非ユークリッド幾何学の創造
近藤洋逸著 『新幾何学思想史』
三一書房 1966年発行 ちくま学芸文庫 2008年発行
第4章 ガウス 非ユークリッド幾何学の樹立
(*文頭数字1。・・・は、編集部による)
1. 非ユークリッド幾何学の成立は、19世紀数学史のすばらしい一景観であろう。
ガウス(C. F. Gauss 1777-1855)はすでに1792年以来、幾何学の基礎について考察をはじめ、1816年頃には非ユークリッド幾何学の大要を確立している。これよりやや遅れて1820年代にはロシアのロバチェフスキー、
ハンガリーのボヤイ・ヤーノシュ、 ドイツ流に言えば ヨハン・ボリアイがそれぞれこの新しい幾何学を発見したのは、周知のことであろう。ところでまたドイツのシュヴァイカルト(F.
K. Schveikart 1780-1857)、および彼の甥タウリヌス(F. A. Taurinus 1794-1874)も非ユークリッド幾何学に到達していたのである。
このように19世紀を迎えると、あたかもすでに蒔かれていた新幾何学の種子が春暖の気に触れて、一斉に地表を破って芽をふき出したかのようであった。 「多くの事物はいわば時期をもち、この時期にはそれらは多くの場所で見出され、それはあたかも早春にスミレが日光を浴びて出でくるのと同じだ 」 というボヤイ・ヤーノシュが伝えている父ファルカシュ(ドイツ流にいえばヴォルフガング)の言葉、まさに然りであった。
ではこの新幾何学形成の要因は何であったろうか。それが純論理的要因につきるものでないことは、サッケーリやランベルトの挫折からも分るであろう。何よりも空間に対する見解の根本的変換が、そうしてまた公理観の変換が必要であったろう。単に論理的に無矛盾な体系として非ユークリッド幾何学を是認しただけでもって、果してその幾何学の創始者たちは、これの確立に成功したのか、またそのような形式的な根拠づけで満足していたであろうか。
それはさておき、非ユークリッド幾何学成立の一素因として、勿論、根本的のものとはいえないが、18世紀末葉から急激に勢をました平行線公理をめぐる幾何学の基礎研究を忘れてはならない。それの原因としてシュテッケルは論著『幾何学者としてのガウス』のなかで、次の二つのものをあげている。
その一つは、ライプニッツ(G。W。Leibniz 1646--1716)、ヒューム (D。 Hume 1711-1776)、ダランベール( J。 le R。 D’ Alembert 1717-1783)など、とくにカント(I。 Kant 1724-1804)の、数学的認識の本質の探求という哲学の側面からの推進力である。
いま一つは、フランス大革命の産物として生まれたエコール・ポリテクニク、エコ-ル・ノルマールなどの全く近代的な高等教育機関の創立(1795年)である。これら教育機関では数学教育が特に重要視され、その教材の整備の必要は、幾何学の基礎に多くの数学者の目を向けさせた。ラグランジュ( J。 L。 Lagrange 1736-1813)、カルノー( L。 N。 M。 Canot 1753-1823)、ラプラース(P。 S。 Laplace 1749-1827)、フーリエ(J。 B。 Fourier 1768-1830)など、しかしとりわけルジャンドルは重要な貢献を残した。彼は多くの版を重ねた『幾何学の原理』において実に執拗に平行線問題を考え抜いている。その理論的水準はサッケーリやランベルトのそれを凌駕してはいないが、その書が広く流布されたため、その影響は甚大であり、非ユークリッド幾何学の発見者たちも、ルジャンドルを批判的に読むことによって多くの知見を得たのである。
2。 カントの哲学は平行線論議に大きな刺戟を与えたといわれるが、それは彼の空間の理論、すなわち空間をアプリオリな直観の形式とする理論に発している。彼は『純粋理性批判』(第2版、39頁)で次のように述べているのである。――「幾何学の原則はすべて(例えば「三角形の二辺の和は他の一辺よりも大である」という命題も、直線や三角形という一般的概念から導来されるものではなくて)直観から――それもアプリオリな直観から必然的確実性をもって導来されたものである」(篠田訳岩波文庫p。91)
〔編集部注:球面上での三角形では、二辺の和が他の一辺より短くなる場合がある。〕
ところがこのアプリオリな直観に特有の自明性と確実性とが、平行線公理には残念ながら欠如している。こうして、この公理を他のもっと自明な公理から導出しようという要求が、カント哲学の影響のもとで、ここにあらたに強く表面に現われてきたのである。
『純粋理性批判』の第1版は1781年、第2版は1787年に出版されている。いまシュテッケルとエングルが共同で編集した「平行線の理論」の巻末に載せられた詳細な文献表から、幾何学の基礎についての論著の数を集計してみよう(17世紀以前は省略 年間の論文数)
………………………………………………………………
・1701-1710。 1 ・1711-1720。 2 ・1721-1730。 0 ・1731-1740。 4 ・1741-1750。 6
・1751-1760。 12 ・1761-1770。 4 ・1771-1780。 10 ・1781—1790。 24 ・1791-1800。 22
・1801-1810。 29 ・1811-1820。 37 ・1821-1830。 41 ・1831-1837。 35
………………………………………………………
これは勿論、完全な表でもなく、またこのように論文の質を無視した量的集計は、非ユークリッド幾何学史の重要な側面を現わしたものでもないであろう。しかしながら印刷文化の普及と教育の発達による数学研究者の数の増大を考慮にいれるにしても、『純粋理性批判』の出現(1781年)の以前と以後とでは文献の篇数でほぼ2倍以上の飛躍をみせている。第2版(1787年)後の10年間のものを集計しても23篇にのぼるのである。またのちに述べる筈のタウリヌスやボヤイ・ファルカシュの空間論をみてもわかるが、カントの空間論は学者たちの間に広く流布され、幾何学の基礎論に彼らを駆りたてたに相違ないのである。
ちなみにエコール・ポリテクニクとエコール・ノルマールの創立(1795年)から10年間の論著の数は29にのぼる。またガウスの非ユークリッド幾何学の発見のあった1816年を含む10年間(1811-1820年)のそれが37、さらにロバチェフスキーとボヤイによるその幾何学の確立された1820年代のそれが41にも達していることは、このような偉大な発見が、多くの平凡な学者の努力の集積を土台として始めて可能となることを、間接ながらも示唆してはいないだろうか。
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3。 非ユークリッド幾何学を最初に樹立したのはガウスその人なのである。 この幾何学の内容については次章で少し触れるつもりであるが、その詳細は専門のテクストに譲ることとし、ここではわれわれの本来の課題であるこの新幾何学の成立の思想的背景に照明をあてることにしよう。
ガウスのユークリッド幾何学の基礎研究は15歳のとき、すなわち1792年に始まっている。彼は弟子のシューマッヘル(H。 K。 Schumacher 1780-1850)に宛てた手紙(1846年11月28日付)の中で、彼がすでに1792年にすでに「ユークリッド幾何学が真のものでない場合に成立する筈であり、しかも厳密に整合的に成立する筈」の幾何学について考えたと述べている。非ユークリッド幾何学の最初の閃光がきらめいたのである。またゲールリンク(Ch。 L。 Gering 1788-1864)宛の手紙(1846年10月2日付)ではガウスはおよそ次のように語っている。
――平行線公理から独立なすべての幾何学では多角形の面積が内角の角不足に比例するという定理は、その公理を否定したとき、「私がすでに1794年に必然的であると知った理論のいわば入口にある最初の定理」であると。この定理はすでにランベルトが発見していたものであるが、ガウスが彼とは独立にそれを発見したかどうかは判定できない。しかしともかくガウスははやくも非ユークリッド幾何学の重要拠点をとらえていたのである。
また彼は友人ボヤイ・ファルカシュの息ヤーノシュの知名の著、略称『アッペンディックス』、非ユークリッド幾何学を最初に組織的に展開したこの著書をみたとき、ヤーノシュの幾何学的才能に驚嘆しながらも、父ボヤイヘの返信(1832年3月6日付)で次のように書いている。――その著書の内容は「部分的にはすでに30年前から35年前までに行なった自分独自の考察」とまったく一致すると。してみると、ガウスが平行線公理を否定したときに生ずる幾何学を展開したのは1797年から1802年の間であろうと推定される。
4。 このように1795年ガウスがゲッティンゲン大学に入学したときには、すでに非ユークリッドの芽がふきかけていた。これは18世紀後半から急速に昂揚した幾何学基礎論研究の影響であろう。そして彼が非ユークリッドの理論を展開した1797—1802 年はゲッティンゲン入学以降のことであるから、ここで彼が呼吸していたゲッティンゲンの雰囲気に目を向けることにしよう。実のところこの地の大学も幾何学基礎論の研究の潮流にまきこまれていた。教授ケストナーは、平行線公理の証明可能性について懐疑主義者である。平行線論の著書をもつヴィルト(K。 Wildt 1770-1844)も同学に職をもっていた。また天文学の教授でありながら幾何学の基礎に興味を抱いていたザイファー(C。 F。 Seyffer 1762-1822)、彼は1801年3月9日の『ゲッティンゲン学報』で 平行線問題に関する或る著書を批評しながら、「第11公理〔平行線公理〕を新しい公理の助けなしに果して証明しうるかどうか甚だ疑わしい」と懐疑的な調子で述べている。このザイフアーとガウスは特に親しかった。ボヤイ・ファルカシュがガウスと始めて出会い、永年の交友の緒口を作ったのもザイファー教授の宅においてであった。またゲッティンゲンにほど近いヘルムシュテットの大学教授ファッフ(J。 F。 Pfaff 1765-1825)の名を逸するのも妥当ではあるまい。彼の意見によれば、平行線問題について、われわれのなしうることは、その公理をもっと簡単なもので置きかえ、それを「単純化する」につきると。
ガウスはかような空気を呼吸しながら、次第に非ユークリッドの道を進んでいった。1799年12月16日付の父ボヤイ宛の手紙にいう。――「私が歩んだ道は、ひとが欲し、かつ貴兄が到達したと確信される目的〔平行線公理の証明〕に導かず、むしろ幾何学〔ユークリッド幾何学〕の真理性を疑わしめるようになった。」その同じ手紙のなかで彼はまた次のようにも述べている。
どのような所与の面積よりも大きい面積をもつ直線三角形の可能であることが証明できれば、全ユークリッド幾何学をも証明できる。多くの人はこの命題を公理と考えるであろうが、自分はそうは思わない。何故なら三角形の頂点が互にどんなに離れても、その面積が或る限界以下であることも可能であるからと。このような結果にガウスは1799年11月には到達していた。しかし前章でも述べたが、ランベルトもほぼ同じような結果を得ていたのであるが、彼とガウスとの間には態度の相違がある。幾何学的にはおよそ同じような結果に到達しながらも、ランベルトはユークリッド幾何学への確信を堅持していたのに対し、ガウスはすでにこの幾何学の真理性について懐疑的になっているからである。こうして幾何学に対する態度の点ではガウスはランベルトより一歩前進したとみてもよい。だがガウスのその懐疑的態度は何に由来したであろうか。平行線の公理の否定のために生ずる諸結果のうちに何らか不都合を見つけようとして苦心した計画的な探求が、所期の目的に到達できそうもないこと、おそらくここからユークリッド幾何学の絶対的真理性への疑惑が彼の心をとらえたのであろう。
・・・ しかし遂にガウスは1816年にいたって平行線公理の証明不可能と非ユークリッド幾何学の可能性に確信をもつことができたのである。・・・
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ガウスにいかにして、ユークリッド的なものの専制的支配から脱却し、非ユ-グリッド幾何学に対して確信を持つにいたったのであろうか、平行線公理を否定しても、そこに何らの矛盾も生じてこないこと、整合的に非ユークリッド的三角法が作られ得るということ、このような論理的考察が強く新幾何学の確立に寄与したことは、おそらく否定できないてあろう。しかしその種の考察のみによって、そのような姻何学の大変革が可能となっためであろうか。われわれが最も関心を抱くこの疑問の解決は、あとに譲るとして、ここでは次のことだけを、あらかじめ述べておこう。われわれが非ユークリッド幾何学史において最もガウスに心をびかれるのは、彼がいち早くこの幾何学に到達したということばかりではなく、彼が自分独自の認識論的省察によって、この新幾何学の根拠について深く考えていたことにあるのであると。
もっとも彼は本職の哲学者たちを信用していたわけではない。彼のシューマッヘル宛の手紙(1844年11月1日付)のなかで次のように書いている。――「貴君が、本職の哲学者では概念や定義に何らの混乱もないと思っていられるのには、甚だ驚き入ります。数学者でない哲学者におけるほど混乱のひどいものはありません。」 これにつづいて彼は現代哲学者であるヘーゲル、シェリングをあげて、手ひどく扱っている。彼の独自の認識論的考察がドイツ観念論の流行に追尾しているものでないことは上述の態度からも、ほぼ明らかであろう。ではカントについてはどうであろうか。ガウスは彼には相当の敬意をいだきながらも、彼の総合判断と分析判断の理論について遠慮なく批判を加える、彼はさきほどの手紙の続きで次のように述べる。――
「分析命題と総合命題との彼の区別は、私の考えに従えば、些細事に帰着するか、それとも偽であるごときものである」
だがかような哲学者酷評にもかかわらず、否かえってそれ故にこそ、ガウスは自主的に数学的認識の本質に関心をいだき、流行哲学の圏外に立ちながら、独特の省察を加えたのである。例えば彼がいまだ数学者として世に立つべきか否かに迷っていた青年時代に書いた小篇『数学の形而上学』のなかで、数学の基本的部分の哲学的展開を行なっている。また複素数の本質を論じた短篇もある。さらにイェナの植物学者シュライデン(M。 J。 Schleiden 1804- 1881。〔植物の細胞説〕 )の伝えるところによれば、ガウスはカントの著作を詳細に研究していた。事実、ガウスは書簡や短篇のなかで断片的ではあるが、しばしばカントの理論に論及しているのである。・・・・
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・・・
ここでわれわれはカントが『純粋理性批判』のなかで空間概念の形而上学的解明の第三のものとして掲げているものを想起でざるを得ない。―― 「空間は物一般的の関係に関する論証的概念、あるいはよく言われるような一般的概念ではなくて、純粋直観である。第一にわれわれは、ただ一つの空間だけしか表象できないからである。われわれが、多くの空間と言う場合には、かかる空間はいずれも、唯一の同一な空間の部分を意味する。……空間は本来ただ一つしかない。」
空間が本来ただ一つに限られるならば、それについての学である幾何学もただ一つであるのは、当然のことであろう。こうしてタウリヌスのさきの議論のうちにはカントの影響が看取できるのである。そればかりではない。前にも述べたようにタウリヌスは、非ユークリッド幾何学不信の理由の筆頭として、それと直観との矛盾をあげ、しかも空間表象を直観形式とみなしているが、この空間表象を直観形式とする思想は、いうまでもなくカントのそれなのである。彼タウリヌスはカントの空間論でもって、ユークリッド幾何学擁護の防塞としていた。
こうしてわれわれは、ユークリッド幾何学から非ユークリッドのそれへの飛躍には、単なる公理論的な純形式的な態度を超えたものの必要であることを、ここにすでに知ることができる。無論われわれは、平行線公理をめぐる形式的探求が非ユークリッドの出現に与えた大きな寄与を、拒否するものではない。しかしわれわれはタウリヌスの例において、幾何学的思想の巨大な飛躍の底には、論理的形式的なものを越えたもののあるべきことを、再び察知することができるのである。
だがあるいは言うかもしれない。カントは空間を実在自身の形式とする旧来の観点をくつがえし、空間をアプリオリな直観形式とすることによって、幾何学を実在の束縛から解きはなったのではないか。勿論、彼はいまだに空間を現実の空間に局限している。この点においてカントは不徹底である。ところが非ユークリッド幾何学の出現は、幾何学的空間を現実の空間から完全に解放し、こうして幾何学は純粋な論理的体系となった。ここにその新幾何学の認識論的意義があり、それはカントの精神の一そうの発展である、と。
このような評価の仕方は若干の新カント派論者に見うけられるものであるが、しかしながら、こうした哲学的「基礎づけ」には、タウリヌスも、父ボヤイも、おそらくはカントも満足しないであろう。非ユークリッドの体系が形式的に整合でありうるということだけでは、幾何学の本来の意義、すなわち現実の空間との連関は基礎づけられないし、父ボヤイやタウリヌスの疑心は依然として残らざるを得ないのである。ところが問題の核心はここにある。さらにまた幾何学を純論理的構成物とする哲学的見地からは、非ユークリッド幾何学の発展によって出てきたリーマン幾何学が、何故に物理学に用いられ、相対性理論の中核となったかは、まったく理解できない筈である。
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ガウスはいかに非ユークリッド幾何学を基礎づけたのであろうか。
〔1. 非ユークリッド幾何学的三角法の到達による、非ユークリッド幾何学の形式的整合性
〔2. その三角法の利用による量の測定計算によってユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学のそれとのズレで、現実の物理空間にどの幾何学が妥当するかを決定する。
〔3. 非ユークリッド幾何学にある「不定定数」を空間の根底にある自然そのものの中に求める精密な測定。
〔4. これによって非ユークリッド幾何学が内容的にも根拠づけられ、幾何学として樹立された。〕
このガウスの到達した新しい見地〔1。~4。〕は、カント的見地からの離脱なくしては、不可能であったろう。さきほどの手紙の中で、ガウスが、空間の本質は未知であるとしていることに着目しておきたい。もしカントに従って、空間がアプリオリな直観形式であるならば、空間の本質は未知ではありえないし、またいずれかの幾何学が、たとえユークリッドのそれでなくても、直観的に自明的に真であるべきであろう。ところがガウスによれば、空間の本質は未知であり、無数の幾何学のうちどれが真であるかは、自然の空間の測定をまって始めて決定できる。空間の本質は、われわれにとって直観的に自明ではなく、かえって自然の認識を通じてようやく把握されるのである。上述の不定定数は、カントの空間論の埓内にとどまるかぎり、理解できない謎であろう。
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ガウスはカントの空間論と対決しながら、非ユークリッド幾何学の内容的根拠づけに到達したのであろう。
カントが非ユークリッド幾何学史において演じた役割は次のように要約できよう。彼は空間の問題を認識理論の一つの中心課題とし空間のあり方そのものを考察の対象としたことによって、幾何学の基礎研究を推進させたが、しかし同時に、彼の空間論は、非ユークリッド幾何学の確立の過程のなかでガウスによって拒否されたのであると。しかしおそらく次のような反論があるだろう。ガウスの理解したところのカントの空間論は、これの一面にすぎず、彼の深い真意は理解されていないと。あるいはそうかもしれない。カントの空間論の含む深い哲学的含蓄は、哲学の専門家ならぬガウスによって充分には理解されなかったかもしれない。しかし『純粋理性批判』の正面にあらわれた空間論を、幾何学の立場からみるかぎりでは、それが非ユークリッド幾何学に対してもつ敵対的な性格は無視できないであろう。
空間と幾何学についてのカントの理論が、幾何学思想史に与えたと思われる影響を、そのプラスの面をも、そのマイナスの面をも公平にとりあげて、簡単ではあるが考察してみよう。
マルティンも指摘しているように、カントが幾何学の公理的性格と、その公理が総合判断であることを強調したことは、注目すべき点であろう。すべての数学の命題を、定義と矛盾律とでもって証明できるとしたライプニッツやヴォルフの主張に対する適切な批判であった点で、それは確かにプラスの面をもっている。カントのその主張は、幾何学の基本的問題が、単なる定義や証明という論理的なものでは解決しつくされないという反省を、幾何学者たちに与えたことであろう。そればかりではない。公理が総合的命題であるとすれば、非ユークリッドへの道も可能であろう。主語「三角形」と述語「内角の和は二直角である」との結合が論理的に必然的でないとすれば、「三角形」は「内角の和は二直角より大である」と、あるいは「内角の和は二直角より小であるJとも、結合可能だからである。
だがカントは非ユークリッドへの道を認めることはできなかった。何故であろうか。ここでわれわれはマルティンのあげるカントの幾何学論の第二の特色、「幾何学の構成的性格」に目を向けるべきであろう。「数学的認識は概念の構成による理性認識である。ところで概念を構成するとは、概念に対応する直観をアプリオリに現示することである。」(『純粋理性批判』第2版篠田訳岩波文庫・下p.16) では「直観をアプリオリに現示する」とはどういうことであろうか。それは概念の構成に対して、非感性的な直観、例えば黒板にチョークで画いた線とか机上の三角定規などの感覚的な質料を除去した純粋な直観が対応するということである。勿論、三角形の概念を現実に示すには黒板上にチョークで描く必要があろう。この描かれた図形は、経験的直観であり、正確な三角形ではなく、いびつな三角形であり、その辺は幅をもってはいるが、この具象的な三角形のなかに数学者は「三本の直線によって囲まれた図形」という「三角形」の概念の内容をよみとるのである。 これが「三角形」という概念を構成することであり、その概念に対応する直観を現示すること、しかも「アプリオリに」現示することなのである。具象的な三角状のものは正確な三角形ではなく、従って三角形の手本を経験から借りることはできないし、その概念の内容には感性的内容が含まれていないので、「アプリオリに現示する」といったのであろう。
概念に対応する直観のアプリオリな現示、これを簡単のため、アプリオリな直観的構成と呼んでおこう。この直観的構成によって、概念の定義や、公理の設定、定理の証明が統制される。主語と述語とは直観的構成に従って結合され、総合的性格をもつ幾何学の命題が成立するのである。カントのあげている二角形の例をとってみよう。「二直線によって囲まれている図形という概念には矛盾が含まれていない」が、その概念の「不可能は、概念自身に基づくのではなくて、空間における〔図形の〕概念の構成に――換言すれば、空間とその規定との条件に基づくのである。」(『純粋理性批判』第2版篠田訳岩波文庫・上p.296) いうまでもなくこの二角形が直観的に構成不可能であることを命題の形に展開すれば、「二点を通ってただ一本の直線がひかれる」というユークリッドの公理となる。周知のように鈍角仮定の幾何学〔楕円型の非ユークリッド幾何学〕では二角形が可能であるから、二角形の概念が論理的に無矛盾であるとすることは、その幾何学が論理的には可能であるということになる。このようにして、カントが幾何学の命題の総合性からして、非ユークリッド的なものの無矛盾を洞察したことは、サッケーリやランベルトからの一歩前進であろう。またその洞察が、幾何学成立の根拠を直観的構成に求めることによって幾何学基礎論の問題の所在を明確にしたこと、さらに非ユークリッド的なものの論駁を論理的矛盾の導出に求めるという企図が徒労であることを示したのも、注目すべきことであろう。しかしわれわれにとって問題なのは「アプリオリな直観的構成」というカントの主張である。これは、折角開かれていた非ユークリッドへの道を閉してしまうことになるとも思われるからである。・・・・中略・・・
しかし、ガウスのように、直観的構成を巨大な天空にひろげたら、どうであろうか。光線の描く長大な直線や、これの囲む巨大な天文学的三角形について、ユークリッドの命題が必然的に成立すると、直接に確実に言えるだろうか。・・・・光線の描く天文学的図形でもって、非ユークリッド幾何学を内容的に理解するガウスが、カントのアプリオリズムに強く反対したのは、当然のことでもあった。
さてここでもう一度ガウスに立ち帰ることにしよう。
カットにとって空間は直観形式であり、その表象はアプリオリな必然的表象であったが、ガウスにおいては、空間はわれわれの外に実在性をもち、それの本質は多くの未知のものを蔵し、それの認識は、例えば平行線公理が実現されているかどうかは、自然の認識をもって、始めて決定されるのである。カントにおいては、公理は「直接に確実である限りのアプリオリな総合的原則」であり、直接に確実であるからには、必然的に真なる命題であったが、ガウスにあっては、公理は、少なくとも平行線の公理は、その真偽が直接には明白でない命題であり、幾何学の理論を展開する出発点である仮説仮定となっている。そうしてどの仮説が真であるかは、それからの帰結の、天文学的観測による検証によって決まるとするのであるから、幾何学の、物理的空間に対する妥当性の判定に実験が介入してくる。いずれの幾何学が物理的空間に妥当するかという問題の解決に、ガリレイ的な仮説実験的方法が導入された、といってもよいであろう。・・・
幾何学は物理空間のなかに根底をもちながらも、仮説演繹理論としてそれから相対的独立性を保つという二重の関係をもっているが、彼においは、前者のみが強調されている。勿論このガウスの見解も、これまでイデアの世界に安住して物理的空間を一方的にのみ支配する専制君主の地位に幾何学を祭りあげていたプラトン以来の合理主義の伝統的見解をくつがえしたものとして、幾何学思想上まことに画期的である。そのガウスの見解、すなわち空間の経験的な性格をとらえ、幾何学の理論的根底を自然のうちに求めるという着想は、これに裏付けられながらいち早く非ユークリッド幾何学に到達したことと併せて、空間論史において一新時期を画したものというべきであろう。・・・以下、省略・・・・
〔編集部注:前掲にあるように以下も注目される。「ところが問題の核心はここにある。さらにまた幾何学を純論理的構成物とする哲学的見地からは、非ユークリッド幾何学の発展によって出てきたリーマン幾何学が、何故に物理学に用いられ、相対性理論の中核となったかは、まったく理解できない筈である。」〕
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