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コラム13>イングランド人民の歴史 重商主義から産業革命へ(3)


                    
・・・「商品分析の歴史」研究のために・・・


  (3) 第12章 産業革命 「 2. 燃料・鉄・輸送


 目次

  (1)イングランドの農業 (第12章産業革命 1 農業)
  (2)新しい君主制とブルジョワジー (第6章 織物工業
  (3)第12章 産業革命 「2. 燃料・鉄・輸送」
  (4)第12章 
産業革命 「3. 織物工業



   
産業革命 「 2 燃料・鉄・輸送」


13.
 18世紀のはじめに、イングランドは燃料のひっ迫に直面した。燃料不足は、1世紀もまえから炭鉱採掘の
大きな増加をもたらしており、ロンドンおよびそれほどではないにしても他の大きな諸都市では、家庭用の燃料は
主に石炭に依存していた。さらに、一連のすべての新しい産業は、もっぱら石炭の利用にもとづいて発展したので
ある。こうしたことにもかかわらず、イングランドの木材資源の消耗量は急速に進んだ。幾世紀ものあいだ、
大きな森林は侵され、木が切り倒され、土地は耕作にあてられてきたのである。もとへもどすことについては、
ほとんどなにもなされなかった。家庭用のための木材は、不足がちとなり高価なものになりはじめたが、
他方製鉄産業は、滅亡におびやかされていた。溶鉱はすべて木炭でおこなわれており、用いられていた方法が
原始的であったために、鉄1トンを生産するのになんトンもの木材が必要とされていたのである。


14.
 サシクスのウィールド地方がまず第一に底をついた。製鉄産業が移動して行ったシュロプシアの木材と
ディーンの森もすでに枯渇の徴候をしめしつつあった。アイアランドもすぐに丸裸にされてしまった。熱心な
たびかさなる努力が、ニュー・イングランドに大規模な溶鉱所を設立するためにおこなわれたが、ここでは
「航海諸法」が産業の発展にとって障害であることが明瞭になった。イングランド自身の内部では、鉄の生産は
年々低下し、この国はますますその供給をスウェーデンとロシアに依存するようになったのである。
 
 そのあいだ、鉄鉱石の溶鉱に石炭を使用するために、種々の実験がおこなわれつつあった。中世も早い頃
から、石炭は家庭的な諸目的と多くの産業とで使用されてきており、ニューカスル周辺やスコットランドその他
炭層が地表に近くて水路によって輸送が容易である所では、大量に採掘されていたのである。大量のこの
ダイン川〔イングランド北東部、ノーサンバランドを横切り北海にそそぐ〕流域の”海路炭”〔ニューカスルから
海路輸送されたためこう呼ばれた〕は、船でロンドンに積みだされていた。
 溶鉱に石炭を使用するための諸々の試みが市民革命以前ですらおこなわれていた。しかし、燃料事情が
現実に絶望的となりつつあった18世紀の中頃になって、はじめて石炭を使っての溶鉱所が営利の可能性をもつ
ものとして設立されたのである。コウルブルックデイルのダービイ家〔初代アブラハム・ダービイ(?-1717)が
石炭をコークスに変えて溶鉱に使用することに成功〕 と1760年に、キャロン〔スコットランドのフォース湾の近く〕
で有名な製鉄所を設立した口ウバックとは、一連の改良をおこなったが、それは、溶鉱のためにコークスを
用いることが実用化されたことをしめすだけではなく、充分に強力な送風でもって硫黄その他の不純物を取り除く
ならば、それは木炭よりもはるかに経済的で効果的な燃料形態であることをしめすものであった。1765年に、
製鉄産業はマーセェ〔ウェールズ南東部〕に新しい中心を見出し、以後送風式溶鉱炉の数と大きさは年々増大
した。銑鉄の生産は、1740年にはたった17,350トンであったのが、1788年には68,300トンに上昇し、
1796年には125,079トンにまであがった。


15.
 石炭がなければ、近代的・科学的な冶金術はありえなかったであろう。近代的な冶金術こそ大規模工業
への技術的な鍵なのである。それがなければ、織物工業その他の諸工業で必要とされる精巧で緻密な機械の
建造は、工業力の源としてやくだつに充分なだけの強さと正確さをもった蒸気機関の建造と同様不可能で
あったであろう。鉄は、すぐに種々の新しい利用に供された。最初の鉄橋が1779年にセヴァン川にかけられ、
1790年には最初の鉄甲船が建造された。鉄の質と純度における改良は、道具作りにおける精密さの増大と
手をたずさえて進んだ。その世紀の変り目には、滑台(スライド・レスト)や平削盤(ブレイナー)をそなえた旋盤の
発明があり、それは、技術者がますます増大する1インチよりも小さな端数まで細工することを可能にしはじめた。
これらの発達がなければ、大規模生産に必要な精巧な機械はまったく不可能であったろう。さらに、それらは
半世紀後の真の大量生産を特徴づけることとなった部品交換の可能性に道をひらいた。それにもかかわらず
ブリテンの技術は、それがもっぱら開拓者だったためであったにしても、大ざっぱだが実際的なやり方にそって
おおいに進歩しながら、しかも標準化と大量生産の方法の点でつねにアメリカ合衆国のそれにおくれをとって
きているのである。

16. 釘製造のようないくつかの比較的に軽い部門をのぞいて、製鉄産業は決して家内工業的基礎のうえに
組織されたことはなかった。サシクスとミドランドの製鉄業者は大きな資本をもって経営している資産家であり、
それゆえその産業は多くの構造上の変化なしに急速な進歩をとげることができたのである。その世紀のおわり
までには、イングランドは重要な輸出国となっており、スウェーデンやスペインから質の高い鉄鉱石を輸入して
本国で採掘された石炭で溶鉱をおこなうことすらはじめていた。その産業が、たとえばウェールズ南部の海岸
ぞいに強固な根をおろしたのは、こうした理由によるものであった。
 炭鉱業もまた急速に発展した。新しい炭坑が、南ウェールズ、スコットランド、ランカシァおよびヨークシァに
開かれ、産出高は、1700年の260万トンから1790年の760万トンヘと増大し、さらに1795年には1,000万トンを
こえた。この産業もまたつねに資本家的であって、多くの貴族や大土地所有者がまた炭鉱所有者でもあったの
である。たとえば、運河の建設者として有名なブリッジウォタ公〔Francis.Egerton. 1736-1803。
マンチェスタ近くのワースリに大きな炭鉱を所有、その石炭を運ぶためマンチェスタまで運河を開さく〕は、
ワースリの炭坑夫からその賃金を大部分奪いとったトラック・システム〔労働者の生活必需品の売店を炭鉱主が
もち、労働者にそこから強制的に買わせる制度〕でもまた有名であったが、他方、ロンスデェイル家と
ロンドンデリイ家とは、炭坑夫を一種の農奴とみなす18世紀の慣習を共有していた。
 だが、石炭は、木材とくらべてひとつの深刻な欠点をもっていた。すなわち、後者が国中にうまく平等に分布
していたのに対して、石炭の層は、二~三の州に集中していたのである。この不便は、南ウェールズや中部
諸州のようないくつかの地方で、石炭の層と鉄の層とが隣あって見出されたという事実によって部分的にのみ
埋め合わされた。したがって、国内交通が18世紀のはじめと同じ原始的な状態にあるかぎり、石炭は木材の
有効な代替物とは決してなりえなかった。輸送の改良、とりわけ運河の建設に最初の刺激を与えたものは、
炭鉱業と重工業の開始だったのである。


17.
 1700年には、車による輸送が一年を通じて可能である道路はほとんど存在しなかった。比較的軽い
商品は馬の背にかけられる荷かごで運ばれたが、かさばる商品にとってはこうした輸送の費用ははなはだ
高価なものであった。マンチェスタからリヴァプールまでの石炭運賃は、1トン当り40シリングであった。
一段といい道路がいくつかの重要な中心のあいだに建設され終った当時でさえ、陸上輸送は依然として費用の
かかるものだったのである。1759年、ブリッジウォタ公は、ブリンドリイ〔James Brind-ley.1716―72。
運河建設者〕を雇ってワースリ炭坑とマンチェスタ間に11マイルの運河を開さくした。これはひじょうな成功を
おさめ、それが完成した時、マンチェスタにおける石炭価格はきっかりと半分にさがったほどであった。2年後、
その運河はランコーン〔メーズイ川河口、対岸にリヴァプールがある〕にまで延長されてマンチェスタを海に
つないだ。つぎのくわだては、この運河をトレント川と陶器製造業に結びつけることであったが、それは、
陶器製造業がデヴォンおよびコーンワルからの粘土やイースト・アングリアからの火打石のような重い材料を
必要としだからであり、さらにその生産物が、かさばると同時にもろくて道路輸送には適しなかったためであった。
グランド・ジャンクション運河が完成された時、輸送費用は4分の1に切りさげられ、陶器産業とチェシァの岩塩床
の採掘がともに巨大な増加をみたのであった。
 19世紀の大鉄道ブームに匹敵する定期的な運河建設熱がこの国を襲い、この国はたちまち水路網で
おおわれてしまった。
 4年間(1790-1794)だけで、81をくだらない運河建設のための議会制定法がえられた。イングランド国内は
全体として、これまで自分自身の必需品の大部分を生産し消費することをよぎなくされていたが、いまや商業に
対して開放されたのである。小麦・石炭・陶器およびミドランドの鉄製品には海までの道が用意されており、そして
とりわけ石炭はいまではその国のいかなる部分へも容易に輸送されることができた。たとえ道路の一般的改良が
18世紀の末と19世紀のはじめになしとげられたとしても、運河は、それらが40年または50年後に鉄道会社に
よって慎重に破壊されるまで、重く腐敗することのない商品の主要な配布手段でありつづけたのである。


18.
 道路は、それが通っている村々のおりおりの強制労働、すなわち教区公道監督官によってゆきあたり
ばったりなやり方で組織された労働による補修にまかされていたかぎりは、ほとんど改良されることはなかった。
18世紀のはじめに、この制度は主要な道路にそって通行税取立て門を建設することによって補われた。すなわち、
このようにして道路の維持費は、それを通る通行者によって支払われたのである。1745年のジャコバイト蜂起の
あと、いくつかの道路が軍事的な目的のために建設されたが、発展はなおひじょうに不均等であった。有能な有料
道路組合が存在していた所では、道路はいいのがふつうであった。2、3マイルも先に行って、もしそこの組合が
腐敗し無能であれば―そうしたことはこの時期には珍らしいことではなかったのだが―その道路はふつうそれに
照応して悪かった。さらに進むと、ふたたびそれはいまだ教区労働によって維持され、ほとんど通行不可能である
かもしれなかったのである。二流道路や側道は中世以来ほとんど変らなかった。

 19世紀のはじめ、すなわち駅馬車とマカダム〔John Loudon MacAdam. 1756-1836。
砕石を幾層にも敷き固めて路面とする方法を考案〕によってはじめられた科学的道路技術の時代になって、
はじめて一般的な改良がおこなわれたのであった。その後まもなく、道路の発展は、運河の発展と同じように
鉄道の出現によっておさえられ、自動車が一般に使用されるようになるまで、
それ以上の改良はほとんどなされなかった。
 今日の標準からすれば1800年頃の道路は悪かったにしても、それらは、前世紀のうちにずいぶんと
改良されていたのである。そして運河の方が商品の輸送にとってはいっそう重要であったけれども、いまや
グレート・ブリテンのあらゆる部分のあいだをつなぐことができるようになった交通の速度および容易さと
確立された規則的な郵便制度とは、製造業者をかれらの市場とより密接に接触させることによって、産業の
進歩に大きな刺激を与えたことは明瞭であった。

・・・  ・・・・   ・・・・・  ・・・・・



<コラム13> イングランド人民の歴史 
重商主義から産業革命へ(4)


 
(4) 第12章 産業革命 「 3. 織物工業


19. 羊毛工業の発展が15―16世紀に半ば資本家的な段階にいたっていたこと、すなわち織元がいて手工
労働者の事実上の雇用者として活躍していたことは、すでに概説された。われわれは、この発展が16世紀の
終り頃にはばまれたこと、すなわち機械の欠如と制限された市場と資本の不充分な蓄積とが結びついて真の
工場制と大量生産方法の成長とを妨げたことをみてきた。16世紀から18世紀まで、この工業は停滞的な状態
のままであり、あるていどまで成長はしたが、構造と組織の点で根本的に変化することはなかった。
 ある点で、実際には後進地域への移動の傾向があった。その工業の比較的古い中心であった
イースト・アングリアと西部は、織元の勢力がもっとも強い所で、停滞した状態がつづき、織布がより純粋に
家内工業的基盤のうえで新たにはじまったヨークシァのウェスト・ライディングでこそ、もっとも急速な進歩が
なされたのである。
これらの地域間の違いは、18世紀半ばのケイ〔John Kay. 1704-64〕 の飛抒に対する態度によって例示される。
飛抒は、あまり費用のかかるものではなかったため、独立自営の織布工の手のとどくものであったが、
イースト・アングリアにそれを導入しようという試みがなされた時、それは人びとから仕事を奪い、利益の
すべてが織元によって刈りとられる、という理由にもとづく激しい反対がおこった。ウェスト・ライディングでは、
家内工業的織布工はそれを喜んで迎えたのであるが、それというのも、それがかれらの収入をかなり増加
させたからである。
 それにもかかわらず、その工業の着実な成長、とりわけ輸出の着実な成長は、やがて確実にその効果を
あらわした。ジョ-ジフ・マッシ-〔Joseph Massie. ?-1784。イングランドの経済学者。
『自然利子率の主要原因について』(1750)で利子は利潤の分割部分であることをはじめて主張〕は、
1764年に書いたものの中でつぎのようにいっていた。すなわち毛織物の輸出は、チャールズ2世のもとでは 
「年額100万ポンドをあまりこえなかったが、1699年にはほとんど300万スターリングに達し、この巨大な額から、
時々の盛衰をともないながらも、わが羊毛工業製品の年輸出額は、近年の優に400万スターリングにしだいに
上昇してきたのである」と。ウェスト・ライディングは、この増加にかなりの寄与をなしていた。
製造された「広幅の毛織物」の反数は、1726年の26,671反から1750年の60,964反にはねあがり、同時に
反物の長さは、35ヤードからほとんど2倍の60ヤードになった。


20.
 羊毛工業における進歩はいちじるしいものではあったけれども、決定的な進歩がなされたのはそこではなく、
それよりも新しく、もっと集中的で、しかも最初からより資本家的であった木綿工業においてであった。それは、
かろうじて、しかもその中に危険な競争相手をみてとった有力な羊毛関係者との長い争いのあとで、はじめて
確立されたのである。すぐれた木綿製品がインドから輸入され、大衆のあいだにひろくゆきわたったが、
議会制定法は、1700年につぎのような理由でその輸入を禁止するにいたった。すなわち、その理由は、綿製品の
輸入は「財宝を枯渇させることによって、この王国に多大な損害を不可避的に与えるにちがいない……
国民の中の製造業者のたいへん多くが営んでいる人民の仕事を奪うことは、それぞれの教区の極度の重荷
となり、負担となるものである」ということであった。
 インド産綿織物の禁止は、国内での代替物の製造に刺激を与えた。もっとも、木綿の織糸が亜麻や毛の
縦糸なしに織られるほど充分に強くつくられるようになるまでには長い時間かかかったけれども。最初、新しい
工業は、しっと深い毛織物製造業者によって主張された諸制限によってかなり妨害されたが、綿織物の安価さ、
軽さ、新しさは、それらを売りやすいものにした。新しい工業は、人為的に移植され、外国から輸入される原料に
依存させられ、攻撃を打ちくだくための新しい方法を応用し、かつ採用しやすくし、技術的な諸困難を克服した
からこそ、まさにそのゆえに資本家的基盤のうえで発展し、しかも18世紀後半の諸発明によって利益をえた
最初のものとなったのである。
 それは最初からランカシァに中心をおいたが、そこには縦糸に必要な羊毛と木綿の織糸の紡績にふさわしい
湿潤な気候とがあったのである。すべての繊維工業と同様に、それは、紡績と織布というふたつの主要部分に
はっきりと分けられていた。後者は、前者よりもよく支払われ、いっそう繁栄していた。紡績は時間のかかる
労力を要する過程であって、紡績業者が織布業者にその労働対象たる織布を充分に供給することはつねに
困難なことであった。ケイの飛抒は、布が織られる速度を二倍にすることによって、そのふたつの部門間の均衡を
完全にめちゃめちゃにし、織糸の慢性的不足をつくりだし、紡績方法の改良を緊急な必要事としたのであった。

 1764年、ハーグリーブズ〔James Hargreaves.?―1778年〕という名のブラックバーンの一織布工が
ジェニー紡績機をつくった。2~3年後には、アークライトが木綿をより速かに紡ぐだけではなくよりすぐれた質の
織糸を生産する水力紡績機を発明し、その結果綿織物が毛や亜麻の混合なしに製造されるようになった。
クロムプタン〔Samuel Crompton.1753-1825〕のミュール紡績機は、これらふたつの機械の利点を結びつけた
ものであった。同じ頃、ホイットニイ〔Eli Whitney. 1765-1825。アメリカの繰綿機の発明者〕の繰綿機が、
綿の実からの加工対象たる綿繊維の分離を簡単化し、そうすることによって原料供給を増大させた。
アメリカ合衆国の綿花栽培諸州においては、プランテーション奴隷のばく大な増大があった。


21.
 織布と紡績のあいだの均衡はこのようにしてふたたびくずれたのであるが、今度は紡績に有利であった。
以後、一連の過剰補償的な技術的前進が各々の部門におこり、他方の進歩を刺激し、かくして永続的な
不均衡をつくりだした。カートライト〔Edmund Cartwright.1743-1823。牧師で力織機の発明者〕の力織機は、
10年の実験のあとでホラクス〔John Horrocks.1768-1804。綿紡績工場主。プレストンで鉄製力織機を建造〕
その他によって完成されたものであるが、もう一度織布業者をして紡績業者を追いこさせた。一方、他の典型的
な諸発明は、梳毛(そもう)およびキャリコの捺染(なつせん:プリント)に関するものであった。
 手織機や紡車の形態を改良しただけの飛抒やジェニー紡績機と異って、アークライトの水力紡績機とそれに
つづく諸機械は外部の力を必要とし、最初、それは水力でまかなわれた。このことは、必然的にそれらを家内
労働者の手のとどく範囲外におき、ただちに工場の建設にみちびいた。そこには、はじめは紡績工の、あとには
同じように織布工の集団が集められ、雇用者によって賃金を支払われて仕事をしたのであるが、その雇用者は、
加工される原料だけではなく、使用される諸々の道具とその仕事がおこなわれる場所をも所有していたのである。
 1788年までに、143のこのような水力紡績工場があった。ランカシァの豊かな水力は、工業と人口のそこへの
いっそうの集中をもたらした。1785年に、蒸気機関がはじめて紡績機械を動かすのに使用されると、それは、
それよりも御しにくく頼りにならない水力を嫌い、急速に駆逐した。大きな石炭埋蔵量の発見は工業を
ランカシァにとどめ、その世紀のおわりまでに、木綿工業資本家は「蒸気工場狂」となったのである。動力源と
しての蒸気の利用は、工業を、それがそれ以前には必要としていた河川への密接な依存から解き放った。
工場および町自体が、条件が好ましい所ならどこでも新しい場所に発生したのである。また、蒸気の利用は、
長く織物工業にかぎられていたわげではなかった。しばらくのあいだそれは鉱山から水を汲みだすのに使用され
ていたのであるが、いまやそれは、動力が必要とされるあらゆる産業の主要動力となりはじめたのである。
このことが、今度は炭鉱業と冶金工業に大きな新しい刺激を与え、さらに輸送体制への新しい要求を生みだした
のであって、この要求は、蒸気力自体を汽車や船に応用することによって満たされた。


22.
 1833年のエ場委員会のまえで、一証人は、これらの工場に吸収された種々の補充者についてつぎのように
述べていた。「きわめて多くの者が農業地帯からやってきました。すなわち、かなりがウェールズから、さらに
かなりの者がアイアランドとスコットランドからです。人びとは高い賃金をうるために、他の職業を去り紡績に
やってきたのです。わたくしは靴製造工がその仕事をやめて紡績を学んでいたのを思いだします。さらに
仕立職人が、炭坑夫が、同じようにしていたのを思いだします。しかし、それよりももっと多くの農夫がその仕事を
やめて紡績を学んでいました。その頃、織布工でその仕事をやめて紡績を学んでいた者はほとんどいません
でしたが、織布工は、かれらの子供たちを、かれらが織機につくことができたよりももっと早い年令で工場に
いれることができたので、かれらは、できるだけ速かに子供たちを工場にいれたのでした。」
 補給〔労働力〕の主要源泉は、きわめて明瞭であるように思われる。すなわち、児童労働やその職業を失い
つつあった手工業職人の労働、さらにイングランド人の支配によって餓死線にまで追いつめられたアイアランド
人の労働、そして、とりわけ囲い込みがイングランドの大部分を貧窮地域に変えたがそうした地域から逃れてくる
新しい農村プロレタリアートの労働、産業革命はそれらを基盤にしてはじめてもたらされたものなのである。
都市における工業労働者の諸条件と運命は、あとの章でとりあつかわれることになるであろう。

 ほぼ1790年頃までは、機械による生産は、ほとんど完全に木綿工業とランカシァにかぎられていた。それゆえ、
その影響は人口のうちの小部分にかぎられ、それが追放したよりもはるかに多くの人びとに仕事を提供した
のである。機械が毛織物工業に適用されはじめた時、影響を被らなかった州はほとんどひとつもなかった。
しかも、その衝撃は囲い込みが最高潮に達した時にやってきたので、その時にはすでに農村労働者は、
かれらの慣れた収入源の多くを奪われてしまっており、その結果は悲惨なものであった。多数の人びとが―
以前には決してそんなことはなかったのだが―完全に賃金に依存せざるをえなくたったことに気がついたまさに
その時に、物価は賃金よりもはるかに急速に騰貴しつつあったのである。手紡工と手織工とは、ともにかれらの
職業を奪われるか、あるいは機械との絶望的な競争に追いこまれたことを悟っだが、この競争は、家内工業が
最終的に消滅するまで、一世代以上もの長きにわたってつづく言語に絶する悲惨をもたらしたのであった。


23.
 1795年には、小麦が1クォーク当り75シリングで農業労働者の平均賃金はおそらく週8シリングであったが、
一成年男子とその家族は、なんらかの他の源泉からの補助がなければ、あきらかにそのような賃金で生存して
いくことはできなかった。労働者自身はもちろんそう考えていて、イングランドのほとんどすべての州で勃発した
飢餓暴動でそのことを表現した。この飢餓暴動はいちじるしく整然としていて、略奪はほとんどなく、それよりも
はるかに一般的であったことは、食物の貯えが差押えられ低い価格で販売されたことであった。この暴動は、
実際は、人びとが適当な水準と感じていたていどに価格を決める荒っぽいやり方だったのであるが、それにも
かかわらず、それ〔暴動〕はおどろくべきものであった。

 ふたつの可能な道が、価格を決める実際的な手段をもたない当局のまえに敷かれていた。ひとつは、
16世紀のすたれた法律を復活し、生活費にもとづいて賃率を決めることであった。もうひとつは、あきらかに
雇用者の観点からはもっと満足すべきものであったが、その率からはなれた賃金に補助金をだすことであった。
この政策は、バークシァの治安判事たちが1795年の5月6日にスピーナムランドでかの有名な会合をおこなう
まえに、すでに多くの地方で採用されていたのである。ここで、かれらは「すべての、貧しく、そして勤勉な
人びと」は、パンがガロン当り1シリングであるばあいに、かれ自身またはかれの家族の労働によってえられるか
貧民税からの給付であるかを問わず、生活維持費としてかれ自身のためには3シリングを、かれの家族の成員の
各々のためにはそれぞれ1シリング6ペンスを取得すべきである、と決定した。この給付はパンの価格とともに上昇
するはずであった。この定率制があまりにも一般的に採用されたために、バークシァの洽安判事たちの決定は
‟スピーナムランド法”として有名になり、法の効力をもつとひろく信じられたのである。
 その効果がただちに感じられたのは、18世紀の中頃には平均して約70万ポンドであって1790年に200万ポンドで
あった貧民税の支出が、1800年までにほとんど400万ポンドにのぼり、さらにそのあとに700万ポンドになった時で
あった。1810年と1834年のあいだで、それ600万ポンド以下にさがったのはわずか6年しかなかったのである。


24.
 18世紀を通じて、「貧民法」の制度は、人は自分が生まれた教区で救済をうける権利を与えられるので
あってそれ以外の所ではない、という原則にもとづいていた。実際には、このことは、すべての貧民が潜在的
被救済民とみなされていたこと、そしてかれらは将来のいつの日かその税のお世話になるかもしれぬという
疑いにもとづいて生まれた土地に追い帰されがちであったこと、を意味していた。このような制度は、18世紀の
静止的な文明と調和していたが、産業革命の特徴である大量移住という条件とはまったく調和しないものであった。
スピーナムランド制は、被救済民を、貧民税支払い者には費用のかかるものとしたが、雇用者階級には利益の
あるものとしたのであり、旧「貧民法」に致命的な打撃を与えたのであった。
 1720年頃、かなり広範な運動か労役場の建設をめざしてはじまった。多くの地方で、これは貧民税半減の結果を
まねいた。
1732年に出版された『グレート・ブリテン労役場物語』に多くの例とともに与えられているメイドストーンの例は、
残りを代表するだけの充分な特徴をそなえている。多くの貧民がいまなお労役場の外で扶養されていたこと、
それにもかかわらず貧民税が約1、000ポンドから530ポンドに減少したことなどを説明したあとで、それはつぎの
ように述べていた。「労役場の長所は、これ、すなわち貧民がかれらの週給付金に相当する額の半分以下の費用で
養われることにあるだけではなく、きわめて多くの怠惰な人民が、労役場の監禁と労働に服するというよりはむしろ、
仮面をかなぐり捨て、自分自身の勤労で自分の生活を維持することに満足する、という点に存する。そしてこのことは、
ここメイドストーンではひじょうにいちじるしかったので、わが労役場が完成され、週給付金を請求にきた者はすべて
そこへ送られるという公告がなされた時、名簿に登録されていた貧民の半分も給付を受けとりに監督官のもとへは
こなかった。わが町のすべての貧民が労役場で生活しなければならないとしても、わたくしはせいぜい年に
350ポンドもあればかれらを結構養っていけると信じている。」
 これらの労役場の収容者の大部分、とくに子供たちは、紡績、織布などの職業を教えられた。
これらの被救済徒弟がのちには大量にランカシァの工場に送られ、そこでかれらは、完全に無防備であった
ために、木綿工場主たちの理想的な人的材料を構成したのである。
かれらの待遇についての憤激こそ、やがて工場立法の出発点となるものであった。・・・・
 工場の成長は同様な結果を工業地域にもたらした。そこでは、賃金がしなしなひじょうに低いためにできるだけ
幼いうちに子供たちを仕事にだすことが必要だったのである。鬼界はまもなく成年男子がほとんど必要とされなく
なる点にまで発達し、かれらのあいだでの広範な失業に、しばしば婦人、とくに児童の過度労働と強烈な搾取が
ともなった。親たちは、かれらがその子供たちを工場に働きにだすのでなければ、救済を拒否される、というのが
まれではなかったのである。最初に他の職業から労働をひきつけた紡績での高賃金の期間は、ごく短期である
ことが明瞭となった。

 当時の特別な悲惨さは、工業生産と農業生産における変革に起因し、人工増加と高物価をともなうもので
あったが、外的なふたつの要因によって強められた。第一は、1789年から1802年までの時期が天候条件に
よるいちじるしくかつほとんどたえまのない不作の連続だったことである。そして第二は、産業革命の中心的な
時期―1793年から1815年まで―がこれまでにない規模でヨーロッパ戦争で占められていたことである。
ブリテンは、農業国としてこれらの戦争にはいり、工業国としてそこからでてきた、といってもほとんどいいすぎ
ではないであろう。


   ・・・以上、(4) 「 3 織物工業 」 ・・・
         
 (1) イングランドの農業 ( 第12章 産業革命 1 農業)