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   デカルト著 『哲学の原理』  


 
資本論ワールド編集部 まえがき

  私たちは、『精神指導の規則』において、 「系列」 ー 事物の比例すなわち関係について、提起されうるあらゆる問題が、いかなる構造を内に蔵しているか 」を探求してきました。今回、デカルトの『哲学の原理』を参照することによって、デカルトの目ざす「哲学」と「自然学」 ~ 第一哲学 ~ の概要が理解されます。これによって、近代「元素・原子論」の源流となった「デカルト革命-2-」が形成されることになります。


  『哲学の原理』 第4部 地球について

  201 感覚されない物体の微小部分がある

  「 小さい物体に起りはするがそれが小さいばっかりに感覚できないというようなものについて説明するのには、大きい物体に起こることで私たちが感覚で知覚できるようなことがらを模範にして判断する 」

  203 感覚できない微小部分の形や運動を、どうして私たちは知ることができるのか

  「 自然的な結果というものは、ほとんどいつでも、どんな感覚でも知覚できないほど微小な或る器官に依存している 」

 さて、河出書房新社・世界の大思想の「デカルト」(知能指導の規則、方法序説、省察、哲学の原理、情念論)には、澤瀉久敬(おもだか ひさゆき 1904-1995)による解説(1965年)があります。そのうち『哲学の原理』の解説箇所を紹介し、「デカルト革命」の要点として、「編集部まえがき」に代えます。


    
解説 澤瀉久敬


 「 この『哲学の原理』は4部からなり、第1部では「人間的認識の原理について」述べられ、第2部では「物質的事物の原理について」、第3部「目に見える世界について」、第4部「地球について」論ぜられているのであって、彼自身のプランとしては更に「動物および植物の本性について」および「人間の本性について」の2部が含まれる予定であったが、その2部はそれらの問題を論ずるための実証的材料がなお不足していることから、それの執筆を中止したのである。

 ところで、この『哲学の原理』の構成を見ることによって、われわれはデカルトにとって哲学とはいかなるものであるかを推測することができる。執筆されなかった二つの部のことは考慮の外におくとしても、
『哲学の原理』4部のうち、第1部だけが認識論および形而上学ないしは存在論についての論考であり、残りの3部は自然学に関するものである。しかも、全分からいえば、第1部は全巻の8分の1の頁を占めるにすぎない。もっともこの第1部は『方法序説』や『省察』で論ぜられた彼の哲学的考察が76節にわけて別の叙述形式で展開されているのであって、今日、大学その他の哲学演習において第1部だけが使用されるのも理由のあることである。しかしながら、デカルト自身の見解からすれば、この第1部は彼の哲学全体の基礎論にすぎないのである。彼が哲学全体を一本の樹になぞらえ、形而上学はその根にすぎないとしたことは周知のことと思うが、第1部はまさにその根の部分であり、彼にとって哲学とはその上に築きあげられた自然学に他ならないのである。彼が「一国はその国の人々がよりよく哲学すればするほど、その国はより文明国である」といっているのは、もちろんいわゆる哲学的思索を無視するのではないが、ただ形而上学にのみ留まらず自然学の進歩する国こそ文明国であることを説くものと考えるべきであろう。もっとも、科学偏重の感じさえある現在の日本の状況からいえば、自然学の底にはまず形而上学が必要であることをデカルトが説いていることをはっきり知らなければならないのである。ともかく、デカルトはどこまでも確固たる基礎の上に自然学を建設することこそ哲学者の真の使命であると考えているのである。

 なお、『哲学の原理』はラテン語で書かれたが、それは1647年ピコ師によって仏訳された。そうしてその仏訳にデカルトは非常に満足するが、この仏訳出版に際してデカルトはフランス語の序文を加えた。この序文で彼は彼自身の過去の諸著作についてだけではなく、彼の哲学の全体を述べている。そうして一層大切なことは、この序文においては彼自身の哲学についてだけではなく、一般に哲学とは何であるかを簡明に、しかも極めて独創的な見地において論じているのであって、デカルト哲学研究にとって、この『哲学の原理』仏文序文は極めて重要な文献であることをここに一言しておきここで話を少し戻したい。 」 ・・・以下、省略・・・


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  デカルト著『哲学の原理』

 
 桝田啓三郎訳 河出書房新社 世界の大思想21  1974年発行

       
      (文頭の数字は著書の数字)


  (目次)
  著者の手紙
  エリザベト公女への献辞


 
第1部 人間的認識の原理について
  
51 実体とは何か。また、この名は神と被造物とに一義的に適用することはできない
  
52 これは精神と物体とに一義的に適用される。そして、どのようにして実体は認識されるか
  
53 実体にはそれぞれ一つの主要な属性がある。精神における思惟、物体における延長がそれである
  
54 どうして私たちは、思惟する実体、物体的実体について、同様にまた神について、明晰判明な想念をもつことができるのか
  
55 どうして持続や順序や数も判明に理解されるのか
  
56 様態、性質、属性とは何か
  
57 或る属性は事物のうちにあり、他の属性は思惟のうちにある。持続および時間とは何か
  
59 普遍者はどのようにして生じるか。また、ふつう知られている5つの普遍者、すなわち類、種、種差、特有性、偶有性とは何か



 
第2部 物質的事物の原理について
  
4 物体の本性は、重さや堅さや色などにあるのではなく、ただ延長にある
  
10 空間あるいは内的場所とは何か
  
11 どうして〔空間は〕ものそのものとしては、物体的実体と区別されないのか
  
12 どうして〔空間は〕、その考え方の上で、物体的実体と異なるのか
  
13 外的な場所とは何か
  36 神は運動の第一原因である、そして宇宙のうちにつねに同じ運動の量を保持している
   37 自然の第一法則、ものはそれぞれ、それ自身だけであるかぎり、つねに同一の状態を維持しつづける。そこで、ひとたび動かされたものは、つねに運動しつづける



 
第3部 目に見える世界について
  
4 現象または経験について、それらは哲学にどう役立つか

 
第4部 地球について
  
201 感覚されない物体の微小部分がある
  
202 デモクリトスの哲学は、私たちの哲学とも、また一般の哲学とも違っている
  
203 感覚できない微小部分の形や運動を、どうして私たちは知ることができるのか
  
204 感覚できない事物については、たとえそうではないかも知れないとしても、いかにありうるかを私が説明できれば足りる


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デカルト著 『哲学の原理』
                      

 (文頭の数字は、著書の数字)

 第1部 人間的認識の原理について


  
51 実体とは何か。また、この名は神と被造物とに一義的に適用することはできない。

 しかし、私たちが事物もしくは事物の様態と見るものに関しては、これを一つ一つ別々に考察することが必要である。実体とは、存在するために自己自身のほかに何ものをも必要としないで存在している事物である、という以外に私はこれを理解することができない。しかも、決して他の何ものをも必要としない実体としては、ただ一つのものが、すなわち神が、理解されうるばかりである。しかしその他の一切のものは、神の協力にまたずには存在しえないことを私たちは知っている。したがって、実体という名が神とこれら一切の事物とに一義的に適用されないのは、学院においてふつうにいわれているとおりなので、いいかえると、神と被造物とに共通するような意義はこの名に判明に認められることができない。

  
52 これは精神と物体とに一義的に適用される。そして、どのようにして実体は認識されるか。

 ところが、物体的な実体と精神すなわち思惟する実体とは、被造のものとして、この共通な概念のもとに理解される。どちらも存在するために神の協力のみを必要とするにすぎないものだからである。しかしながら、実体は単に存在している事物であるということだけによってはじめに認められるのではない、なぜかというに、それが存在しているということそれ自身だけでは私たちを触発することはないからである。むしろ私たちが実体を容易に認めるのは、その実体のもつ或る任意の属性によるのであって、無にはなんらの属性もまたなんらの特有性も性質もないというのが共通想念だからである。すなわち、何らかの属性のあることが知覚されるならば、そこから私たちは必然的に或る存在する事物が、すなわちかの属性の帰せられることのできる実体が現にあると結論するのである。

  
53 実体にはそれぞれ一つの主要な属性がある。精神における思惟、物体における延長がそれである。


 もちろん、実体はどのような任意の属性によっても認識されはするが、しかし、実体にはそれぞれその本性および本質を成す一つの主要な属性があって、他のすべての属性はそれに依存している。すなわち、長さ、広さおよび深さにおける延長は物体的実体の本性を成し、思惟は思惟する実体の本性を成している。そして物体に属せしめられうる他の一切は延長を予想していて、延長ある事物の或る様態にほかならず、同じように、精神のうちに見いだされる一切のものは思惟のさまざまな様態にほかならないのである。たとえば、形というものは延長ある事物のうちにおいてしか理解されず、また運動というものも延長のある空間のうちでしか考えられない。それと同じように、想像や感覚や意志も思惟する事物においてしか考えられない。ところがそれとは反対に、延長は形や運動などがなくとも考えられるし、思惟は想像や感覚などがなくとも考えられるのである。その他の場合においても同様で、注意してみる人なら誰にでも明瞭なことである。

  
54 どうして私たちは、思惟する実体、物体的実体について、同様にまた神について、明晰判明な想念をもつことができるのか。

 このようにして私たちは容易に二つの明晰な想念ないし観念をもつことができる。すなわち一つは思惟する被造的実体の観念、他は物体的な実体の観念である。ただしそれには思惟のあらゆる属性を延長の属性から精確に区別しなくてはならない。また私たちは、被造的でない独立な思惟する実体、つまり神、についても明晰判明な観念をもつことができる、ただしかし、この観念が神のうちにある一切のものを十全に表わしているなどと思ってはならないし、また、神のうちにないものをその観念のうちにあるかのように想像したりなどしてもならない。むしろ、その観念のうちにほんとうに含まれているものだけに、そして最も完全な実有の本性に属すると明証的に知覚されるものだけに、私たちは注意を向けなくてはならない。神についてのこのような観念が私たちのうちにあることを否定するものは確かにありえない。これを否定する人があるとしたら、その人は人間精神には神についての知識が少しもないと思っている人にちがいない。

  
55 どうして持続や順序や数も判明に理解されるのか。

 持続と順序と数もまたきめて判明に理解される。ただそれには、これらのものに実体の概念を勝手におしつけたりなどしないで、或る事物の持続といえば、その事物がありつづけているというかぎりにおいてそれを私たちが考えるその様態にすぎないと考えさえすればよいのである。。同じように、順序や数も、別に順序づけられたものや数えられるものとは違った何かだとは考えないで、そういうものを私たちが考察するいろいろな様態にすぎないと考えるべきなのである。


  
56 様態、性質、属性とは何か

 ここで私たちが様態といっているものは、他の場合に属性または性質といったのとまったく同じものである。しかし、実体がそれらによって触発されたり変化させられたりする場合に特に私たちはこれを
様態と呼び、そして実体がこの変化によってかくかくのものと名づけられることのできる場合に、これを性質と呼び、そして終りに、もっと一般的にそれらのものがただ実体にだけ内在していると見る場合には、それを属性と呼ぶのである。それゆえに、神には変化ということが考えられないから、神にはもともと様態も性質もなく、ただ属性があるといわれるばかりである。そして被造物にあっても、たとえば存在し持続する事物における存在や持続などのように、その被造物において違ったふうにはありえないものは、性質とか様態とかとはいわずに、属性といわれるべきである。              

  
57 或る属性は事物のうちにあり、他の属性は思惟のうちにある。持続および時間とは何か。

 属性あるいは様態といわれるものには、事物そのもののうちにあるものと、単に私たちの思惟のうちにだけあるものとがある。たとえば、時間というものを、私たちが一般的な意味での持続から区別して、時間とは運動の数であるという場合、そういう時間は思惟する一つの様態であるにすぎない。
つまり、運動している場合と運動していない事物の場合とで、その持続に違いがあるなどとは私たちにはとうてい考えられないことであって、いま二つの物体が一時間のあいだ運動するとし、その速度が一方は遅く、他方は速いとすると、一方の運動の方がはるかに多いことはいうまでもないが、時間が一方では他方よりも多く数えられるということはないのに見ても、それは明らかである。しかし、あらゆる事物の持続を計量するために、私たちはその持続を、年とか日とかをつくっている最も大きくて最も規則的な運動の持続と比較する。そしてこのような持続を私たちは時間と呼ぶ。だから、この一般的な意味での持続には、思惟の様態であるということのほかには何一つ付け加えられない。

  59 普遍者はどのようにして生じるか。また、ふつう知られている5つの普遍者、すなわち類、種、種差、特有性、偶有性とは何か

 この
普遍者は、私たちが一つの同じ観念を用いて、お互いに類似しているあらゆる個物を思惟しようとするところから生じるものにほかならない。だからまた私たちは、この観念によって表現されるすべてのものに同じ一つの名を与えるのである。この名が普遍者である。たとえば、私たちが2つの石を見て、その石の本性には心をとめずにただそれが2つあることだけに注意するとき、私たちは2個と呼ばれる数の観念を形づくる、それから後で、2羽の鳥を見たり2本の木を見たりしてやはりそれらの本性を考えずにただ2つであるということだけを考慮するならば、私たちはふたたび以前と同じ観念をうる、したがって、この観念は普遍者なのであって、そこで私たちはこの数を2という同一の普遍的な名で呼ぶにいたるのである。

 同じように、3つの線で囲まれた図形を考察するときには、私たちはそれについて或る観念を形成し、これを三角形の観念と呼ぶ。そしてその後で、それを普遍者として用いて、3つの線で囲まれた他のすべての図形を私たちの精神に示すのである。また、三角形のなかには1つの直角をもつものともたないものとがあることに気がつくと、私たちはここに
直角三角形という普遍的な観念を形成する。これは、先のよりいっそう一般的な観念との関係においてと呼ばれる。そして、その角が直角であるということは普遍的な種差であって、これによってすべての直角三角形が他の三角形から区別されるのである。そして、その底辺の2乗が他の2辺の2乗の和に等しいということは、すべての直角三角形にあてはまり、しかも直角三角形だけにあてはまる特有性である。終りに、これらの3つの角のうち或るものは動き他のものは動かないと想定すれば、これはそれらの三角形の普遍的な偶有性だということになろう。このようにして、ふつうつぎの5つの普遍者が数えられる、すなわち類、種、種差、特有性、偶有性である。



  
第2部 物質的事物の原理について


 
4 物体の本性は、重さや堅さや色などにあるのではなく、ただ延長にある

  そのようにしてみると、物質あるいは広い意味で物体というものの本性は、堅さや重さや色をもつもの、あるいはその他なんらかの仕方で感覚を刺激するものであるということにあるのではなく、
ただ長さと幅と深さとに延長しているものであるというところにある、ということがわかる。すなわち、堅さというものは、私たちが手で触る時その手の運動に堅い物体の部分が抵抗するということ以外には、私たちに感じられない。だから、私たちの手が何かに向かって動いて行っても、その前進につれて、そこにあるすべての物体が、手の近づくのと同じ速度で後退して行ったとしたら、私たちは堅さというものを感覚することはないであろう。しかし、そのように後退して行く物体が、だからといって物体の本性を失ってしまうとは、どうしても考えられない。してみると、物体の本性は堅さには存しないのである。同じような理由で、重さも色も、そのほか物体的物質のうちに感覚される同じようなあらゆる性質も、それを物体から除いても、物体の本性は完全に存続しうることがわかる。したがって、物体の本性は、そういう性質のどれにも依存するものでないことになる。

 
10 空間あるいは内的場所とは何か

 空間あるいは内的場所と、そこに含まれている物体的実体とが区別されるのも、ものそのものとしてではなく、それらのものが私たちによって考えならわされているその考え方の上でのことにすぎない。なぜかというに、実際、長さと幅と深さとの延長、これが空間を作っているのであるが、この延長は、物体を構成する延長と全く同じものだからである。しかし、私たちは物体における延長を何か特別のものと考え、物体が変るごとにいつでも延長も変るものと思っているのに、空間の場合には、延長というものに類的な単一性があるものと考え、したがって、空間を占める物体が変っても、空間の延長の方は変ることなく、物体の大きさと形状がもとのままで、私たちがその物体の占める空間を定める目やすになる外的な物体と物体との間でそれが同じ位置を占めつづけているかぎりは、空開はどこまでも同じであると考える点に、両者の違いがある。

 
11 どうして〔空間は〕ものそのものとしては、物体的実体と区別されないのか

 せめて、物体の本性をなす延長と空間の本性をなす延長とが同じ延長であり、この両者の違いは、類あるいは種の本性と個体の本性との違い以上のものでないことを、わかりやすくするために、私たちは一個の物体、たとえば、一個の石をとって、これについて私たちのもっている観念に注目し、この物体の本性に属するとは考えられない一切のものをその観念から投げ捨ててみることにしよう。

 すなわち、まず第一に、堅さを捨てよう、なぜなら、石は熔解するか粉々に分解されるかすると堅さは失うけれども、だからといってしかし物体であることをやめはしないからである。次には色を捨てよう。なぜなら、全く色がないといえるほど透明な石を、私たちはよく見かけるからである。重さも捨てよう。なぜなら、火はこの上なく軽いものではあるが、それでもやはり物体だと考えられるからである。それから最後に、冷たさ、熱さなど、その他の<これに類する>性質をすべて捨ててみよう。なぜなら、これらの性質は石のうちに認められないか、それとも、それらの性質が変っても、それだからといって、石が物体の本性を失ったとは考えられないか、そのいずれかだからである。このようにして、石の観念のうちには、長さと幅と深さとに拡がったものであるという以外には、全く何も残らないことを認めることになろう。そしてこの延長あるものということこそ、空間の観念に含まれているものなのであって、それは空間が物体で満たされている場合ばかりでなく、空虚と呼ばれるものである場合でも、同じことである。

 
12 どうして〔空間は〕、その考え方の上で、物体的実体と異なるのか

 しかし、考え方の上では、違いがある。というのは、石をそれがあった空間もしくは場所から取り除くと、私たちは石の延長も取り除かれたものと考えるが、それは、つまり、私たちがこの延長を特殊な、石から切り離すことのできないものであると見なしているからなのである。ところがまた、その石のあった場所の延長は、〔石を取り去っても〕そのままいつまでもあとに残っていて、その石のあった場所がこんどは木か、水か、空気か、その他どんな物体によって占められることになろうとも、あるいは空虚であると見なされようとも、同じものだと私たちは考えるのである。これは、この場合、延長ということが一般的に考えられているからで、その延長が同じ大きさ、同じ形状をし、その占める空間を定める外的な物体と物体との間で同じ位置を保っていさえすれば、その延長は、石でも、火でも、水でも、その他の物体でも、またもし空虚というものがあるとするなら、その空虚でも、同じだと見なされるからである。

 
13 外的な場所とは何か

 すなわち、場所とか空間とかいう名前は、その場所にある物体とは違った何かを意味するのではなく、ただその大きさ、形状および他のもろもろの物体の間で占める位置、を指すにすぎないのである。もちろん、そういう位置が定められるためには、私たちは他の諸物体に注目し、かつそれらの物体が不動であると見なさなければならない。ところが、そう見なされる物体はさまざまなので、私たちの注目するその物体の異なるのに応じて、私たちは同じものが同じ時に、場所を変えるとも変えないとも、いうことができるわけである。
たとえば、船が海上を進んでいる時、船尾に坐っている人は、その人がその間に位置を占めている船の部分と部分とだけに注意して見られる場合には、つねに一つの場所にとどまっている、しかし、岸辺に注意して見られると、その同じ人は、絶えず一方の岸から遠ざかって他方の岸へ近づいているのであるから、絶えず場所を変えていることになる。さらにまた、地球が動いていて、船が東から西へ進んで行くのとちょうど同じだけ地球も西から東に向かって進むと考えてみると、船尾に坐っている人はその場所を変えないと、またも私たちはいえることになる。つまり、私たちが、天上のどこかにある<と想像される>不動な点から、その場所を決定するからである。しかしながら、結局のところ、以上においてそう信ずべきことが明らかになるように、宇宙にはそのような真に不動なといえるような点は見いだされないと私たちが考えるなら、私たちの思惟によって定められる以外には、およそいかなるものにも、一定不変の場所など存在しない、と私たちは結論することができるのである。


 36 神は運動の第一原因である、そして宇宙のうちにつねに同じ運動の量を保持している

 このようにして運動の本性を考察したので、今度は、その原因、その二重の原因を考察しなくてはならない。すなわち、まず第一に、世界のうちにある一切の運動の共通な原囚である、普遍的、第一義的な原因、次に、物質の個々の部分が以前にはもたなかった運動をもつようになってくる特殊な原因、である。そこでまず普遍的な原因であるが、これが神みずからでしかないことは、私には明らかなように思われる。神こそは、<その全能の力によって>太初に物質を、そして同時に運動と静止をも、創造したもうた方であり、そして今もなお、いつも変りなく力を添えたもうて、創造の時に与えられたと同じだけの運動と静止を物質全体のうちに保持していますのである。すなわち、この運動は、動かされている物質においてはその様態でしかないけれども、一定の量をもっているのであって、宇宙の個々の部分においては変化するにしても、宇宙全体としては常に同一の量であることを、私たちは容易に理解するからである。つまり、物質の一つの部分が他の部分よりも2倍速く運動し、そしてこの後者の部分の方が前者の部分の2倍の大きさである時には、小さい方の部分にも大きい方の部分と同じだけの運動があると考えられ一つの部分の運動が緩くなればなるほど、これと等しい他の部分の連動はそれだけ速くなる、と考えられるのである。私たちはまた、神がそれ自身において不変であるというばかりでなく、この上なく恒常で不変な作用を及ぼしたもうという点でも、神のうちには完全性があることをも知っている。したがって、明証的な経験あるいは神の啓示が確かなものと認める変化や、創造主になんらの変化を伴うことなく生ずると私たちが認めたり信じたりするような変化を除外して、私たちが神のみわざのうちにそれ以外の変化を想定し、そこから神のうちに不安定があるなどと推論するようなことがあってはならないのである。それゆえに、神は、最初に物物を創造された時、物質の諸部分をさまざまなふうに運動せしめられたが、今でも始めの創造の時とまったく同じ仕方と同じ比例で全物質を保持しておられるのだということだけからでも、神は全物質のうちにつねに同じだけの運動を保持しておられるのだと信じるのが、もっとも合理的なことだということになる。

 
37  自然の第一法則、ものはそれぞれ、それ自身だけであるかぎり、つねに同一の状態を維持しつづける。そこで、ひとたび動かされたものは、つねに運動しつづける

 また、神のこの同じ不変性から、或る規則すなわち自然の法則が知られうる、それは、私たちが個々の物体に認めるさまざまな運動の第二次的な特殊な原因である。それらの法則の第一は、物はそれぞれ、単一で分たれていないならば、それ自身だけであるかぎり、つねに同じ状態にとどまり、外的原因によるのでなければ、決して変化しないということである。それだから、もし物質の或る部分が四角形であるならば、その形を変える何ものかが外からやってくるのでないかぎり、いつまでも四角のままでありつづけようとすることを、私たちは容易に確信する。もしそれが静止しているのならば、他の或る原因によって動かされるのでないかぎり、決して動き始めることはない、と私たちは信じていい。また、もしものが動かされているなら、そのものがそれ自身で自発的に、また何か他のものに阻止されることなくして、その自己運動を中止すると考えるべき理由も同じようにないわけである。したがって、運動しているものは、それ自身だけであるかぎり、つねに運動する、と結論されなければならない。しかしながら、私たちの住んでいるこの地上は、その近くで起こるすべての運動がやがて止まってしまうようなふうに、しかもしばしば私たちの感覚では知ることのできない原因によって止まってしまうようなふうにできているので、そこで私たちは、幼少の頃から、私たちにわからない原因によって止まってしまったそういう運動が自発的に止まったものと判断してきたのである。そのために私たちは、多くのもので経験したと思うものを、あらゆるものに適用して、運動はその本性上停止するものだ、もしくは、静止に向かうものだ、という推測をくだす傾向をもっているのである。しかし実にこれこそ自然の法則にもっとも反することである、なぜかというに、静止は運動の反対物であるが、しかし、それ自身の本性上自分自身の反対のために、あるいは自分自身の破壊のために働くなどというものはありえないからである。



  第3部 目に見える世界について


 4
 現象または経験について、それらは哲学にどう役立つか


 しかし、私たちのすでに発見した諸原理は、そのおよぶ幅がたいへん広く、かつ実り豊かなものなので、それらの原理から出てくる結果は、私たちがこの目に見える世界で見るものよりもはるかに多く、そればかりか、私たちの精神が思惟によっていつか究めうるであろうものよりもはるかに多くさえある。そこで、私たちはここで今、重要な自然現象(これの原因がここで探求されねばならないのであるが)を簡単に叙述することにしよう。むろんそれは、私たちが何かを論証するためにそれらの現象をいわば根拠として使おうためではない、なぜかといって、
私たちは結果の説明を原因から導き出そうと欲しているのであって、それとは逆に、原因の説明を結果から導き出そう欲しているのではないからである。そうではなくてむしろ、ただ、同一の原因から生じうるものと私たちの判断する無数の結果のなかで、他の結果よりも一方の結果を考察するように私たちの精神をふり向けようためにほかならないのである。



  
第4部 地球について

 
201 感覚されない物体の微小部分がある

  個々の物体のうちには、
感覚では知覚されないような微小部分がたくさんあると私は考えるが、これは、自分自身の感覚を認識の尺度とする人々のおそらく賛同しないところであろう。けれども、どんな感覚によっても私たちの認めえないほど小さい物体がたくさんあることを、誰が疑いえようか。
 ゆっくりと成長してゆくものに瞬間ごとに何がつけ加えられつつあるか、また<同じように>徐々に縮小してゆくものから何が取り去られつつあるかを考えてみただけでも、疑いようはあるまい。木は日ごとに成長する、その木は、何か他の物体がそれに加えられると考えるのでなければ、以前よりも大きくなると考えられることはできない。しかし、この成長してゆく木に一日のうちにつけ加わるその小物体がどんなものか、感覚で認めた者があるだろうか。少なくとも、<哲学者のなかで>
量というものが無限に分割されるものだと認める人たちなら、物体の部分が<分割されると>どんな感覚でも知覚されないほど小さくされうるものだということを認容せざるをえないであろう
 私たちが非常に微細な物体を感覚しえないからといって、少しも驚くにはあたらないのである。感覚を生ずるためには対象によって動かされねばならない私たちの神経自体が、ごく微小なものではなく、目の細かい絹のように、いっそう小さい多くの微小部分で複合されたものである。それだから、私たちの神経は極微な物体によって動かされることができないのである。
小さい物体に起りはするがそれが小さいばっかりに感覚できないというようなものについて説明するのには、大きい物体に起こることで私たちが感覚で知覚できるようなことがらを模範にして判断する方が、何かしら新しい、感覚されるものとなんらの類似性をももたないようなものを考え出したりするよりも、はるかにまさっていることは、およそ理性を用いる人なら、否定されるようなことはあるまい、と私は考える。



  
202 デモクリトスの哲学は、私たちの哲学とも、また一般の哲学とも違っている

 デモクリトスも、さまざまな形と大きさと運動をもつ或る微小物体を想像し、それが積み重なったりお互いに衝突したりするところから、あらゆる感覚的な物体ができてくる、とした。けれども、彼の哲学はたいていすべての人々によって公然と拒否されている。しかしながら、彼の哲学では、感覚できないほど微小でさまざまな大きさと形と運動とをもっているといわれる或る物体が考えられているといって、彼の哲学を斥けた人はかつてない。(それは当然で)上に明らかにされたように、そういうものが実際にたくさんあることは、だれも疑うことはできないからである。むしろ彼の哲学が拒否されたのは、まず
第一には、彼がその微小物体を不可分だと想定したからであって、この点では私も彼の哲学を排斥せざるをえない。第二には、それらの微小物体のまわりに空虚があると想像したからであるが、そういう空虚がありえないことは私の論証したところである。第三には、その微小物体に重さを認容したことであるが、私はいかなる物体もそれ自身で重さをもつとは認めず、ただ物体が他の諸物体の位置と運動とに依存しそれに関係させられる限りにおいてのみ、重さが認められるのだと考える。そして最後に、<彼の哲学が拒否されたのは、>どうして個々の事物がただ微小物体の集合だけから生ずるのかを、彼が明らかにしなかったからであり、あるいは、若干の場合にはそれを説明しているけれども、その理由のすべてが必ずしも互いに一致していないからである。少なくとも、遺し伝えられた彼の見解から判断できる限りでは、そうである。ところで、私が哲学についてこれまで書いてきたことどもが充分によく互いに一致しているかどうかについては、私はこれを他の人々の判断に委ねよう。


 
203 感覚できない微小部分の形や運動を、どうして私たちは知ることができるのか

〔1〕 私は、感覚できないものだといっておきながら、まるで私が見でもしたかのように、物体の感覚できない微小部分に一定の形や大きさや運動があるとするのだから、そこでおそらく、いったいどこから私がそんなものがあることを知るのか、とたずねる人があることだろう。

〔2〕 これにたいして私は答えよう。私はまず第一に、私たちの心に生まれながらその知識の与えられている最も単純な、そして最もよく知られている諸原理から、ただ微小であるというだけのために感覚できない諸物体の大きさと形と位置とにどういう主な差異がありうるかを、そしてそれらの(感覚できない微小)物体のさまざまな集合からどういう感覚できる結果が生ずるかを、考察したのである。
次いで、私は、感覚できる諸物体のうちに、或る同じような結果(が見られること)を発見した時、その(感覚できる)諸物体がそういう(感覚できない諸微小)物体の同じような集合から生じたものだと見なした、ことに、それ(らの感覚できる物体)を説明すべき方法を私はそのほかに考え出すことができないと思われたからである。

〔3〕 このこと(の発見)に少なからず役立ってくれたのは、技術によって作られたものであった。なぜかといえば、技術によって作られたものと自然的物体とのあいだに認められる相違は、ただ、技術によって作られたものの結果はたいてい、感覚で容易に知覚できるだけの大きさの道具を用いて作り上げられるもので、人間によって作られることができるためには、この(感覚できるという)ことがどうしても必要なわけなのであるが、これに反して自然的な結果というものは、ほとんどいつでも、どんな感覚でも知覚できないほど微小な或る器官に依存している、ということだけだからである。ところが、もちろん力学でおこなわれる規則はすべて自然学にもあてはまる、力学は自然学の一部ないし一種だからである。

〔4〕 あれこれといくつかの歯車を組み合わせてできている時計が時を示すのは、一定の種子から発生した木が一定の果実を結ぶのと同じように、自然なことなのである。それだから、自動機械の観察になれた人は、何かの機械の使い方を知っていてその機械の一部分を見ると、この部分から推して、自分の見ない他の諸部分がどんなふうに作られているかを知ることができるように、私もまた、自然的な事物の感覚できる結果や部分から、それらの事物の原因と感覚できない微小部分とがどんなものであるかを、探求しようと試みたのである。


 
204 感覚できない事物については、たとえそうではないかも知れないとしても、いかにありうるかを私が説明できれば足りる

  ・・・「私たちの感覚が知覚しない事物に関しては、それがいかにありうるかということを説明すれば足りる。アリストテレスの努力した仕事はすべてそれである。」・・・

〔1〕 すべての自然的な事物がどのようにして造られることができたかが、おそらくこのように理解されるとしても、それだけからといって自然物が実際にそのように造られたと結論するわけにはゆかない。なぜかというに、同じ(時計)職人によって2つの時計が作られ、その2つの時計が同じように正確に時を指し示し、外から見たのでは全く同じであるのに、内部は、たいへん違った歯車の組み立て方でできているということがありうるわけだが、それと同じように、事物の最高の製作者(である神)であれば、私たちの見る一切のものを、種々さまざまに創りたまうこともできたであろうことは疑いないことである。

〔2〕 確かにそのとおりだと、私は喜んでこの意見に賛成する、そして、私の書いたものが自然のあらゆる現象にぴったりと一致するようなものであってくれさえすれば、私の果たすべき課題が充分にかなえられたものと私は信ずるものである。そしてこれもまた人生に充分役立つであろう、というのは、医学にしても力学にしても、<一般に>自然学の助けをかりていとなまれることのできるその他のあらゆる学芸にしても、すべてただ感覚的なものだけを、したがってまた自然現象に数えられるものだけを、その目的としているのだからである。だからアリストテレスはみずから、彼がそれ以上のことを成しとげたとか、成しとげようと思ったとかと信ずる人のないように、彼の『気象学』第1巻第7章の冒頭〔編集部注〕 において、感覚に現われないものについては、私が説明するようなふうにして作られうるということが明らかになりさえすれば、私は充分な理由と論証を供しえたものと考える、とはっきりといい遣しているのである。



 〔編集部注〕アリストテレス自然学方法論の時代的特徴がよく表れています。また、デカルトの自動機械の観察や機械論的自然観の概要が参照できます。以下(1)、(2)を参照してください。

 (1) 『気象学』第1巻第7章の冒頭
 「しかし、感覚にとって明らかでないことがらについてわれわれが或る結論をみちびいたとしても、それが不可能なものでなかったなら、それは推論によってじゅうぶん証明されたものとみなされるのである。そこでひとは、現在明らかになったところから出発していけば、これらの問題にかんするつぎの説明がきわめて正しいことを認めうるだろう。」

 (2)前記「
203 感覚できない微小部分の形や運動を、どうして私たちは知ることができるのか
 「
〔4〕 あれこれといくつかの歯車を組み合わせてできている時計が時を示すのは、一定の種子から発生した木が一定の果実を結ぶのと同じように、自然なことなのである。それだから、自動機械の観察になれた人は、何かの機械の使い方を知っていてその機械の一部分を見ると、この部分から推して、自分の見ない他の諸部分がどんなふうに作られているかを知ることができるように、私もまた、自然的な事物の感覚できる結果や部分から、それらの事物の原因と感覚できない微小部分とがどんなものであるかを、探求しようと試みたのである。」 「私たちの感覚が知覚しない事物に関しては、それがいかにありうるかということを説明すれば足りる。アリストテレスの努力した仕事はすべてそれである。」

・・・以上で、『哲学の原理』抄録要約、終わり・・・