資本論のヘーゲル論理学(哲学)入門 3
第1部 『経済学批判』と『小論理学』の「Dasein」 の比較検討について
資本論ワールド編集委員会
私たちは、『資本論』とヘーゲル哲学の関係について、以下のテーマをもとに探索を重ねてきました。(「検索・文献資料」参照)
1. 『資本論』のヘーゲル哲学 レーニンの『哲学ノート』と「価値方程式」
2. 『資本論』第1章のヘーゲル哲学
ヘーゲル『自然哲学(有機体論)』、『論理学(小論理学、大論理学)』
3. ヘーゲル『精神現象学』感覚的確信、有機的なものの観察(有機的な成素)
本日は、資本論ワールド探検隊の皆さんと一緒に「ヘーゲル論理学」のうち、『小論理学』(『エンチクロペディ』の第1部「論理学」)を中心に
論理学の全体像について整理してゆきます。
そして、実際に『経済学批判』とヘーゲル論理学の比較検討を行ってゆきます。
これにより、具体的に『資本論』の論理学に活用されているヘーゲル論理学の学習への「手引き」を準備してゆきます。
これまでは、個々の課題毎についてヘーゲル論理学に集中してきました。「テーマ毎に区切られてかえって理解しにくい」との意見が
ありますので、部分的に重なってしまう個所も生じてきますが、ヘーゲルの論理学の全体的な概要を見たい、という趣旨をもとに報告を行います。
難解なヘーゲルの文章に加え、論理学自体が長文のため、解読にあたっては苦労も相当なものが予想されます。
しかし、『資本論』第1章のアルプス越えでは、最大の難関であるヘーゲル峠を踏破する以外に「手」はありません。
「学問の急峻な山路をよじ登るのに疲労こんぱいをいとわず、輝かしい絶頂をきわめる希望」をもって前進してゆきましょう。
本日の探索計画は、以下の通りです。
ヘーゲル著 『小論理学』の副読本として、鰺坂真著 『ヘーゲル論理学入門』 (鰺坂真ほか9名) 有斐閣新書を参照してゆきます。
副読本の特徴は、本書の「まえがき」より
1. ヘーゲル論理学の全体を、ただヘーゲルに忠実に再現するのではなく、そのなかから、主として合理的な側面に焦点をあて、
非合理な側面については、適宜その限界や欠陥をあきらかにする。
2. ヘーゲルのいおうとすることをヘーゲルの言葉で語る、といったたぐいの解説をさけ、それをなるべくふつうの言葉におきかえる。
3. できるかぎりヘーゲル特有の用語やいいまわしをやめ、必要やむをえないばあいには、その内容が本文の文脈のなかで理解できるように
配慮する。
以上のために、あるていど、論理上の不十分さや内容上の欠落がうまれたのは、さけられなかったことです。なお、ヘーゲルの用語、
引用文などについては、主としてヘーゲル『小論理学』(岩波文庫版)の訳語、訳文によりました。・・・以上「まえがき」より。・・・
このテキストは、10名の研究者の討議の上に作成され、読者が「つまづきやすい」論点についての気配りが良くなされています。
「入門書」として、「研究書」として皆さんで参照していただけるように期待しています。
なお、資本論ワールド編集委員会としては、前半第1部で、『小論理学』と『ヘーゲル論理学入門』の要約と抄録を行ないます。これをもとに
後半第2部で、『経済学批判』『資本論』の関連テーマについて、『小論理学』と併読しながら報告と解説を行います。したがって、これまでの
HP各月の「資本論入門」、「特集」にも説明が及んでゆきますが、一部では重複する個所もでてきます。復習のつもりで再読をお願いします。
それでは、ヘーゲル探検隊出発します。
目 次
1. 第1章 『ヘーゲル論理学入門』(有斐閣新書)要約と抄録
第1節 テキスト『ヘーゲル論理学入門』序章
第2節 有論の課題と構成
第3節 本質論の課題と構成
第4節 概念論の課題と構成
2. 第2章 『経済学批判』の論理学とヘーゲル『小論理学』(Dasein)について
第1節 『経済学批判』第1章のDasein (定有)の翻訳語について
第2節 ヘーゲル『小論理学』第1部 有論 「定有・Dasein」について
第3節 『経済学批判』と『小論理学』の「Dasein」の比較検討について
坂井事務局担当:
本日の事務局を担当します坂井です。ヘーゲルは率直にいって苦手で、さっぱり分かりません。編集委員会で「お断わり」したのですが、
「さっぱり分からない」人が、「進行役として一番適任」とのワケの分からない理由で押し切られてしまいました。ご迷惑をおかけしますが、
よろしくご指導をお願いします。
レポート担当の小川です。
今月もよろしくお願いします。早速、報告形式についてご案内します。
1. 『小論理学』は、3部構成(第1部有論、第2部本質論、第3部概念論)となっていますが、まず全体像をとらえる観点から、
テキスト『ヘーゲル論理学入門』のうち、「各部の総論解説」を先に抄録報告を行います。
また、「各部の総論解説」の間、各部の末尾にヘーゲル『小論理学』の抄録を挿入してあります。
2. 次に、『経済学批判』の中から、『小論理学』の有論では「定有」、本質論では「区別・差別・相等性」、概念論では「普遍・特殊・個(個別)」の
関連用語について探求します。ヘーゲル論理学が適用され、応用されている実地体験を行ってゆきます。
これは、その後の『資本論』の論理学への入門編の位置づけとなります。
3. 最後に、ヘーゲルとマルクスの関連性について、各部ごとに討論形式でお願いする予定です。
『資本論』同様ヘーゲル論理学も大変込み入っていますが、気張っていきますので、お付き合いをお願いします。
なお、今回も哲学担当の近藤さんにご協力をいただきますので、よろしくお願いします。
では、本題に入ります。
第1部 『経済学批判』と『小論理学』の「Dasein」 の比較検討について
・・・テキスト『ヘーゲル論理学入門』と『小論理学』の要約と抄録について・・・
第1章 『ヘーゲル論理学入門』要約と抄録
目次
第1部 有論
1 有、 1. 質 2. 定有 3. 向自有
2 量、 1. 純量 2. 定量 3. 度
3 限度、
第2部 本質論
4 本質、 1. 本質そのもの 2. 現存在 3. 物
5 現象、 1. 現象の世界 2. 内容と形式 3. 相関
6 現実性、 1. 現実性そのもの 2. 絶対相関
第3部 概念論
7 主観的概念、 1. 概念 2. 判断 3. 推理
8 客観、 1. 機械的関係 2. 化学的関係 3. 目的的関係
9 理念、 1. 生命 2. 認識 3. 絶対理念
第1節 テキスト『ヘーゲル論理学入門』 序章 (要約)
1. ヘーゲルは、歴史とともにあゆむ現実的な精神のあり方を探求して、論理学そのものがもっと現実的なものでなければならないという
見地にたちました。現実的なもののもっとも普遍的な諸規定、諸法則をとりあつかうものです。しかも、それら思考の諸規定の全体を、
抽象的なものから具体的なものへと、必然的に展開しようとするものです。
2. 事物そのものがなんであり、どういう運動をしているのかを認識するためには、認識をすすめるわたしたちの思考について、それがどういう
はたらきをしているのかをふりかえってみなければなりません。わたしたちをとりまく現実のなかにある問題、生活のうえでぶつかる問題を、
そのあるがままにみつめて把握できる理論的な眼が、養われなければなりません。科学研究とは、それぞれの科学の対象の運動法則を
認識することですが、そのためには、科学の方法がきたえられなければならないのです。人類は事物の内容についての認識を深めてくるなかで、
同時に人間の認識活動そのものについての自覚をもつようになってきました。事物の本性をとらえるためには、それをとらえる認識の形式が
あらためて検討されなければならなくなったわけです。
3. ヘーゲルの論理学は『精神現象学』を前提としています。『精神現象学』では、感覚的確信から出発して、知覚・悟性・自己意識・理性・精神と、
だんだんより高い意識の形態へと進み、最後に意識と対象の完全な一致、対象の意識と自己意識の一致という、絶対知に到達します。
そして、論理学はここから出発します。だから、論理学の立場は、はじめから、主観と客観が一致している立場です。
第2節 有論の課題と構成
(テキスト『ヘーゲル論理学入門』より)
1. 有論では「有」つまり「あるということ」とはどういうことかを論ずるところからヘーゲルは筆をおこしています。ヘーゲルの『論理学』は客観的な
事物そのものの運動法則の学であるところに最大の特質があります。したがってかれの『論理学』じたいのなかにも認識論、認識史の性格が
浸透していて、つまり認識論と結合した論理学という特質をもっています。
2. ヘーゲルは論理的カテゴリーのうち最初のもっとも抽象的なカテゴリーである「有」を出発点にとりました。「有」(あるということ)は、
客観的世界のすべてのもの、自然、歴史、意識のあらゆる現象において、もっとも基本的なもっとも直接的な事実です。
まずわれわれの意識にとって直接的なもの、すなわち感覚的事実・データという意味をもっています。有や質・量というカテゴリーは世界が
われわれにたいして直接的に最初にあらわれるすがたを論理化したものです。
3. ヘーゲルはこのような有とか質とか量とかいった直接的なカテゴリーを論理学の出発点において、感覚的認識からしだいに内的な本質の
認識へとすすむ科学的認識のすじみちをしめそうとしています。第1部「有論」は論理学の導入部となっていることはいうまでもありませんが、
同時にそれは論理学全体を圧縮したひな型でもあるという性格をもっています。
4. この有論も質と量と限度という3つの論理的カテゴリーを論じた部分にわかれており、そのうちの最初のカテゴリーである質を論じた部分が、
また有論全体を圧縮したひな型としての性格をもたされています。
有論の第一の段階である「質」においては、第一に有と無の弁証法つまり成について語ります。これはものごとが生成・流転するという側面の
論理化です。第二に或るものと他のものとの弁証法つまり連関についてのべています。これは定有の面です。第三に、有限者と無限者の
弁証法つまり変転のなかで自己にとどまるもの、あるいは他者へいって自己にとどまるもの(向自有)、の運動についてのべます。
5. 第二の段階である「量」においては「止揚された質」としての量が論じられています。ここでは認識過程における質一般の捨象という抽象化の
段階が論じられているとみることができます。
この段階は質的認識よりはよりすすんだ段階です。量論は「純量」と「定量」と「度」にわかれています。
6. 第三の段階である「限度」においては、質と量との統一である限度(あるいは質量)が論じられています。
現実のうちにはたんなる質もなければたんなる量も存在せず、すべては質と量との統一として存在するわけですが、
限度の段階はそのような現実の具体的認識に一歩ちかづいた段階です。・・・ 以上、『ヘーゲル論理学入門』より ・・・
7. 次に、ヘーゲル『小論理学』(岩波文庫)第1部有論を参照します。
()内の数字は、『小論理学』の節区分の数字を示しています。
(84) 有(Sein)は即自的にすぎぬ概念(Begriff)である。その諸規定(Bestimmungen)は有的であって、それらが区別されている場合には互いに
他のものへの移行(Übergehen in Anderes)である。この進展は、即自的に存在する概念の不断の開示したがってその不断の展開であり、
と同時に、有が自己のうちへはいって行くこと(Insichgehen)、すなわち有が自分自身のうちへ深まっていくことである。
有の領域における概念の開示は、一方では有の全体を展開するとともに、他方ではこれによって有の直接性(Unmittelbarkeit)
言いかえれば有そのものの形式を揚棄する(aufheben)。
(85:補遺) 論理的理念のどの領域も、さまざまの規定から成る一つの体系的な全体(Totalität)であり、絶対的なものの一表現である。
有もまたそうであって、それはそのうちに質(Qualität)、量(Quantitä)、および限度(Mass)という三つの段階を含んでいる。
質とはまず有と同一の規定性(Bestimmtheit)であり、或るものがその質を失えば、或るものは現にそれがあるところのものでなくなる。
量はこれに反して有にとって外的な、無関係な規定性である。例えば、家は大きくても小さくてもやはり家であり、
赤は淡くても濃くてもやはり赤である。
有の第三の段階である限度は、最初の二つの段階の統一、質的な量である。すべての物はそれに固有の限度を持っている。
詳しく言えば、すべての物は量的に規定されており、それがどれだけの大きさを持つかは、それにとって無関係であるが、
と同時にしかしこの無関係にも限度があって、それ以上の増減によってこの限界が踏み越えられると、物はそれがあったところのものでなくなる。
限度から理念の第二の主要領域である本質(Wesen)への進展が生じる。
第3節 本質論の課題と構成
(テキスト『ヘーゲル論理学入門』より)
1. 有論では、いっさいのものは、一から他へと変化してやまないまったくの一時的な個々別々のものとしてあって、この変化と有限性の諸形態が
分析されました。しかし、いっさいが変化の過程にあるということはなお一面の真理でしかありません。というのは、この変化のうちにあるものは、
さまざまな仕方で他に媒介され規定されたものとしてあって、この変化していくものの根拠としてのものがしめされなくてはならないからです。
2. 本質論の課題は、変化する多様なものの根拠となり、基礎としてあるものを、それが媒介するものとの区別と連関において
分析することにあります。
一般にわたしたちの認識が発展してゆくにつれて、事物の有としての諸形態は事物のしめすたんなる表面上のすがたでしかないものとなり、
事物そのものうちに変化することのない一つの自己同一的なものがもとめられることとなります。これを事物の本質といいます。
3. 「本質」では、まず最初に、事物の有的な諸事象が、この本質を根拠にしてなりたっている、特殊な現象形態にすぎないものとしてしめされます。
そしてこのことを前提にしつつ、この本質のもつ、同一、区別、根拠というもっとも抽象的・一般的な規定について分析され、ついで、
事物そのものが他の事物から相対的に独立した一つの物としてのすがたにおいて分析されます。
4. これにたいして、「現象」では、いっさいのものはこの世界のうちに現存するものとしては、すべて他の現存するものとの相互作用的な
諸連関のうちにあって、この連関に媒介されてある、非自立的な現象としてとらえられます。したがってここでは、事物の有としての諸形態を
規定し、なりたたせているその根拠としてのものも、事物それ自身のうちにではなくて、異なった事物間のうちにあるものとしてとらえられ、
この事物間の区別と連関の総体としての現象の世界が、ここでの分析の直接の対象となります。
ヘーゲルは、この現象の世界を、まず形式と内容という二つの側面の統一としての、一般的な形態においてしめし、ついで全体と部分、
力とその発現、内と外という異なった諸規定のあいだの区別と連関において分析しています。
5. ついで、「現実性」では、事物は、本質と現象の統一として、より具体的・現実的なすがたにおいて再構成されます。したがってここでは、
事物は、わたしたちの感覚の直接の対象としての個々のこのものとしてあると同時に、内的・外的な諸連関のからみあいのなかにあって、
いまここにあるべくしてあるところの、一個の必然的なものとしてあるのです。ですから、ここでの分析のおもな対象となるのは、このいっさいの
現実的なものをつらぬき支配している、必然性とその諸形態であり、ヘーゲルはこの必然性を、まず、可能性と現実性との統一としてとらえ、
ついで、実体と偶有、原因と結果、能動的実体と受動的実体という異なった規定の相互連関において分析しています。
6. こうして、この本質論では、事物の有的な諸形態を媒介し、規定しているものの、その異なった諸形態について分析されます。ところが、
ここでは、媒介するものは、あくまでも媒介されるものを前提として存在している、ひとつの相対的なものでしかありません。有の根拠としての
本質は、事物の有的な諸形態をはなれてあるわけではありませんし、事物間の連関は、事物そのものの存在を前提としています。また、
必然性も、個々の現実的なものの存在なしにはありえないのです。これにたいして、他に制約されることのない絶対の独立性をもち、
それ自身で運動し変化していくもの、それがヘーゲルのいう概念ですが、この概念の分析は、つぎの概念論でおこなわれます。
・・・ (テキスト『ヘーゲル論理学入門』より) ・・・
7. 次に、ヘーゲル『小論理学』(岩波文庫) 第1部 本質論 を参照します。
(112) 本質(Wesen)は媒介的に定立された概念(gedetzter Begriff)としての概念である。その諸規定は本質においては相関的であるにすぎず、
まだ端的に自己のうちへ反省したものとして存在していない。したがって概念はまだ向自(Fürsich)として存在していない。
本質は、自分自身の否定性を通じて自己を自己へ媒介する有であるから、他のものへ関係することによってのみ、
自分自身へ関係するものである。
もっとも、この他者そのものが有的なものとしてではなく、定立され媒介されたものとして存在している。-有は消失していない。
本質はまず、単純な自己関係として有である。しかし他方では、有は、直接的なものであるという一面的な規定からすれば、単に否定的なもの、
すなわち、仮象(Schein:うわべ、仮の形)へひきさげられている。-したがって本質は、自分自身のうちでの
反照(Scheinen:照り返し、ある物事の影響が具体的な形で他のものの上に現われること-goo辞書)としての有である。
(112補遺) 有を本質との関係においては単なる仮象とみる。しかしこの仮象は全く無いもの、無ではなく、揚棄されたものとしての有である。
-本質の立場は一般にReflexion(反省)の立場である。Reflexionという言葉はまず、光が直進して鏡面にあたり、
そしてそこから投げ返される場合、光にかんしては用いられる。したがってここには二つのものがある。
すなわち、一つは直接なもの、有的なものであり、もう一つは媒介されたものである。
(113) 本質における自己関係(Beziehung-auf-sich)は、同一性(Identiät)、自己内反省(Reflexion-insich)という形式である。
これは有の直接性(Unmittelbarkeit)に代わってあらわれたものであって、両者はいずれも自己関係という抽象である。
第4節 概念論の課題と構成
(テキスト『ヘーゲル論理学入門』より)
1. 有論では事物の「他者への移行」の諸形式、つまり事物の変化の弁証法が考察され、本質論では事物の「他者への反省」の諸形式、
つまり事物相互の連関の弁証法が考察されました。概念論は有論と本質論の統一ですが、その意味はつぎの点にあります。
2. 概念論の考察するものは、一つには、事物の発展です。有論でのように、たんに自分を否定して他者に変化するのでなく、
他者に変化しながら自分自身であることをやめない事物のありかた、すなわち自己発展です。発展とはいわば、自分から自分をうみだす
事物の自己産出のありかたです。そしてその発展の原動力をなすものが、ヘーゲルのいう事物の概念、主体、生命、等々にほかなりません。
3. 概念論の考察するものは、いま一つには、事物の統一です。本質論でのように、ものとものが、あるいはものの内部の諸要素が、
ただたがいに自立した他者として連関しあうのではなく、それらを一つに統一する生きた全体としての事物のありかた、
すなわち有機的統一です。諸要素は相互に自立性や他者性をとりさられ、一つの事物、一つの有機的全体の諸モメントとして
とらえなおされます。その統一の原動力をなすものが、またヘーゲルのいう事物の概念、主体、生命、等々なのです。
4. 概念論の主要課題は、この概念、主体、生命の考察にありますが、それは同時に、事物一般の発展と統一の弁証法をあきらかに
することです。こうして概念論は、発展と統一の弁証法のうちに変化と連関の弁証法の成果をとりこみ、それを再構成しながら、
新しい概念の展開をこころみるのです。
5. ヘーゲルはまず、第7章「主観的概念」で概念・判断・推理を考察します。この三つのカテゴリーは、いずれも古い形式論理学の素材から
なりたっていて、いわば形式論理学の原理論に相当する内容が、このなかに全部おさまっています。ヘーゲルはそのなかで、一方では、形式
論理学の体系的批判を展開し、他方では、その骨化した古い素材に生命を点火して、それを生きた概念を展開する新しい諸形式にかえます。
「主観的概念」が最後にとらえるものは、有機的統一の概念です。
6. つぎにヘーゲルは、第8章「客観」において、まだ主観的形式にすぎない有機的統一の概念に、こんどは客観的な内容をあたえます。
それが三つのカテゴリー、機械的関係・化学的関係・目的的関係です。ヘーゲルによると客観の世界は、(1)ものが相互に自立しあい、
その結合がたんに外面的にすぎない「機械的関係」の側面、(2)ものが相互に補完しあって一つの全体になろうとしながら、まだそれぞれに
自立性の面をのこす「化学的関係」の側面、(3)ものが相互に自立性を完全に止揚して一つの全体になりきる「目的的関係」の側面、
からなりたっています。これらは自然や社会をふくむ世界の全体を規定する諸関係ですが、(1)の完全なあらわれは自然の力学的現象であり、
(3)の完全なあらわれは人間の合目的活動です。(2)はその中間にあって、磁気や電気などの物理現象から、化学や生物や社会の諸現象にも
ひろくみられます。そしてヘーゲルは、これらの諸側面を、有機的統一の概念がしだいに具体化し現実化する客観的過程としてえがきます。
7. 最後に、第9章「理念」は、生命・認識・絶対理念からなっています。事物の真相を有機性と発展性とみたヘーゲルは、それを生命という独特な
カテゴリーで表現したのですが、最初の「生命」は、主観的概念と客観との統一、いわば魂と肉体の合体した具体的な生命の総括です。
つぎの「認識」は、そうした生命が形式論理学的な分析的方法ではとらえられないことをあきらかにし、その認識方法の意義と限界を概括します。
最後の「絶対理念」は。事物の具体的な生命の完全で全面的な認識の方法、つまり弁証法的方法の内容を、それとして純粋に考察します。
最終章「理念」は、論理学の全過程、全体系の総括です。
8. 次にヘーゲル『小論理学』(岩波文庫) 第1部 概念論 を参照します。
(160) 概念(Begriff)は向自的に存在する実体的な力として、自由なものである。そして概念はまた体系的な全体(Totalität)であって、
概念のうちではその諸モメントの各々は、概念がそうであるような全体をなしており、概念との不可分の統一として定立されている。
したがって概念は、自己同一のうちにありながら、即自かつ対自的に規定されているものである。
(161) 概念の進展は、もはや移行でもなければ、他者への反照でもなく、発展(Entwicklung)である。
なぜなら、概念においては、区別されているものが、そのまま同時に相互および全体と同一なものとして定立されており、
規定性は全体的な概念の自由な存在としてあるからである。
(161補遺) 他者への移行は有の領域における弁証法的過程であり、他者への反照は本質の領域における弁証法的過程である。
概念の運動は、これに反して、発展である。発展は、すでに潜在していたものを顕在させるにすぎない。
自然においては、概念の段階に相当するものは、有機的生命である。かくして例えば、植物は胚から発展する。
胚はそのうちにすでに植物全体を含んでいる。といっても、それは観念的に含んでいるのであって、したがってその発展は、
植物の諸部分である根や茎や葉などが、非常に小さい形でではあるが実在的に、胚のうちに存在している、という風に解されてはならない。
・・・・概念がその過程において自分自身のもとにとどまり、仮定は内容上なんらの新しいものをも定立せず、
ただ形式上の変化をひき起こすにすぎないということである。
第2章 『経済学批判』の論理学とヘーゲル『小論理学』について
『経済学批判』第1章では、ヘーゲル論理学の用語がキーワードとして活用されています。
この第2章では 第1節で、ヘーゲル『小論理学』 第1部 「有論」の「定有Dasein」と「質Qualität」に注目していきます。
また、第2節は、第2部「本質論」の、「同一性、差別、区別、相等性」について研究してゆきます。
第3節は、第3部「概念論」、「A主観的概念論」の「普遍・特殊・個(個別)」を取り上げてゆきます。
これらの検討を通じて、『経済学批判』で使用されている用語がどのようにヘーゲル論理学と関連しているのか、探求してゆきます。
今回の主なキーワードは以下の通りです。
*数字は、『経済学批判』(新潮社版向坂訳)の初出段落数字を示しています。
*なお『小論理学』の「定有(Dasein)」に相当する訳語について、
『経済学批判』向坂訳は以下のように、文脈ごとに違った訳語を採用しています。
岩波書店版武田隆夫ほか訳、大月書店版杉本俊朗訳では「定在」と翻訳されています。
『経済学批判』に登場する「ヘーゲル論理学の用語」として、
・ 存在 *第1、29段落 (ダーザインDasein:ヘーゲル論理学の「定有」)
・ 固有性 *第2段落 (Dasein:「定有」)
・ 正体 *第7段落 (Dasein:「定有」)
・ 姿、物 *第32段落 (Dasein:「定有」)
・ 体現 *第32段落 (Dasein:「定有」)
・ 形態規定 *第3段落 (Formbestimmung:「形式規定」)
・ 量的な比率 *第4段落 (quantitative Verhälinis:「量的比例」)
・ ちがい *第7段落 (Verschiedenheit:「差別」)
・ 相違 *第7段落 (Unterschied:「区別」)
・ 等一性 *第11段落 (Gleichheit:「相等性」)
・ 一般的 *第12段落 (allgemeine:「普遍的」)
第1節 『経済学批判』とヘーゲル『小論理学』 第1部有論 「定有Dasein」 について
第1節 『経済学批判』第1章のDasein(定有)の翻訳語について
1. 『経済学批判』のドイツ語原本で使用されている「Dasein」は、日常的には「存在、生存、あるもの」などの言葉です。
ヘーゲルの論理学では、特別の基礎的概念を表示するもので、日本語では一般的に「定有」と翻訳されている用語です。
哲学用語の解説・『ヘーゲル用語事典』「定有」では、
「「成」は生成・消滅する不安定な状態を示すが、「定有」はその流動状態がやみ、一定の安定した規定性をもって存在する状態を
意味する。・・・定有のもつ規定性は、<質(Qualität)>呼ばれる。定有していることは、まさに一定の質をもって存在している
〔あるものとして存在している〕 ことにほかならない。・・・
実際に定有しているものは<或るもの(Etwas)>といわれ、その外に存在する別の或るものは <他のもの(他者Anderes)>と
呼ばれる。・・或るものは時間の過程のなかでは、いつかは他のものへと変化していく。
じつは<変化(Veränderung)>とは、語源的にいうと、「他になること」に他ならない。」
2. では『経済学批判』で、「Dasein」が実際にどのような使われ方をしているか、現地を訪ねてみましょう。
*注 : 文末の()内の数字は『経済学批判』第1章の段落数を示す。
*『経済学批判』第1章の本文は、-資本論入門7月号を参照してください。
① 市民社会の富は、巨大な商品集積であり、個々の商品はこの富の成素的「存在Dasein」 であることを示している。(1)
② 使用価値であるという商品の「固有性Dasein」 とその手でつかみうる自然的な存在(Existenz)とは一致する。(2)
③ 定量をどうして測るかが問題となる。あるいはむしろかの労働そのものの量的な「正体Dasein」はどういうものであるかが問題となる。・・・
労働時間は、労働の生きた「正体Dasein」である。(7)
④ 商品は、お互いのための交換価値としても存在しなければならない。商品のこの「存在の仕方Dasein」は、それら自身のおたがいの
関係として現わるべきものである。(29)
⑤ すべての商品がその交換価値を特別な商品で測るために、この除外された商品は、交換価値の適合した「姿Dasein」、
すなわちこれを一般的等価そして表わす「物Dasein」となる。(32)
⑥ 交換過程では、すべての商品が、商品一般としての排他的商品に、すなわち、ある特別の使用価値に一般的労働時間を「体現Dasein」
している商品に関係するのである。(32)
ダーザイン、 ダーザイン、 ダーザイン、 ダーザイン、 ダーザイン
『経済学批判』向坂訳では、「固有性」、「正体」、「存在の仕方」、「姿」、「体現」の具合に
「定有Dasein」 を文脈に応じて訳語の使い分け-振り仮名・「ダーザイン」のルビ-を行っています。
これらの訳語に相当するドイツ語「Daseinダーザイン」が、ヘーゲルの論理学であることは明示または解説はされていません。
ですから、日本語に翻訳された用語からヘーゲル『小論理学』や『大論理学』との関連を予測することはかなり困難であると言えます。
そこで私たちの課題として、『経済学批判』の「Dasein」の訳語と『小論理学』の「定有・Dasein」と比較検討をこれから行ってみましょう。
第2節 ヘーゲル『小論理学』第1部有論 「定有・Dasein」について
「」内の数字は『小論理学』の「節区分」の表題数字によっています。
1. 「88補遺」 (成Werdenについて)
成は最初の具体的な思想、したがって最初の概念であり、これに反して有と無とは空虚な抽象物である。もしわれわれが有の概念に
ついて語るとすれば有の概念とはすなわち成であることにほかならない。というのは、有は有としては空虚な無であり、無としては空虚な
有であるからである。したがってわれわれは有のうちに無を持ち、無のうちに有を持っている。そして無のうちにあって自己を維持している
有が成である。われわれは成という統一のうちで区別を棄ててはならない。成とは、有の真の姿が定立されたものにすぎないのである。
2. 成は最初の具体的な思惟規定であるから、同時に最初の真実な思惟規定である。哲学の歴史において論理的理念の段階に対応するものは、
ヘラクレイトスの体系である。ヘラクレイトスが「すべては流れる」と言うとき、これによって成があらゆる存在の根本規定であることが言い
あらわされている。
3. b 「定有・Dasein」 について
「89」 成のうちにある、無と同一のものとしての有、および有と同一のものとしての無は、消滅するものにすぎない。
成は自己内の矛盾によってくずれ、有と無が揚棄されている統一となる。かくてその成果は定有である。・・・
(1) 定有はそのうちで有および無の直接性が消滅し、関係によって両者の矛盾が消滅しているような、有と無の統一、そのうちで両者が
モメント〔契機〕であるにすぎないような統一である。
(2) この成果は揚棄された矛盾であるから、それは自己との単純な統一という形式のうちにあり、言いかえれば、それ自身一つの有、
と言っても否定性あるいは限定性を持つ有である。それは、成のモメントの一つである有の形式のうちに定立されている成である。
4. 〔つぎに、定有から質の規定に移り、或るものが出現してきます。そして、Ⓐ或るものはかならず他の多くのものとともに存在します。〕
「90」 定有とは、直接的な、あるいは有的な規定性-すなわち質(Qualität)-としてあるような規定性(Bestimmtheit)を持つ有である。
このような自己の規定性のうちで自己のうちへ反省したもの(in sich reflektiert)としての定有が、定有するもの(Daseiendes)、
或るもの(Etwas)である。
「90補遺」 質は有と同一な、直接的な規定性であって、―或るものが現にあるところのものであるのは、その質によってであり、或るものが
その質を失うとき、それは現にあるものでなくなる。更に質は本質的にただ有限なもののカテゴリーであり、それゆえにまた精神の世界ではなくて
自然のうちにのみ、その本来の場所を持っている。かくして自然において、酸素、窒素、等々、いわゆる単純物質は現存する質と考えられる。
「91」 質は、有るところの規定性としては-実在性(Realität)である。否定性はもはや抽象的な無ではなく、一つの定有および或るものとして、
或るものの形式にすぎない。すなわち、それは他在(Anderssein;異なっていること)としてある。この他在は質そのものの規定であるけれども、
最初は質から区別されているから、質は向他有(Sein-für-anderes)としてあり、これが定有、或るものの幅をなしている。
このような他者への関係に対して、質の有そのものは即自有(An-sich-sein)である。
5. 〔定有が規定性を持つことにより、否定の規定が出現します。
そしてⒷ「或るものは他のものではない」という否定のかたちで、他のものが前提となります。〕
「91補遺」 あらゆる規定性の基礎は否定である(スピノザが言っているように、あらゆる規定は否定である)。
「92」 定有においては規定性は有と一体をなしており、この規定性が同時に否定として定立される場合、それが限界(Grenze)、
制限(Schranke)である。したがって他在は定有の外にあって定有と無関係なものではなく、定有そのもののモメントである。或るものは
その質によって第一に有限(endlich)であり、第二に可変的(veränderlich)であって、或るものの有には有限性と可変性とが属する。
「93」 或るものは他のものになる。しかし他のものは、それ自身一つの或るものである。したがってこれも同じく一つの他のものになる。
かくして限りなく続いていく。
「95」 ここに実際見出されることは、或るものが他のものになり、そしてこの他のものが一般にまた他のものになるということである。
或るものは、他のものとの関係のうちで、それ自身すでにこの他のものにたいして一つの他のものである。したがって両者は他のものである
という同一の規定を持つにすぎず、或るものが移っていくところのものは、移っていく或るものと全く同じものであるから、
或るものは他のものへ移っていくことによって、ただ自分自身と合するのである。・・・このようにして有が否定の否定として復活させられる。
この有が向自有(Fürsuchsein)である。
6. 〔向自有、自分自身への関係として一者が出現し、一者各々の関係は、諸々の一が関係することになります。
そしてⒸあらゆるものが相互に連関しあうことになります。〕
「96」 (イ)向自有は、自分自身への関係として直接性であり、否定的なものの自分自身への関係としては向自有するもの、
すなわち一者(das Eins)である。一者は自分自身のうちに区別を含まないもの、したがって他者を自己から排除するものである。
「97」 (ロ)否定的なものものが自己へ関係するということは、否定的に関係するということであり、したがってこれは一者が自己を
自己自ら区別すること、一者の反発、すなわち多くの一者の定立である。
「98」 (ハ)しかし多くのものは互いに同じものである。各々は一であり、あるいはまた多のうちで一である。したがってそれらは一にして
同じものである。反発そのものをみれば、それは、多くの一が互いに否定的な態度をとるのであるから、同時にそれらが本質的に関係する
ことでもある。そして一がその反発において関係するものは、諸々の一であるから、一は、それらのうちで自分自身に関係するのである。
したがって、反発は同時に本質的に牽引(Attraktion)である。かくして排他的な一あるいは向自有は揚棄される。一のうちでその即自かつ
対自的な規定態に達した質的規定性は、これによって揚棄された規定性としての規定性へ移ったのである。
言いかえれば、量としての有へ移ったのである。
「98補遺2」・・・本節で考察した質の弁証法がこの揚棄をもたらすのである。われわれは最初に有を持ち、その真理として成が生じた。
成は定有への過渡をなし、定有の真理は変化であった。変化の成果としてあらわれたものは、他者への関係および移行を免れた向自有で
あった。最後に、この向自有は、その過程の二つの側面をなす反発および牽引のうちで、それがそれ自身の揚棄であること、したがって質一般、
質の諸モメント全体の揚棄であることを示した。この揚棄された質はしかし、抽象的な無でもなければ、同様に抽象的で無規定な有でもなく、
規定性に無関心な有にすぎない。われわれの普通の意識のうちに量としてあらわれるものも、こうした有の姿である。
したがってわれわれはまず事物を質の見地から考察し、そして質を事物の有と同一な規定性とみる。次に量を考察するにいたると、
われわれはすぐに、事物はその量が変化して、より大きくなろうとまたより小さくなろうと、あくまでもとのままであるという無関心で外的な
規定性の表象を持つようになる。
〔Ⓓ質を“存在”の次元(トマス・アクィナスの“存在論”など)で把握した場合、有と同一規定性が出現し、“量”の概念が出現します。
A質QualitätからB量Quantitätへと移ってゆきます。〕
第3節 『経済学批判』と『小論理学』の「Dasein」 の比較検討について
私たちは以上のように(Ⅱ)『小論理学』の「定有Dasein」の概念は、「変化と他者への関係」(『小論理学』)の論理が含まれていることが
理解できました。これにより、『経済学批判』の向坂訳を通して、ヘーゲル論理学との整合性について、検討可能な課題を伺い知ることができます。
さて、ここでは『経済学批判』の「ダーザインDasein」と振り仮名(ルビ)で示された用語を参考にしながら、『小論理学』の「定有」概念と比較して
みましょう。
Ⅰ・2・「①商品は富の成素的存在elementarisches Dasein」
『資本論』冒頭では、「成素形態Elementarform」 ですが、『経済学批判』では第1章全体に対する構成要素として「存在Dasein」の位置づけを
行っていることが推測されます。
-アリストテレスの『形而上学』 参照・第5巻第3章の「事物のストイケイオン(ギリシャ語・構成要素)」 に相当する
ラテン語訳elementum(複数elementa)、HP翻訳問題の「成素形態」参照-
Ⅰ・2・「②使用価値という商品の固有性Dasein」
「①成素的存在Dasein」の現実的な出発点として、「存在Dasein」は、「固有性」である商品の使用価値が、その属性内容として
「自然的な存在とは一致する<質>」として定義-「定有の規定性」-されています。
次に
Ⅰ・2・③ 個々の使用価値が交換価値の担い手として、交換価値の実体をなす労働で表現されるとき、労働時間は、
労働の生きた「正体Dasein」となります。
ここの「正体Dasein」は、「定有の規定性(『小論理学』)」である②「固有性Dasein」から変化しています。商品の固有性であった使用価値は、
交換価値の量的比率と関係することによって、-もともと構成要素(成素的存在)であった「存在Dasein」は、今度は交換価値の量的比率の
構成要素-労働時間-となります。
このようなものとして、労働の生きた「正体Dasein」の担い手として「存在Dasein」が労働時間の*役割を演じることになります。
この*役割を演じる概念に関して、9月特集『資本論』フェティシズムとキリスト教神学・第2部ペルソナ概念の歴史的形成を参照して下さい。
Ⅰ・2・④ 商品は、交換過程の内部では〔お互いのための〕使用価値として存在している。しかし商品存在の条件として、
「商品は交換過程の内部では、お互いのための交換価値としても存在しなければならない(29段落)」。
「そして、商品のこの“存在の仕方・ダーザイン”は、それら自身のお互いの関係として現わるべきものである。」
商品の固有性であった使用価値は、交換価値としても存在しなければならなくなった。
<注:固有性(広辞苑:ある物に本来そなわっている性質。ある物にそなわり、その物の本質的な在り方を規定しているもの。本質的属性。)>
固有性として本質的属性であった存在が二重化されるという、この矛盾(本質的属性の否定)の解決が、商品存在に課せられることになりました。
商品の“存在の仕方・ダーザイン”は、この新たな課題に対応しなければなりません。
*『小論理学』の「定有」の概念の中には、
「97」「否定的なものが自己へ関係することは、否定的に関係することであり、・・・一者が多くの一者の定立である。」
「98」「それらは一にして同じものである」〔→固有性が揚棄されることになる〕」、「或るものが他のものになるという質的規定性は、
揚棄された規定性 としての規定性へ移ったのである。言いかえれば、量としての有へ移ったのである」
固有性として使用価値のままで、「量としての有」へ移行をはたさなくてはなりません。
商品は、この課題にどのように対処するのでしょうか。
「商品の使用価値自身が、量的存在である交換価値(等価)である」という商品の“存在の仕方”を実現することによって、
解決なければならないことになります。すなわち、一般的等価として貨幣形態の存在が予定されてゆきます。
Ⅰ・2・⑤ すべての商品がその交換価値を特別な商品で測るために、この除外された商品は、交換価値の適合した「姿Dasein」、
すなわちこれを一般的等価として表わす「物Dasein」となる。(32)
Ⅰ・2・⑥ 交換過程では、すべての商品が、商品一般としての排他的商品に、すなわち、ある特別の使用価値に一般的労働時間を
「体現Dasein」 している商品 〔貨幣形態〕 に関係するのである。(32)
以上のようにして、④商品のこの“存在の仕方・ダーザイン”は、⑤交換価値の適合した「姿Dasein」、一般的等価を表わす「物Dasein」となり、
⑥一般的労働時間を「体現Dasein」した商品となってゆく概念を獲得することになります。
『経済学批判』と『小論理学』の「Dasein」 の比較検討の終わりにあたって、最後に『小論理学』「98補遺」をもう一度振り返ってみましょう。
「本節に述べた質から量への移りゆきは、われわれの普通の意識には見出されない。普通の意識にとっては、質と量とは、相並んで独立に
存立している二つの規定にすぎない。したがってわれわれは、事物は質的にだけでなく、また量的にも規定されていると言い、それらがどこから
由来し、また相互にどんな関係を持つかを進んで問題にすることはしない。しかし量は揚棄された質以外の何ものでもなく、
本節で考察した質の弁証法がこの揚棄をもたらすのである。
われわれは最初に有を持ち、その真理として成が生じた。成は定有への過渡をなし、定有の真理は変化であった。変化の成果としてあらわれた
ものは、他者への関係および移行を免れた向自有であった。最後に、この向自有は、その過程の二つの側面をなす反発および牽引のうちで、
それがそれ自身の揚棄であること、したがって質一般、質の諸モメント全体の揚棄であることを示した。この揚棄された質はしかし、抽象的な無
でもなければ、同様に抽象的で無規定な有でもなく、規定性に無関心な有にすぎない。われわれの普通の意識のうちに量としてあらわれる
ものも、こうした有の姿である。」
・・・・以上、第1部 第1節 『経済学批判』とヘーゲル『小論理学』 第1部有論 「定有Dasein」 について 終わり・・・・