文献資料
デカルト 『精神指導の規則』
規則 第4、第6、第14 野田又男訳 岩波書店 1974年改訳発行
→デカルト関連資料:比例関係の発展と方程式論 2023.02
→デカルトとマルクス/商品の物神性と価値方程式
資本論ワールド編集部 はじめに
1. デカルトの知名度は大変大きいのですが、最近では話題の上ることはほとんどありません。そのため、古代ギリシャから近代にいたる科学ー数学思想が「デカルト革命」を画期として、新しい時代が開拓された“歴史”は、専門的な数学史研究者の間でしか流通していません。
2. 『資本論』の “価値方程式” は、ヘーゲル論理学「比例論」が土台となっています。そのヘーゲルは、デカルトの機械論自然学を敬遠していますので、ヘーゲル学者の間でも「デカルト革命」を題材とした研究書はあまり見当たりません。その影響もあって、
“価値方程式” がデカルト「普遍数学」の一翼を担っている科学思想の展開過程は、不明のまま残されています。
デカルトの「比例と方程式」は、『資本論』科学思想の源流を明らかにする課題に応えたものです。
『精神指導の規則』は、「デカルト革命」誕生の扉を開く歴史上の一大イベントでした。
3. デカルト翻訳者の野田又男(1910-2004)は、「発見の方法」で、次のように解説しています。
「そこで代数が分析であるということの意味は、・・・すなわち第一に、未知量を導入し、解答が与えられたものと仮定して出発するという手続き、簡単にいえば方程式をたてることそのことが分析なのである。・・・代数学に、分析の課題を与えるものは「自然」である。・・・幾何学に代数を応用することがただちに自然研究を分析的に行なうことを意味した。それゆえ「代数」を「分析」と名づける理由は、たんに数学の領域のみにあったのでなくてむしろそれが自然研究にはたらく数量的分析なる点に存する。つまり「代数」は自然研究の「方法」である。」
4. 普遍数学 ・・・規則第4・・・
「何ら特殊な質料に関わりなく、順序と計量的関係とについて求められうるすべてのことを、説明するところの或る一般的な学問がなければならぬこと。かつそれは外来の名を以ってでなくすでに古くから慣用されている名を以って、普遍数学(Mathesis universalis)と呼ばるべきであること―というのはその他の学問が数学の部分とよばれるときその理由となっているすべての事柄は、それに含まれているからである―。」 (p.30)
5. 比例すなわち関係 ・・・規則第6・・・
「事物の比例すなわち関係(proportio sive habitudo)について提起されうるあらゆる問題が、いかなる構造を内に蔵しているか、またいかなる順序に従ってこれらの問題は探究さるべきであるか、を。そしてただこれだけのことの中に、純粋数学の核心全体が含まれているのである。」(p.40)
6. 比例をも単純化して、
未知のものが或る既知のものに等しいことを見出そう ・・・規則第14・・・
「延長をもつ対象について論ずる。・・・われわれは、すべての問題をおしつめて行って、求めるところがもはや、或る延長をば他の既知の延長をば他の延長との比較によって認識することよりほかにない、という点にまで至ったものと想定する。実際、ここでわれわれは何らあらたな存在の認識を期待してはおらず、ただいかに複雑な比例をも単純化して、未知のものが或る既知のものに等しいことを見出そうと欲するもにであるから、他の主体の中に存在する比例のすべての差異が、二つまたはそれ以上の延長の間にもまた、見出されうること、確実である。従ってわれわれの目的のためには、延長そのものにおいて、比例の差異の解明を助けるすべての事柄を、考察すれば足りる。そしてそれはただ3つのものとして示される。すなわち、次元(dimensio)、単位(unitas)、及び図形(figura)。 」(p.113)
・・・~ ・・・~ ・・・~ ・・・~ ・・・~ ・・・~
『精神指導の規則』
野田又男訳 岩波書店 1974年改訳発行
Ⅰ. 『精神指導の規則』 「規則第4」 p.29
1. こうした考えが私を導いて、数論や幾何学の特殊な研究から、数学の一般的な研究へと戻らせた。
そこで私はまず第一に、数学という名にすべての人は正確には何を意味せしめているか、またなにゆえに、上述の二つの学問のみならず星学・音楽・光学・力学その他多くの学問が、数学(Mathematica)の部分であるといわれるか、を探ねた。実際、この点についてはこの語の起原を考察するだけでは充分でないのである。というのは数学(Mathesis)なる語はただ学問(disciplina)というだけの意味である以上、他の学問も幾何学自身と同じく数学(Mathematica)と呼ばれる権利をもつからである。
2. しかし一方われわれの見るところ、ほんの少しでも学問をしたことのある人ならほとんど誰でも、示される事物のどれが数学に属しどれが他の学問に属するかをたやすく区別するのである。そしてこの点をさらに注意深く考察するなら人はついに次のことに気づくであろう、すなわち、順序(ordo)或いは計量的関係(mensura)の研究せられるすべての事物しかもただそれのみが、数学に関係し、かつそういう計量的関係が、数において或いは図形において或いは星において或いは音においてまたその他のいかなる対象において、求ぬられるかは、問題でない、ということ。
従って何ら特殊な質料に関わりなく、順序と計量的関係とについて求められうるすべてのことを、説明するところの或る一般的な学問がなければならぬこと。かつそれは外来の名を以ってでなくすでに古くから慣川されている名を以って、普遍数学(Mathesis universalis)と呼ばるべきであること―というのはその他の学問が数学の部分とよばれるときその理由となっているすべての事柄は、それに含まれているからである―。(p.30)
3. さてこの学問が、それに従属せる他の学問に、有用さにおいても容易さにおいても、いかに立ちまさっているかは、この学問が、他の学問の適用せられるすべての事物及びなお他の多くの事物にも適用せられ、またそれが含む困難はやはり他の学問の中にも存する上に、なお後者には、その特殊な対象に由来せる、前者のもたぬ困難が含まれている、ということからして、明らかである。さて、数学という名は誰でも知っており、かつそれが何を論ずるかは、特に研究せずとも、誰にでも分るとすると、いったいどういうわけで、数学に依存する他の学問をたいていの人が骨折って探求しているにもかかわらず、数学そのものの学習を誰も願みない、ということが起こるのか。もし数学が万人によって最も容易なものと考えられていることを私が知らず、そしてまた、人間精神が常に、みずから容易に成し遂げうると思うことを捨てて、直ちに新たな高遠なものへと急ぐものとなることを、私が以前から気づいていたのでないならば、私はきっと上のことに驚いたであろう。
けれども私は自分の弱さを自覚しているゆえ、事物の認識を求めるに当っては、常に最も単純最も容易なものからはじめて、もはやそこにこれ以上望むべきことが残っていないと思われるまでは、決して他へ移り行かぬ、という順序を固く守ることに決めた。このゆえに私は今まで、かの普遍数字をば、私の能力の及びえた限り、研究してきた。それで今度は、早まった熱意のゆえでなしに、もう少し高い学問に携わりうる、と思っている。
・・・・・以下、省略・・・
Ⅱ. 『精神指導の規則』 「規則第6」 p.35
〔事物の系列ー比例論の構成〕
最も単純な事物を複雑な事物から区別しかつ順序正しく探求するためには、若干の真理を他の真理から直接的に演繹して成り立ったところの、事物の系列の一つ一つについて、何が最も単純であるか、どんなふうに他のすべてのものがこの単純者から、或いはより多く、或いはより少なく、或いは等しく、隔たっているかを、観察すべきである。
〔比例論の基底にある単純な本質―Element〕
1. さてこのことを正しく為しうるために、第一に注意すべきは、すべての事物が、われらの目的に対して有用でありうる程度に応じて、或いは絶対的(absolutum)、或いは相対的(respectivum)と呼ばれうることである。ただしこの際われわれは事物の本質を個々別々に考察するのでなく、一を他から認識するため事物を相互に比較するのである。
絶対的と私が呼ぶのは、今問題になっている純粋な単純な本質を自己の中に含むところのものである。例えば、独立的、原囚、単純、普遍、一、相等、類似、垂直、その他同様なもの。しかして私はそれを、あらゆるものの中で最も単純最も容易なものと呼ぶ。人々が問題を解くにそれを用いるように、というわけである。
2. これに反し、相対的なものとは、かの本質そのものを分有し、或いは少なくともそれの幾分かを分有し、よって以って絶対者に関係づけられかつ或る系列によって絶対者から演繹せられうるもの、であるが、なおその上にそれは、私が関係(respectus)と呼ぶものをみすからの概念の中に含んでいる。すなわち相対的なものとは、依存的、結果、複合的、個別的、多、不等、不同、斜め、等といわれるすべての事物である。これら相対的なものは、上にいったような関係―これらの関係自身がまた相互に従属関係にある―を、より多く含めば含むだけ、絶対的なものから隔たっている。そして上の規則がわれらに教えるのは、これらすべてを区別しこれら相互の間の結合及び自然的順序を守るべきこと、かくて最後のものから出発しつつ最も絶対的なものへと、他のすべてを経て達することができるということ、である。〔*注1〕
〔*注1〕 「最後のもの」とは感覚的実在、あるいは最終的成果物として把握されるもののこと。
3. しかして、すべての事物において、最高度に絶対的なものを、注意深く看取するところにこそ、全方法の秘密が存する。
事実、或るものは或る見地からすれば他より一層絶対的であるが、見方をかえればかえって一層相対的である。例えば、普遍的なものは、個別的なものよりも、一層単純な本質をもつゆえに、一層絶対的であるが、しかしそれは、存在するためには個物に依存するがゆえに、また一層相対的であるともいうことができる、等。同様にして或るものは時として実際他よりも絶対的であるが、決してすべての中で最も絶対的とはいえない。例えば、個物を考察する時、種は或る絶対的なものであるが、類を考察する時は、種は或る相対的なものである。
〔事物の系列を考察することー比例概念-の重要性〕
→アリストテレスの「実体」(第一実体、第二実体)定義との対比を参照する・・・
出 隆 『アリストテレス哲学入門』 第3章 第一哲学(岩波書店1972年発行)
http://www.marx2016.com/bk_arisutoteres_daiititetugaku.html
4. 可量的なものの中では、延長は或る絶対的なものであるが、延長の中では長さが絶対的である、等。同様にして最後に、ここでは認識すべき事物の系列を考察するのであって一々の本質を考察するのではない所以を一層よくわれらが理解するようにとの考えから、上にはわざと、原囚及び相等をば、絶対的なものに数えておいた、しかしそれらのものの本質はまさしく相対的なのである。
事実哲学者たちは原因と結果とが相関的なものであると考えているのである。けれどもいまもし結果がいかなるものなるかを探れるとすれば、まず原囚を認識すべきであって、逆ではいけないのである。また相等しいものは、なるほど相互に対応するものではあるが、しかしわれらが不等なものを認識するには、相等しいものとの比較によらねばならないのであって逆は不可なのである、その他。
〔 デカルトの系列-元素・原子論の歴史では、「周期律」を参照 〕
5. 第二に注意すべきは、純粋な単純な本質―それは何にも先立ってかつそれ自身によって、他のいかなるものにも依存せずに、或いは経験そのものにおいて或いはわが内に宿れる或る光明によって、直観せられうる―の数は、厳密にいえば、ごく少ない、ということである。しかして上述のごとくわれわれはこれらを細心に観察せねばならない。というのは、それこそ、われわれが各々の系列において最も単純なものと呼ぶところなのであるから。これに反して、他のすべてのものは、上の単純者から演繹されるのでなくては、覚知せられない。しかも或る場合には直接に接近して、或る揚合には二つまたは三つまたは多くの異なった推論を通じて、演繹されるのである。かつこの推論の数をもまた注意せねばならぬ。そうして始めて、それらの複合物が、第一の最も単純な命題から、或いはより多い段階によって隔てられているか或いはより少ない段階によってか、をわれわれは知るのである。そしてどの場合でも推論の連鎖なるものは、かかるものであって、この連鎖からして、探究すべき事物の系列が生れるのであり、またかような系列にこそ、すべての問題を―確実な方法によりそれを吟味しえんがためには―還元すべきなのである。しかしながら、これら系列をすべて一々吟味することは容易でなく、なおまたそれらは記憶に留むべきであるよりもむしろ精神の或る種の鋭敏さによって識別すべきものなのであるから、必要とあればいつでも直ちにそれらを看取するように精神を陶冶するため、何らかの手段を求めねばならない。それには―私みすがらの経験によるに―以前に覚知した何かきわめて些細な事柄を、一種の洞察力を以って反省する習慣をつけることが、実際最も適切である。
6. 最後に、第三に、注意すべきことは、研究をば困難な事物の探究から始むべきではなく、何か限定された問題に手をつける準備をする前に、おのずから現われる真理をまず手当り次第に集め、後漸を追うて、それから他のものが演繹されうるかどうか、さらにまたこのものからして他のものが演繹されるかどうか、を次々に見て行くべきことである。そしてそれが終った後、見出された真理を注意深く反省し、かつ、なにゆえ或る真理が他よりも先にまた容易に発見されえたか、それはいったい如何なるものであるかを、細心に考究すべきである。さすればわれわれはまた、いざ何か限定された問題に手をつけようとする場合、他のどういう研究にまず向かうのが有利であるかを、判断しうるであろう。
例えば6という数が3の2倍であることを想い浮べたとすれば、私は次に6の2倍すなわち12を求めるであろう。そしてまだ興味があればさらにこれの2倍すなわち24を、さらにその2倍すなわち48を、そして以下同様に、求めるであろう。そしてここから容易に、同じ比が3と6との間にも、6と12との間にも存すること、同じく12と24との間等々に存すること、従って数3,6,12,24,48等は連比をなすことを、演繹するであろう。実にこのことからして私は、たとえこれらすべてがきわめて明瞭でほとんど子供じみて見えるにもせよ、注意深い反省によって次のことを理解するのである、すなわち、事物の比例すなわち関係(proportio sive habitudo)について提起されうるあらゆる問題が、いかなる構造を内に蔵しているか、またいかなる順序に従ってこれらの問題は探究さるべきであるか、を。そしてただこれだけのことの中に、純粋数学の核心全体が含まれているのである。(p.40)
・・・・ 編集部の挿入部 ・・・・ ・・・・ ・・・・
〔 連比と比例式(比例方程式) 〕 → 価値方程式のはじまり・・・
★連比と比例式の解き方は簡単・・・
連比 A : B = 5:2、 B:C = 3:8 のとき、A : B : C は?
→共通部分Bを同値にする→B×B=2×3=6、
→ A×3、C×2、 ∴ A : B : C は 15:6:16
比例式 4 : a = 5 : 15
・・・ a =12 比例式の計算方法「内側のかけ算=外側のかけ算」
→4×15=60、 a ×5=5a、 60=5a a =12
・・・・ ・・・・ ・・・・ ・・・・ ・・・・
〔 ・・・7. 以下は、読解が難しい、参考までに・・・・〕
7. 何故ならば、私の第一に認めるところ、6の2倍を見出すことが3の2倍を見出すことより難かしかったということはなく、従って、同様にしてすべての場合に、どれか二つの量の間の比が見出されたならば、互いに同じ比を有する他の無数の組を示すことができるのである。かつ、3とか4とか或いは同様なさらに大なる数が問題にせられても、困難の性質は変らない。というのはそれらは、一々別々に、少しも他との関係なく、発見さるべきものだからである。次に私の認めるのは、二つの量3と6とが与えられた場合、連比をなせる第三の量すなわち12を、私はなるほど容易に見出すであろうが、しかし両端の項すなわち3と12とが与えられた場合、中項すなわち6は、同様に容易には見出されえない、ということである。このことの理由を考察する者には、ここに前とは全く異なる他の種類の困難があること、明かであろう。なぜなら、比例中項を発見するには、同時に両端項及びこれら両項の比に注意し、そしてこの比に除法〔*訳者注: ここの除法は、「開平」のこと 〕を施すことによって、新たな比を獲得せねばならないのであり、これは、二量が与えられてこれと連比をなす第三の量を発見するためにわれらの為さればならぬところとは、全く異なるからである。
さて私はさらに進んで吟味する、3と24なる量が与えられた場合、二つの比例中項すなわち6と12のいずれか一つが、前と同様に容易に発見されうるであろうかどうか。そしてここにまた、さきのものよりなお複雑な、他の種類の困難が現われるのである。実にこの場合は、ただ一つまたは二つのもののみならず、三つの異なるものに同時に注意して、第四のものを見出さればならぬからである。なおさらに進んで検してみることができる、3と48のみが与えられた場合、三つの比例中項すなわち6、12、及び24の中の一つを見出すことは、一層困難であろうかと。これは一見したところ実際そう思われる。けれども直ちに、この困難が分割され減ぜられうることが分るのである。すなわち、まず、3と48との間にただ一つの比例中項のみを、すなわち12を、求める。次に3と12との間にある他の比例中項すなわち6と、12と48との間にあるものすなわち24とを、求める。かくすれば、すでに説明した困難の第二の類に、帰せられるのである。
8. なおこれらすべてのことから私は、同一の事物の認識が相異なる途によって求められえ、しかもその途の一つが他より遥かに困難かつ不明である、ということがいかにして起こるかをも、看取する。連比をなせる次の四数、3,6,12,24を見出すのに、もしその中の相隣れる二数、すなわち3と6、或いは6と12、或いは12と24が与えられていて、これから残りの数を見出せというのならば、それはきわめて容易にできるであろう。この場合われらは、見出すべき命題が「直接的に吟味される」(directe
examinari)といおう。けれどももし一つ置きにとった二数、すなわち3と12、或いは6と24が与えられて、これから残りの数を見出せというのならば、この場合われらは、困難が「第一次的に間接的に吟味される」(examinari
indirecte primo modo)と呼ぶであろう。
同様にしてもし両端項、すなわち2と24が与えられて、これから中間項6と12とが求められるならば、この場合困難は「第二次的に間接的に吟味される」(examinari indirecte secondo modo )であろう。そしてかようにして私はなおも進んで、このただ一つの例から多くの他のものを演繹することができるであろう。けれどももうこれだけで読者は、或る命題が直接的に演繹されるとか間接的に演繹されるとかいう時私か何を意味するか、を看取し、かつまた、人が注意深く反省し明敏に探究するなら、最も容易で基本的な事物の認識からして、多くの事物が、他の学問においても、発見されうるということを、悟るであろう。
・・・以下、省略・・・