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 文献資料 『資本論』の相関図(1)

       
『資本論』とヘーゲルの小論理学 (1)



  「小論理学」 相関関係-現象と相関

 ~ 
ヘーゲル論理学の「相関」の関係(相関関係図)について ~




  資本論ワールド 編集部

  『資本論』の相関関係 と ヘーゲル「小論理学」 について

  
1. 『資本論』の相関図について (1)
  マルクスによる
ヘーゲルに特有の表現法は、『資本論』 第1章第1節から始まります。古典派経済学と西洋科学史の伝統を踏襲し、歴史的に、論理的に」再構成を行っています。
  『資本論』の論理構成は、次の3点に集約的に表現されています。
 ① 古典派経済学を批判的に継承し、西洋科学史の伝統に沿う形式で叙述しています。
 ② ヘーゲル論理学(『エンチュクロペディ』)の基本用語体系を採用しながら、弁証法的・唯物論的に改変を行っています。
 ③ 19世紀後半に到達した科学概念に準拠し、
経済用語の策定は、『資本論』各章の叙述の進展に応じて確定してゆきます。

 以上を相関図的に表わすと『資本論』の体系が見やすくなります。

  
参考例: ヘーゲル遠望ー『資本論』 経済学批判  総集編   
  「
資本主義的生産様式 〔 kapitalistische Produktionsweise:資本制生産の方法〕 の支配的である *1 社会の富は、「 *2 巨大なる商品集積 〔”ungeheure Warensammlung":そら恐ろしいほどの商品の集まり・集合 〕」 として現われ、個々の商品はこの富の *3 成素形態 〔Elementarform:元素形式〕 として *4 現われる erscheint。


 
社会の富 : 古典派経済学との批判的連続性を意図している。 スミスの『諸国民の富』を参照のこと
 
巨大なる商品集積 : 「商品集積 sammlung」は、商品の集まり・集合を表示し、 ヘーゲル『精神現象学』 の「物 Ding が諸物質の集合 sammlung となる」事態へ、そら恐ろしいほど--想像を絶するほどに展開してゆく。
 
成素形態 〔Elementarform:元素の形式〕 は、古代ギリシャ時代・アリストテレス『形而上学』 原理としての実体(Element エレメント)とヘーゲル論理学の「Form (形式)」を合成し、Elementarform として、『資本論』のキーワードを創造している。 そして最後に、
 
個々の商品は・・・現れる」論理構造を形成し、ヘーゲル小論理学(§131)の「 現象 Erscheinung 」 論で締めくくっている。
 
 『資本論』の相関図は、著者自ら言うように-「私が用いた分析の方法は、まだ経済上の問題に適用されたことのなかったものであって、初めの諸章を読むのはかなりむずかしいのです。」 従って『資本論』を読み進めてゆくにあたっては、丁寧にゆっくりと第1章第1節から “
『資本論』 経済学批判総集編 編集部注 ” を参照しながら散策してゆきましょう。


  
2. 『資本論』とヘーゲル「小論理学」(1)について
 まず最初に、以下の参考例を覗いてみます。
  「
 資本主義的生産様式の支配的である *1 社会の富は、 ・・・・」
 16世紀から18世紀にかけて、ペティからスミスまで「社会の富」の観念は、大きく変化してゆきます。重金主義-重商主義を経過するなかで、スミスの『諸国民の富』へと成長進化をとげてゆきます。『資本論』第1章第1節は、西洋の歴史・経済の歩みを再構成し、もう一度マルクスの手によって17世紀の「バーボン・ロック論争(価値論争)」をヒノキ舞台へと蘇らせています
 これらの時代空間の推移を現代的に復活・再生する方法を、マルクスはヘーゲル弁証法によって成し遂げています。「富の元素・エレメント」を時代の推移とともに、「元素の形式・Elementarform 」として現象させて、わたしたちの面前で再現しています。この手法も、新約聖書「ヨハネの黙示録」*ひたいのうえに記される・・・や古典ギリシャ悲劇-例えば、『オイディプス王』・・・のように、「富の元素」は現代社会に
資本主義的蓄積の一般的法則」として「富の刻印(富の形式としての商品性)が刻まれています。

 では、実際にヘーゲル「小論理学」を探索しましょう。


  ・・・  ・・・・  ・・・   ・・・・
    「小論理学」目次
  第1部 有論 ( Sein : 存在論 )
  第2部 本質論 ( Wesen §112-159 )
    A 現存在 ( Existenz )の根拠( Grund )としての本質
    
B 現象  ( Erscheinung §131-141 )
       a 現象の世界 ( Die Welt der Erscheinung §132 )

             〔本質ー現象ー仮象
       b 内容と形式 ( Inhalt und Form §133-134 )
       c 相関 ( Verhältnis §135-141 )

             外観 Schein-対象的外観と仮象 Schein

    
C 現実性  ( Wirklichkeit §142-149 )
       a 実体性の相関 ( Substantialitäts – Verhältnis §150-152 )

             実体と形式
       b 因果性の相関 ( Kausalitäts – Verhältnis §153-154 )
       c 交互作用 ( Wechselwirkung §155-159 )

  第3部 概念論 ( Begriff )

  ・・・  ・・・・  ・・・   ・・・・

    ヘーゲル 
「小論理学」

   第2部 本質論  
( Wesen §112-159 )




   
B 現 象  §131-§141 ( Die Erscheinung )


ヘーゲル「小論理学」第2部 本質論


 §131
 
本質は現象しなければならない。本質が自己のうちで反照 Scheinenするとは、自己を直接態へ揚棄することである。この直接態は自己への反省としては存立性(質料)であるが、同時にまたそれは形式、他者への反省、自己を揚棄する存立でもある。反照するということは、それによって本質が有でなく本質であるところの規定であり、そしてこの反照の発展した形態が現象である。したがって本質は現象の背後または彼方にあるものではなく、本質が現存在するものであることによって現存在は現象なのである。


 §131 ▼補遺
 
現存在 Existenz の矛盾が定立されたものが現象である。現象を単なる仮象(Schein)と混同してはならない。仮象は有あるいは直接態の最初の真理である。直接的なものは、われわれが思っているような独立的なもの、自己に依存しているものではなく、仮象にすぎない。かかるものとしてそれは、内在的な本質の単純性へ総括されている。本質は最初は自己内での反照の全体であるが、しかしそれはそうした内面性にとどまっていないで、根拠として現存在のうちへあらわれ出る。こうした現存在は、その根拠を自己のうちにではなく、他のもののうちに持つのであるから、まさに現象にほかならない。現象と言うとき、われわれは、その存在が全く媒介されたものにすぎず、したがって自分自身に依存せず、モメントとしての妥当性しか持っていないような多くの多様な現存在する物を思いうかべる。しかしこの表象のうちには同時に、本質は現象の背後または彼方にとどまるものではなく、自己の反照を直接態のうちへ解放して、それに定有の喜びを与える無限の仁慈であることが含まれている。このようにして定立された現象は、自分の足で立っているものではなく、その有を自分自身のうちでなく、他のもののうちに持っている。・・・以下、省略・・・



    
 現象の世界 ( Die Welt der Erscheinung )

 §132  
 〔本質ー現象ー仮象

 現象的なものの現存在の仕方においては、現象的なものの存立性(Bestehen)が直接的に揚棄されて、それは形式そのものの単なる一モメントとなっており、
形式は存立性あるいは質料を、諸規定の一つとして自己のうちに含んでいる。かくして現象的なものは、その本質としての、すなわち、その直接態に対立する自己内反省としての、質料のうちにその根拠を持ってはいるが、しかし現象的なものはこのことによって、他者内反省としての形式のうちにのみその根拠を持つ。形式という現象の根拠 Grund も同じく現象的なものであり、かくして現象は、存立性の形式による、したがってまた非存立性による、無限の媒介へ進んでいく。この無限の媒介は、同時に自己への関係という統一であり、そして現存在は、現象すなわち反省された有限性の総体、つまり現象の世界へ発展させられている。



 
  b 内容と形式 (Inhalt und Form)

 §133
 現象の世界を作っている個々別々の現象は、全体として一つの統体 〔
Totalität :全体性 〕をなしていて、現象の世界の自己関係のうちに全く包含されている。かくして現象の自己関係は完全に規定されており、それは自分自身のうちに形式を持っている。しかも、それは自己関係という同一性のうちにあるのであるから、それは形式を本質的な存立性として持っている。かくして形式は内容(Inhalt)であり、その発展した規定性は現象の法則(Gesetz)である。これに反して、現象の否定的な方面、すなわち非独立的で変転的な方面は、自己へ反省しない形式である。それは無関係的な、外的な形式である。
  形式と内容という対立において、けっして忘れてならないことは、内容は無形式なものではなく、形式は内容にたいして外的なものであると同時に、内容は形式を自分自身のうちに持っている、ということである。形式には二通りあって、それは一方自己へ反省したものとしては内容であり、他方自己へ反省しないものとしては内容に無関係な、外的な現存在である。ここには潜在的に内容と形式との絶対的相関、すなわち両者の相互転化があり、したがって内容とは、内容への形式の転化にほかならず、
形式とは、形式への内容の転化にほかならない。この転化はきわめて重要な法則の一つである。しかしそれは絶対的相関(実体性の相関 §150)においてはじめて顕在するようになる。 

 §133 ▼補遺
 形式と内容という規定は、反省的悟性が非常にしばしば使用する一対の規定であるが、その際悟性は主として、内容を本質的で独立的のものとみ、これに反して形式を非本質的で独立的でないものと考えている。しかし、実際は両者ともに同様に本質的なものであって、形式を持たない質料が存在しないと同じように、形式を持たない内容も存在しないのである。
内容と質料とがどうちがうかと言えば、質料は潜在的には無形式ではないけれども、その定有においては形式に無関心なものとしてあらわれているに反して、内容は、内容である以上、完全な形式を自己のうちに含んでいなければならない。もっとも、内容に無関係で外的な現存在であるような形式もまた存在する。こうしたことは、現象が一般にまだ外面性を脱しないところから起るのである。例えば、本について言えば、それが書かれたものであるか、印刷されたものであるか、あるいはまた、紙表紙であるか、皮表紙であるかは、確かにその内容には無関係である。しかし、このような外的でどうでもいいような形式を別とすれば、本の内容そのものが没形式だということはけっしてない。もちろん、内容から言っても当然無形式と言いうるような本がたくさんありはする。しかしこの場合、無形式というのと同じ意床であって、形式一般がないのではなく、正しい形式がないのである。正しい形式は、内容に無関係であるどころか、むしろ内容そのものである。したがって正しい形式を欠く芸術作品は、正しいすなわち真の芸術作品ではない。或る芸術家について、かれの作品の内容はいいが(否、すばらしくさえあるが)、ただ形式が欠けていると言われるとすれば、それは弁護になっていない。真の芸術作品は、その内容と形式が全き同一を示しているようなものである。われわれは「イリアス」について、その内容はトロヤ戦争、特にアキレウスの怒りであると言うことができる。これでわれわれはすべてを言いつくしているが、しかもほんの少しのことしか言ってはいないのである。なぜなら、「イリアス」を「イリアス」とするものは、こうした内容を作りあげている詩的形式だからである。同様に「ロミオとジュリエット」の内容は、かれらの家族間の不和によってひき起された二人の恋人の破滅であるが、これはまだシェクスピアの不滅の悲劇ではない。--さらに学問の領域における形式と内容との関係について言えば、哲学とその他の科学との相違に注意しなければならない。後者の有限性は一般に次の点にある。すなわち、ここでは思惟は、単に形式的な作用として、その内容を与えられたものとして外から受け取っており、内容がその基礎に横たわっている思想によって内から規定されたものであることを意識せず、したがって形式と内容とは完全に浸透しあってはいないのである。これに反して、哲学にあっては、こうした分離はなくなっており、したがってそれは無限の認識と呼ぶことができる。にもかかわらず、哲学的思惟もまた非常にしばしば単に形式的な作用とみられており、特に、思惟諸規定そのものを取扱うと認められている論理学については、その無内容はわかりきったことだと考えられている。内容という言葉が、単に手でつかまえられるようなもの、一般に感覚によって知られるものを意味するにすぎないとすれば、哲学一般についても、また特に論理学についても、それが内容を持たないということ、すなわち感覚的に知りうるような内容をもたないということは、あまりにも明白である。しかし普通の意識や用語においてさえ、内容という言葉は、単に感覚的に知りうるものとか、単なる定有とかいう意味以上の意味をも持っている。われわれが無内容の本と言う場合、言うまでもないことだが、われわれはその言葉によって何も書いてない本を意味するのではなく、その内容が無いにひとしいような本を意味するのである。この分析をよく考えて見れば、教養ある人々にとっては、内容とはまさに思想を含んでいることを意味するということがわかる。このことは同時に次のことを意味する。すなわち、思想は、内容に無関係な、それ自身空虚な形式ではないのであり、また、芸術においてそうであるように、他のあらゆる領域においても、内容が真実で価値あるものであるか否かは、それが形式と一体をなしているか否かにかかっているのである。


  §134
  しかし、直接的な現存在は、形式の規定性でもあれば、存立性そのものの規定性でもある。したがってそれは内容の規定性にたいして外的でもあるが、しかし他方内容がその存立性というモメントによって持つところのこの外面性は、内容にとって同じく本質的でもある。このようなものとして定立された現象が相関(Verhältnis)であって、ここでは同一のもの、すなわち内容が、発展した形式として、外的で対立した独立の現存在としてあると同時に、また同一的な関係としても存在し、異った二つのものは、こうした同一関係のうちでのみそれらがあるところのものである。

 

     
 相 関 (Verhältnis ) 

  §135    
外観 Schein-対象的外観と仮象 Schein


 (イ) 直接的な相関は、全体と部分( das Ganze und die Teile )とのそれである。内容は全体であり、自己の対立者である諸部分(形式Form)から成っている。諸部分は相互に異っていて、独立的なものである。しかしそれらは相互の同一関係においてのみ、すなわち、それらが総括されて全体を形成するかぎりにおいてのみ、諸部分である。しかし総括(Zusammen)は部分の反対であり否定である。

 §135 補遺
 
本質的な相関は、ということは、規定された、全く普遍的な現象の仕方 allgemeine Weise des Erscheinens である。現存在するものは、すべて相関をなしており、この相関があらゆる現存在 Existenz の真理である。したがって現存在するものは、単に独立的に存在するものではなく、他のもののうちにのみあるものである。しかしそれは他のもののうちで自己へ関係するから、相関は自己への関係と他者への関係との統一である。

  全体と諸部分という相関は、その概念と実在とが一致していないかぎりにおいて、真実でないものである。全体という概念は、諸部分を含むということである。しかし、全体がその概念上あるところのものとして定立されると、すなわち、それが分割されると、それは全体でなくなる。全体と部分という相関に対応しているような事物もあるにはあるが、しかしそれはまさにそれゆえに低い、真実でない存在である。この場合、一般に注意すべきことは、哲学において真実でないもの(das Unwahre)と言われるとき、そうしたものが現存しないという意味に解されてはならないということである。悪い国家とか病気の肉体というようなものはあくまで存在するであろう。が、これらは、その概念と実在とが一致していないから、真実でないものである。―
 ― 全体と諸部分という相関は、直接的な相関であるから、反省的な悟性にはきわめてわかりやすい。そのために反省的悟性は、その実一層深い関係が問題である場合でも、この関係で満足していることが多い。例えば、生きた肉体の肢体や器官は、単に部分とのみみるべきものではない。なぜなら、それらは、それらの統一のうちにおいてのみ、肢体や器官であって、けっして統一に無関係なものではないからである。それらは、解剖学者の手にかかるとき、はじめて単なる諸部分となるのであり、解剖学者が取扱うのは、もはや生きた肉体ではなくて、死体にすぎない。こう言ったからといって、一般にこうした分解を行ってはならないと言うのではないが、しかし全体と諸部分というような外部的で機械的な関係は、
有機的生命 organische Leben の真の姿を認識するには不十分なものである。

 ― 全体と部分というような関係を、精神および精神の世界の諸形態に適用すれば、その不十分ははるかに著しいものとなる。心理学者は、心あるいは精神の諸部分というような言葉こそ使っていないが、しかし精神の活動の諸形態 verschiedenen Formen der geistigen Tätigkeitをそれぞれ独立させ、いわゆる特別の力及び能力として枚挙し記述している。このかぎりにおいて、人々が心理学を単に悟性の立場から研究する場合には、人々は同じく全体と部分という有限な相関関係の観念を根抵においているのである。




     C 現実性 §142-§149 ( Die Wirklichkeit )


 §142
 現実性とは、本質と現存在との統一あるいは内的なものと外的なものとの統一が、直接的な統一となったものである。現実的なものの発現は、現実そのものである。したがって現実的なものは、発現のうちにあっても、依然として本質的なものであるのみならず、直接的な外的現存在のうちにあるかぎりにおいてのみ本質的なものである。
 前には直接的なものの形式として有および現存在があらわれた。有は一般に無反省の直接態であり、他者への移行である。現存在は有と反省との直接的な統一、したがって現象であって、根拠から出て根拠へ帰る。現実的なものは、この統一の定立されたものであり、自己と同一となった相関である。したがってそれはもはや移行することなく、その外面性はその顕在態である。それは外面性のうちで自分自身に反省しており、その定有は自分自身の顕現であって、他のもののそれではない。

 §143
 現実性はこのような具体的なものであるから、それは上に述べた諸規定およびそれらの区別を含んでいる。したがってまた現実はそれらの展開であり、それらは現実においては同時に仮象、すなわち単に措定されたものとして規定されている(141節)。 (イ) 同一性一般としては現実性はまず可能性(Mӧglichkeit)、すなわち現実の具体的な統一に対峙するものとして、抽象的で非本質的な本質性として定立されている自己内反省である。可能性は現実性にとって本質的なものであるが、しかし同時に単に可能性であるような仕方でそうなのである。・・・略・・・

 §145 
 可能性と偶然性とは現実性のモメント、すなわち、現実的なものの外面性をなす単なる形式として定立されている、内的なものと外的なものである。この二つのものは、それらの自己内反省を、自己のうちで規定されている現実的なもの、すなわち、本質的な規定根拠としての内容において持っている。したがってもっとはっきり言えば、偶然と可能との有限性は、形式規定が内容から区別されていることにあり、或ることが偶然であり可能であるかどうかは、内容にかかっている。

 §145 補遺
・・・ これまで述べたところからわかるように、偶然性は現実性の一面的なモメントにすぎず、したがってわれわれはそれを現実性そのものと混同してはならない。しかし偶然性もやはり理念の一形式であるから、それは当然客観的な世界のうちにその位置を持っている。このことはまず自然について言えるのであって、自然の表面には、言わば偶然がほしいままにはびこっている。・・・例えば、言語というものは、言わば、思惟の肉体ではあるけれども、そこにはやはり偶然もまた決定的な役割をつとめているのであって、法律や芸術、等々の諸形態についても同じことが言える。学問および特に哲学の任務が、偶然の仮象ものとにかくされている必然を認識することにあるというのは、全く正しい。・・・

 §146
 現実性の外面は、より立ち入って考えてみると、次のことを含んでいる。すなわち、偶然性は、直接的な現実性であるから、本質的に被措定有としてのみ自己同一なものであるが、しかしこの被措定有も同様に揚棄されており、定有的な外面性である。かくして偶然性は前提されているものであるが、同時にその直接的な定有は一つの可能性であり、揚棄されているという定め、他のものの可能性であるという定めをもっている。すなわちそれは条件( Bedingung )である。

 §146 補遺
 偶然的なものは、直接的な現実性として、同時に他のものの可能性でもあるが、しかしそれはすでに、われわれが最初に持っていたような抽象的な可能性ではなく、有るものとしての可能性であり、かくしてそれは条件である。われわれが或る事柄の条件と言うとき、そこには二つのことが含まれている。一つは定有、現存在、一般的に言えば直接的なものであり、もう一つは、この直接的なものが揚棄されて他のものの実現に役立つという定めである。―直接的な現実性は真の現実性ではなく、自己のうちで分裂した、有限な現実性であり、消耗されるということがその定めである。しかし現実性のもう一つの側面は本質性である。これはまず内的なものであるが、内的なものは単なる可能性にすぎないから、同じく揚棄される定めを持っている。揚棄された可能性としては、それは一つの新しい現実の出現であって、この現実は最初の直接的な現実を前提として持っている。これが条件の概念のうちに含まれている交替関係である。われわれが或る事柄の条件を考えてみるとき、それはただそれだけのもののようにみえる。その実はしかし、こうした直接的な現実は、自分とは全く別な或るものへの萌芽をそのうちに含んでいるのである。この別なものは、最初は単に可能なものにすぎないが、やがてこの可能性という形式は自己を揚棄して現実となる。かくして出現するこの新しい現実は、それが消費する直接的な現実自身の内面である。したがってそこには全く別な姿を持った事物が生じるが、しかしそれは最初の現実の本質が定立されたものにすぎないのであるから、なんら別なものは生じないのである。自己を犠牲にし、亡びさり、消耗される諸条件は、他の現実のうちでただ自分自身とのみ合一するのである。― 現実性の過程はこうしたものである。現実は単に直接的な存在ではなく、本質的存在として自分自身の直接性を揚棄し、それによって自己を自己自らへ媒介するものである。

 §147
 (ハ) 現実性の外面性がこのように可能性および直接的現実性という二つの規定からなる円、すなわち両者の相互的媒介として展開されるとき、それは実在的可能性(die reale Mӧglichkeit)一般である。このような円としてそれはさらに統体性であり、したがって内容、即自かつ対自的に規定されている事柄(Sache)である。そしてそれはまた、このような統一のうちにある二つの規定の区別から見れば、対自的な形式の具体的な総体であり、内的なものの外的なものへの、および外的なものの内的なものへの直接的な転化である。形式がこのように動いていくということが活動(Tätigkeit)、すなわち自己を揚棄して現実となる実在的根拠としての事柄の働きであり、また偶然的な現実、諸条件の働きである。諸条件の働きとはすなわち、諸条件の自己内反省、諸条件が自己を揚棄して一つの異った現実、事柄の現実となることである。あらゆる条件が現存すれば、事柄は現実的にならざるをえない。そして、事柄はそれ自身諸条件の一つである。なぜなら、それは最初は内的なものとして、それ自身単に前提されたものにすぎないからである。展開された現実性は、内的なものと外的なものとが一つのものとなる交互的な転化、一つの運動へと合一されているところの両者の対立的な運動の交替であって、これがすなわち必然性(Notwendigkeit)である。
  必然性が可能性と現実性との統一と定義されるのは正しい。しかし単にそう言いあらわしただけでは、この規定は表面的であり、したがって理解しがたいものである。必然性という概念は非常に難解な概念である。というのは、必然性はその実概念そのものなのであるが、その諸契機はまだ現実的なものとして存在しており、しかもこれら現実的なものは同時に単なる形式、自己のうちで崩壊し移行するところの形式としてとらえられなければならないからである。で 私は次の2節において、必然性を構成する諸モメントをもっと詳細に述べなければならない。


 §148
 
条件(Bedingung)、事柄(Sache)、活動(Tätigkeit)という三つのモメントのうち、
 a 
条件は(イ) あらかじめ措定されているものである。それは、単に措定されたもの( Gesetztes )としては、事柄にたいして相関的なものにすぎない。しかし先行するもの(Voraus)としては、それは独立的なもの―事柄と無関係に存在する偶然的な zufälliger、外的な事情である。しかし偶然的であるとはいえ、このあらかじめ措定されているものは、統体的なものである事柄と関係させてみれば、諸条件の完全な円である。
(ロ) 諸条件は受動的であり、事柄のために材料として使用され、かくして事柄の内容へはいっていく。それらはまたこの内容に適合しており、内容の規定全体をすでにそのうちに含んでいる。

 b 
事柄も同じく(イ) あらかじめ措定されているものである。措定されたものとしては、まだ内的なものであり、可能なものにすぎないが、先行するものとしては、それだけで独立の内容である。
(ロ) 事柄は諸条件を使用することによって外へあらわれる、すなわち諸条件と対応しあう内容諸規定を実現する。したがって事柄は内容諸規定によって自己を事柄として示すとともに、また諸条件から出現するものである。

 c 
活動 (Tätigkeit)も(イ) 同じく独立に存在するが(例えば人間、人物のように)しかもまた諸条件および事柄のうちにその可能性を持っている。
(ロ) それは諸条件を事柄へ移し、また事柄を諸条件(これは現存在に属する)へ移す運動である。否むしろ、そのうちに事柄が即自的に存在している諸条件から事柄のみを取り出し、そして諸条件が持っている存在を揚棄することによって、事柄に存在を与える運動である。
   これら三つのモメントが相互に独立した存在という形を持つかぎり、上の過程は外的必然として存在する。― 外的必然は限られた内容を事柄として持つ。なぜなら、事柄は単純な規定態における全体であるが、しかしこの全体的なものは、形式上、自己に外的であるから、自分自身においても、また自己の内容においても、自己に外的であり、そして事柄におけるこの外面性が、事柄の内容の制限をなすからである。


 §149
  必然性はしたがって即自的には、自己のうちで反照しその諸区別が独立の諸現実という形式を持っているところの、自己同一的でありながらも、内容にみちた一つの本質である。そしてこの同一的なものは、同時に絶対的な形式として、直接的なものを揚棄して媒介されたものとし、媒介を揚棄して直接的なものとする活動である。―必然的であるものは、他のものによってそうなのである。そしてこの他のものは、媒介する根拠(事柄と活動)と直接的な現実、すなわち、同時に条件でもある
偶然的なものZufälligesとにわかれる。他のものによるものとしての必然は、絶対的でなく、措定されたものにすぎない。しかしこの媒介はまた直接に自分自身の揚棄である。というのは、根拠と偶然的な条件zufällige Bedingungは、直接態へ移され、そしてこのことによって、措定されたものは揚棄されて現実となり、事柄は自分自身と合一するからである。このように自己のうちへ帰ったものとしての必然的なものは、無条件的な現実性として端的に存在する。―必然的なものは、一群の諸事情に媒介されて必然的なのである。すなわち、必然的なものは、諸事情が必然的であるから、必然的なのである。と同時に、必然的なものは、媒介されないで必然的である。すなわち、必然的であるから、必然的なのである。


  
   実体性の相関 ( Substantialitäts‐Verhältnis )

  §150    
実体と形式

  必然的なものは自己のうちで絶対的な相関である。すなわち、(上の諸節に述べたように)相関が同時に自己を揚棄して絶対的な同一となる過程である。
  その直接的な形態は実体性( Substantialität )と
偶有性( Akzidentalität )との相関である。この相関の絶対的自己同一は実体そのものである。実体は必然性であるから、こうした内面性の形式の否定であり、したがって自己を現実性として定立する。しかしそれは同時にまたこうした外面性の否定であって、この面からすれば、直接的なものとしての現実は偶有的なものにすぎない。
 そして偶有的なものは、こうした単なる可能性であるために、他の現実へ移っていく。この推移が形式活動 Formtätigkeit (148節および149節)としての実体的同一性である。


    〔 
実体-因果性の相関 〕

 §152
  実体は絶対的な力であるから、単なる内的可能性としての自己に関係することによって自己を
偶有性注1:偶有:Akzidenz 〕へ規定する力であり、かくして措定された外面性はこの力から区別されている。この点からみるとき、実体は、必然性の最初の形式において実体であったように、本来の相関、すなわち因果性の相関である。
 
 〔
注1:偶然な:§148,§149。 偶有性:§150~§153.→こちらを参照


   
 b 因果性の相関 (Kausalitäts – Verhältnis )

  §153
 実体は一方では、
偶有性 (*注1) への移行とは反対に、自己へ反省し、かくして本源的な事柄であるが、しかし他方それは、自己内反省あるいは単なる可能態を揚棄して、自己を自己そのものの否定として定立し、かくして結果( Wirkung )、すなわち、単に定立されたものではあるが、同時に作用の過程によって必然的なものでもあるところの、現実を産出する。このかぎりにおいて実体は原因( Ursache )である。
  原因は、本源的な事柄として、絶対的な独立性と、結果にたいして自己を保持する存立性とを持っているが、その同一性〔 Identität 〕は、原因の本源性そのものをなしている必然性のうちで、全く結果へ移行している。特定の内容がここでも問題となりうるかぎり、結果のうちには原因のうちにないようないかなる内容も存在しない。右に述べた同一性が絶対的な内容そのものである。
  しかしこの
同一性はまた形式規定( Formbestimmung )でもあって、原因の本源性は、そのうちでそれが自己を措定された存在とするところの結果のうちで揚棄される。しかし原因はこれによって消失するのではなく、結果のみが現実的なものとして残るのではない。というのは、この措定された存在も同様に直接的に揚棄されており、それはむしろ原因の自己すなわちその本源性への反省だからである。原因は、結果のうちではじめて現実的であり、原因なのである。したがって原因は、即自かつ対自的には自己原因( causa sui )である。― ヤコービは媒介をあくまで一面的に考えたために、原因の絶対的真理である自己原因(自己結果 effectus sui も同じものである)を単に形式主義と考えた(「スピノザにかんする手紙」第2版、416ページ)。かれはまた、神は根拠と規定すべきものではなく、本質的に原因と規定されなければならないと述べているが、かれの意図したことがこれによって達成されないということは、原因の本性をもっと根本的に反省してみればわかったであろう。有限な原因およびその表象においてさえ、内容の同一は存在している。原因である雨と結果である湿りとは、同一の現在する水である。形式〔 Form 〕からすれば、原因(雨)は結果(湿り)のうちで消失する。しかしそれとともにまた結果という規定も失われてしまうのであって、結果は原因なしには無であり、そしてこの場合無関係な湿りが残るにすぎない。

 普通考えられているような因果関係の意味では、原因は有限である。というのは、その内容が有限であり(有限な実体におけるように)、また原因と結果が二つの別々の独立な存在と考えられている ― これは因果関係が捨象されているからにすぎない ― からである。有限の領域においては、われわれは関連のある二つの形式規定〔Formbestimmungen〕の区別ということに立ちどまっているから、一度原因とされたものが、今度は措定されたもの、すなわち結果と規定されるようになる。するとこれはまた他の原因を持つことになり、かくしてここでもまた結果から原因への無限進行が生じる。同様に下降的な無限進行も生じる。なぜなら、結果が原因そのものと同一であるという面からみれば、それは原因として、しかも同時にはじめの原因とは別の原因として規定され、そしてこの原因は再び他の結果を持つ、という風に無限に進んでいくからである。


   
 交互作用 ( Wechselwirkung )

 §155
  交互作用のうちであくまで区別されている二つの規定は(イ) 即自的には同じものである。すなわち、一方の側面は他の側面と同じように原因であり、本源的であり、能動的であり、受動的である、等々。同様に、他の側面を前提することとそれへ働きかけること、直接の本源性と交替によって措定されることとは、同一である。最初のものと考えられた原因は、その直接性によって受動的であり、措定されたものであり、結果である。したがって二つと言われた原因の区別は空虚であって、即自的にはただ一つの原因、すなわち、結果のうちで実体としての自己を揚棄するとともに、またこの働きのうちではじめて自己を独立化する原因が存在するにすぎない。

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