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文献資料  2019.10.20:更新中

『西洋哲学史』 カントへの移り行き
 

 『資本論』のドイツ自然/科学哲学史より

 近代弁証法の源流・・・カント、ゲーテ、ヘーゲル・・・抄録


  資本論ワールド 編集部 まえがき
 今回の特別資料編「近代弁証法の源流」は、『資本論』が支柱とする伝統文化、ドイツ自然科学哲学上の巨人3人―カント、ゲーテ、ヘーゲル―を報告します。

1. “近代弁証法の源流”について、エンゲルスは『空想より科学へ』(岩波書店)のなかで、紹介しています。
 「・・・こういったような過程と思惟方法は形而上学的思惟のわくには収まらない。これに反して、事物とその概念たる模写を、もっぱら、関連、連鎖、運動、発生及び消滅においてとらえる弁証法にとっては、上述のような諸過程は、何れも弁証法固有の研究方法の正しさを証明するものである。自然は弁証法の検証である、そして、近代の自然科学のためにいうならば、自然科学は極めて豊富にして日々目撃する材料を提供して次のことを検証している、すなわち、自然は結局においては形而上学的にではなく、弁証法的に動くものである、それは不断の循環運動をいつも同じようにくり返さない一つの現実の歴史なのである。
 この点で誰よりもさきにあげられるべき名はダーウィン(1809-1882)である。彼は、今日の一切の有機的自然、すなわち植物も動物もしたがってまた人間も、幾百万年にわたるたえまない進化の過程の産物であることを証明し、それによって自然についての形而上学的見方に強烈な打撃を与えた。そうではあるが、弁証法的に思惟することを学んだ自然科学者は、今日までのところ極めてすくない、これが、この新発見の成果と先人の思惟方法とが衝突する理由であって、そのため、今日理論的自然科学界に大混乱があるのであり、先生も生徒も、著者も読者もみな絶望におちいっているのである。
 以上で、全世界も、その発展も、また人類の発展も、さらにそれらについて人間の頭脳が描く映像も、その正確な叙述はただ弁証法的方法によって、その生成と消滅、その進歩と退歩との一般的相互作用についての不断の観祭によってできるものであることがわかった。そして新しいドイツ哲学はこの精神をもって時を移さず登場してきた。カント(1724-1804)はその学問的生涯をはじめるにあたって次のようにいった、ニュートン(1642-1727)の太陽系説ならびにーー例の有名な最初の一撃の与える運動は永続するという永続説は解消して、それも一つの歴史的過程となった。すなわち太陽もすべての惑星も回転する星雲から生じたものだということになった。そして太陽系がこのようにして発生したものならば、将来それが死滅することもまた必然だと彼はすでにそのとき考えていた。それから、半世紀の後、彼の見解はラプラス(1749-1827)によって数学的に基礎づけられ、更に半世紀の後には、灼熱したガス塊が、種々の濃縮度をもって宇宙に存在することが、分光器によって立証されたのである。
 この新しいドイツの哲学はヘーゲル(1770-1831)の体系において完成した、自然と歴史と精神の全世界がここにはじめて一つの過程として説明されるようになった。―-これこそ彼の偉大な功績である―-すなわち、それらは不断の運動、変化、変形、発展のなかにあると説き、そういう運動と発展の内的関連の証明も試みられた。・・・・」
 ・・・以下、省略・・・

2.  今から50年前の1966年3月、大内兵衛氏は『空想より科学へ』を翻訳刊行しました。 訳者序に、日本の読者へこの書物の意義を簡潔に紹介しています。
 “エンゲルスはこの本のドイツ語第1版の序文の終わりのところに「われわれドイツの社会主義者は、ただにサン・シモン、フーリエ及びオーエンを祖とするのみではなく、カント、フィヒテ及びヘーゲルの流れをくんでいることを、われわれの誇りとするものである」といっている。われわれ日本の社会主義者は、不幸にも、そういう源流を日本のうちにもたない。またそういう源流をすべてのみこんで、科学的社会主義を一気に明快に説き明かすエンゲルスをも、もたない。そこで、訳者の願いは、せめて彼の文章の真意をまちがえないということであった。”
 『空想より科学へ』は、「その序文、弁証法的唯物論及び英語版への序文」に西洋哲学史が克明に描かれている。格差社会の危機が深まり「そういう源流を日本のうちにもたない」ことから生ずる困難は山積し、混迷から抜け出す出口を今だ見出すことに成功していない。 訳者序に、“ わたくしは「教養ある人」にとってもこの本は無用でないと思う。そしてさらにまたマルクシズムをよく知っているという自信をもつ人にとっては、それがどの程度の理解であるかをかんたんに計量する小さな秤として、本書はなかなか軽便であると思う ”

  
3. 50年の歳月を経た今日、訳者序は過去のものとなったでしょうか。
 ここに紹介した、カント『天界の一般自然史と理論』、ゲーテ『形態学・変態論』そしてヘーゲル『自然哲学』のミニ抄録は話題にのぼるがめったに「読まれることのない」古典です。近代弁証法と唯物論の源流を肌で感じ体験しながら、大内氏への報告の辞とします。



 ★目次
 1. カント『天界の一般自然史と理論 序 (宇宙生成論‐10.20作業中)
 2.   「著作目次の内容」

 3. ゲーテ「自然科学論」『比較解剖学断章
 4. 
   比較解剖学総序説草案の最初の3章についての論説

 5. 
ヘーゲル『自然哲学・有機体の物理学
 6.     『Gallert (資本論入門4月号より)
 7. 
    C 動物の有機体


      ・・・~ ・・・~  ・・・~  ・・・~



 カント『天界の一般自然史と理論』
 1755年 〔抄録〕

  


1.
 森羅万象の広大なひとつひとつを結合して一つの体系たらしめしているものを発見し、諸天体そのものの形成やそれらの運動の起源を自然の最初の状態から力学的法則に従って演繹すること。 わたしがその暗黒の背後に妖怪を隠しているように見える雲霧の、一歩ごとに分散してゆくのを見たとき、・・・
もしあらゆる秩序と美とから成る宇宙界が、普遍的な運動法則にゆだねられた物質の結果にすぎないとすれば、またもし自然力の盲目的な力学が混沌からこのように壮麗に展開することができ、このような完全さへみずから到達するものとすれば、宇宙構造の美しい光景から人びとが思い及ぶ神的創造者の証明は全く力を失い、自然はそれ自身で充ち足りており、神の支配は不必要となり、エピクロスはキリスト教のただ中にふたたび蘇えり、冒とく的な哲学が、自然を照らす光明を自然にもたらすところの信仰を足下に蹂躙するにいたる、と。

2. もし物質の普遍的な作用法則が同時に最高企画からの帰結であるとすれば、その法則はおそらく、最高知恵が企てた計画をみずから成就しようと努めること以外にその使命を持ちえないであろう。と。 今こそわたくしは安んじてわたくしの現在の冒険的な企てへの適用を試みよう。わたくしは全宇宙の物質をひろく分散しているものと仮定し、この分散状態から一個の完全な混沌状態をつくってみよう。わたくしは既成の引力の法則に従って素材が形成され、斥力によってその運動が変容せしめられるのを見る・・
 既定の運動法則に導かれて一つのよく秩序づけられた全体が生み出されるのを見ることであり、この全体はわれわれが眼前に見るのと同じ宇宙体系に似た観を呈するので、わたくしはそれを宇宙体系と同じものと思わざるをえないのである。

3. 自然の本質的な努力がそのような展開を、必然的にともなうものであること、そしてこのことは自然が根源的存在者に依存するものであることの最も輝かしい証拠であり、この根源的存在者はさらに諸存在者自身とその最初の作用法則との源泉をすら自己のうちに有するものであることを教えられるのである。
 しかしこの体系を弁護することは、とりも直さず、それと最も似ているエピクロスの考えを弁護するものであると人は言うであろう。わたくしは全くあらゆる点でそれがエピクロスの考えと一致していることを否定しようとは思わない。多くの人たちはエピクロスのあげた根拠の外面だけを見て無神論者となったのであるが、それらの根拠はもっとよく考えるならば最高存在者の確実性について人びとを最も確信せしめ得たであろう。

4. だからわたくしは、ルクレティウスや、その先駆者たちであるエピクロスやレウキッポスやデモクリトスの説が、わたくしの説と多くの類似をもつことを否定しないであろう。わたくしは自然の最初の状態を、あの賢哲たちと同様に、すべての天体の根源的材が、あるいはあの賢哲たちの場合に名づけられたようにいえば原子が、ひろく分散していたと仮定する。エピクロスは、これらの元素的粒子を落下させる重さを仮定したが、このことは、わたくしの採用するニュートンの引力と、それほど違うものではないように思われる。彼はまたこれらの粒子に、たといその生ずる原因とその結果とに関しては不合理な想像をもっていたとしても、落下の直線運動からの或る偏移をも与えた。この偏移は、幾分、われわれが粒子の斥力から導き出す直線的沈下の変化と一致する。最後に、原子の混乱した運動から生じた渦巻はレウキッポスやデモクリトスの学説における主要部分であったが、この渦巻はわれわれの理論においても見いだされるであろう。

5. わたくしは物質の全体的な解体と分散とのうちに、美しい秩序だった全体が全く自然的にそこから展開するのを見る。これは偶然によって生じたり図らず生じるのではなく、自然的な固有性が必然的にそれをこのようにともなうものであることが知られる。
 あらゆる物の根源的素材である物質は、かくて或る法則に結合しており、これらの法則に自由に委ねられるとき物質は必然的に美しい結合を生ぜざるをえないのである。物質はこの完全性の計画からそれる自由を持たない。かくて物質はみずからを最高の英知的意図にふくせしめられたものとして見いだすのでありから、物質を支配する第一原因によって、必然的にこのような一致統一の関係におかれねばならず、そして自然は混沌のうちにあってさえも規則的に、かつ秩序正しく行動するほかないのであるから、まさにこの理由によって神は存在するのである。

6. ともあれ、人びとはわたくしから、デカルトが天体の形成を単に力学的法則からあえて説明しようとしたとき公正な裁判官たちによってつねに与えられていたと同じ権利を、奪いはしないであろう。




 全著作〔『天界の一般自然史と理論』 〕の内容

 
第1篇
銀河の現象から導出された恒星群相互間の一般的体系的体制の輪郭。天空のはるか彼方に楕円形状をなして示されるこのような多くの星系の発見。全創造の体系的体制に関する新概念。結論。惑星の離心率が距離とともに増大する場合に従う法則に基づくと、土星の外方に、もっと多くの惑星が存在するらしく推定されること。 

 第2篇

 第1章

 宇宙の力学的起源を説く学説体制の諸根拠。自然界の最初の状態。すべての物質の元素が全宇宙空間にわたって拡散しうること。引力による最初の活動。最強引力点における物体形成の始まり。この中心物体に向かう元素の普遍的沈降。


 第2章
 惑星の密度の相違と、惑星の質量の関係を論ずる。近い惑星が遠くの惑星よりも密度が大であることの原因。ニュートンの説明が不十分であること。なぜ中心体が、その周りを最も近く運行する球体よりも軽い種類をなすか。惑星の質量が距離に比例する関係。天体の発生の仕方をビュフォン氏の傾聴すべき類推に基づいて試みる重要な証明。


第3章
 惑星軌道の離心率と彗星の起源とについて。

第4章
 衛星の起源と、惑星の自転運動について。衛星が発生するための素材は、惑星が自分自身を形成するために粒子を集めた領域に含められていたものである。


 第5章
 土星の環の起源と、環の状態に基づくその毎日の回転の計算とについて。


 第7章
 新しい宇宙が絶えず形成されることによって、時間空間のあらゆる無限性のうちに創造が継起的に続行されること。まだ形成されていない自然の混沌状態についての考察。宇宙界が徐々に崩壊し消滅してゆくこと。このような概念の妥当性。崩壊した自然の再生。

 第7章追補
 全般的に太陽の一般理論と歴史。宇宙界の中心体は何故燃える物体であるのか。その本性のより詳細な考察。太陽の消滅。


 第8章
 全般にわたって宇宙界の配置についての力学的学説体制が正当であることの一般的証明。宇宙界の体制は単純であり、自然の諸力を越えて造られてはいない。宇宙の力学的起源を確実に保証する諸類推。

 第3篇
 諸天体の住民の相互比較を含む。すべての惑星に住民がいるかどうか?そのことの疑われる原因。

 ・・・・以上・・・・



 ゲーテ自然科学論


 Ⅰ. 『比較解剖学断章』 
 1796年


 形態と原型

 形態学は、存在するすべてのものは自己を暗示し、また顕示するに違いないという確信に基づいている。最初の物理的・化学的エレメントから、人間の最も精神的な表出に至るまでわれわれは、この原理を当てはめる。
 われわれは直ちに、形態のあるものに向かう。無機物・植物・動物・人間的なものはすべて自己を暗示する。それは存在するものとして、われわれの外的および内的感覚に現われる。形態は動くもの、生成するもの、消滅するものである。形態学は変化に関する学説である。メタモルフォーゼの学説は自然のあらゆる徴表を解明する鍵である。
 われわれが有機体を考察するのは、その諸部分が形を有し、明確に決定された一定の命を表示し、他の諸部分と関係がある限りにおいてである。部分の形を破壊し、筋肉を筋肉繊維に分解し、骨をゼラチンに解消してしまうすべてのものを、われわれは扱わない。

 
形態学の課題

 生理学は、多分けっして到達されない目的のように人間の脳裏に浮かぶ。そのために個々の仕事をする補助科学は次のとおりである。
1 博物学は、自然の多かれ少なかれ十分に形成された被造物の全資料を集大成し、とくにそれらの外的形態の標識を認識できるようにする。
2 解剖学は、人間と動物の解剖に関し身体構造の内的関連について教える。
3 化学。さまざまな物質の分離とそれらへの反応。これら二つは分析的である。
4 一般物理学、とくに運動に関する学説のため。
5 動物生理学は有機的自然を生きた全体として考察する。
 これらの考察は生理学的であったり心理学的であったりする。
6 観相学は形態を、それが一定の特性を暗示している限り考察する。それは、物理的部分を取り扱う徴候学と、精神的・倫理的部分を担当する本来の観相学に分類することができる。
7 形態学はこれらすべてに追加するわれわれの意図であって、主に有機体の形態、 それらの差異・形成・変形の研究に従事する。

 自然研究者から形態学者が取得するのは、一般的および特殊的な運動の法則である。有機的自然において多くのものが力学の諸法則に還元されることを知って以来、彼はそれだけいっそう生命の顕著な特質を確信するようになった。生命は力学の諸法則をこえて、そればかりでなく、しばしばそれらに反して作用するのである。
 動物生理学者は形態学者から歓迎される。彼は有機的自然を一つの生きた全体と見なすからである。形態学者は彼から不可分の作用という概念を得る一方で、彼にたんに一般的な考察においいらず、個々の部分とそれらの諸変化の形態および特性につねに注意をするよう警告する。 空間をみたすすべてのものは、凝固すると直ちに形態をとる。これは多かれ少なかれ自己規制し、周囲にたいして、他の同じ形態の生物体と同じ関係をもっている。
 無機物界の最も美しいメタモルフォーゼは、生起するさい、無形のものが形態のあるものに変化されるときである。いかなる量塊もこのための衝動と権利をもっている。雲母片岩はざくろ石に変化して、しばしば山塊を形成する。その中では雲母の性質はほとんど止揚されていて、ささいな結合手段として、かの結晶のあいだに存在するのみである。
 ある量塊の形態となることが前提にしているのは、それが諸部分に分かれるだけでなく、明確に決定された仕方で、区別可能な、相互に似た諸部分に分かれることである。 形態はそれに部分が属している有機組織全体に、したがってまた外界に関係しており、完全に有機化された生物体はこの外界から一つの部分として考察されなければならない。 機能と形態は必然的に結ばれている。機能というものは、活動状態にあると考えられた生存である。



 
ゲーテ『比較解剖学総序説草案の最初の3章についての論説』 1796、1820年

Ⅲ.原型の構成にさいして注意すべき有機体制の一般法則について

1. 有機体は自ら摂取いた養分を消化して、さまざまあ一定の器官をつくってゆくが、しかもこのさい余分なものは取り除き、養分の一部だけを摂取する。つまりこの一部だけを優先させ、特別扱いする。それによってある部分を他の部分ときわめて緊密に結びつけ、こうして四肢に形を付与しながら、有機体は自分自身をつくりあげてゆくのであるが、この形は多種多様な生命を具現しているばかりではなく、破壊されたが最後、残りの部分からはけっして再生されないようなものなのである。

2. 植物のメタモルフォーゼを司る法則を正確に知ることは、植物を単に記載するばかりではなく、植物の内的自然のなかにも踏み入ろうとする植物学にとって、必ずや助けになるであろう。 われわれが眼で見、手で触れることのできる植物の有機的な部分-葉、花、花糸、茎、さまざまな包皮、そのほか植物において認められるもののすべては同一器官であって、これは植物の連続的生長(Sukzession)を通してしだいに大きく変化し、やがてもとの姿が見分けられぬまでになるのである。


3. 昆虫の自然史においてはその変態メタモルフォーゼを十分に考慮にいれなければならないし、この概念がなければ、昆虫界における自然の経済性を見通すことはできない。このことは、植物界の場合よりも明らかだし、事実これまでも固く信じられてきた。
 植物が個として登場するのはほとんどほんの一瞬、それも種子として母体から解き放たれた瞬間にすぎない。発芽の過程においてはすでに複合体となっている。そこでは同一の部分からまた同一の部分が生まれているばかりではなく、これらの部分が連続的変化によって多種多様に形成され、多様な、しかし一見するとまとまりになった全体が最終的にわれわれの眼の前にあらわれてくるのである。
 昆虫の場合はまったく違っている。皮は脱ぎ捨てられたが最後、すべてそのまま置き去りにされ、そして青虫を包む最後の包皮(さなぎ)のなかから、完全に独立した成体がはい出してくる。青虫は変身して蝶になる。しかし花は植物から生まれ出たものであるのに、その植物と共存できるのである。

4. ここで青虫の形態と蝶の形態を比べてみるならば、両者の間には主の次のような違いがあることが分かる。 成長が進むにつれて、次から次へと皮はつき破られ、脱ぎ捨てられる。それに次いで新しい皮がふたたびつくられはするものの、しかしこの皮も強く張りつめ、伸縮性に欠けたものになると、またもや裂けて破れ、剥離してゆく。
 こうして青虫はその形態を少しも変えることなく、ますます大きく成長してゆき、そしてその成長がついにそれ以上は進めない頂点にまで達すると、この生物のなかでは奇妙な変化が起きる。この生物の体節の一つともいうべき繭マユのなかから脱け出そうとすると同時に、もっと高貴な器官へと変身することを妨げるものを一掃して、身を清めるのがみてとれるのである。そして脱皮したとき、そこに姿をあらわすのは、以前の動物とは似ても似つかぬまったく別の生物なのである。
 哺乳動物に比べれば、蝶の仲間はおよそ不完全で恒常性を欠く生物ではあるが、しかしわれわれの眼の前で変態をとげているところを見ると、これよりももっと不完全な生物もあること、これも比較的完全な生物であることが分かる。

5. 有機体全体の調和は、それが同一の部分から成り立っていると同時に、その同一の部分がごく微細な点にいたるまで多様に変形していゆくからこそ可能なのである。深奥では近似しているこれらの部分は、形態、使命、作用においてきわめて遠く隔たり、対立しているとさえいえる。このように自然は同族関係にある器官を変容することによって、きわめて異なっていると同時にじつは近似した体系をつくり出し、たがいに結びつけることができるのである。

 ・・・以上・・・



 ヘーゲル『自然哲学』 第3部 有機体の物理学〔自然学〕
 1817~27年

A 生命は、形態〔Gestalt〕すなわち生命の普遍的な形姿〔Bild:似姿〕としては、地質学的な有機体である。
B 生命は、特殊な形式的な主体性としては、植物的な有機体である。
C 生命は、個別的な具体的な主体性としては、動物的な有機体である。


 
A 地質学的な自然

1.
 最初の有機体は、それがまず差し当たって、直接的な有機体、すなわち、もともと自体的に存在する有機体として規定されている以上、生命体として現存するのではない。生命は、主体・過程となったときに、本質的に自分を自分自身と媒介する活動である 。主体的な統合から前提された、直接的な統合は、有機体のたんなる形態にすぎない。―これが、個体的な物体の普遍的な体系としての地球という物体である。

 
 〔ヘーゲルは、地球や地質から直接に生命が発生してくることを避ける(唯物論を避ける)ため、
   歯切れが悪い。あえて非弁証法的にふるまっているところに特徴がある。〕


2.
 自然は、この形成過程の契機となるさまざまの力を、地球の彼方に自立的なものとして放置した。これらの力のあらわれが、太陽系のなかで地球が占める関連と位置、地球のもつ、太陽的、月的、彗星的生命、地球の軸の軌道と磁軸に対する傾きである。地球は海と陸に分かれる。
 生命の結晶が、地球というこの死んだまま横たわっている有機体である。この有機体は、自分の概念を、自分の外部に、星の連関のなかにもっている。この有機体は、その固有の過程を、しかし前提された過去としてもっている。この主体は、気象学的な過程によって実を結んで生動性となる。―陸と、そして特に海は、生命の実在的な可能性であるから、あらゆる地点で無限に、点のような一時的な生命力を生み出す。―たとえば、地衣類や、滴虫類、燐と化合する海中の無数の生命の点を生み出す。



3. Gallert  (資本論入門4月号Gallertより)

                             >>
第2部 『資本論』の膠状物・凝結物Gallertについて>>

「 補論: しかし、大気は同時にその諸元素の内でそれ(天の運動)を物質化する。大気は、解きほぐされ純粋に張りつめられた地球であり、重さと熱との比関係(Verhaeltnis)である。・・・ 海そのものは空気よりももっと高次のこの生命性であり、苦しみと中和性と溶解の主体である。― 
 それは一つの生命的過程であって、この生命過程はつねに、生命へと踏みでる跳躍をしようとしている。・・・・この普遍的な生命性が有機的な生命、すなわち、それ自身のもとで自分を刺激し、刺激として自分自身に対して働きかける有機的生命である。・・・船乗りは夏になると海の盛りについて語る。7月、8月、9月には、海は不純になり、濁って粘液質になる。海は無限に多くの植物的な点、糸、面状のもので満ちている。海はよりいっそう高められて刺激されると、途方もない距離で燐光を発する光の内へ吹き出る。・・・この光の海は、それ以上有機組織化されない純粋な生きた点からなる。・・・

 そして、植物的生命の始まりである
ゲル状の粘液〔gallertartiger Schleim〕が残る。海は上から下までこのような粘液で満たされている。すでにどの発酵においてもすぐに小動物が示される。しかし、まして海は次にまた、規定された形成物へと近づいてもいく。・・・」

「 ・・・そこでは、ちょうどポリープの場合のように、多くのものが一つの生命をもっており、次に再び一つの個体へと集まっていく。この下等動物界が、一時的に現存する
ゲル〔Gallert〕にいたることによって、動物的なものの主体性はここにおいてたんに輝くことに、自分との同一性の外面的な仮象になることができる。・・」

「 私は星を有機的身体における吹き出物(Ausschlag)と比較したことがあって、市井の評判になったことがある。皮膚が吹き出して無限に多くの赤い点となるのに例えたのである。あるいは蟻塚と比較したことがあるが、蟻塚には、悟性と必然性もある。実際、一つの抽象的なものからよりも、具体的なものからだと、もっと多くのものができる。たんに
ゲル〔Gallerte〕を産み出すにすぎない動物類からだって、星の大群よりも多くのものができる。・・・」

「 陸地は、以前には内在的であった。今や逃げさってしまった生命の巨大な亡骸として、中和性にまで自己展開するこの個体的な安定性であり、月的な元素の堅い結晶である。これに対して海は彗星的なものである。しかしこの両方の契機が主体的な生命体の中で浸透しあうことによって、
ゲル〔Gallerte〕、粘液〔Schleim〕は、内面的にとどまる光の容れ物になる。地球は、水と同様に、無限な普遍的な豊饒さを示す。・・・」



 第2節 B 植物的な自然 346  〔細胞組織のゲル状〕

 「補論2 形態化の過程ではわれわれは直接的なものとしての生物の
胚(Keim)から始める。しかしこの直接性は想定された直接性にすぎない。・・・胚の発達ははじめはたんなる成長であり、たんなる増殖である。胚はすでにもともと自体的には植物の全体である。胚は木等々の縮図である。・・・
 普遍的な結びつきを形成するのは、植物では細胞組織であり、これは動物的なものの中でと同様、小さな細胞から成り立っている。細胞組織は、一般的な動物的および植物的な産物であり、― 線維質の契機である。・・・藻類はこれまでに植物とはまったく違っている。葉状体を、最も肉の厚いところで切断すれば、そこにきわめて明瞭な、けれどもいわば
ゲル状の糸〔gallertartigeFaden〕が、多様で複雑な方向で認められる。幾つかの藻類の基礎は被膜のようなものであり、それは時には粘液状で、また時にはゲル状〔gallertartig〕だが、けっして水にとけてなくなったりはしない。キノコの組織は繊維質からなっていて、この繊維質はほとんど細胞とみなされている。・・・明白のことだが、新しい細胞組織は比較的古い細胞の間に生じる。細胞内の粒子は、植物の澱粉末であるといってよいだろう。(注)」(注:リンク「基礎理論」)



 B 植物的な自然

1.
有機体が個別的なものとなるための主体性は、客観的な有機体〔einen objektiven Organismus〕へと、すなわち、形態〔Gestalt〕へと発展する。形態とは、相互に区別されている部分へ分節される身体である。植物は、やっとようやく生命力と言えるような直接的で主体的な生命力である。植物では、客観的な有機体とその主体性とが、まだ直接的に同一である。そのために、植物的な主体が行う分肢の形成と自己保存の過程は、自己の外へ出てたくさんの個体に分裂することである。さらに有機的な部分の差異は、たんに表面的な形態変容(Metamorphose)にすぎず、あるものは他のものの機能へと容易に移行することができる。


2. ゲーテの『植物の形態変容』は、植物の本性にかんする理性的な思想の端緒を作った。というのは、考え方をたんにさまざまの個別的なものを求める努力から引きはがして、生命の統一性の認識へともっていったからである。形態変容というカテゴリーでは、器官の同一性が、優勢を占める。しかし分肢の一定の差異と固有の機能がないと生命過程がなりたたない。分肢の差異と固有の機能は実体的な統一にたいして他の必然的な側面である。
 ゲーテは自然についての偉大な感覚をもって、植物の成長を同一の形成体の形態変容と規定した。例えば、樹を逆さまに植えると、根が空に向かって伸び、枝と葉が地中に伸びる。その結果、根が葉や芽や花をつけ、枝葉が根となるということが知られている。諸部分はもともと自体的に同等のものとして存在している。ゲーテは諸部分間の差異をたんに拡張ないしは収縮としてとらえた。それは質的な根本的な区別に至るのはなく、植物の素材の上での観念的な形態変容にすぎない。

3. 形態形成の過程は、植物が自己自身へ関係する内面的な過程である。植物てきなものそのものの単純な本性に従って、この過程はただちに外部への関係と外科とである。この過程は、一方では、実体的な過程、すなわち、直接的な転化である。・・・
 形態化の過程ではわれわれは直接的なものとしての
生物の胚(Keim)から始める。胚は、概念全体ではあるがけれどもいまだあらわになっていないものであり、―つまりは植物の本性である。



 C 動物の有機体

1.
有機的な個体性は、主体性として現存する。ただしそれは、形態の固有の外面性が分肢へと観念化され、有機体が、外へ向かうその過程において、自己としての統一を自分のうちに獲得するかぎりにおいてである。これが、動物的な本性である。
 動物的な有機体は、生きた普遍性として概念である。概念は、推論として、概念の三つの規定を経過する。推論は、そのどれもがもともと自体的に実体的な統一性をもつ同一の統合である。これらの推論は、同時に
形式規定〔Formbestimmung〕の点では他の推論への移行である。そこで、こうした過程から現存するものとしての統合が結果として出てくる。
 動物的有機体は、概念を展開するものとして。ただ概念の区別だけを開示する理念である。・・・第一の過程は、自分を自分に関係づけ、自分を肉体化する有機体の過程である。つまり、他者を自分自身のもとにもっているような有機体の過程である。

2.形態〔Gestalt〕とは、たんに自己自身への関係の中だけの全体としての動物的な主体である。この主体は、自分の身についた概念をその発展した規定で、したがって、その主体のなかに現存している規定であらわしている。

3. § 356  
 形態は生命あるものとして本質的に過程である。しかも、形態そのものが、抽象的な自己自身の内部で営まれる形態形成の過程である。この過程のなかで、有機体は自分自身の分肢を非有機的な自然、すなわち、手段とし、自分を食い物にすることによって、自分を産出する。すなわち、分節作用の統合そのものを産出する。・・・
 
形態化過程〔Gestaltungsprozeß〕は最初の過程として過程の概念であって、それは非静止としての形態化である。

4.§ 357  外部への過程は、実在的な過程である。

5.§ 360 
 本能というものは神秘的で、そのため本能を把握することが困難だと言われている。その理由は、目的が内的な概念としてしか把握できないために、たんに悟性的な説明な関係では適合しないことがただちに明らかとなるからにほかならない。アリストテレスがとらえた生物にかんする根本既定、すなわち、生命のあるものは目的に従って動くものと見るべきである、という規定は、近世に至ってほとんど顧みられなくなってしまった。カントは、内的な合目的性、すなわち、生命のあるものは自己目的と見るべきであるとすることによって、この目的という概念を彼なりに復活させた。この点の理解を困難にしているのは、特に、目的関係が普通外面的な関係と考えられている点である。
まるで目的が意識された仕方でのみ存在するかのような見解が支配している。
本能とは、無意識な仕方で働く目的活動なのである。

 ・・・以上・・・