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『資本論』生誕150周年 名著探訪-ダーウィンとマルクス(1)-


<コラム16> 
松永俊男著『ダーウィンをめぐる人々』 

           
朝日新聞社 1987年発行


   ― シリーズ 「 『
資本論』の形態学W-G-Wと生態系G-W-G´」 序論


   
ダーウィンとマルクスのアルプス越え、幹線ルートの交差点


 ◆ 目 次
   
資本論ワールド編集部 はじめに
      Ⅰ. 『資本論』 登山ルートの道標
      Ⅱ. 科学史の「ダーウィンとマルクス」


  
  松永俊男著 『ダーウィンをめぐる人々』 
    
第1部 ダーウィン進化論について
    
第2部 ダーウィンに直接、間接にかかわった24人の人々
      Ⅰ. 万物の進化を唱えた社会学者 ハーバード・スペンサー
      Ⅱ. ダーウィン=マルクス書簡の伝説
   
  
    第3部 『資本論』生誕150周年 資本論入門5月号への序奏

 
        ゲーテ形態学から「商品の変態」へ ・・・

 「流通G-W-Gにおいては、両者、すなわち、商品と貨幣とは、ただ価値そのもののちがった存在様式としてのみ機能し、貨幣はその一般的の存在様式として、商品はその特別の、いわばただ仮装した存在様式としてのみ機能する。」(第4章貨幣の資本への転化・岩波文庫p.268-269)



    
資本論ワールド編集部 はじめに

  Ⅰ. 『資本論』 登山ルートの道標


 資本論ワールド編集部では、2018資本論入門3月号から「入門編」の総括的な論点整理を行ってゆきます。『資本論』は、「歴史的に、論理的に」系統立てて議論を展開していますので、登山ルートのそれぞれ何合目の道標から出発されたか、絶えずチェックしてゆかないと、迷子になってしまいます。昨日まではアダム・スミス古典派ルートでしたが、今月からはヘーゲル口登山ルート、さらに来月は物神性妖怪通りの横道だって用意周到に準備されているのです。系統立ててあるからと言って、決して安心安全な山道ばかりとは限りません。
 『資本論』第1章商品は、アダム・スミスら古典派経済学の対話口から登山がはじまり、第2章の交換過程で、「人々の経済的仮装で貨幣の魔術が生まれる謎解き」になります。さらに、第3章貨幣または商品流通では、「商品の変態」を拡大鏡で見ながら、ゲーテ形態学の金サナギを鑑賞します。そして第4章貨幣の資本への転化で、登山ルートはクライマックスを迎えます。
 「
商品の価値は突如として自己過程的な、自動的な実体として自己過程的な貨幣となる。それが資本となるや否や、すなわち、子が生まれ、そしてこの子によって父が生れるや否や、その区別は再び消え、両者はともに一つとなる。G-G´, 貨幣をはらむ貨幣―お金を産むお金―として。


 資本論入門3月号から、シリーズ「 『資本論』の形態学W-G-Wと生態系G-W-G´」の第1回が始まります。ただどうしても、その前段階として「ダーウィンとマルクスのアルプス越え、幹線ルートの山脈交差」を体験していただきます。この登山経験によって、ヨーロッパの山脈がずっと見通しの良い、展望台を提供していただけるものと、期待してご案内申し上げます。



  
Ⅱ. 科学史の「ダーウィンとマルクス」

 科学史家のダンネマンは、進化論と人類史に関して次のように解説しています。
1.  たとえダーウィン説が種の起源の問題を解決することができなかったとしても、それはやはりこの問題を解決するうえでは、大きな進歩を意味した。さらにこの学説は生物学だけでなく、天文学から社会学にいたる、すべての学問にたいしても、非常な刺激を与えたのであった。とくに人類はまったく新しい光のなかにあらわれた。ダーウィンは生物界における人類の位置を、最初はじぶんの考えからのぞいて、そのほうの学説として「人類の起源および人類の歴史の上にも、多くの光が投ぜられるであろう。」(『種の起源』第15章)と述べただけであった。進化論に基づいて自然界における人類の位置を、とくに解剖学者の立場から研究した最初の人はハックスリ(1863年)であった。
 彼は外部および内部構造、とくに脳髄の構造において、下等猿類と高等猿類とのあいだには、高等猿類と人類とのあいだより、もっと大きなへだたりがあることを証明した。このようにして、リンネーがさきに述べた意見、すなわち、人類は博物学的には一つの属として、霊長類に入れなければならないという意見がやっと裏書された。(『大自然科学史』11巻三省堂p.74)

2.  なおダンネマンは、マルクスとの関係についても次のように報告しています。
 カール・マルクスは、ダーウィンの『種の起源』に大いに感激し、『資本論』の第2版が1873年に出版されたときに、彼はその1冊をダーウィンに送った。これにたいして、ダーウィンはつぎの返事を、マルクスにおくった。
 「あなたが私に『資本論』の大著を贈られて、私に示されました栄光にたいしまして、感謝するしだいであります。そして、私は経済学の深い、重要な問題を、さらにいっそう理解することによって、私があなたの大著をいただくのに、もっともっとふさわしくあることを、心から希望いたします。たとえ私たちの研究が非常にちがっていたとしましても、私たち二人は真剣に知識の広がりを欲していると、私は信じています。これによって、やがては、人類の幸福が増すのは、たしかであります。」(同、73ページ)

3. さて、『ダーウィンをめぐる人々』についてですが、本書はダーウィンに直接、間接にかかわった24人の人々を通して、ダーウィン進化論の背景やその影響を具体的に見てみようとするものです。また、ダーウィン進化論を生み出したビクトリア朝のイギリス社会や科学界の状況を知ることができます。
 ダーウィンの知名度とは反比例して、『種の起源』を手に取って読まれる人は圧倒的に少ない現状ですが、この『ダーウィンをめぐる人々』の特徴の一つは、一般に流布しているさまざまな
科学史の人々とダーウィンに対する誤解について、「事実はこうなのだ」、と述べています

 編集部ではこの24人の人々のなかから、『資本論』と関連の深いハーバート・スペンサーの要約・抄録とマルクスについて報告をしてゆきます。これは、資本論入門3月号から始まる「
『資本論』の形態学と生態系」の序論に相当しますが、科学史上、ダーウィン進化論は「生物学と人類史の跳躍点」に位置するものです。


4. また、『資本論』のキーワードである「人間有機体」「社会的生産有機体」など「有機体概念」は、―スペンサーを連想させますが― ダーウィン進化論と深い関わりがあります。
 マルクスは、ダーウィンについて以下のように引用しています。
 「
ダーウィンは、自然的技術の歴史に、すなわち、動植物の生活のための生産用具としての動植物器官の形成に、関心を向けさせた。社会的人間の生産的器官の形成史、特殊の各社会組織の物質的基礎の形成史も、同じ注意に値するのではないか?」(『資本論』第13章機械装置と大工業、注89)
 ・・・次回 “ ダーウィンと「分業とマニュファクチャ(第12、13章)」 ” を参照してください・・・


5.
 1859年に『経済学批判』と『種の起源』が刊行され、人間社会と自然が連結した人類史とする展望が切り開かれ、画期的な理論群がヨーロッパ社会で誕生しました。
 マルクスは「人類社会の自然史過程」を『資本論』に次のように書き込んでいます。

 (1) 「労働はまず第一に、人間と自然とのあいだの一過程である。すなわち、人間がその自然との物質代謝を、彼自身の行為によって媒介し、規制し、調整する過程である。人間は、自然素材そのものにたいして、一つの自然力として相対する。彼は、自然素材を、彼自身の生活のために使用しうる形態において獲得するために、彼に身体のもっている自然力、すなわち腕や脚、頭や手を動かす。この運動により、彼の外にある自然に働きかけ、これを変化させるとともに、同時に彼は彼自身の自然を変化させる。・・・」(第5章労働過程と価値増殖過程、第1節労働過程)

 (2) 「商品流通そのものの最初の発展とともに、第一の変態 Metamorphoseの生産物、すなわち、商品の転化された態容、またはその金サナギGoldpuppeを、確保するという必然と熱情とが、発展してくる。商品を買うためにでなく、商品形態を貨幣形態で置き換えるために、商品は売られる。この形態変化 Formwechselが、物質代謝 Stoffwechselの単なる媒介から自己目的となる。・・・」(第3章貨幣または商品流通第3節貨幣)


 (3)
 「流通G-W-Gにおいては、両者、すなわち、商品と貨幣とは、ただ価値そのもののちがった存在様式としてのみ機能する。価値は、たえず一つの形態から他の形態に移行して、この運動の中に失われることがなく、かくて自動的な主体に転化される。・・・価値はここでは一つの過程の主体となる。この過程で価値は、貨幣と商品という形態の不断の交代の下にあって、その量自身を変化させ、剰余価値として、原初の価値としての自分自身から、突き離し、自己増殖G-G´をとげる。何故かというに、価値が剰余価値を付け加える運動は、彼自身の運動であり、彼の増殖であり、したがって、自己増殖である。価値は、自分が価値であるから、価値を付け加えるという神秘的な性質を得る。価値は生ける赤児を生む。あるいは少なくとも金の卵を生む。・・・」(第4章貨幣の資本への転化第1節資本の一般定式)

6. 一方、社会有機体説はサン・シモンの弟子のコントによって、「生物有機体や人間有機体」になぞらえて社会の構造・機能・変動を説明する社会有機体理論として形成されました。(実証哲学講義第4巻1839年)。また、スペンサーはダーウィン以前に生物進化論を発表して、「進化:エボリューションevolution」の用語が普及していきました。さらにスペンサーは、カントの星雲説から地球上の植物界、動物界にいたる「有機体」概念を人間社会にも広く適用しました。「社会有機体説」をダーウィン進化論と融合する形で、「社会ダーウィニズムの祖」とスペンサーが呼ばれることになります。
また、『ダーウィンをめぐる人々』に掲載された「マルクスとダーウィンの往復書簡」の「歴史的経過」報告―「
ダーウィン=マルクス書簡の伝説」―は、大変興味深いものがありますので、関係方面の方々の一層の検証が求められます。
 なお、『資本論』とダーウィン進化論の関係については、次回 「“
ダーウィンと「分業とマニュファクチャ」”(『資本論』第12、13章)~社会的人間の生産的器官の形成史~」において、改めて探求してゆきます。

 以上で、シリーズ 「
『資本論』の形態学W-G-Wと生態系G-W-G´」の前段階・序論として、『ダーウィンをめぐる人々』の-まえがき-を終えて、つぎに本論に入ります。



  
松永俊男著 『ダーウィンをめぐる人々』  朝日新聞社 1987年発行

 
  ダーウィン進化論の成立過程では、ヨーロッパ世界の多様な生物進化思想が誕生しています。同氏の『ダーウィン前夜の進化論争』名古屋大学出版会2005年も、西洋思想の「進化」には欠かせません。

   第1部 ダーウィン進化論について  ・・・・編集部による要約・抄録・・・・

 1 ダーウィン進化論の成り立ち

 ビーグル号航海のあいだ、ダーウィンは、種が不変であると信じていた。航海から帰った翌年の1837年3月に、種が変化すると考えるようになり、7月から、種の問題に関するノートブックを付け始めた。この時点でダーウィンは、さまざまな
生物が共通の祖先から樹木の枝分かれのように進化してきたことを確信していたが、進化の仕組みがわからず、考察を重ねた。
 1838年9月にマルサスの『人口論』を読んだことがきっかけとなって、自然選択説に到達した。1842年に進化理論の概要を「ペンシル・スケッチ」としてまとめ、1844年にはそれを拡充した「エセー」を執筆した。「エセー」の分量は、「スケッチ」の3倍、『種の起源』の3分の1、日本語にすれば文庫本1冊程度になる。そのまま出版できる形にまとめていたが、ダーウィンはこれを公表しなかった。 「エセー」の進化理論は、
生物の個体変異は新たな環境にさらされることによって誘発され、それが地理的に隔離されて新たな種が生まれる、というものであった。
 ダーウィンは1846年から8年間、蔓脚類(まんきゃくるい:フジツボの仲間)の研究に没頭し、それが終了した直後から、進化について本格的な研究を再開した。1856年に、『自然選択』と題するはずの大著の執筆に着手した。
この間にダーウィンの進化理論はしだいに変化し、
生態学的な観点が大幅に取り入れられるようになった。1857年2月に「生存闘争」を独自の意味で用いるようになり、同年7月に「分岐の原理」を樹立した。
 1844年の「エセー」では、生物の変異体はまれにしか生じない、とみていたが、大著の草稿では、小さな個体変異がありふれたものであるとみなすようになった。また、隔離がなくても、生活様式の違いによって種の分化が起きる、と主張するようになった。これが「分岐の原理」である。
 大著を執筆している最中の1858年6月18日に、ウォレスの論文と手紙が到着し、7月1日のリンネ学会の会合で二人の共同論文が報告された。ダーウィンは大著の執筆を中断し、その要約を執筆した。それが翌1859年11月に出版された『種の起源』である。『種の起源』は第6版(1872年)まで改訂が重ねられ、改版のたびに内容に手が加えられている。しかし、基本的な主張に変化はなかった。


 2 進化の事実の証明

 ダーウィンの生物学上の功績の第一は、歴史上初めて、枝分かれ的な生物進化の事実を、十分な証拠を挙げて主張したことである。
 もちろん、種の変化を主張したのは、ダーウィンが最初ではない。祖父のエラズマス・ダーウィンやフランスのラマルクなどが、進化論の先駆者として有名である。ラマルクの進化論は、ライエルの『地質学原理』第2巻(1832年)によってイギリスでも知られていた。
 本書の「チェンバーズ」「テニソン」「キングズリー」あるいは「スペンサー」などの項を見てもわかるように、1850年代のイギリスでは、種の変化の考えがかなり広まっていたのであり、突如としてダーウィンの進化論が出現したわけではない。
 しかし、十分な証拠に基づいて生物進化の事実を主張したのは、ダーウィンが最初であった。また、共通の祖先からの枝分かれ的な進化を明確に主張したのも、ダーウィンが最初であった。ラマルクやチェンバーズは、さまざまな生物がそれぞれ別々の原始生物から直線的に進化してきた、とみなしていたのである。
 『種の起源』の出版後10年以内に、枝分かれ的進化の考えは、大多数の生物学者に受け入れられた。現在では、枝分かれ的な進化ということが、あまりにもあたり前になってしまったため、かえってこの面でのダーウィンの功績が忘れられがちである。

 3 自然選択説

 ダーウィンの自然選択説の骨子は、過剰繁殖のために同じ種の個体の間で生活資源の奪い合い(種内競争)が起こり、様々な方向にでたらめに生じた遺伝変異のうち、有利な変異をもった個体が生き残って子孫を残す、というものである。
 実は、こうした考えはダーウィン独自のものではなく、当時の生物学で、ごく当然のこととして、広く認められていたのである。ただ、ダーウィン以外の人々は、これを、種を一定の状態に保つ神の手段とみなしていた。ダーウィンはこれを、種を変化させる自然現象とみなしたのである。
 
ダーウィンの自然選択説は、偶発的な遺伝変異を進化の素材とみなし、それと環境とのかかわりの中で、生物の新たな適応形質がもたらされる、と主張する。これは、無目的な自然現象によって生物の合目的性がもたらされると主張することであり、生物の合目的性を神の意図によるとする伝統的な目的論を否定することになる。生物学はこれによって近代科学としての足場を築いたといえよう。

 『種の起源』には「目的論」という言葉が使われていないが、同書の出版直後から、これが目的論を否定していることが指摘されていた。マイバートやバトラーは、それ故に自然選択説を攻撃し、ティンダルやエンゲルスは、それ故に自然選択説を高く評価したのである。
 ダーウィンは、自然選択が、過剰繁殖による種内競争の結果としての優勝劣敗、として生じると考えていた。先に述べたように、この図式自体はダーウィン独自のものではなく、当時は常識といってよいものであった。そのため、ダーウィンもこれを、ごく当然のこととして受け入れ、事実によって証明しようとしていない。『種の起源』の中でも、自然選択説に関する部分が最も実証性に乏しい。
 現在の生物学では、「過剰繁殖、種内競争、優勝劣敗、適応性の向上」というダーウィンの考えは否定されているといってよい。生物は無駄に多数の卵や子供を産んでいるのではない。種内競争は生物界で普遍的なものではない。同じ種の個体でも遺伝形質の違いによって繁殖率に差があること、すなわち自然選択が生じることと、種内競争とには必然的な関係はない。また、通常、自然選択は種を一定に保つように働いている。こうしたことは、現在の正統派の進化学者が繰り返し指摘していることである。現在の生物学は、ダーウィンの主張をなにもかも認めている、というわけではないのである。

 
「生存闘争」(生存競争)という言葉も、自然選択説についての議論を混乱させる一因になっている。この言葉はダーウィン以前から、「生きるか死ぬかの闘い」を意味するものとして、しばしば用いられていた。ダーウィンはこの言葉を、生態学的な観点を強調するために、特別な意味で用いようとした。しかし、ダーウィンの定義はあまりに漠然としており、しかも、もともとの「生死の闘い」の意味で用いることも多かった。そのため、自然選択説は生死の闘いを進化の要因としている、という解釈が広まった。ダーウィン自身の進化論についていえば、この解釈は必ずしも間違いではない。しかし、現在の生物学によれば、自然選択は「生死の闘い」に関係がない。 結局、現在の生物学は、ダーウィンの自然選択説の非目的論としての側面を、生物学の基本的な考え方として前提しているが、進化の過程についてのダーウィンの仮説を受け入れてはいないのである。〔生物生態学的相互作用と自然淘汰の解説は、21世紀に読む「種の起原」 デイヴィット・N・レズニックみすず書房2015年発行を参照してください〕


 
4 分岐の原理

 ダーウィンは1844年の種に関する「エセー」で、種の分化の要因としては気候などの物理的要因に注目していた。その後、しだいに生物の諸関係を重視するようになり、分岐の原理が成立した。自然選択説が、いわば頭の中で作られたのに対し、分岐の原理は野外の動植物の観察資料から誕生したものであった。『種の起源』の中で、分岐の原理に関連した記述は生彩に富み、同書の進化要因論を生き生きしたものにしている。
 分岐の原理に関連した諸問題の多くが、現在の生物学でも大きな課題となっている。たとえば、生物の個体群にどれだけの遺伝変異がどのように保存されているのか、隔離がなくても種の分化が可能かどうか、全く同じ生活様式をもつ種の共存は可能かどうか、といった問題がそれである。

 
5 ダーウィン進化論とキリスト教

 本文の中で繰り返し述べたように、17世紀の後半以来、イギリスの科学は
自然神学の枠の中で行われていた。無生物の世界については、神の設定した普遍法則が求められ、生物の世界については、生物の構造の巧妙なデザイン、あるいは奇跡的な種の創造のうちに神の英知を認めようとしていた。
 ダーウィンも自然神学のなかで育ち、その進化論も自然神学のなかで生まれた。1844年の「エセー」によると、環境が変化したときに生じた変異体のうち、新たな環境に最も良く適応したものが、超越的存在、すなわち神によって選択される。こうして生じた新しい種は、その環境に置かれる限り、改良の余地のない最良のものである。
 ところが、「分岐の原理」が成立する過程で、ダーウィンの考えはしだいに変化していった。
環境の変化がなくても遺伝変異は常に生じており、種は常に、より適応性の高いものへと変化していく、と考えるようになった。こうなると、神が最良の世界を作り出す、ということがいえなくなり、自然選択は神が直接かかわるものではなく、自然界の一つの普遍法則とみなされるようになった。
 それでもこの法則を、神の設定したものとみなすこともできる。『種の起源』を出版した当時のダーウィンは、そうした立場を取っていた。そのため『種の起源』は、自然神学の著書としての体裁をとっている。巻頭には、自然神学の基本的立場を述べているヒューエルとベーコンの言葉が引用され、本文の最後では、同書の全体を自然神学の枠の中に位置づける記述がなされている。
 しかし『種の起源』の出版後、ダーウィンはライエルらと議論するうちに、自然選択を神に帰着させるのが無理であることに気付き、1860年代の後半には、自然選択を無目的な自然現象とみなすようになった。しかし、『種の起源』は最後の第6版になっても、自然神学書としての体裁をとっていた。

 しかし、『種の起源』が伝統的な自然神学を否定していることは明らかであり、ヘンズロー、セジウィック、ハーシェルといった旧世代の学者たちは、伝統的な自然神学の立場から、こぞってダーウィンに反対したのである。一方、新世代を代表するハクスリーやキングズリーは、科学と宗教を別個の領域のものと見て、ダーウィンを擁護した。
 19世紀前半まで、自然神学は、自然および人間に関する諸問題についての共通の知的枠組となっていた。しかし、1850年代になると自然神学が自己崩壊し、共通の知的枠組みとして機能しなくなる。『種の起源』は、こうした傾向を促進することになったのである。
 ダーウィンは牧師を目指したほどであるから、もともとは、国教会の正統的な信仰に疑問をもっていなかった。しかし、進化論を完成する過程でしだいに信仰が薄れ、1860年代の後半には、キリスト教信仰を完全に失った。しかしダーウィンは、進化論と宗教が両立しうることを、繰り返し強調している。
『種の起源』とキリスト教の関係については、キリスト教の立揚からこれを否定するもの(ウィルバーフォース)、キリスト教の立場からこれを支持するもの(キングズリー)、キリスト教とは無関係としてこれを支持するもの(ハクスリー)など、さまざまな対応があった。この状況は現在でも変わっていない。


 6 ダーウィン進化論と人間論

 ダーウィンは1837年に生物進化の事実を確信した当初から、人間も進化の産物であると考えていた。『種の起源』ではこの問題を避けていたが、同書の主張が正しければ、人間も下等生物から進化してきたことになるのは明白であった。これは、人間を神と獣の中間的存在とみなす伝統的な人間観を否定するものであり、欧米の人々には衝撃的な主張であった。セジウィックとウィルバーフォースの激しい反論からも、それがうかがえる。ライエルも人間を特別な存在とする見方を捨てることができず、最後までダーウィンの進化論を受け入れることができなかった。ウォレスも、1869年以降、人間の精神は進化の産物ではなく、直接、超越者に由来する、と主張するようになった。
 人間の位置付けはキリスト教の教義と直接かかわるだけに、欧米では常に大きな関心が払われている。



 7 ダーウィン進化論と社会思想

 ダーウィンはビクトリア朝の典型的な上層中流階級の人物であった。「ウェジウッド2世」の項で見たように、産業資本家層の生活信条の中で育ち、また、古典派経済学にも通じていた。こうした経済思想は、ダーウィンの進化学説が成立する要因の一つであり、ダーウィンの進化論の中に社会思想的な要素が混入することになった。
 ビクトリア朝の中流階級の社会観を共通の背景として、ダーウィンの生物進化論、スペンサーの進化哲学、ゴルトンの優生学などが、それぞれ別個に誕生した。生物の進化と人間社会の進歩との混同は、『種の起源』の影響というよりも、スペンサー哲学の流行に由来するとみるべきであろう。
 生物学に基づく安易な人間論や社会論は、しばしば大きな過ちを犯す。「エマ・ダーウィン」の項で見たように、ダーウィンにも女性差別などを自然選択説によって当然視しようとする傾向があった。生物学から特定の立場の社会思想が必然的に導かれる、ということはない。現在の生物進化論からは、社会思想的な要素を厳しく排除すべきである。
・・・以下、省略・・・


  第2部 ダーウィンに直接、間接にかかわった24人の人々・・・要約・抄録・・・


   
~ ハーバード・スペンサーとカール・マルクス ~

  1. 万物の進化を唱えた社会学者


  
ハーバード・スペンサー Herbert Spencer 1820-1903

 イギリス社会学の創始者とされるスペンサーは、進化論を中心にした哲学体系を築いて高名をはせた。彼はダーウィン以前に生物進化論を発表しており、進化を表す言葉として「エボリューションevolution」を普及させ、自然選択の同義語として「最適者の生存」という表現を作った。スペンサーは社会ダーウィニズム(個人間あるいは国家間の生存競争によって社会が進歩するという主張)の祖とされることも多いが、スペンサー自身はダーウィン主義者ではなかった。

 スペンサーが進化論を支持するようになったきっかけは、1840年にライエルの『地質学原理』第6版(1840)を読んだことであった。当時、鉄道建設会社の技師をしていたスペンサーは、建設現場から出る化石に興味を持ち、ライエルの著書を読んだ。ライエルはこの著書でラマルクの進化論を紹介し、それが間違いであると主張している。ところがスペンサーは、ラマルク学説にひかれ、これを受け入れたのである。
 1851年にスペンサーは、イギリスの生理学者W・B・カーペンターの『生理学原理』第3版(1851)を読み、ドイツの発生学者K・E・フォン・ベーアが、生物の個体発生は一様性(全体が同じものでできていること)から多様性(全体が多くの異なる部分からできていること)への変化である、と主張していることを知った。これが契機となって、あらゆる現象を一様性から多様性に向かう変化として理解するようになった。
 スペンサーは、1852年3月の『リーダー』誌に発表した小論文「発達仮説」で、種の創造論を否定し、進化論を主張した。この論文の初めの部分で、「ラマルクとその追随者の理論を、事実による証明が十分でないとして無造作に拒否する人々は、彼ら自身の理論(創造論)を証明する事実が全くないことを忘れているように見える」といっている。スペンサーの進化理論は、生物には進歩する傾向が内在しており、環境への適応は獲得形質の遺伝によってもたらされるというもので、これはまさにラマルクの学説であった。1857年の論文「進歩、その法則と原因」で、宇宙、生物、社会のすべての変化を、進歩すなわち一様性から多様性への移行として記述した。
 1862年の著書『第一原理』以降、この意味での進歩に「エボリューション」の語を用いるようになった。エボリューションはもともと、巻物を広げることを意味していたが、発生学では、卵から複雑な体が出来てくる過程にこの語を用いていた。発生学者ベーアの影響を受けたスペンサーは、この語をあらゆる現象に適用し、生物の進化にもエボリューションを用いたのである。
 スペンサー以前にも、生物進化の意味でエボリューションを用いた例がないわけではなかったが、ごく少なかった。一般的には「トランスミューテイション(transmutation 転成)」の語が用いられていた。ダーウィンは『種の起源』(1859)で「変化を伴う由来」という表現を用い、エボリューションは一度も用いていない。スペンサー哲学が広まるにつれてエボリューションの語も普及していった。ダーウィンも『種の起源』第6版(1872)では、加筆部分にエボリューションを用いている。
 エボリューションという語には、目標を目指して進歩する、という意味あいがからみついている。このようなやっかいな言葉が、種の「変化」を意味するものとして生物学に導入され、進化にかかわる議論を混乱させる一因になった。
 スペンサーは『生物学原理』第1巻(1864)で、自然選択を生物進化の要因の一つとして取り上げ、その同義語として、初めて、「最適者の生存」という表現を用いた。ただし、進化は主として獲得形質の遺伝によるとし、自然選択はそれを促進する従属的な要因とみなしていた。
 「自然選択」というのはダーウィンの表現だが、これには批判が多かった。自然が擬人化され、超越者の意思によって選択がなされるように受け取れる、というのである。ダーウィンもこの批判を認め、『種の起源』第3版(1861)では、「文字通りの意味に取ると、疑いもなく、自然選択は間違った名称である」といっている。
 ウォレスはダーウィンへの手紙(1866年7月2日付)で、「自然選択という言葉に伴う誤解は、スペンサーの用語すなわち『最適者の生存』を採用することによって、容易にそして極めて効果的に取り除くことができると思います。この用語は事実を平明に表現しています」と述べた。ダーウィンは同月5日付の返信で、「スペンサーの『最適者の生存』というすぐれた表現の利点について、あなたがいわれることに全面的に賛成です。もっとも、あなたの手紙を読むまではこのことに気が付きませんでした」といっている。
 『種の起源』第5版(1869)では、「最適者の生存」を「自然選択」の同義語として採用し、「ハーバート・スペンサー氏がしばしば用いている『最適者の生存』という表現の方がより正確である」と述べている。ハクスリーはこれに批判的であった。1893年の講演「進化と倫理」で、「『最適』には『最良』という意味があり、最良という言葉には道徳的なにおいがある」と指摘し、これが生物の進化と社会の進歩を混同させる一因になっている、と主張した。

 ダーウィンとスペンサーの最初の交渉は、1858年11月のことであった。ダーヴィンとウォレスの共同論文が、その年の7月に発表されたことを知ったスペンサーは、「発達仮説」などを収録した論文集(1857)をダーウィンやフッカーに送った。ダーウィンは礼状(11月25日付)の中で、「私は問題を、単に、ナチュラリストとして扱い、一般的見地からは扱っていません」といっている。ダーウィンは時流に逆らわず、スペンサーの用語を採用したが、スペンサーの学問全体に懐疑的であった。ダーウィンは『自伝』の中で次のように述べている。
 「彼がものごとを扱う際の演輝的な方法は、私の心構えに全く反している。彼の結論が私を納得させたことは一度もない。……彼の基本的一般化は、哲学的には価値があるのかもしれないが、厳密な科学にはなんの役にも立たないと思われる。……とにかく私には全く役に立たなかった」
 スペンサーの方は、彼の哲学がダーウィンの進化論を応用したものと見られがちなことにいらだっていた。『自伝』(1904)の中で、ダーウィンより先に進化論を公表したことを強調している。
   *
 スペンサーの生前から、スペンサー哲学は自然選択説を社会に適用し、生存競争を社会の進歩の要因としている、という解釈が広まり、社会ダーウィニズムという呼称も生まれていた。ハクスリーも前述の講演で、スペンサーが自然選択説を社会に適用している、と非難している。スペンサーは直ちに反論し、「粗野な個人主義が私に帰せられることがあるが、これほど私の考えと正反対のものはない」といっている。
 確かに、スペンサーは、ダーウィンの自然選択説を知る以前から、個人の自由な活動による社会の進歩を主張していた。最初の著書『社会静学』(1850)では次のようにいう。
 野生動物では弱い個体を切り捨てることによって種の弱体化を防いでいる。「現在の人類の幸福と、究極の完成に向けての進歩は、動物の世界と同じ、厳しいが慈悲深い規律によって維持されている。……不能者の貧困、無分別な者の困窮、怠け者の飢餓、強者が弱者を押しのけることによって多くの人が悲惨な目にあうこと、これは偉大で賢明な慈悲深い神慮である」。救貧法などの福祉政策は、かえって事態を悪くする、という。
 この本でスペンサーは、個人個人の自主的な努力によって社会が進歩すると主張しており、弱者の困窮は人々の努力を促すものであり、福祉は努力に水を差す、と見ている。弱者の切り捨てそのものを進歩の要因としでいるのではない。 『生物学原理』第1巻(1864)では自然選択を進化の従属的な要因と認めたが、文明化した人類では、「最適者の生存が働くことはほとんどない」としている。
 社会は個人の自主的な努力によって進歩し、生物は主として獲得形質の遺伝によって進化するというスペンサーの立楊は、終生変わらなかった。そのため、社会思想史家のJ・D・Y・ピール(1971)やR・C・バニスクー(1979)は、スペンサーを社会ダーウィニズムと呼ぶのは適切ではない、といっている。しかし、結果として強者による弱者の切り捨てを認め、それを自然選択とみなす記述もある以上、スペンサーを「社会ダーウィニズムの祖」とするのは必ずしも間違いとはいえないであろう。
・・・以下、省略・・・



  2. ダーウィン=マルクス書簡の伝説

  
     
カール・マルクス Karl Marx 1818-1883

 1931年以来、ダーウィンとマルクスの関係についてとんでもない伝説がまかり通ってきた。マルクスが『資本論』の一部にダーウィンへの献辞を書くことを望み、ダーウィンがそれを断った、というのである。
 この伝説の根拠とされたのが、1880年10月13日付のダーウィンの手紙である。この宛て先不明の手紙が、マルクスに宛てて献辞を断ったものとされてきた。しかし最近になって、この手紙はマルクス宛てのものではなく、イギリスの文筆家エドワード・エーブリング(1849-1898)宛てのものであることが判明し、伝説は崩れ去ったのである。
 この手紙でダーウィンは次のように述べている。「御著のいずれかの部分あるいは巻が私に献辞されることを私はお断りしたいと思います。私の関知しない一連の出版計画にある程度私が賛同している、ということになってしまうからです。それに、私はすべてのことがらについて自由思想に強く共感するものではありますが、キリスト教や有神論への直接攻撃は大衆に対してほとんど効果を持たないとみております。……私の思い過ぎかもしれませんが、どんな形にもせよ、私が宗教への直接攻撃を助けたならば、私の家族が苦しむのではないか、ということも気がかりなのです」
 この手紙は1931年にモスクワのマルクス・エンゲルス研究所の機関誌『マルクス主義の旗のもとに』に、ロシア語に訳されて公表された。手紙はマルクス宛てのものと断定され、世間体を気にするダーウィンのようなブルジョア科学者には、真理を探究する自由がないことを示している、と解釈された。
 この手紙はロシア語訳からドイツ語に訳され、さらにドイツ語訳から英語に訳されて世界中に広まっていった。手紙についてのマルクス・エンゲルス研究所の解釈も、そのまま受け売りされていった。
                       *
 ところが1970年代になって、アメリカの大学院生マーガレツト・フェイと社会学者ルイス・フオイアーが、それぞれ別個に、この手紙に疑問を持って調査を始めた。彼等の疑問点は、ほぼ共通していた。
  第一に、『資本論』の、どの巻のどの版、あるいは翻訳をとってみても、1880年に献辞を申し入れたというには年代が合わない。第二に、当時のマルクスには「一連の出版計画」に該当するものはない。第三に、『資本論』ではキリスト教あるいは有神論を直接攻撃してはいない。第四に、マルクスは自由思想運動を嫌悪していた。イギリスの自由思想運動のリーダーであったC・ブラドローとマルクスは犬猿の仲であった。問題の手紙の受取人がマルクスだとすると、どうしてもつじつまがあわないのである。
  フォイアーとフェイの二人はそれぞれに、この手紙の受取人はエーブリングであると推定して論文を書いた。フォイアーは『アナルズ・オブ・サイェンス』に、フェイは『ジャーナル・オブ・ヒストリー・オブ・アイディアズ』に投稿し、ともに1974年12月に受理された。フォイアーの論文は翌1975年の1月号に掲載されたが、フェイの論文の発表は1978年になってしまった。そのためこの研究はフォイアーの業績とされることが多い。
  精神科医でダーウィン研究家のR・コルプは、フェイの研究にかかわったので、1979年に若くして亡くなったフェイの功績を認めさせようと躍起になっているが、フォイアーはこれをまったく無視している。
 さて、この研究に刺激されてエーブリングの手紙探しが始まる、1975年8月、ケンブリッジ大学図書館のダーウィン関係文書の中に、エーブリングが書いた1880年10月12日付のダーウィン宛ての手紙が発見された。この手紙の内容はまさに問題のダーウィンの手紙(翌日の10月13日付)と照応するものであった。
 エーブリングはロンドン大学で生物学を学び、ハクスリーと同様に科学の普及のために精力的に解説文を執筆し、早くからダーウィン説を支持していた。1872年か1873年に行った進化論についての講演には、マルクス一家も聴講に来ていて、マルクスはエーブリングに賞賛の言葉を掛けている。

 エーブリングは1879年に無神論を宣言して自由思想運動に参加し、ブラドローおよびベザント夫人に協力して反宗教協会を運営するようになった。1880年当時、エーブリングはこの協会の機関誌『ナショナル・リフォーマー』に、次々とダーウィンの著作の解説を掲載していた。この解説が一つにまとめられて『学生のダーウィン』と題され、自由思想社刊行の『科学と自由思想の国際双書』の第2冊目として出版されることになった。その第1冊目はドイツの唯物論者L・ブフナーの『動物の精神』の英訳であった。
 エーブリングは発見された手紙の中で、『学生のダーウィン』にダーウィンへの献辞を書く許可を求めている。ダーウィンはエーブリングらの運動に荷担することを嫌って献辞を断ったのである。『学生のダーウィン』は翌1881年にダーウィンへの献辞なしで出版された。
 ・・・・中略・・・

 こういう事情が明らかになり、ダーウィン=マルクス書簡の伝説はついえたのである。ではなぜこのような伝説が生まれたのであろうか。
 マルクスは1849年以来ロンドンで生活し、ダーウィンの亡くなった翌年の1883年に亡くなった。マルクスの遺稿や書簡はイギリスに在住していたエンゲルスが保管していたが、1895年にエンゲルスが亡くなってからは、イギリス在住のマルクスの四女エリナ(ドイツ語読みではエレアノル)のもとに移された。エリナは1884年にエーブリングと結婚していた。二人は協力して社会主義の普及と労働運動の指導にあたった。また二人はマルクスの遺稿と書簡の整理に着手し、その成果の一部がエーブリングの論文「チャールズ・ダーウィンとカール・マルクスの比較」(1897)に発表された。
 ところが、エーブリングは女性問題でも、経済面でも、エリナを裏切るようになった。しかしエリナは、エーブリングが重病にかかると治療のために献身的に努めた。それでもなお裏切られ、絶望したエリナは1898年に自殺してしまった。エーブリングも病気のためにその年のうちに亡くなった。
 マルクスの書簡類はフランス在住の次女のローラ(ドイツ語読みではラウラ)のもとに移されたが、ローラも1911年に夫のラファルグとともに自殺してしまった。そこで書簡類はドイツ社会民主党が保管することになった。その中にはマルクス宛てのものだけでなく、エーブリング宛てのものもまぎれこむことになった。
 ドイツ社会民主党に保管されているときに、書簡類は執筆者のアルファベット類に整理された。そのとき、宛て先には十分な注意が払われず、問題のダーウィンの手紙がマルクス宛てのものとされてしまったらしい。1920年代にこの手紙の写真がモスクワに送られ、それがロシア語に翻訳されて1931年に発表されたのである。
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 マルクス・エンゲルス研究所は1921年の創立以来、リヤザノフ所長のもとでマルクス主義の文献について優れた業績を残してきた。ところが1931年にはスターリンによるリヤザノフ弾圧が始まっていた。そのため問題の書簡を吟味する余裕はなかったと思われる。リヤザノフはその年のうちに共産党を除名され、研究所もマルクス・エンゲルス・レーニン研究所となった。それでもこの研究所はマルクス研究の最高権威と目されていたので、問題の手紙に関する発表は、なにも疑われずに広まっていった。
 オックスフォード大学のI・バーリンはその著書『カールーマルクス』(1939)でこの伝説の普及に一役買ってしまったが、1978年に次のように言いわけしている。
 「私がこの本を書いていた1930年代には、モスクワのマルクス・エンゲルス・レーニン研究所だけが、ロシア語訳の形にもせよ、マルクスとエンゲルスの著作を刊行し続けており、マルクスの生涯と著作に関する十分で最も権威ある情報源と広く認められていたのである」
 なお、問題の書簡は、現在、アムステルダムの社会史国際研究所に保管されている。
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 ところでダーウィンとマルクスは互いにどの程度関心を持っていたのであろうか。マルクスの関心をダーウィンに向けたのはエンゲルスであった。エンゲルスは『種の起源』を出版直後に読んで、これを絶賛する手紙をマルクスに書き、目的論を否定したことを高く評価している。マルクスはその1年後に『種の起源』を読み、エングルスに追随した評価をしている。
 しかしマルクスのダーウィン評価はしだいに低くなり、1866年にはダーウィン学説の評価をめぐってエンゲルスと論争している。それでも『資本論』第1巻(1867)の中の2か所の脚注で『種の起源』を引用し、生物の器官の分化と道具の発達とを比較している。しかし、マルクスは生物の進化と社会の進歩を明確に区別しており、ダーウィニズムを社会にそのまま適用するブフナーらを激しく非難していた。

 1873年6月にマルクスは『資本論』第1巻の第2版をダーウィンに送った。この本はダウンのダーウィンの家に現存しており、「心からの崇拝者カール・マルクス」と署名されている。
 当時の書物は読者がページを切り開きながら読むようになっていたが、ダウンの家の『資本論』は全822ページのうち初めの105ページしか切り開かれていない。『種の起源』の引用があるページは本の中ほどなので開かれていない。またページの切り開かれた部分には書き込みがない。ドイツ語が苦手であったダーウィンはほとんどこの本を読まなかったのであろう。
 1873年10月1日付でダーウィンはマルクスに儀礼的な礼状を書いている。ダーウィンとマルクスの直接交渉はこれが最初で最後であった。ダーウィンはマルクスにまるで関心がなかったのである。また、マルクスのダーウィンに対する関心もますます薄くなっていった。
 ところが、エングルスは終始ダーウィンに強い関心を持っていた。マルクスの葬式のあいさつのなかで、「ダーウィンが生物界の発展法則を発見したように、マルクスは人類の歴史の発展法則を発見したのです」と述べている。
 このようなエングルスのダーウィン評価が、その後のマルクス研究者にマルクスとダーウィンの関係を強く印象付け、ダーウィン=マルクス書簡の伝説を生む要因の一つになったと思われる。
 この伝説が誤りであることは、わが国でもすでに繰り返し紹介されているが、いまでもそのまま語られることがある。
 特定の思想的立場から、無意識にもせよ歴史的事実が曲げられ、伝説が生まれる。しかも一度広まった伝説を覆すのは、科学史の分野でもなかなか難しいのである。
 ・・・以上、終わり・・・



  
第3部 『資本論』生誕150周年 資本論入門 3月号への序奏

  名著 『ダーウィンをめぐる人々』 は、私たちの『資本論』探究に際して貴重な教訓ー ダーウィンに対する誤解について、「事実はこうなのだ」、-を与えてくれます。
科学史、あるいは『資本論』研究史における「事実」の見極めがいかに難しいものであるか、“他山の石”とすべきものの一大イベントとなっています。

 資本論ワールド編集部では、『資本論』生誕150周年の機縁でもあり、「21世紀に『資本論』を読む意義とは何か?」を問い続けています。2016年創刊号からヘーゲルに学びながら2年間が経過しました。数々の教訓に支えられながら「事実なこうなのだ」と新たな登山口は果たして発見されたのだろうか?
 今月の「資本論入門」は、中腹の山小屋からゲーテのアルプス越えを目指してゆくことになります。

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 画期的な「商品の変態論」とゲーテ形態学の道標へ・・・・

 『資本論』第1章に始まる「商品・価値論」と第4章貨幣の資本への転化に登場する「商品・価値論」では、商品世界の舞台-商品の変態による役柄・ペルソナが変化しています。「流通G-W-Gにおいては、両者、すなわち、商品と貨幣とは、ただ価値そのもののちがった存在様式としてのみ機能し、貨幣はその一般的の存在様式として、商品はその特別の、いわばただ仮装した存在様式としてのみ機能」することになります。(岩波文庫p.268-269)


 「価値は、あるときは貨幣形態や商品形態を採り、あるときはこれを脱ぎすてる」のであって、固定したままの価値形態が継続するわけではありません。そこで思い出されるのが、
アダム・スミスの「価値論―価値の定義」です。アダム・スミスは『諸国民の富』(岩波文庫p.146)の中で「価値 VALUE」〔「商品価値の2要素(Die zwei Faktoren der Ware:商品の2要素-使用価値と価値)」〕について次のように説明しています。

 「ところで、それらの財貨を貨幣と交換するにせよ、あるいはそれらをたがいに交換するにせよ、そのばあいに人々が自然にまもる諸法則とはどのようなものか、ということをわたしはすすんで検討するであろう。これらの法則は、財貨の相対価値または交換価値(relative or exchangeable value)とよんでもさしつかえないものを決定する。
 注意すべきことは
価値(VALUE)ということばには二つの異なる意味があるといことであって、それはあるときにはある特定の対象の効用(utility)を表現し、またあるときにはその特定の対象を所有することによってもたらされるところの、他の財貨にたいする購買力(power of purchasing other goods)を表現するのである。前者を使用価値(value in use)、後者を「交換価値」(value in exchange)とよんでさしつかえなかろう。最大の使用価値をもつ諸物がほとんどまたはまったく交換価値をもたないばあいがしばしばあるが、その反対に、最大の交換価値をもつ諸物がほとんどまたはまったく使用価値をもたないばあいもしばしばある。水ほど有用なものはないが、それでどのような物を購買することもほとんどできないであろうし、またそれと交換にどのような物をえることもほとんどできないであろう。これに反して、ダイヤモンドはどのような使用価値もほとんどないが、それと交換にきわめて多量の財貨をしばしばえることができるであろう。」

 このアダム・スミスの「商品価値(VALUE)定義」を廻って「経済学の理解があるから」として『資本論』第1章では、古典派経済学の人々と「対話篇」を語ってゆきます。しかしこの対話は、第3章からマルクスの独演会へと舞台は急回転してゆきます。
 「商品の交換過程は、矛盾したお互いに排除しあう関係を含んでいることを知った。商品の発達は、これらの矛盾を止揚しないで、それが運動しうる形態を作り出している。したがって、われわれは全過程を、その形式的側面から、したがって、ただ
商品の形態変化または社会的物質代謝を媒介する、その変態をのみ、考察しなければならぬ。」こうして、「商品の変態W-G-W」が開始されてゆきます。
 ここでは、アダム・スミスの「商品価値」の世界からは遠く離れてしまっています。しかし、読者はそれとは気づかずに、読み続けてゆきます。舞台装置の何処に工夫―
スミスの世界からの離脱―がほどこされたのでしょうか?
 『資本論』探検隊が発見した新たな登山口は、「第1節価値の尺度―“諸商品を価値として尺度すること”」です。マルクスは、商品と貨幣の関係を新しく定義しなおして、第3章商品流通の道標に灯火してゆきます。それにつれて登山者たちは、アダム・スミス経済学の工程表から離脱し、
「商品の変態」という「ゲーテ形態学」の登山口に向かうことになります。


  「諸商品は貨幣によって通約しうるべきものとなるのではない。逆だ。すべての商品は、価値として対象化された人間労働であり、したがって、それ自体として通約しうるものであるから、その価値を同一の特殊な商品で、共通に測り、このことによってこの商品を、その共通の価値尺度、または貨幣に転化しうるのである。
価値尺度としての貨幣は、商品の内在的な価値尺度である労働時間の必然的な現象形態 Erscheinungsformである(注50)。」 
 
〔→マルクスはここで、(注50)を挿入しています。この注は、古典派経済学からなぜ離陸・take offしなければならないのか、山岳ガイド役となっています。岩波文庫p.168〕
 (注50)
 「なぜ貨幣が直接に労働時間そのものを代表しないのか、したがって、例えば一紙幣が X労働時間を表わすというようにならぬのかという問題は、きわめて簡単に、なぜ商品生産の基礎の上においては、労働生産物が商品として表示されねばならぬか、とい問題に帰着するのである。なぜかというに、商品の表示は、この商品が商品と貨幣商品に二重化するということを含んでいるからである。あるいはなぜ私的労働は直接に社会的労働として、すなわちその反対物として、取扱われることができないかの問題に帰着する。・・・」


 いよいよ私たちは、『ダーウィンをめぐる人々』と別れを告げて、ゲーテとヘーゲルの時代相を遠望しながら、
シリーズ 「 『資本論』の形態学W-G-Wと生態系G-W-G´に向かってゆきます。

   ・・・以上で、長い<コラム16>を終わります。・・・