資本への移行を前にして、それとして発達しつつある商人資本の立場で書かれている

そこには、同じ段階の商品経済を見る、二人の経済学者の観点やイデオロギーの相違に帰しえないものがある。
むしろ両者が理論的に表現しようとする商品経済的基盤そのものの発達上の差異がみられる。
『経済学原理』は
『諸国民の富』を刊行せしめた当時のイギリスの基盤の理論的な表現ではない。むしろ
同時代のヨーロッパの後期
の商人資本的基盤にたっている
とみうるのである。ステュアードの学説は、このおくれた基盤にたちつつ、イギリス
の発展してゆく資本主義の成果を導入して、世界市場の競争に伍してゆこうとする、
ヨーロッパの啓蒙された君主
への政策的助言
ともいうべき様相をになっている。そしてこのいわば案内図は、17世紀後半以降に、かれの母国
イギリスで典型的な展開をみた後期の重商主義の体系的な「再現」=見取図
からなっていたといいうる。
そこには、この基盤から資本の自由主義的な均衡の体系を意識的に創出しようとする、
政治経済(ポリティカル・エコノミイ)の立場がみられるであろう。

 ステュアートの経済学のこの性格の一面は、その書かれた成り立ちからもうかがわれる。『経済学原理』の大半は、
スコットランドの大学をでてまもなくのヨーロッパ遊学(1735-40)につぐ、長い政治的亡命と流浪のあいだ(1745-63)
にかかれている。ステュアートの学問的観察の熟する時期は、まさにイングランドで産業資本への傾斜と転換が
おこなわれつつあった時期に当っていたのだが、かれはこの重要な時期にイギリスから隔絶されていたわけである。
 ステュアートの『経済学原理』は、イギリスでは、追ってでたスミスの『諸国民の富』の水準と盛名におおわれ、
一般に忘却されてしまったが、ヨーロッパではかなり普及した。初版刊行2年後の1769年には、J・U・パウリによる
ドイツ訳が、『原理』執筆のゆかりの地、南ドイツのテュービンゲンとハンブルクで出版され、18世紀末までには、
諸版がヨーロッパで上梓されている。経済学を勉強しようとした若きヘーゲルが、1799年に読んで詳しい評注 ―
惜しいことにこの手稿は散失したらしい―を書きつけたドイツ訳というのは、おそらくこのパウリ訳であったろう。
しかしヨーロッパ、イギリスをとわず、主要な経済学者には読まれ、また特に古典派経済学反対者によって摂取され
た形跡がある。それにもかかわらず、ステュアートの名は、申しあわせたように引照されていない。

 マルクスは、イギリス議会での討論と大小幾千のパンフレットでにぎわった19世紀前半の、商品価格と流通手段の
量に関する論争をつうじて、『経済学原理』の論点が省みられてしかるべきときに、「ステュアートは依然として、
レッシング時代にスピノザがモーゼス・メンデルスゾーンに『死んだ犬』と見えた以上に、『死んだ犬』としてあつかわ
れたといい、そもそもスミスがステユアートの論点を摂取しながら、その出所とメリットを晦ましたのだ、とさえいって
いる。(マルクス『経済学批判』岩波文庫、221頁)。そこには学問的義憤の調子がみえる。
 しかし今世紀に入って、
ケインズがかれの雇用理論や有効需要論の系譜をマルサスにもとめていらい、その先蹤
〔せんしょう:先例〕としてステュアートの経済学に新たな目が注がれる機運を生じたといえる。わがくにでは、
第二次大戦後、これとはべつの問題意識から、主としてスミス経済学の形成に関連して、『経済学原理』の検討と
再評価が続げられている。*
 *[ステュアートの『原理』の体系を追うわがくにのステュアート研究は高い水準と密度とを示している-訳者]

 ステュアートは本書のなかで、人口、封建的土地所有の分解と自由な賃銀労働者の創出、近代的産業労働、
剰余価値と利潤、貨幣と信用、機械と過剰人口、雇用と有効需要、等々の論点で、いくたの卓見をしめしている。
それらの論点のなかには、古典派経済学の発達した体系のなかで跡形もなく退化してしまったが、それとして
とりだしてみると、資本制生産様式の発生と進化の様相を体制的に明らかにしてくれるものが含まれているように
おもわれる。しかしこれらの点や、『原理』が提出している諸論点については読者の評価をまたなければならない。
他方において、ステュアートの古典的な意義はひとり固有の経済学の領域にとどまらないであろう。
ステュアートの立場は、経済学が練達した政治家のための学問として発達してきた、
政治経済学(ポリティカル・
エコノミイ)
としての発生的な在り方を純粋にしめしており、『経済学原理』は政治の本質にたいする深い洞察をもって
書かれている。ハスバッハは、ステュアートから「ひとは今日においてもなお教訓を期待してよい」と前世紀のおわり
に書いているが、この評価は、現在でも、この点でそのまま通用するとおもわれるのである。・・・・

  ・翻訳の台本としてもちいたものは、1767年刊行の初版本であるが、他も参照した。
  訳出にあたってはつぎの凡例にしたがった。・・・
一、 訳者の注は、すべて[ ]でくくった。原著者の注はアラビア数字でしめし、訳注は割注や訳者の挿入句はべつ
   として、*でしめした。
一、 経済学上、問題の用語とおもわれるものは、最初原語をかかげ、その後は随時、原語をしめすルビを()内に
   ほどこした。
一、 訳語の統一につとめたことはことわるまでもないが、重要な用語でこのたてまえをつらぬくことができなかった
   ものがある。たとえば、
“employ” “employment”がこれである。雇用関係がはっきりしているばあいは、「雇用す
   る」、「雇用」としたが、「奴隷を雇用する」とはいえない。「奴隷を使役する」というようにした。そして、雇用関係
   をふくめて一般に、人びとに仕事をあたえるという、ひろい意味につかってあるばあいは、「仕事をさせる」、
   「充用する」というようにした。名詞形についても同様である。そういうとき、うるさくならないかぎり、( )内に
   カタカナをもちいて原語をあきらかにした。また
“industry”や“trade”という用語も同様で、著者はそれらの言葉を、
   言葉そのものの広い含蓄にしたがってもちいている。たとえば、industryは、一般には「産業」であるが、それが、
   
封建的なagriculture(農耕)labour(農耕)に対して、近代的な商工業や商工業労働を意味するばあいは、
   
「勤労(インダストリ)」と訳出し、またindustryが農業やtrade(商業)に対置してもちいられているときは、
   
「工業(インダストリ)」と訳出した。そのtradeはまた、固有の「商業(インダストリ)」のみならず、商品経済の
   もとでの各種の仕事、つまり邦語で、広い意味で職業のことを「商売(しょうばい)」という、その「商売」の意に用
   いられていることがあり、それを「
営業(トレイド)」と訳した例もすくなくない。要するに訳語の統一をはかりつつ、
   そのときどきの含意を訳出せざるをえなかった。そうしなければ邦語にはならないとおもわれたからである。・・・
     昭和41年12月17日 
                     中野 正