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<コラム13> イングランド人民の歴史
重商主義から産業革命へ(2)
・・・「商品分析の歴史」研究のために・・・
第6章 1. 織物工業
目 次
(1) イングランドの農業 ( 第12章 産業革命 1. 農業 )
(2) 新しい君主制とブルジョワジー ( 第6章 1. 織物工業)
(3) 第12章 産業革命 「 2. 燃料・鉄・輸送」
(4) 第12章 産業革命 「 3. 織物工業」
第 6 章 1. 織物工業
7. イングランドが、羊毛生産国から織物製造業国に決定的に移行したのは、15世紀の政治的混乱の時期であった。農業よりもはるかに少ない人びとを雇用していたのだけれども、織物工業は、イングランドの経済生活の決定的な特徴となった。その特徴は、イングランドの経済生活を、ほとんどの他のヨーロッパ諸国のそれから鋭く区別し、その発展の方向と速度を決定した。中世のあいだ、イングランドは、たとえばフランスよりももっと農村的だった。その都市は比較的小さく、自治もそれほど徹底したものを獲得することに成功はしなかったし、封建領主あるいは農民大衆とそれほど鋭く対立することもなかった。しかし、農村イングランドはより発展し、その農民は比較的自由で、収奪も比較的少なかった。
発展のこの均等性と、特殊都会的で、したがって部分的に封建的である工業製品生産のこの相対的な弱さとが、いずれにせよひとたび一定の技術的水準を達成したばあいに不可避となる資本家的織物工業の発展をきわめて容易にし、かつ急速にしたのであった。
8. この織物工業は、最初イングランド南西部とイースト・アングリアに、すなわちノリッジ周辺とストア川〔サフックとエシクスの州境を流れ石川〕流域の都市や村に発展した。そこには、高い垂直式教会と富裕な織元の窓の多い家が、独特な、そして遠く過ぎさった繁栄の証拠として残っている。イースト・アングリアは、狭い海をこえて直接面しているフランドルとつねに特別な関係にたっていた。イングランドの他の部分が、大規模な羊毛輸出を発展させていたのに対して、イースト・アングリアは、ほとんど輸出してはいなかったのである。そのかわり、それはガンとブリュージュの工業人口を養うための穀物を積み出していた。
ほぼ1436年頃に書かれた詩は、つぎのようにうたっている―
「フランドルで穀物や穀粒を栽培する者はみんな、肉やパンをひと月と供給することができない。さらに、フランドルは、フランドル人が好もうと好むまいと、小さな洋アカネ〔染料〕とフランドル織のほかに いったいなにをもっているというのだろう?
だいたいは、わが羊毛で優美な織物を織ることによって、ここで(かれら)庶民の生計をたてること、これこそここでの政治なのだそうすることなしに、かれらは、安楽な生活を営むことはできない、そこでかれらのほとんどにとって、死か、あるいはわれわれの大部分と平和を保っていくかのいずれかである。」
イースト・アングリアの農業は混合的な性格のものであって、羊は輸出地域の大牧羊場で飼育されるかわりに、耕作地経営の一部として飼育されていた。かれらの羊毛は品質の点で劣っており、サファクのそれは1454年に書かれた44銘柄のリストの最後に位置づけられていて、一袋当りの価値は、最上のヘリファド産羊毛260シリングに対して52シリングでしかなかった。ノーファク産羊毛は、そのリストに加えるに価するとすら考えられてはいなかった。この羊毛は、外国で歓迎されるような質のものではなかったので、早い時期から、国内であらめの織物に織られていた。おそらく、それが、輸出用に、あるいは大量に生産されなかったという事実によって、品種改良のためにそそがれる努力は、他の所よりもここではますます少なくなっていったのである。
地理的に、イースト・アングリアはフランドル人の手工業者が移住しやすい地域であって、すでにみたように、そうした移住はノルマンの征服後ただちにはじまった。漸次新参者は、土着民にすぐれた方法を教え、15世紀のはじめ頃までには、織布の種類や質の点で大いなる改良がなされていた。カージーやウステッドのような、いまやまったく不明になってしまった村がそれらの名を毛織物に与え、全国に知られるようになった。そしてヨーロッパ市場でフランドル産の織物との競争すらはじまったのである。
9. 最初、輸出品は主に未仕上げの織物の形をとっていて、フランドルに送られてから毛ばだてられ、染められていたので、利潤の大部分はフランドル人の手にとどまっていた。かれらがイングランド人から狐の毛皮を1
グロート〔四ペンス〕で買い、かれらにしっぽを1ギルダー〔約6シリング〕で売ったという諺は、輸出品が原毛に限られていた時代といまだほとんど同じように真実であったのである。この貿易は、最初、ハンザ都市の商人によっておこなわれていた。かれらは、ステープル商人によって羊毛輸出からしめだされていたのであるが、この新しい部門の支配を獲得することができたのである。しかし、ステープル商人が、14世紀にイタリア人に挑戦して打ち勝ったのとちょうど同じように、冒険商人組合として知られるイングランド商人の団体が、15世紀にハンザ商人から織物輸出を奪いとった。1470年、アントワープに
“商館” を建てて、かれらは、フランドルの毛織物都市といまだ本拠としてカレーを用いていた老舗のステープル商人との、双方の敵意にもかかわらず繁栄を誇ったのであった。
かれらの利点のうちには、原料を自由に、そして妨げられることなく供給されることができる、ということがあった。かれらは、それを、重い関税を支払わなければならなかったフランドル人よりもはるかに安く買うことができたのである。1434年に、フランドルがイングランド産毛織物の輸入を禁止した時、羊毛輸出の報復的禁止の方がはるかに多くの損害を与えた。1496年に、ヘンリ7世のもとで、「大通商」として知られている条約を結ぶことによって、正常な貿易関係がふたたび確立されたあとでも、フランドルの工業は衰退をつづけた。テューダ朝時代に、スペインのネーデルラント侵略とそれにつづいておこった激しい諸戦争がその過程を完了し、手工業者のインクランドへの移住の新しい波を促した。ホラントは、独立をかちとることに成功したが、ネーデルラントの比較的工業化されていない部分であって、16世紀に、工業上の競争者というよりはむしろ商業上の競争者となった。
10. 発展の両面は、織物輸出の増加とならぶ羊毛輸出の衰退をしめす数字によって例証される。1354年に、輸出された織物はせいぜい5干反と推定された。1509年には、それは8万反となり、1547年には12万反となった。他方、輸出された羊毛への関税は、エドワード3世の治世には平均して約6万8千ポンドであったが、1448年には1万2千ポンドに下落した。織物輸出におけるこの発展は、決して連続的なものではなかった。14世紀と15世紀のはじめには、輸出は急速に増大したが、以後の戦争と不安定な政治的諸条件とは、輸出市場の縮小をまねき、絶対的な衰退をすらまねいた。前進がふたたびはじまったのは、15世紀も終りになってかであった。衰退のこの中間的な時期は、毛織物輸出貿易における制限と独占の成長の主要な理由のひとつとなった。支配的な商人の集団が、縮小した市場を、なお開かれている市場で高率の利潤を確保することによって補おうとしたからである。
あらゆることのなかでもっとも重要なことは、織物工業がほとんど出発点から資本家的方向で発展したことである。ひとたび織物の生産が輸出市場むけに大規模におこなわれるようになると、小さな独立した織布工が、この市場を開発する資力と知識を一人じめしていた商人の支配下にはいることはさけられないことであった。羊毛生産者もまた、刈りこんだ羊毛を大量に売ることに長いあいだ慣らされてきていた。羊毛と織物とのあいだの細かな分業と多くの過程とは、その工業をギルドの基盤の上に組織することをほとんど不可能にした。ノリッジのギルドは、周辺の農村の織布工を支配しようとしつように努力したらしいが、成功はしなかった。
織元―すなわち毛織物資本家はそう呼ばれるようになったのだが―は織糸を織布工に売り、織物をかれらから買いもどすことからはじめた。まもなく織元は、あらゆる過程を支配下におさめた。かれらは、原毛を買い、ほとんどが自分の小屋で働く婦人や子供であった糸紡ぎ工にそれを配分し、ふたたびそれを集めて織布工や染色工や縮絨工や毛ばだて工にそれをわたし、それぞれの段階で販売し買いもどすよりもむしろ、固定した単価でそれぞれの工程に対する支払いをなした。1465年の制定法は、全過程の詳細な描写を与えており、織布工が量目を偽ってごまかしをしている、と苦情を述べている。この制定法はまた、最初の現物賃金禁止法としても注目すべきであり、賃金は「真の法定貨幣」で支払われるべきであって、「ピンや帯やその他わりの悪い商品」で支払われてはならない、と命じている。利潤率は一般に高く、資本の蓄積は急速であった。その工業がイースト・アングリアからサマシットやウェスト・ライディングやその国のその他の部分にまでひろがるにつれて、織元は、古くからの都市の保守的なギルド成員よりもはるかに進取的でより大胆な、そしていっそう多くの新しい投資口を探しもとめようとする、そうした資本家階級の核心になりはじめた。ブリストル、ハル、それになかんずくロンドンは、遠方まで影響をおよぼす商業活動の中心となり、それらの大商人は、富と権勢の点で貴族とならびはじめた。
11. 織元がひとつ屋根の下に多くの職人を集めてそこで全製造過程を遂行しはじめた時、集中のより高い段階が達成された。この実施は、ノリッジの織布工トマス・デロニイ
〔 Thomas Deloney.1543―1600。『レディングのトマス』『ニウペベリイのジャック』など〕の小説に生き生きと描かれているが、16世紀のはじめ頃にはかなり一般的となり、織布工からの一般的抵抗をひきおこした。その害悪のいくつかは、それを制限することを目的とした1555年法〔織布工法〕の前文に叙述されている。
「本王国の織布工は、他の多くの機会同様、本議会においてもつつぎのごとく訴えている。すなわち、富裕な織元がさまざまの仕方でかれらに圧迫を加えている。たとえば、ある者は多種の織機をみずからの家にそなえ、これを渡り職人や不熟練労働者をもって運用し、ために多くの織布工とその家族や世帯を困窮せしめている。また、ある者は、織機を集積、所有し、これを不当な貸賃で貸与し、ために貧乏な熟練職人が自分一人の生活の糧をうることもできず、ましてや妻や家族、子供を養うことすら不可能となっている。また、ある者は従来よりはるかに安い賃金で織布作業とその加工のために人を雇い…。」
〔浜林・篠塚・鈴木編訳『原典イギリス経済史』138-140ページ〕。
つづけてその法律は、織元がかれの家で保有しうる織機の台数を制限しており、工業の家内工業段階からの発展が抑制されたように思われる。おそらく、この集中によってえられる特別利潤は、家内的織布工を駆逐し消滅させるには充分でなかったのであり、他方、使用された機械は、織元に独占的支配を確保せしめるほど高価なものではなかったのである。
12. 利潤率の上昇、商品生産の増大、それに当時ヨーロッパのほとんどを通じて多かれ少なかれ共通となった国際貿易の増大とは、15世紀の終り頃に深刻な通貨危機をつくりだした。信用がいまだ揺藍期であった時で、唯一の満足な交換手段としての金銀貨に対する、それに照応した需要増大があったのである。ヨーロッパ自身は、この需要を満すことはできなかった。少量の金が時々そこに届いたが、多くは輸出され、鋳貨の磨滅で失われ、あるいは板金や金細工として流通からひきあげられた。1450年頃に流通していた金は、おそらくローマ時代よりも少なかった。銀は、とくにドイツで採掘されていたのに、その量はたいへんな需要の増大を満すには充分でなかったのである。
貴金属の現実の欠乏、とくに国際貿易のためのもっとも便利な手段である金の欠乏は、商業がひきつづき増大することに対する抑制として作用しはじめた。すべてのヨーロッパの国々は、少しも成功はしなかったけれども、地金の輸出を防ごうとした。イングランドでは、エドワード4世の治世には、それは現実に重罪とされた。16世紀に、ヨーロッパ人による収奪のために広大な新しい地域を開いた地理上の発見の一般的刺激となったのは、金の不足であり、供給の新しい源を発見しようという熱望であったのである。
「金は財宝を構成する。それを所有する者は、この世で必要なもののすべてをもち、煉獄から魂を救い、それをよみがえらせて天国を享受させる手段をももつのである」
〔林屋永吉訳「ジャマイカ島からの手紙」、1503、『大航海時代叢書』第1巻、222ページ〕
と書いたコロンブス自身、かれの目的の性格には充分に気づいていたのである。かれの航海は、世界のゴールド・ラッシュのうちで、最初で最大の、そして効果の点でもっとも影響の深いもののはじまりの合図だったのである。
・・・「 2 地理上の発見 」・・・省略・・・
→ (3) 第12章 産業革命 「 2. 燃料・鉄・輸送 」