トマス・アクィナスの哲学
クラウス・リーゼンフーバー 『西洋古代・中世哲学史』 平凡社
13 トマス・アクィナスの哲学
スコラ学は決して一つの統一的な学派をなしているわけではない。それは、スコラ学の源泉がきわめて広範で、
多種多様であることからも当然理解できることである。確かにスコラ学の内部には一定の問題領域や方法に関する
共通性があり、またそれはキリスト教的中世という同じ精神的世界を背景としているが、同時にそこには真の多様性があり、
徹底的な論争が行われていたのである。したがって13世紀の盛期スコラ学がたった一人の思想家によってすべて代表され
うるとは考えられない。しかし、このことを考慮に入れた上でも、やはりトマス・アクィナス(1224/25~1274年)をこの時代の
精神を最も本質的に体現する思想家とみなすことには十分な理由がある。彼は自らの時代の思想的課題に正面から答えよう
とし、その思弁の深みと明晰さには比類がなく、その思惟は、多種多様な源泉を積極的に摂取しながら、それらを首尾一貫
した統一にもたらすことによって、絶妙な均衡を保ち徹底的に練り上げられた一つの神学的・哲学的思想体系を形成している
のである。
★生涯と著作
トマス・アクィナスは、貴族の家の末子としてス南イタリアのアクィノと言う町のそばのロッカセッカの城塞で生まれた。
彼が5歳になると、貴族の末子は聖職者になるという当時の習慣に従って、ロッカセッカに近いベネディクト会の発祥の地で
あるモンテ・カッシーノ修道院に送られ、将来のための初等教育を受けた(1230~1239年)。その後、彼はナポリに出て、
ナポリ大学の人文学部に入学したが、そこには著名な論理学者であったヒベルニアのペトルス(13世紀)がおり、
トマスは彼の下で初めてアリストテレスの哲学に触れたと思われる。トマスはこのナポリでドミニコ会士たちと出会い、
教会での栄達を望む家族の反対を押し切って、清新な活動を展開していたこの新しい托鉢修道会に入会した(1244年)。
ドミニコ会はさらなる勉学のため彼をパリに送る。このパリ大学での研鑽時代(1245~1248年)に、彼はドミニコ会随一の
大学者であったアルベルトゥス・マグヌスの下で学ぶようになった。トマスは、ドミニコ会の神学大学を創設するためにケルンに
赴くアルベルトゥスに従い、引き続いてケルンでアルベルトゥスの指導を受ける(1248~1252年)。アルベルトゥスの下で学んだ
このパリとケルンにおける時期に、彼はこの偉大な教師からアリストテレスとディオニュシオス・アレオパギテスの著作の講義を
受けている。その後パリに戻った彼は、神学士としてまず聖書を、次いでペトルス・ロンバルドゥスの「命題集」を講じた(1252年
から)。この課程を経て、彼は神学修士の学位を取得している(1256年)。彼の著作活動はこの時期から始まっており、
最初期の作品のなかには「命題集」講義に基づく大部の「命題集註解」が含まれる。しばらくドミニコ会の教授としてパリ大学で
教えた後、彼は後任に講座を委ねてイタリアに帰った(1259年)。彼はその後教皇の宮廷やドミニコ会の神学院で教えたが、
このイタリア時代、彼の研究は大きく前進、深化し、豊かな成果を生み出している(「対異教徒大全」の完成、未完の主著
「神学大全」への着手など)。
またこの間トマスは、同じくドミニコ会士で著名な翻訳家であったムールベケのグレイルムス(1215/35頃~1286年)に依頼し、
アリストテレスの著作やその註解書、プロクロスの「神学綱要」、そしてギリシャ教父など、多くのギリシャ語原点の正確な翻訳を
提供してもらい、その註解に取り組み始めている。しかし、10年にわたるトマスのこのイタリア時代は、ドミニコ会がパリ大学での
さまざまな論争、特にラテン・アヴェロエス主義者たちが引き起こしたアリストテレス哲学をめぐる論争に対処するためにトマスを
再び教授としてパリに派遣する決定を下したことによって終わりを告げた(1269年)。
このときに、彼がパリで教授に就任した期間はたったの3年間にすぎないが、この3年間の彼の著作活動は、まさに驚異的な質と
量に達している。この短期間に彼は多くの論争に関わりながら、論争的著作のほかに、新約聖書の諸註解、多くのアリストテレス
註解、膨大な定期討論集、そして「神学大全」の第二部を著しているのである。トマスの絶頂期とも言うべきこの3年の後、
彼は再びイタリアに戻る(1272年)。そして、ドミニコ会がナポリに会の新しい国際的な神学大学を設立することを決定し、
その仕事をトマスに委ねたため、彼はナポリに赴任する。ナポリでも彼の教育、研究、著作活動はたゆまず続けられ、
彼は特に「神学大全」の残された第三部の完成に心血を注いだ。
ところが、1273年暮れの聖ニコラウスの祝日(12月6日)のミサを境に、彼は一切の著述を断ってしまう。
強く著述の続行を勧める彼の助手に対して、トマスは「今度自分に啓示されたことに比べるならば、私が書いてきたものは
すべて、わら屑のように見える」と告げたという。トマスは、教皇グレゴリウス十世(在位1271~1276年)から、教皇がリヨンで
開催する公会議に神学顧問として出席するように要請されたため、1274年初めにリヨンに向けてナポリを発ったが、その途上、
ナポリとローマの間にあるシトー会のフォッサ・ヌオーブァ修道院で亡くなった。49歳であった。
トマスの生涯は、まったく真理の追究と教授に捧げられた一生であり、彼の教育、著作活動の期間は20年間にすぎなかった
にもかかわらず、この短期間に彼は膨大な著作を残している。そして、彼の純粋で謙虚な人柄や、客観的な真理を重んじて単に
主観的にすぎないものに流されることのない彼の公正な態度は、その論敵にさえ尊敬と敬愛の念を抱かせたと言われている。
トマスの著作には純粋に哲学的な性格の体系的著作、および註解が多く含まれているが、彼がその哲学的思惟の頂点を
示すのはむしろその神学的著作においてである。彼は厳密にテクストに即したアリストテレス思想の理解を獲得する一方、
特に後期に新プラトン主義的な分有の形而上学を自らのものとしていくことによって、全現実についての全く独自の理解に
到達している。そして、彼は第一始原としての神からの全存在者の発出と還帰という(新プラトン主義的な)全体図に従って、
「宇宙とその諸原因の秩序全体」のありさまを描き出すことを目指し、またこの体系的全体の中に、論理学、認識論、宇宙論、
存在論、神論、人間論、倫理学、政治・社会理論といった哲学のすべての分野を統合し、展開させているのである。
★ 認 識
精神的認識は、個別的で偶然的な経験を乗り越えて普遍的本質を把握する。それゆえ、精神的認識は人間の最高の活動なの
である。認識とは、現実に関係づけられた活動にほかならないが、人間の有限的な認識活動は現実を作り出すのではなく、
まず外界の自然において現実と出会う。それゆえ、人間の認識にとっての課題は感覚を通じて与えられる所与の内に普遍的で
必然的な本質を見出すことにある。なぜなら、人間の精神は自らによってア・プリオリにいかなる認識ももつことはなく、それゆえ
人間においてはどんな認識も自らを自らの方から開示する存在者の受容、つまり感覚認識より始まるからである。しかし、人間
精神は普遍的本質の認識に向かうために、トマスが知性の「自然本性的な光」と呼ぶ精神の自発性の力によって、この感覚的
認識の中に事物の本質構造をあらわにしていく。
つまり、事物の普遍的本質は、この「光」によって抽象され、認識されるのである。それゆえ、
人間の知性に特有の中心主題は、感覚的認識を通じて現れ、精神によって認識される事物の本質であると言える。しかし、
事物の本質がこうして認識されると、精神はこの認識を基礎として、さらなる抽象や反省や問いを通じ、より高次の認識の諸
段階へと上昇していく。つまり、「木」とか「動物」といった感覚的で質料的な事物の本質の認識(抽象の第一段階=自然学)から、
量的規定以外のあらゆる内容がさらに捨象されることによって、「三」とか「正三角形」といった数学的対象が認識され(抽象の
第二段階=数学)、さらには、量的であるということが考慮の外に置かれることによって、まず「存在者」が存在するものとして
純粋に主題化され、次に「実体」とか「精神」といった質料を含まない本質が認識され、最後にあらゆる存在者の第一の根源で
ある「神」がすべてを超越する完全性として洞察されるのである(抽象の第三段階=形而上学)。
先に述べたように、人間の認識はその有限性と可能態性のゆえに感覚的認識から始まる。それゆえ、空間・時間的な存在者に
対して受容的に開かれて、認識の発端をなすのは、五つの外的感覚能力(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)である。
これら五感が受容する様々な感覚的印象(色、音、臭い、味、感触など)を内面化し、総合し、補足して、可感的な存在者の
表象を仕上げるのは、共通感覚、想像力、感覚的判断力、記憶という四つの内的感覚能力である。この感覚的表象に向けられた
「能動知性」の精神的自発性の力は、本質認識に到達するために、感覚的なものの中に潜在している本質の姿を現実に認識
可能な対象として浮かび上がらせる。そして感覚的表象に向かい、この本質の姿、つまり「可知的形象」を受け取ることによって
事物の本質を現実に認識するのが、「可能知性」なのである。
以上のようなアリストテレス的に構成された抽象過程においては、認識の実在との接触を保証する受容性は諸感覚能力に具わり、表象において提示される知性的認識の素材の可知性を現実化する能動性は能動知性に具わることになる。
つまり、トマスのアリストテレス的な認識論においては、存在そのものに向けて開かれた能動性をその本性とする精神にとって、
身体と結びつき世界へと志向する感覚性は、自らの一部をなす本質的に必要な契機となるのであり、その程度は新プラトン主義
的な認識論を展開するアウグスティヌスの場合にまさるのである。さて、このように知性は感覚的認識を素材として、
そこに含まれる可知的本質を洞察しうるが、それは知性がその「自然本性的な光」において純粋存在の光を自然本性的に
分有し、この分有によって純粋存在に根差し、またこの根本態勢を動的、志向的に純粋存在に向けて展開し、純粋存在を
先取りしているからである。このような存在に向けての知性の超越は、あらゆる現象やあらゆる存在者の根拠として、
言い換えれば本質、根源、目的として、知性が存在を問うことを可能にするとともに、また知性に対し、認識に具わる有限的形式
(例えば、判断における主語と述語の区別など)を認識の単なる主観的な条件にすぎないものとして、認識される内容、つまり
存在者の本質から区別する力を与える。つまり、知性の能動性は人間に相関的に依存する対象を構成するのではなく、
存在者をその本質においてあらわにし、存在者の真理と一致して自らの内に真理を実現することを通して、
まさに存在者の存在に与るのである。
存在者
「存在する」ということは、単に「可能である」ということや単に「思考されている」ということとは異なる、自立的な現実性を
意味する。トマスの思惟の営み全体を導き、貫いているのは、現実がもつ真理に対する畏敬であり、存在に対する無条件の肯定
である。「自立性」という存在のこの基本性格が第一に見出されるのは、「自らにおいて立つ存在者」である実体においてである。
偶有(質、量、能動、受動など)においてこの性格は、ただ二次的に見出されるにすぎない。なぜなら、偶有は実体に内属する
ことを通してのみ存立するからである。また、実体や偶有といった範疇は人間の言語においてその基本的な言表形式を通じて
分節化するものであるとはいえ、それらが表示するのは存在者において実際に見出されるさまざまな存在の仕方に
ほかならない。その点で範疇は、類、種、種差、固有性、付帯性といった、人間の思考形式への反省によって成立する
論理学の根本概念とは異なっているのである。
有限的存在者の構成という問題に関して、トマスは当時の多くの思想家に見られるアリストテレスの存在論への新プラトン
主義的、アラブ的な要素の混入(形相多数説や霊的質料の説)を排除し、アリストテレスの思想を純粋に明らかにしようとする。
彼はアリストテレスの存在論の基本線である現実態と可能態の区別の説と四原因(質料因、形相因、作用因、目的因)説、および
それに基づく運動・変化の理論を整理して再現し、その内在的論理を貫徹させる。つまり、彼はアリストテレスを超えて、有限的
存在を構成する実在的原理の区別を形相と質料の区別に終わるものだとはせず、形相においてさらにその本質と存在とを
区別したのである。なぜなら、有限的存在者は、有限的精神も含め、それ自体からは単に存在することが可能なものに
すぎないのであり、それが現実に存在するためには、外的な作用因による存在の付与が必要だからである。トマスはこの洞察に
よって、アリストテレス的な存在論を、究極的な次元にまで高めた。つまり、アリストテレスが主として「存在者としての存在者」を
問題にしたのに対し、トマスは存在者のあらゆる規定、そして人間の認識の根源をなす「存在そのもの」の次元を主題化し、
存在者の理解を存在そのものに遡らせていくことによってさらに深めたのである。
★存在そのもの
アリストテレスにとって、「存在」は類比的な概念であった。なぜなら、現実は、種的にさまざまに規定された存在者の多様性の
中にのみ存在しているからである。プラトン、あるいは新プラトン主義においては、「存在」は「善なる一者」という第一の原理の
下に位置する第二の原理であった。トマスはこの二つの存在感を統合し、またアヴィセンナの存在論を取り込んで、まったく
新しい独創的な存在の理解を提示しようとする。彼自身、自分の存在論が真に新しいものであることを意識していた。
その根本となるのは、現実態としての存在というアリストテレス的な基本的存在理解である。
だが、この現実態という特質は、「はたらき」ないし「活動」という性格を内包する。なぜなら、活動はそれ自体最高の現実だ
からである。一方、存在それ自体は自らの外に何ものももたない(なぜなら、存在の外のものは「無」だからである)のである
から、存在とは新プラトン主義的な意味で本来自己同一的な一性であり、その最高の実現において一者そのものなのである。
しかし、この「はたらき」と「自己同一性」という存在の二つの性格は根源的には一つのものであり、それゆえ存在は純粋な
活動そのもの、つまり自己遂行であり、それはすなわち自己認識と自己肯定にほかならないのである。
そして、まさにこのような特質をもった存在が、あらゆる現実にとっての現実性の根源となる。つまり、存在者がもつあらゆる
積極的な意味や内容は、それが現実のものとなっている限りにおいて、すなわちそれに存在が与えられている限りにおいてのみ
実際に価値あるものとなるということからわかるように、いかなる完全性もその現実性を現実化の原理としての存在から得ている
のであり、それゆえ存在それ自体こそが最高の意味における現実態の豊饒さであり、
プラトン的に言えば無限の善にほかならないのである。
存在とは何かということへのこのような根本洞察を、トマスは「超越論的(超範疇的)規定」の理論において内容豊かに展開して
いる。「超越論的規定」は、存在するということそれ自体に具わる特質であり、それゆえいかなる存在者にも、またいかなる存在
様式にも帰属するものとして見出される。トマスが「超越論的規定」として挙げているもののうちで最も主要なものは「一」、「真」、
「善」の三つである(「美」が付加されることもある)。それゆえ、存在者はそれが存在を持つ限りにおいて、一であり、真であり、
善(であり、また美)なのである。これらの根本規定は概念的には異なっている。しかし、「一である」、「真である」、「善である」と
いう規定は、「存在する」という完全性に外から新たに何か別の完全性を付加したり、限定し特殊化するわけではない。
これらの規定は、人間の精神が存在者において「存在する」という概念において主題化されていなかった
「不可分である」(=一)「認識されうる」(=真)、「欲求されうる」(=善)という側面を発見し解明していくことによって洞察される
概念であり、実在的には同一である。つまり、存在者の同一の存在を概念的にさまざまに表出しているにすぎない。
それゆえ、超越論的規定を表す概念は互いに述語となりうるし(「真は善である」、「善は真である」など)、
また一つの超越論的規定をもつものは、他のすべての超越論的規定をもつのである(「真であるものは、また一でもある」、
「一であるものは、また真である」など)。
存在が存在者に与えられるのは、存在者の本質を通してである。そして、本質にはさまざまな段階があり、存在はそれぞれの
存在者にそれらの本質の程度に従って帰属する完全性をもっている。つまり、動物は石よりも充実した存在をもち、
また実体は偶有よりも高度な存在をもっているのである。それゆえ、存在概念は類比的である。つまり、存在はあらゆるものに
帰属し、それゆえきわめて多様なものについて語られる概念である。一方において、存在は一つの概念であり、それゆえ
その意味内容には統一性がある(つまりその名称は同一だが、互いにまったく関係のない多数の意味に分かれている
同名異議的な言葉ではない)。しかし、この意味の統一性は完全な同一性でもない。つまり、「存在する」ということは多様な
存在者について、純粋に一義的に語られるのではないのであり、述語となる存在概念の意味の統一性は、類比的な統一性なので
ある。類比性の基本形式は、多様な述語づけにおいて述語概念の意味にこのような類比的統一(「帰属の類比」と呼ばれる)が
成立するという形式であるが、ここで概念に意味の類比的統一を与える根拠となっているのは、類比的な概念においては
すべての意味がある中心的な意味に関係づけられ、意味の全体に一つの秩序が成立しているということである。
存在概念の類比においては、依存的に存在するものが自立的に存在するものへと本質的に依存するという関係が、
その類比的統一を根拠づけている。この関係はまず、偶有(「他において存在するもの」)と実体(「自らにおいて存在するもの」)
との間に成り立つ。「実体において内在する」存在者である偶有が「存在する」と理解され語られるのは、実体への依存関係に
おいてのみである(たとえば色があるものに内属するように)。この関係が、存在概念の意味の類比的統一を支えているのである。そして、被造物と創造者である神との間の関係も、このような類比の論理によって語ることができる。つまり、存在を与えられた
存在者である被造物から出発して、存在そのものである神を、被造物に存在を与えた根拠として、被造物の神に対する必然的
依存関係に基づいて、類比的に語ることができる。そして、このように存在概念が一義的ではなく類比的であるがゆえに、
この語りにおいては存在そのものを世界内的な有限的存在様式の次元に引き下ろすことにはならないのである。
★神、および人間の神認識
アウグスティヌスが神を見出す道は、内面的な道であった。彼は、永遠なる真理への愛に導かれつつ、自らの心の内奥を経て、
超越者としての神と出会ったのである。これに対し、トマスが神を主題化しようとするときには、神は「自存する存在そのもの」、
つまり自らにおいて、自らによって、自らのために存在する第一の無制約的な現実として、存在論的に思惟されるのである。
純粋存在としての神は、また純粋な善性であり、それゆえ自らの意義を自らにおいてもつ。そして、存在と善性における
このような自己同一性のゆえに、神は認識し、意志する精神なのである。形而上学には、「存在者としての存在者」、「存在」、
そして「神」という三つの異なった主題があるが、これらの間には階層的な関係があり、互いに決して切り離すことができない
統一をなしている。この構造の原形は、すでにアリストテレスの形而上学において見出されるが、トマスは神論を頂点とする
存在論としての形而上学を構築し、全現実の理解を神認識において収斂させ、統一し、完成させる。つまり、あらゆる有限者に
対する認識は神認識を潜在的に内包し、明確な神認識の出発点となることができ、明確な神認識において完成するのである。
何らかの存在者ないし善が認識されるときには、すでに純粋存在、あるいは純粋な善性が、先行する根拠として同時に
認識されている。あらゆる存在者、ないし善には、まさに「存在」ないし「善」という規定が具わっており、これらの規定はその純粋な
内容において、これらが見出される有限者を超え出て根拠におけるその完全な在り方を指し示している。つまり、有限的存在者に
おける「存在」や「善」といった純粋な完全性の、本質的な差違と依存関係を含んだ類比的な開放性、つまり分有は、この存在者が
根拠によって存在するものだということを明らかにし、またこの存在者の根拠となっている実在は「存在」や「善」といった完全性が
自己の現実そのものと同一であるような実在であるということを示す。つまり、絶対的な存在そのもの、ないし純粋な善性それ
自体である神を開示するのである。
以上のように、被造物は存在を分有し、神からの因果性によって存在する。トマスの神の存在証明は、この因果性を概念的に
解明する認識の道にほかならない。トマスの神証明においてこの因果性は主としてアリストテレス的に考察され、証明に
仕上げられている。つまり、動かされるもの、作用因によって引き起こされたもの、可能性の状態から現実存在にもたらされた
もののすべては、自ら以外の他のものによって動かされ、引き起こされ、現実化されるが、このような依存関係の系列を無限に
遡っていくことはできない。なぜなら、無限に遡りうるとすれば、この(時間的ではなく存在論的な)系列には始まりがないと
いうことになるが、そうなるとこの系列が生起すること自体か不可能になってしまうからである。それゆえ、先行するものを
必要としない、第一の動者、根源的原因、純粋な現実態が存在する。このような絶対的な根源は、神にほかならない。
人間には、神を直接的に直観し、この直観によって神の概念をもつことは不可能である。トマスはこの理由で、カンタベリーの
アンセルムスが提示したような、神の概念からの神存在の証明を拒否する。すべての神認識は、世界の認識から出発する
のである。しかしトマスは神の知性的直観を否定しつつ、その一方では、人間精神が世界に向かって開かれているということ
それ自体は、人間精神の自然本性がその根底において純粋存在への関係によって構成されているということによって可能に
されたものだ、ということを強調する。人間精神が世界認識から出発して神認識に至ることができるのは、自らのこのような
純粋存在への存在論的関係に基づいてなのである。
しかし、神の超越性のゆえに世界内の有限的存在者は神に対して本質的に乖離しており、世界認識から出発する神についての
言明は類比的なものでしかありえない。しかも、この類比的言明においては、類似性よりも非類似性の方がまさっているのである。
トマスはこのような神認識の限界をすべて承認し、ディオニュシオス・アレオパギテスやユダヤ教の神学者モーセス・マイモニデス
(イブン・マイムーン1135/38~1204年)の否定神学の意図に同意を示す。しかし同時に彼は、認識というものが成立しているとき、
それが有限的存在者を対象とするものであっても、そのためには認識対象において存在ないし善性そのものが現前して、
精神に対して自らを示し、何らかの意味で精神に触れているはずだという洞察に基づいて、神認識は単なる否定的なものに
尽きるというディオニュシオスやマイモニデスらの主張には反対を示し、神について肯定的な言明を行うことが可能だという立場を
堅持する。
つまり、神についての人間の認識様式は不適合であるが、その様式を介して開示される認識の内容そのものは、
本質的に神自身に具わるものとして肯定されうるのであり、しかも人間はこの根源的洞察に基づいて自らの認識様式の不適合さ
を見抜き、それを廃することはできないまでも、それを相対化することができるのである。最も限定が少なく、それゆえ内容的に
最も豊かであり、人間的認識様式の不適合さを最も免れている神の名は、「存在」(より正確に表現すると「自存する存在そのもの」
となる)であるが、これは旧約聖書の「出エジプト記」(3章14節)において神が自ら名乗った「在る者」という名にほかならない。
★創造、そして神と世界の関係
神にはいかなる不足もない、それゆえ、神は世界を自らの何らかの必要性のために創造したのではなく、世界の成立は
新プラトン主義的な必然的流出によるものではない。神は世界を自由に、創造されるものへの愛のゆえに創造したのであり、
世界創造の根拠は神の善性なのである。神は自らが創造するものに対して自らに基づいて存在を分かち与えるのであり、
被造物の在り方は神への分有に基づいて定められる。そして、この分有を規定する被造物の原像は、神の本質的自己認識に
含まれるイデアであり、神は自己認識によって同時に自らが創造する(しうる)あらゆる個別的存在者を認識しているのである。
神はこれらのイデアに即して、しかし創造への自らの自由な意志のみによって、有限的存在者に存在を与える。
それゆえ、神は自ら以外の有限者のいかなる媒介もなしに創造し、被造物の内奥に自ら現前するのである。そして、
神は被造物に対して存在に加えて、各自の本質に即した固有のはたらきのための力を付与する。それゆえ、有限的存在者は
神によって創造され、また持続的に保持されることに基づいて、自己の存立と、固有の活動をもつのである。
有限的存在者はこのように分有によって神から存在を受けているが、次に自らのはたらきによって存在そのものに
到達することを目的として目指す。言い換えれば、有限的存在者は作用因的に存在そのものによって根拠づけられている
ばかりではなく、存在そのものに目的因的に関係づけられているのである。それゆえ、有限的存在者の自己保持と自己完成の
追求の根底にあるのは、有限者自体を超出していく存在肯定なのである。したがって、有限的存在者は、それが存在と善を
求めつつ存在し活動するときに、根源的には存在の充満であり源泉である神を自然本性的に自己自身よりもより深く愛していると
言いうる。しかし、精神をもたない有限的存在者においてはこのような目的としての神への関係は背景に留まったままであり、
それが明確な遂行となるのは精神的存在者である人間の認識と意志のはたらきにおいてなのである。
★ 人 間
人間は身体と精神が結合した存在である。ゆえに、人間は物質と精神、時間と永遠の狭間に立つ者である。また、
人間は人間以外の自然の目的であり、自らの内に全自然のあらゆる段階を統合している。しかしトマスは
ボナヴェントゥラとは違って、人間を成り立たせる物質性、植物的生命、動物的感覚、精神性という各段階がそのつど
実体的形相によって構成されているとは考えない。人間は、知性的魂という唯一の実体的形相によって単一の存在の現実態を
得て、一つの存在者として全体的に成立するのである。それゆえ、知性的魂は直接に第一質料を形成して、身体を形づくる。
つまり、知性的魂は他の形相の媒介なしに、直接に身体の形相となる。知性的魂はこうして自らが持つ存在と生命を身体に
分け与え、自育的能力(生理的生命力)と感覚的能力を発現させる。こうして、人間は精神と身体とをもった一つの実体として
成立するのである。しかし、魂は身体を現実化し賦活するという生命原理の機能に尽きるものではない。認識や意志といった
純粋に精神的なはたらきは身体の現実態ではなく、魂はこのようなはたらきを行うことによって自らに固有な精神性の次元を
示すのである。
このように、魂はその固有の存在の次元において精神的である。つまり、魂は精神的な活動とその根源となる精神的な存在の
次元において、身体に依存せず純粋に非質料的なのである。このことからはまた、魂が不滅であるということも明らかとなる。
これは人間が尊厳をもった存在者であるということを示している。この尊厳は、人間が精神的な自然本性を持つ個別的な自立者、
つまり「人格(ペルソナ)」であるというところに根差している。宇宙全体において、自己自身のために存在している存在者は、
ペルソナだけなのである。人格的存在者としての人間は、精神的認識によって存在する現実全体を自らの内に捉え、
また自由な意志によって各自が自らの行為を支配する。そして、善そのもの、つまり究極目的を見つめながら、具体的な
諸善について自由な選択によって決定を下し、自己の生の意味づけを行っていくのである。
以上
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