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第3章 第一哲学(形而上学)
出 隆 『アリストテレス哲学入門』 (岩波書店1972年発行)
1 第一哲学の対象
存在を存在として研究し、またこれに自体的に属するものどもをも研究する一つの学がある。この学は、言わゆる部分的[特殊的]諸学のうちのいずれの一つとも同じでない。というのは、他の諸学のいずれの一つも、存在を存在として全体的に考察しはしないで、ただそれの或る部分を抽出し、これについてこれに付帯する諸属性を研究しているだけだからである、たとえば数学的諸学がそうである。
さて、われわれが諸原理や最高の諸原因を探求しているからには、明らかにそれらは或る自然[実在]の原因としてそれら自体で存在するものであらねばならない。ところで、存在するものどもの構成要素[諸元素]を求めた人々も、もしこうした諸原理をもとめていたのだとすれば、必然的にまたそれらも、付帯的意味である(、、)[存在する]と言われる諸存在の構成要素ではなくて、存在としての存在の構成要素であらねばならない。それゆえにわれわれもまた、存在としての存在の第一の諸原因をとらえねばならない。(「形而上学」)
2 存在の意義
「存在」と言うのにも[すなわち物事が「存在する」とか云々で「ある」とか言われるのにも]、その付帯性においてそういわれる場合と、それ自体においてそういわれる場合とがある。
まず、(一)付帯性において「ある」と言われるのは、たとえばわれわれが、(a)「公正なものが教養的である」と言い、あるいは(b)「人間が教養的である」と言い、あるいは(c)「教養的なものが人間である」と言うがごときである。これはわれわれが、或る建築家にたまたま教養的という属性が付帯しているか、あるいは教養的な者にたまたま建築家たるの資格が付帯しているかのゆえに、「教養的なものが建築している」と言うのと同様である。なぜなら、ここで「甲が乙である(、、)」というのは「甲が乙に付帯的である」という意味だからである。このことは上例(a)(b)(c)のいずれの場合でもまさにそのとおりである、すなわち、われわれが(b)「人間が教養的である」と言い、あるいは(c)「教養的なものが人間である」と言い、あるいは(a)「色白いものが教養的である」とか「教養的なものが色白である」とか言う場合に、最後の(a)の二つの例では、その両方の属性[教養的と色白さと]がともに同じ一つのもの[基体なる人間に]付帯しており、最初の例(b)では、述語[教養的なという属性]が実在する基体[人間]に付帯しており、もう一つの例(c)すなわち「教養的なものが人間である」では教養的という属性が或る人間に付帯しているからである。そしてこの付帯的意味ではまた、色白くないものもあると言われる、というのは、この色白くないという属性が付帯しているところの当のもの[その基体なる或る色白くない人間]はある[存在する]からである。さて、このように、付帯性においてあるといわれるものごと[付帯的諸存在]は、(a)その両方[主語と述語と]がともに或る同じもの[同じ基体なる人間]に属し、そしてこの或る同じものが存在(そんざい)しているがゆえに、あると言われ、あるいは(b)述語の[教養的という]性質が属するところの主語[基体なる人間]が存在するがゆえに、あると言われ、あるいは(c)そのもの自らが自らの[教養的なという]属性の述語となっているところのそのもの自ら[人間それ自体]が存在するがゆえに、ある[または存在する]と言われる。
つぎに、(二)それ自体においてある[または存在する]と言われるのは、まず述語[カテゴリー]の諸形態によってそう言われるものどもである。なぜなら、ものが云々である[または存在する]というのにも、それらがいろいろ異なる形態で述語されるだけそれだけ異なる多くの意味があるからである。けだし、述語となるものども[述語諸形態]のうち、その或るもの(1)はその述語のなにであるか[実体・本質]を、或るもの(2)はそれのどのようにあるか[性質]を、或るもの(3)はそれのどれだけあるか[量]を、或るもの(4)はそれが他のなにものかに対してどうあるか[関係]を、或るもの(5)はそれのすること[能動]または(6)されること[受動]を、或るもの(7)はそれのどこにあるか[場所]を、或るもの(8)はそれのいつあるか[時]を指し示すものであるが、あると言われるものにもこれらと同じだけ多くの意味があるからである、、、、、
なおまた、(三)ものがあるとか云々であるとか言うとき、そのあるというのは真であるとの意を含み、あらぬと言うは真ではなくて偽であるとの意を含んでいる。そしてこのことは肯定の場合でも否定の場合でも同様である。たとえば「ソクラテスは教養的である」と言う場合、そうあると言うことは真であるとの意であり、あるいは否定的に「ソクラテスは色白くなくある」と言うのも、その色白くないことが真であるとの意である。逆に「対角線は辺と共測的[通約的]ではあらぬ」と言う場合、そのあらぬと言うのは[もしそれを共測的であると言うなら]偽であるとの意である。
さらにまた、(四)あるとか存在とか言うとき、上述の述語諸形態であると言われるそれぞれのある[存在]が、(1)その可能態においてある[または可能的に存在する]ことを意味する場合と、(2)完現態においてある[または現実的に存在する]ことを意味する場合とがある。というのは、たとえばわれわれは、可能的な見る者[見ることのできる者]をも現実的な見る者[現に見ている者]をも、ともに見る者であると言い、同様にまた、知識を用いうる者をも現に用いている者をも、ともに知識ある者であると言い、あるいは、現にすでに静止の状態にある者をも静止することの可能な者をも、ともに静止する者であると言うからである。このことは実体の場合でも同様である。すなわちわれわれは、ヘルメスが石のうちにあると言い、半分の線が線のうちにあると言い、あるいは、いまだなお成熟していないものをも穀物であると言う。ただし、それらがいつから可能的にそうあるのか、いつまではそうでないのかについては、他の箇所で規定されねばならない。(「形而上学」)
この端的に言われる存在にも多くの意味がある、すなわち、その一つは(一)付帯的な意味での存在であり、他の一つは(二)真としての存在と偽りとしての非存在であるが、これらの他に第三には(三)述語の諸形態(たとえば、なにであるか[実体・本質]、どのようにあるか[性質]、どれほどあるか[量]、どこにあるか[場所]、いつあるか[時]、その他このような[あるものやあり方についての]問いに応答する述語の諸形態)があり、さらにこれらすべてに通じて、(四)可能態における存在と現実態における存在とがある。(「形而上学」)
3 諸存在と実体
さて、「存在」[または「あるもの」]というのにも多くの意味がある。しかしそれら[多義の存在]は、或る一つのもの・或る一つの実在・との関係において「ある」と言われるのであって、同語異議的にではなく、あたかも「健康的」と言われる物事がすべて一つの「健康」との関係においてそういわれるようにである。詳言すれば、その或るもの[たとえば栄養物]は健康をたもつがゆえに、或るもの[たとえば医薬]は健康をもたらすがゆえに、また或るもの[たとえば血色の良さ]は健康のしるしであるがゆえに、さらに他の或るもの[たとえば身体]は健康を受け容れるものであるがゆえに、ひとしく「健康的」と言われるのである。同様にまた、「医術的」と言われるのは「医術」との関係においてである、たとえば、或るものが医術を習得しているとのゆえに、或るものは本来この術にかなっているとのゆえに、また或るものは医術の働きであるとのゆえに、いずれも「医術的」と言われる。なおこれと同じように言われる物事はそのほかにもいろいろ見いだされよう。しかし、まさにこのように、物事は多くの意味である[または存在する]と言われるが、そういわれるすべての或るもの[存在]は、或る一つの原理との関係において「ある」と言われるのである。すなわち、その或るものはそれ自らが実体であるがゆえにそう言われ、他の或るものはこの実体の限定[属性]なるがゆえに、また或るものは実体への道[生成過程]にあるがゆえに、あるいは実体の消滅または欠如であり、あるいは実体の持つ性質であり、あるいは実体を作るものまたは産み出すものであるがゆえに、あるいはまた、このように実体との関係において「ある」と言われる諸存在のそれら[属性・生成・消滅・欠如・性質、等々としてのある]であるがゆえに、あるいはさらにそれらのあるのうちの或るものの否定または実体そのものの否定であるがゆえに、ひとしくそう言われるのである。だからわれわれはまた、あらぬもの[存在の否定・非存在]をも、あらぬものであると言うのである。(「形而上学」)
4 存在の学は実体の学
さて、あたかも健康的と言われるすべての物事について一つの学[すなわち医学]があるように、その他の場合にもこのことは同様である。ただしその意味は、たんに一つに即して[同一義的に]言われる物事の場合にのみこれらの研究が一つの学に属するというのではなくて、或る一つの実在との建機において[類比的に]言われる物事の場合にもそうである。なぜならこれらもまた或る意味では一つに即して言われるものどもであるから。そうだとすれば、ある[または存在する]と言われる諸事物[諸存在]を存在として研究することは、明らかに一つの学のする仕事である。ところで、どのような場合でも、学は主としてその第一のものを、すなわちその他のものどもがこれに依存しこれによって呼ばれ理解されるところのこれなる第一のものを、対象としている。そこで、この第一のものが実体であるところの学[第一の哲学]の場合いは、諸々の実体についてその原理や原因をとらえることが哲学者のなすべきことであろう。(「形而上学」)
それゆえ実に、あの古くから、今なお、また常に永遠に問い求められており、また常に難問に逢着するところの「存在とはなにか?」という問題は、帰するところ、「実体とはなにか?」である。けだし、このものを、或る人々は一つであると言い、他の或る人々は一つより多くあると言い、そしてそのうちの或る者どもは限られた数だけあるとし、他の或る者どもは無限に多くあるとしているから。だから、われわれもまた、このように[実体として存在]するものについて、そのなにであるかを、最も主として、第一に、いな、言わばひたすらこれのみを、研究すべきである。(「形而上学」)
5 第一義的の存在 - 実体
「存在」[または「ある」]というのにも多くの意味がある、このことはさきに各々の概念の諸義をあげた箇所でわれわれの区別したとおりである。すなわちそれは、(一)或る意味では、もののなにであるかをまたはこれなる或るものを指し、(二)他の意味では、そのもののどのようにあるか[性質としての存在]を、あるいはどれほどあるか[量としての存在]を、あるいはその他のそのように述語される物事のそれぞれを意味する。物事はこれだけ多くの意味である[または存在する]と言われるが、これら諸義の存在のうち、第一義的の存在は、言うまでもなく明らかに、もののなにであるかを指し示すそれであり、これこそはものの実体を指し示すものである(というのは、たとえばわれわれが「これはどのようにあるか」と問われた場合には、われわれはこれを「善くある」とか「悪くある」とか言うが、「三尺ある」とも「人間である」とも言わない。だか、「なにであるか」と問われた場合には、「白くある」とも「熱くある」とも「三尺ある」とも答えないで、それは「人間である」とか「神である」とか言うからである)。しかるに、この第一義の存在[実体]より以外の物事がある(、、)と言われるのは、このようなあるもの[第一義的の存在すなわち実体]の量であり、あるいは性質であり、あるいはそれの受動態であり、あるいはその他それのなんらかの規定であるがゆえに[云々であると言われるの]である。それゆえにまた、「歩行する」とか「健康でおる」とか「座している」とかいう述語が果たしてそれらそれぞれのある[存在]を意味しているであろうか、という疑問を提出する人もあろう。、、、、、というのは、それらの各々はいずれも、本来それ自体で存在している物事ではなく、またそれぞれの実体[基体]から離れて別に存しうるものでもないが、しかし、もし「歩行する者」とか「座せる者」とか「健康なる者」とかいうなに者かが存すれば、こうした者どもはいっそう優れて存在の部に属するであろうから。たしかにこれらの者どもの方がいっそう優れて存在である、なぜならこれらにはそれぞれその基体として或る一定のものが存在し(そしてこのものが前述の実体であり個物であるが)、これが明らかにこれらの述語のうちに含意されているからである。というのは、「善いもの」とか「座せる者」とかは、それぞれそれの基体を含意することなしには無意味だからである。だからして明らかに、これ[この基体なる実体]があるがゆえにあれら[実体以外の述語的諸存在]の各々もまたこれのなにかであるのであり、したがって、第一にあるもの[第一義の存在]は、すなわち、或るなにかであると言われるものではなしに端的にある[存在する]と言われるものは、実体であるにちがいない。(「形而上学」)
6 実体の諸義
ウーシア[実体]と言われるのは、(1)単純物体、たとえば土や火や水やその他このような物体、また一般に物体やこれら諸物体から構成されたものども、すなわち生物や神的なものども、およびこれら各々の諸部分のことである。これらはすべて実体と言われるが、そのわけは、これらが他のいかなる主語[基体]の述語[属性]でもなくてかえって他の物事がこれらの述語[属性]であるところの[主語的・基体的な]ものどもであるからである。しかし他の意味では、(2)このように他の基体の述語となることのない諸実体のうちに内在していて、これらの各々のまさにそのように存在するゆえんの原因たるものを実体と言う。たとえば生物では、それに内在する霊魂[生命原理]がそうである。さらにまた、(3)このような諸実体の部分としてこれらのうちに内在し、これらの各々をこのように限定してこれと指し示すところのものをも実体と呼ぶ。そしてこれは、これがなくなればその全体もなくなるに至るような部分である。たとえば、或る[プラトン学派の]人々の言っているように、面がなくなれば物体がなくなり、線がなくなれば面がなくなるがごときである。また一般に、かれらの考えでは、数もそのような実体である。というのは、数がなくなればなにものも存在しなくなり、数がすべてを限定しているというのだから。さらに、(4)もののそもそもなにであるか[本質]――このそもそもなにであるかを言い表わす説明方式がそのものの定義であるが、――これがまたその各々のものの実体と言われる。これを要するに、実体というのには二つの意味があることになる。すなわち、その一つは、もはや他のいかなる基体[主語]の述語ともなりえない最後の基体[個物]であり、他の一つは、これなる或る存在であり且つ離れて存在しうるものである、すなわち各々のものの型式または形相がこのようなものである。(「形而上学」)
「実体」という語は、四つより多くの意味でではないにしてもすくなくも主として次の四つの意味で用いられている。すなわち、(1)もののなに(、、)で(、)ある(、、)か(、)[本質]と、(2)普遍的(、、、)な(、)もの(、、)[普遍概念]と、(3)類(、)とが、それぞれの事物の実体であると考えられており、さらに第四には、(4)それぞれの事物の基体(、、)がそれの実体であると考えられている。
ところで、基体というのは、他の事物はそれの述語とされるがそれ自からは決して他のなにものの述語ともされないそれ(、、)のことである。それゆえに、まず第一にこの基体の意味を規定しておかねばならない。なぜなら、事物の第一の基体が最も真にそれの実体であると考えられているから。ところで、(1)或る意味では、「質料」がそうした基体であり、(2)他の意味では[型式]が、また(3)或る他の意味ではこれら「両者から成るもの」がそれである。――ここに私が質料と言っているのは、たとえば銅像について言えば青銅がそれであり、型式というのはその像の型であり、両者から成るものというのはこれらの結合体なる銅像のことである。したがって、もしも形相[型式]が質料よりもより先であり、より多く真に存在するものであるならば、同じ理由によって、形相はまた、形相と質料との結合体よりもより先のものであろう。
さて、いまここに、実体とはそもそもなにかということの概略だけは述べられた、すなわちそれによると、実体というは、他のいかなる基体[主語]の属性[述語]でもなくてそれ自らが他の属性[述語]の基体[主語]であるところのそれであった。(「形而上学」)
7 第一実体と第二実体
実体とは、その勝義の・第一の・また主として用いられる意味では、いかなる基体[主語]の述語ともならず、またいかなる基体[主語]のうちにも存属しないもののことである。例えば、この(、、)人とかこの(、、)馬とか[いうようにこれ(、、)と指し示される特定の個物]である。しかし第二義的には、これら第一義的に実体と言われるこれら[この人とかこの馬]をそのうちに含む[包摂する]ところの種、およびこれらの種を含むところの類もまた、実体と言われる。たとえば、この(、、)人やあの(、、)人は人間という種のうちに含まれ、そしてこの種を含むところの類は動物であるが、この場合、これら、種としての人間やその類としての動物は、第二義的に実体と言われる。(「カテゴリー論」)
およそ実体と言えばこれ(、、)なる或るもの[これ(、、)なる個物・個体]のことと考えられている。たしかに、第一義での実体の場合には、この語は、疑いもなく真にこれ(、、)なる或るものを指し示している。なぜなら、これが指し示している当のものは不可分なものであり、数的に一つであるから。しかし、第二義での実体の場合には、たとえば人間とか動物とか言うとき、なるほどその言い方しだいでは、なんらかこれ(、、)なる或るもの[この(、、)人とかこの(、、)馬とかいう個物]を指し示しているかにも見えるが、実はそうではなくて、むしろそれがどの(、、)よう(、、)な(、)種類のものかを指し示している。というのは、これら[人間とか動物とかいう語]の指意する当のものは第一の実体の場合のような数的に一つのもの[この人、あの動物]ではなく、かえって数的に多くのものども[あれこれの人々や動物ども]についてこれら[人間や動物]がその述語となるのだから。(「カテゴリー論」)
8 実体の特徴
実体の最も特有な点は、それが同じであり数的に一つでありながら反対のものどもを受け容れうるものであることである。けだし、実体より以外のものごとについては、誰も、数的に一つでありながら反対のものどもを受け容れうるというような特有な点を挙げることはできないであろう。たとえば、数的に一つであり同じであるところの色、これが白くあるとともにその反対の黒でもあるというようなことはありえないであろうし、また同じであり数的に一つであるところの行為が悪でもあり善でもあるということはありえないであろう。まさにそのように、その他の実体以外のものごとでも、そうであろう。しかるに、実体となると、これは数的に一つであり同じものでありながら反対のものどもを受け容れることができる。たとえば、この(、、)人は、一つであり同じものでありながら、ときには色白くなり、ときには色黒くもなる、あるいは温かく、または冷たく、あるいは悪く、または善くもありうる。これとはちがって、その他の[実体以外の]ものごとには、そのような特有な点は認められない。(「カテゴリー論」)
9 第二実体 ― 種と類
第二義の実体のうちでは、種の方が類よりもより多く実体である。なぜなら、種の方がより多く第一義の実体に接近しているからである。というのは、ひとが第一義の実体のなに(、、)で(、)ある(、、)か(、)を説明しようとする場合、そのひとは、当の実体の属する類を挙げるよりもむしろその種を挙げることによって、より多く知られ易く且つその実体にいっそう多く特殊的なものを挙げて説明することになろうからである。たとえば、この(、、)某氏を説明しようとする場合、これを動物であると言うよりも人間であると言った方が、より多く可知的であろうから(というのは、人間であると言う方がより多くこの個人某の特殊性を示しており、動物であると言うのはあまりにも共通一般的でありすぎるから)であり、あるいはまた、この木を説明するのに植物であると言うよりも樹木であると言った方がより多く知られ易いものを挙げることになろうからである。
さらにまた、第一義の実体は、これが他のすべての事物[諸存在]にとってその基に横たわるもの[基体・主語]であり、そして他のすべては、これの述語、あるいはこれに内属するものどもであるがゆえに、最も多く真に実体と言われるのである。ところで、この第一の実体が他のすべてに対する関係は、あたかも種が類に対するがごときである。というのは、種はその類に対して基体[主語]だからである(なぜなら、類は種について述語されるが、種は類に対してその述語とはならないから)。こうして、また、以上の事実からしても、種の方が類よりもいっそう多く実体である。(「カテゴリー論」)
10 イデア説批判
これらのうちでは、「存在」と「一」との方が、「原理」や「元素」や「原因」などにくらべれば、より多く実体的であるが、しかし「存在」や「一」さえもいまだ実体ではない。けだし一般に共通的なものはなにものも決して実体ではないからである。なぜなら、実体は、ただその実体それ自らに属するかまたはそれをその実体とするところのそのものを含有するものに属するかであるより以外には、他のなにものにも属さないものであるから。なおまた、一つであるものは同時に多くの場所に存在することはできないはずであるが、共通的なものは同時に多くの場所に存続するからである。こうして、それゆえに、いかなる普遍もその諸個物から離れて別には存在しえないこと明らかである。
だが、形相を語る人々は、それらを離れて独立に存在するものと説いているが、いやしくもそれらが[かれらの主張するように]実体である限り、この点ではかれらは正しい。しかし、かれらはエイドスを多の上に立つ一であると説いている点では、正しくない。その正しきをえなかった理由は、実際にどのような事物があのような実体(すなわち個々の感覚的実体とは別に存在する不滅な実体)であるかを挙げ示すことが、かれらにはできなかったからである。それがためにかれらは、消滅的な事物はわれわれにも知れているので、これらの消滅的なものとその種(形相)において同じであるところのものを[不滅な実体として]作り出した、たとえば「人間それ自体」とか「馬それ自体」とかを、ただそれぞれの感覚的な事物の名に「それ自体」という語を付け加えるだけのことによって。(「形而上学」)
形相が存在するということ、あるいは、一なるなにものかが多なるものどもから離れて(、、、)存在するということは必然的ではないにしても、しかし、論証が成り立つとすれば、そのためには、他なるものどもについて一なるものがそれらの述語とされうるということは、必然的に真である。なぜなら、もしその可能性がないなら、普遍的なものは存在しえないであろうし、もしまた普遍的なものが存在しないなら、中間のもの[媒概念]も存在しないであろう、したがって、論証は成り立たないであろうから。(「分析論後書」)
11 個物は定義されない
実体は二種に、すなわち結合体と説明方式とに、区別されるが、――― そして前者は、私の言う意味では、それの説明方式[形相]が質料と結びついているもの[個物]としての実体であり、後者は端的にいうその説明方式そのものであるが、――― 結合体としての実体には消滅がある(というのは、この実体には生成があるからであるが)、しかし説明方式としての実体には、それが消滅課程にあるというような消滅は決してない。というわけは、それには生成もないからである、すなわちたとえば「家」の場合、「家なるもの」は生成しはしないで、生成してくるのはただ「この(、、)家」の存在だからである、のみならず、生成も消滅もないのだから、「家なるもの」は存在している(、、)がまた存在していない(、、、)[とも言える]、というのは、なにものもこの「家なるもの」を産みはせず作り出しもしないからである。
さて、それゆえに、個々の感覚的実体には、定義もなく論証も存しないのである。そのゆえは、これら感覚的個物はそれぞれその質料を有し、しかもその質料なるものは、本来、これを有するがゆえに当の感覚的個物が存在することも存在しなくなることも可能なものであるゆえんのものだからである。そしてこのような可能なものであるがゆえに、個々の感覚的実体はすべて消滅的なものなのである。ところで、論証は必然的な物事[他ではありえない物事]に関することであり・・・・他でもありうる[消滅的な]物事に関係するのはただの臆見にすぎないとすれば、個々の感覚的実体に関してはなんらの定義も論証もありえないこと、明らかである。けだし、消滅可能な事物は、それの認識をもっている者にとっても、それがかれの感覚範囲から消え去っているときには、不明瞭だからである。・・・・とかく物事を定義したがる人々が、誰でも、個々の感覚的事物のいずれかを定義しようとする場合に、常にこのことに失敗するのを自ら認めざるをえなくなるのは、このためである、すなわちそれは、もともと定義されえない事物だからである。(「形而上学」)
12 定義(本質規定)の統一性
つぎに・・・・定義について「分析論」のなかでは言及されなかった方面のことを言い足そう。というのは、さきにあのなかで挙げられた難問は、このわれわれの実体についての論に役立つところが多いからである。さて、その難問というのはこうである。すなわち、それ(、、)の説明方式がそれ(、、)の定義であるところのそれ(、、)[本質]が一つであるのは、そもそもなにによってであるか?たとえば「人間」については、「二本足の動物」というのがそれの定義であるとされるが(というのは、かりにこれを「人間」の説明方式だとしてのことだが)、この場合、なにゆえにこれが一つであって多(すなわち「動物」と「二本足」の二つ)ではないのか?というのは[なぜこれが問題になるかというに]、たとえば「人間」と「白さ」との場合、これらのうちの一方が他方に属していないときには、両方は[一つではなくて]多であるが、しかし一方が他方に属していて、その基体の方すなわち「人間」がなんらか[他方すなわち「白さ」によって]限定されているようなときには、両方は一つである、すなわちここに、一つのものが生成し、一つの「白い人間」が存在しているわけである。しかるに、「動物」と「二本足」との場合には、その一方が他方に与かる(、、、)という関係には置かれていない。なぜなら、[この説明方式において「動物」は類であり「二本足」は種差の一つであるが]一般に類はその種差に与かるとは考えられないからである。というのは、[もし与かるとすれば]同じものが同時に反対のものども[白さと黒さと]に与かるということになろうからである。けだし類がその種に区分されるところの種差はたがいに反対のものどもであるから。・・・・しかるに、或るものの定義のうちに含まれる諸要素は一つ(、、)であらねばならない。なぜなら、定義は一種の説明方式であり、一つの実体の説明方式であるからして、この定義は或る一つ(、、)のものの説明方式であらねばならない。そしてそのゆえは、われわれの主張するとおり、実体は或る一つ(、、)をなせるもの[或る全一体]であり、或るこれ(、、)なる個物を意味するからである。
そこでまずわれわれは、分割法による定義について考えてみなければならない。けだし[この定義の仕方によると]その定義のうちには分割系列の第一位にあげられる類とその種差とより以外には他のものは含まれていない。その他の類はこの第一の類とそれに継ぎそれに伴なう諸々の種差とから成っている。たとえば、「人間」の第一の類を「動物」だとすれば、そのつぎの類は「二本足の動物」、そのつぎは「二本足の無翼の動物」であり、さらにその他にも多くの種差があるとすれば同様にそれだけ多くの種差を伴なう動物である。しかし要するに、どれほど多くの種差と類とをもって説明されようとどれほど少しで説明されようと同じことであり、したがってまた、少しで説明されようと二つきりで説明されようと同じことである。そしてこの二つというのは、一方は種差、他方は類である、たとえば「二本足の動物」で言えば「動物」は類、「二本足」はその種差である。そこで、もし類が、その類としての種から離れて別に端的に存在するものでないとすれば、あるいは存在するにしても質料(、、)と(、)して(、、)存在するものだとすれば・・・・明らかに定義は種差から成る説明方式である。しかしわれわれは、[定義を求めて類をその種差に分割してゆくとき]種差をその種差の種差にと分割してゆかなくてはならない。・・・・ところで[種差からその種差へと分割してゆく課程は]どこまでも進んでついにそれ以下には種差のないもの[最下・最低の種]にまで到達せねばやまない。・・・・そしてこの最下の種差がその事物の実体であり定義である。(「形而上学」)
13 形相と質料の融一
事物の定義は数語から成る一つの説明方式であるが、これが一つであるのは、詩「イリアス」が[多くの語句の]つながりによって一つであるようにではなくて、或る一つの事物のであるがゆえに一つなのである。そうだとすると、「人間」を一つのものとするのは、いったいなにであるか?なにゆえに「人間」は一つであって多ではないのか?たとえば、それが「動物」と「日本足」の二つでないのはなにゆえか、ことに或る人々の言うように「動物それ自体」や「二本足それ自体」が存在するとすれば「人間」はこれら二つでありそうなものなのに、なにゆえに「人間」はこれら「自体ども」ではないのか?またこのようにして、人間どもは、それぞれ、「人間それ自体」あるいは「一それ自体」に与かる(、、、)ことによってではなしに、あの二つに、すなわち「動物それ自体」と「二本足それ自体」とに与かることによって存在するということになり、そして一般に「人間」は一つのものではなくて一つより多くのもの、すなわち「動物」と「二本足」とであるということになるであろうのに、なにゆえにそうではないのか?
だから、もしあの人々がこのように、その慣わしとする定義や説明の仕方で進むならば、明らかにかれらは、この難問を究明し解決することは不可能である。しかるに、もし実際、われわれの主張するように、この「人間」のうちの一方[類なる動物]はその質料(、、)で、他方[種差なる二本足]はその型式(、、)[形相]であり、また一方は可能態においてあり、他方は現実態においてあるのだとすれば、もはやこの問いは、なんらの難問とも思われないはずである。なぜなら、この難問は、あたかも「丸い青銅」を仮りに「衣」の定義であるとした場合におこるはずの難問と同じだからである。というのは、この「衣」という名前は仮りにその説明方式「丸い青銅」の指し示す一つのものの記号であることに定められているのだから、当面の問題は、結局、この「衣」において「丸さ」と「青銅」とか一つであるゆえんの原因はなんであるか、というに帰するからである。だが、こうなると、もはや明らかにこれは難問ではなさそうである、というのは、すでに一方[青銅]は質料であり他方[丸さ]は型式であるから。では、このことの原因は、すなわち可能的に存在するもの[丸くもありうる(、、、、)青銅]が現実的に存在する[現に丸くある(、、)]にいたることの原因は、生成する事物の場合では、能動するものであるより以外のなにものであろうか?というのは、可能的(、、、)に球である(、、)ものが現実的(、、、)に球である(、、)にいたるということには、他になんらの原因もなく、こう(、、)ある(、、)こと(、、)がこの両者のまさ(、、)に(、)それ(、、)で(、)あった(、、、)あるもの[本質・本性]なのであったから。(「形而上学」)
ところで、あの難問のゆえに、[これを解決しようとして]或る人々は「与かる」という概念を持ち出し、そしてこの与かることの原因はなにか、またこの与かることそのことはなにかを問題としている。またそのために、或る人々は共存という概念を持ち出している、たとえば、リコフロンは、認識とは認識することと霊魂との共存であると言っている。また他の或る人々は、生命を霊魂と肉体との結合であるとか結束であるとか言っている。しかしこのような説明の仕方ならなににでも勝手に適用される。だが[このような仕方を適用すると]たとえば健康であることは霊魂と健康との共存だの結束だの・・・・あるいは、この青銅が三角形であるのは青銅と三角形との複合だのというようなことになろう。しかし、このような[無意味な]ことになる理由は、かれらが事物の可能態と完現態とを一つにする説明方式[定義]を求めながら同時にこれらのあいだの差別をも問い求めているからである。しかし実際には、前述のように、事物の最後の[事物に最も近い]質料とその型式とは、前者は可能的に、後者は現実的に、同じであり一つである。だから[かれらのように問い求めるのは]あたかも「一」の原因はなにかと問い、さらにその「一つであること」の原因はなにかと問い求めるがごときである。というのは、すでに各々の事物はそれぞれ或る一つのものであり、その可能的なあり方と現実的なあり方とはなんらか一つなのだから[この事実の原因をさらに問うのは無意味である]。それゆえに[ここで正当に問い求めらるべき原因としては]各々の事物をその可能態から現実態へと動かす者があるということ以外には、他になんらの原因もない。(「形而上学」)
14 可能態と現実態
現実態というのは、当の事態が、可能態において[または可能的に]とわれわれの言うようなそのような仕方においてでなしになにかのうちに存続していることである。ところで、われわれがなにものかを「可能態においてある(、、)」と言うのは、たとえば木材のうちにヘルメス[の像]がある(、、)と言われ、あるいは線の全体のうちにその半分がある(、、)といわれるがごときである(というのは、全体からその半分が抽離されうるという意味でであるが)、のみならずまた、現に研究活動中でない者でも、研究する能(、)の(、)ある(、、)者であれば、その者をもわれわれは知識ある者[学者]であると言う。それに対して「現実態においてある(、、)」と言うのは、まさにそれら[木材に刻まれたヘルメス像、線の半分、研究活動中の学者]である。さて、いまわれわれが[現実態と可能態とについて]言おうと欲するところは、明らかにその個々の場合からの帰納によって示される、そしてまた一般にひとは必ずしもあらゆる物事についてその定義を要求すべきではなく、場合によってはただそこに類比関係を見出すだけで足れりとすべきである。[たとえばいまの場合]現に建築活動をしている者が建築しうる者に対し、目ざめている者が眠っている者に対し、現に見ている者が視力をもつが目を閉ざしている者に対し、或る材料から形作られたものがその材料に対し、完成したものが未完成なものに対してのような類比関係を。そこで、この対立項の一方によって現実態が規定され、他方によって可能的なものが規定されるとしよう。だからまた、ものが現実態においてあると言われるのも、あらゆるものがひとしく同一義的にそう言われるのではなくて、甲が乙のうちにまたは乙に対してあるようにそのように丙は丁のうちにまたは丁に対してある、というような類比関係によってそう言われるのである。けだし、その或るものは運動の能力[可能性]に対する現実の運動[現実活動]のごときであり、他の或るものは質料[素材]に対するそれの実体[形相]のごときである。(「形而上学」)
諸々の行為のうち、限りのある行為は、いずれの一つも目的[終り]そのものではなくて、すべてその目的に関するものである、たとえば、痩身にすることの目的は痩身である。しかるに、痩せる身体部分そのものは、痩身にする課程においてある限り、運動のうちにあって、この運動の目的を含んではいない。それゆえに、痩身にすることは行為でない、あるいはすくなくも完全な行為ではない(なぜなら、それは終りではないから)。ところで、行為は[すくなくも完全な行為は]、それ自らのうちにその終り[目的]を含んでいるところの運動である。たとえば、人は、ものを見て(、、)いる(、、)ときに同時にまた見て(、、)おった(、、、)のであり、思慮して(、、)いる(、、)ときに思慮して(、、)いた(、、)のであり、思惟して(、、)いる(、、)ときに思惟して(、、)いた(、、)のである。これに反して、なにかを学習しているときにはいまだそれを学習し終ってはおらず、健康にされつつあるときには健康にされ終ってはいない。よく生きて(、、、)いる(、、)ときに、かれは同時によく生きて(、、、)いた(、、)のであり、幸福(、、)に(、)暮らして(、、、、)いる(、、)ときに、かれはまた同時に幸福に暮らして(、)いた(、、)のである。そうでないなら、この生きる過程は、痩身への課程と同様に、いつかすでに終止していたはずである。だが、実はそうではなくて、かれは生きておりまた生きておった、そこで、これらの課程のうち、一方は運動と言われ、他方は現実態と言わるべきである。けだし、およそ運動は未完了的である。すなわち、痩せること、学習すること、歩行すること、建築することなど、すべてそうである。これらは運動であり、しかもたしかに未完了的である。というのは、人は歩行しつつあると同時に歩行し終っておりはせず、家を建てつつあると同時に建て終っておりはせず、動かされていると同時に動かされ終っておりはしない、かえって、これら[動かされていることと動かされたことと]は別のことであり、そのようにまた動かしているものと動かしたものとも別のものである。しかるに、見ていたのと、これと同時に見ているのとは、[別の者がではなくて]同じ者がであり、また同じ者が思惟していると同時に思惟していたのである。そこで、このような[現在進行形と現在完了形とが同時的な]のを私は現実態と言い、そしてさきのを運動と言う。(「形而上学」)
15 生成の種類と条件
生成する事物のうち、或るものは自然により、或るものは技術により、或るものは自己偶発によって生成する。そして、これらすべての生成するのは、或るものに(、)よって(、、、)、或るものから(、、)、或るものに(、)、である。ただし、ここに私が「或るものに」と言ったこの「或るもの」は、いずれの述語形態に属するものでもかまわない、すなわち、或る個物[実体]になる(、、)[生成する]ことだけにかぎらず、或る性質になる(、、)[変化する]ことでも、或る量になる(、、)[増減する]ことでも、あるいはある場所に[移動すること]でもかまわない。
こうしたなる(、、)[広義の生成]のうち、まず自然的生成についてみるに、これはその事物の生成が自然によってであるところの生成であるが、これらの事物がそれ(、、)から(、、)生成するとことのそれ(、、)は、われわれが質料と呼ぶところのものであり、それらそれ(、、)に(、)よって(、、、)生成するところのそれ(、、)は、自然的に存在するものの或るものであり、そして、生成してそれ(、、)に(、)なるところのそれ(、、)は、たとえば人間とか植物とかその他このような事物、すなわちわれわれがとくに最も実体であると言うところの事物である。(けだし、およそ生成する事物は、自然によってのそれにかぎらず技術によってのそれも、すべてその質料をもっている。けだし、これらの事物の各々はこのように存在することも存在しないこともともに可能なものであり、そしてこの可能性は、これらの各々に内在する質料にほかならないからである。)しかし一般的に言えば、生成する事物がそれ(、、)から(、、)生成するところのそれ(、、)[質料]も自然であり、またそれ(、、)に(、)従って(、、、)生成するところのそれ[型式・形相]も自然であり(というのは、生成する事物、たとえば植物や動物は[それに従っておのずから生成する]自然性を有するからであるが)、そのようにまた、生成がそれ(、、)に(、)よって(、、、)であるところのそれ(、、)[始動因]も形相的意味での自然であり、[それによって生成した事物と]同種同形の自然である。ただしこの意味での自然[始動因]は、これによって生成する事物とは[同種同形だが]異なる他の事物のうちに内在している、というのは、人間[親]は人間を生むからである。(「形而上学」)
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