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資本論ワールド・シリーズ 労働者階級の世界史 Ⅰ
     
     
     第1回
 資本主義と労働者の誕生


                                    (『資本論』第7編第24章いわゆる本源的蓄積) 



1) 貨幣と商品が、最初から資本でないことは、生産手段と生活手段が、初めからそうでないのと同じである。これらのものは、資本への転化を必要とする。しかし、この転化そのものは、一定の諸事情のもとでのみ行なわれうるものであって、それらの事情は、要するに次ぎのことに帰着する。すなわち、一方には、その有する価値額を、他人の労働力の購入によって増殖することを必要とする貨幣、生産手段、生活手段の所有者、他方には、自分の労働力の販売者であり、したがって、労働の販売者である自由な労働者であるという二つの非常に異なった種類の商品所有者が、相対して接触せねばならない、という事情がこれである。自由な労働者というのは、奴隷、農奴等のように、彼ら自身が直接に生産手段の一部であるのでもなく、自営農民等におけるように、生産手段が彼らに属するものでもないという、二重の意味においてであって、彼らは、むしろ生産手段から自由であり、離れ、解かれているのである。この商品市場の両極分化とともに、資本主義的生産の基礎条件は、与えられている。

資本関係は、労働者と労働の実現諸条件の所有との分離を前提する。資本主義的生産が、ひとたび自己の足をもって立つようになると、それはかの分離を維持するのみではなく、たえず増大する規模で、それを再生産する。したがって、資本関係を創り出す過程は、労働者を労働諸条件の所有から、分離する過程、すなわち、一方では、社会の生活手段と生産手段を資本に、他方では、直接生産者を賃金労働者に転化する過程、以外のものではありえない。したがって、いわゆる本源的蓄積は、生産者と生産手段との歴史的分離過程にほかならない。それが「本源的」として現われるのは、資本と資本に対応する生産様式との前史をなすものだからである。


 
2) 賃金労働者とともに、資本家を産み出す発展の出発点は、労働者の隷属だった。この進展は、この隷属の形態転換に、封建的搾取の資本主義的搾取への転化に、あった。この転化の行程を理解するためには、それほど遠く遡る必要はない。資本主義的生産の最初の萌芽は、すでに14世紀および15世紀に、地中海沿岸の2、3の都市で、散在的に見られるとはいえ、資本主義的生産が始まるのは、ようやく16世紀からである。この時代が出現するところでは、農奴制の廃止は、すでに実現され、中世の頂点である独立都市の存立も、久しくその実を失っているのである。



3) 本源的蓄積の歴史で歴史的に画期的なものは、形成されつつある資本家階級に槓杆として役立つ変革すべてがそれであるが、なかにも、人間の大群が、突如暴力的にその生計手段から引き離されて、無保護のプロレタリアとして労働市場に投げ出される瞬間は、ことにそうである。農業生産者からの、農民からの土地収奪は、全過程の基礎をなす。この収奪の歴史は、国によって異なる色彩をとり、順序を異にし、歴史的時代を異にして、異なる諸段階を通過する。
 それが典型的な形態をとるのは、イギリスのみであり、われわれがイギリスを例にとるものそのためである。



4) 産業資本家の生成は、借地農業者のそれのように、漸次的に進行したのではなかった。多くの貧弱などツンフト親方と、さらに多くの独立小手工業者が、あるいは賃金労働者さえも、小資本家となり、そして賃金労働搾取の漸次的拡大と、それに対応する蓄積とによって、資本家らしい資本家となったことは疑いない。中世都市の幼年期には、逃亡した農奴中の誰が主人となり、誰が下僕となるかは、大体において、彼らの逃亡の時日の早いか遅いかによって決定されたが、資本主義的生産の幼年期にも、しばしば事態は同様だった。しかし、この方法のかたつむりのような歩みは、15世紀末の諸大発見によって創り出された、新たな世界市場の商業的要求に、応ずるものでは決してなかった。



5) 新たなマニュファクチャー工場手工業が輸出海港に、あるいは旧来の都市とそのツンフト制度の統制の外にある、田舎の諸地点に起こされた。かくして、イギリスでは、これらの新たな工業培養場にたいする、諸特権都市の激しい闘争を生じたのである。

6) アメリカにおける金銀産地の発見、原住民の、掃滅、奴隷化、鉱山内への埋没、東インドの征服と掠奪との開始、アフリカの商業的黒人狩猟場への転化、これらのものによって、資本主義的生産時代の曙光が現われる。これらの牧歌的過程は、本源的蓄積の主要要素である。地球を舞台とするヨーロッパ諸国民の商業戦がこれに続く。それはスペインからニューデルランドが離脱することによって開始され、イギリスの反ジャコバン戦争において巨大な規模をとり、シナにたいする阿片戦争等においてなお続行される。



7) いまや本源的蓄積の種々の契機は、多かれ少なかれ時間的順序をもって、ことにスペイン、ポルトガル、オランダ、フランス、イギリスのあいだに、分配される。イギリスでは、それらが17世紀末には植民制度、国債制度、近代的租税制度および保護貿易制度において、体系的に総括される。これらの方法は、一部はもっとも狂暴な強力に基づいて行なわれる。たとえば、植民制度の如きはそれである。しかし、封建的生産様式の資本主義的生産様式への転化過程を、温室的に促進して過渡期間を短縮するためには、いずれの方法も、社会の集中され組織された強力である国家権力を利用する。強力は、新しい社会をはらむ、すべての古い社会の助産婦である。それ自体が一つの経済的な力なのである。

8) 周知のように、イギリス東インド会社は、東インドにおける政治的支配権のほかに、茶貿易ならびにシナ貿易一般と、ヨーロッパとのあいだの貨物輸送の排他的独占権を、与えられていた。しかし、インドの沿岸航海および島嶼間航海と、インド内地の商業とは、会社の高級職員の独占となった。塩、阿片、キンマその他の商品の独占は、富の無尽蔵の鉱山だった。 土着民の取扱いは、西インドのように輸出貿易のみに予定された栽培植民地において、また、メキシコや東インドのように涼奪殺戮に委されている富裕で人口稠密な国において、当然もっとも狂暴を極めた。とはいえ、本来の植民地においても、本源的蓄積のキリスト教的性格は、否定されなかった。かの謹厳な新教の先達、ニュー・イングランドの清教徒は、1703年には、彼らの州議会の決議によって、インディアンの頭蓋皮一枚および捕虜一人につき、40ポンドの賞金を懸け、1720年には、頭蓋皮一枚に100ポンドの賞金。


 
9) 植民制度は、商業と航海を温室的に育成した。「独占会社」は、資本蓄積の強力な槓杆だった。成長するマニュファクチャー・工場手工業に、植民地は販売市場を保証し、市場独占によって強められた蓄積を保証した。ヨーロッパの外で、直接に掠奪、奴隷化、強盗殺人によって分捕られた財宝は、母国に流れ帰って、そこで資本に転化された。植民制度を充分に展開した最初の国オランダは、1648年には、すでにその商業勢力の頂点に達していた。それは「東インド貿易および、ヨーロッパの南西部と北東部とのあいだの交易を、ほとんど独占的にもっていた。その漁業、海運、工場手工業は、他のいずれの国のそれをも凌駕していた。この共和国の資本は、おそらく残余のヨーロッパ全体のそれよりも大きかった」。ギューリヒは、オランダの民衆が、1648年には、すでに残余のヨーロッパ全体の民数よりも、いっそう甚だしい過度労働と貧窮と苛酷な抑圧との下にあったことを、付言するのを忘れている。

10) 今日では、産業覇権は商業覇権を伴う。これに反し、本来の工場手工業時代にあっては、産業上の優勢を与えるものは、商業覇権である。それゆえにこそ、当時植民制度の演じた役割の優位がある。

11) 公信用制度、すなわち国債制度の起源を、われわれはジェノヴァとヴェネツィアでは、すでに中世に見出すのであるが、それは工場手工業時代に、全ヨーロッパも普及した。植民制度は、その海上貿易とその商業戦をもって、国債制度の温室として役立った。かくてそれはまずオランダで確立された。国債、すなわち国家―専制国であれ、立憲国であれ、共和国であれ―の売却は、資本主義時代に、その極印を捺す。いわゆる国民的富のうちで、現実に近代諸国民の総有に入る唯一の部分は―彼らの国債である。したがって、一国民は債務を負えば負うほど、富裕になるという近代的教説は、全く当然のものである。

公信用は資本の信条となる。そして国債制度の発生とともに、赦されることのない聖霊にたいする罪にかわって、国債にたいるす不信が現われる。



12) マニュファクチャー・工場手工業時代における資本主義的生産の発展につれて、ヨーロッパの世論は、羞恥心や良心の最後の残片をも失ってしまった。諸国民は、資本蓄積の手段のであるあらゆる非行を、厚顔に自慢した。たとえば、正直者A・アンダースンの素朴な商業年代記を読まれよ。そこでは、イギリスが、従来アフリカとイギリス領西インドとのあいだでのみ営んでいた黒人貿易を、今後はアフリカとスペイン領アメリカとのあいだでも営みうるという特権を、ユトレヒトの講和で〔1713年〕 アシェント協約によりスペイン人からもぎ取ったことは、イギリス国策の勝利であるとして吹聴される。イギリスは、1743年まで、年々8400人の黒人をスペイン領アメリカに供給する権利を得た。これは同時に、イギリスの密貿易を公認のものに見せかける仮面を与えた。リヴァプールは、奴隷貿易の基礎の上に大きく成長した。奴隷貿易は、本源的蓄積のリヴァプール的方法である。そして今日に至るまで、リヴァプールの「声望」が、「商業的企業精神を情熱にまで高め、りっぱな海員を育て、莫大な貨幣をもたらす」―奴隷貿易のピンダロスにあることは変わらなかった。リヴァプールが奴隷貿易に使用した船は、1730年には15隻、1751年には53隻、1760年には74隻、1770年には96隻、1792年には132隻だった。
    (『資本論』第7編第24章いわゆる本源的蓄積)

   
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