ホーム  


デカルト     精神指導の規則

1
 規則4


 事物の真理を探求するには、方法が必要である。
2
 ところで、「方法」ということで私が考えているのは、次のような特長をもった諸規則である。すなわち、それらを正確に守るならば、誰でも、虚偽のものを真と思いこむことが決してなく、また、精神の努力を無益に費やすことなく常に次第に知識を増してゆき、及びうるかぎりのすべての事物の真なる
認識に達するであろうような、そうした確実で容易な諸規則のことである。

3
 この方法の効用はかくも大きく、それなしに学問に従事することは益よりも害が多いと思われるほどなのであるから、すぐれた知能は、おそらく自然そのものに導かれて、すでに昔からこの方法を何らかの仕方で察知していた、と信ずるに難くない。実際、人間の精神は何かしら神的なところを具えていて、その中に有益な思考の最初の種子がまかれており、この種子は、いかに捨ておかれたり歪んだ研究によって窒息させられたりしていても、しばしばおのずからにして果実を産み出すものである。このことの証拠は、学問のうちで最も容易なものである数論と幾何学において見出される。というのは、われわれに充分認められるところによれば、昔の幾何学者たちは一種の解析を用い、それをすべての問題の解決にひろく適用していたのであるが、ただ彼らはそれを後世の者に対して出し惜しみしていた。そして現在、代数とよばれるところの数論の一種が盛んであるが、これは、古人が図形についてなしたことを、数についてやろうとするものなのである。これら二つの学問は、この方法に内在する原理からおのずからにして生じた果実にほかならない。こうした果実が、これらの学問のきわめて単純な対象に関して、今までのところ他の諸学問におけるよりもうまく育ったということは、私には少しも不思議でない。

4
 まさにこのことこそ、私がこの論文において主としてなそうと企てたことなのである。実際、もしこれらの規則が、計算家や幾何学者たちが閑にまかせて弄ぶのを常とするような、くだらない問題を解くためにしか役に立たぬものであるならば、私はこうした諸規則を重要なものだと思わないであろう。

 もっとも、この論文で私は図形や数について多く語るであろうが、それは、他の諸学問からは、これほど明証的でこれほど確実な例を求めえないからである。そして私の意図するところに少しく注意を向けてくれれば誰でも直ちに認めるであろうが、私はここで通常の数学のことを考えているのでは全然なく、ある他の学問を提出しているのであり、その学問においては、例として出される図形や数は、部分であるよりも、被いとなっているのである。この学問は、実に人間理性の最も基本的なところを含み、いかなる対象にもひろく適用されて、そこから真理を引き出してくるべきものである。憚らずにいえば、それは、およそ人類からわれわれに伝えられた他の諸々の認識に対し、それらすべての源泉であるが故に、それらすべてより優れたものである。と私は確信している。なお、右で「被い」といったが、それは、この学説を包み隠して、一般人から遠ざけようとするためのものではなく、むしろ逆に、衣装をきせ、飾りをつけて、人間の知能にちかづきやすくするためなのである。

5
 ところがその後になると、この真の数学は著作家たち自身の悪だくみによって押し隠されてしまったと信ぜられる。というのは、技術者の多くが自分の発見に関してやったといわれていることであるが、そのように彼らも、真の数学がきわめて容易で単純であるため、それが世に拡まると値打がなくなりは
しないかと恐れたのであろう。それの代りに、推理を重ねて事細かに論証された不毛の真理のあれこれを、自分の学問の成果として示すことにより、われわれをして驚嘆せしめようとし、当の学問そのものを教えてそうした驚嘆の念をなくしてしまうことは好まなかったのである。しかし最後に、知能の卓越した人々があらわれ、あの学問を今の世に復興しようと努めた。というのは、外来の名称によって「代数」とよばれている学問は、もしそれが負わされている雑多な数字や奇妙な図形から解放されえて、真の数学がもつべきだと考えられるところの、この上ない明瞭さと容易さを完全にそなえるに至りさえすれば、まさにあの学問にほかならないと思われるのである。

6
 このように考えてきて、私は、数論や幾何学の特殊な研究から、数学についての一般的な考察へと導かれた。そして第一に、数学という名称によってすべての人々が理解しているのは、正確にいって何であるのか、また、右にあげた二つの学問ばかりでなく、天文学、音楽、光学、力学、その他多くのものが、数学の部分をなすといわれているのは何故なのか、を問題にした。その際、この語の起源を探るというやり方は充分でない。何故なら、「数学」[Mathesis]という名称は、元来はただ「学問」というのと同じ意味にすぎないのであるから、その点ではすべての学問が、幾何学自身と同じ権利をもって数学[Mathematicae]とよばれることにもなろうからである。ところが実際には、少しでも学校(スコラ)の門をくぐったことがあるほどの人ならほとんど誰でも、あれこれの事物について、数学に属するものと他の学問に属するものとを、たやすく区別するのである。この点をさらに注意深く考察していって、ついに次のことが分ってきた。すなわち、それにおいて秩序と度量とが研究されるところのすべての事物が、そしてそれのみが、数学に関係するのであって、その際、そうした度量が問題にされる対象が、数であるか図形であるか、天体であるか音であるか、あるいは更に何か他のものであるかは、どうでもよいのである。したがって、特殊な資料とは関係なしに、およそ秩序と度量について問題にされうるかぎりのことをすべて説明するような、ある一般的な学問がなければならぬことになる。そしてこの学問は、外から借りてきた言葉によってでなく、古くからあり一般にうけいれられている言葉によって、「普遍数学」と名づけられるべきである。

7

 規則5
方法全体は、真理を見出そうとして精神の力が向けられる当の事物の、秩序と配置に存する。そして、複雑で不明瞭な命題を、段階を追って、より単純な命題に還元してゆき、そうした後、すべてのうちで最も単純な命題の直感から、そのたすべての命題の認識へと、同じ諸段階を通って登ってゆくことを試みるならば、われわれは正確に方法に従うことになる。


8
 規則6
 最も単純な事物を複雑な事物から区別し、秩序に従ってそれらを追求してゆくためには、幾つかの真理に関しわれわれがその一つを他から直接的に演繹することによってできたところの、事物の系列の一つ一つにおいて、何が最も単純であるか、どんな仕方でそれ以外のすべてのものが、そのものから、それぞれに、より遠く、より近く、あるいは等しく、隔たっているか、が観察されなければならない。


9
 「相対的なもの」とは、当の本性、あるいは少なくともそれにおける何か、を分有し、そのことによって絶対的なものに関係づけられると共に、絶対的なものから一定の系列を通って演繹されることができるもの、なのであるが、このことに加えて、それは自分の概念のなかに、私が「関係」とよぶものを含んでいる。例としては、依存的なもの、結果、複合的なもの、特殊なもの、多であるもの、不等のもの、相異なるもの、斜なるもの、などといわれるものすべてである。相対的なものは、こうした諸関係を多く含むほど、絶対的なものから隔たっており、その諸関係がまた相互に従属しあっている。これらすべてを区別し、その相互間の連結と自然的秩序を守ることによって、最後のものから最も絶対的なものに至る
まで、他のすべてのものを経過しつつ達しうるのでなければならぬ、というのが、右の規則においてわれわれに示されていることである。


 そして、あらゆる場合に、この最も絶対的であるものに注意深く目を向ける、ということ、ここに方法全体の秘密がある。実際、ある見地からすれば他のものよりも絶対的であるが、見方を変えればより相対的になるものがある。例えば、普遍的なものは特殊的なものよりも、より単純な本性をもつことにおいてはより絶対的であるが、存在するため個物に依存するということにおいては、より相対的であるともいわれうること、などである。また、時として他のものよりも絶対的だからといって、すべてのもののうちで最も絶対的なことにはならない。例えば、個物を考えているときには種は絶対的なものであるが、類を考えるときには種は相対的なものであること、また、計量しうるもののなかでは延長が絶対的なもの
であるが、延長のなかでは長さがそうであること、などである。なお、ここで考察しているのは事物の認識の系列であって、事物個々の本性ではないということが、よりよく理解されるようにするため、原因や相等しいものをわざと絶対的なもののなかに入れておいたが、実はそれらの本性は相対的なのである。事実、哲学者たちにおいては、原因と結果とは相関的なものとされている。しかしわれわれの場合には、結果がいかにあるかを問題にするには、まず原因を知らなければならないのであって、その逆ではない。また、相等しいものについても、それら相互が対応しあっているわけであるが、しかし、不等のものの認識は、相等しいものとの比較によってのみなされるのであって、その逆ではない、等々。


10
 最後に、第三の注意。研究を始めるのに、困難な事物の考察からとりかかってはならない。われわれは、何か特定の問題にとりかかる前に、まず、おのずから現われている真理を取捨選択なしに集め、次に、それらから何か他のものが演繹されうるかどうか、そしてこの他のものから更にまた他のものがどうか、という具合に、少しずつ順を追って見てゆくようにしなければならない。


11
 私が6という数は3の二倍であることに気づくと、次に6の二倍、すなわち12を求めるであろう。興味をおぼえれば更にこれの二倍、すなわち24を、更にはその二倍、すなわち48を、等々と求めてゆくであろう。そしてここから容易に、同一の比が3と6の間にも、6と12との間にも、更に12と24との間、等々にもあること、したがって、3、6、12、24、48、等々の数は連比をなすこと、を演繹するであろう。これらはすべて全く明白なことで、ほとんど子供じみて見えるであろうが、注意深く反省すれば、実はそこから次のこと、すなわち、事物の比例あるいは関係について出されるすべての問題がどのような事情のもとにあるか、そしてどのような秩序に従って探求されるべきか、が理解される。そしてまさにこの一事に、純粋数学という学問全体の要約が含まれているのである。

12
 
規則14
 問題を物体の実在的な延長に移し、その全体を、あらわな図形によって想像力に示すべきである。こうすれば知性は、はるかに判明にその問題を認知するようになるであろう。


ところで、延長や形や運動その他、ここでは数えあげることもないが、こうした既知の存在は、その主体がさまざまであっても、すべて同一の観念によって認識される。王冠の形を想像するという場合、それが金製であろうと銀製であろうと変りがない。そして、この共通の観念を一つの主体から他の主体へ移すということがなされるのは、単純な比較によってであって、それ以外のことではない。この比較によってわれわれは、求めるものと所与のものとが、かくかくの点で類似しているとか、同一であるとか、相等しいとか判定する。結局のところ、あらゆる推理において、我々が正確に真理を認識するのは、もっぱら比較ということによってなのである。例えば、「すべてのAはBであり、すべてのBはCである。故に、
すべてのAはCである」といったような推論においても、求めるものと所与のもの、すなわちAとCとがそのどちらもBであるという点で相互に比較されるわけである。

13
 比較が単純で明白だといわれるのは、求めるものと所与のものとが、ある一定の本性を等しく分有している場合のすべてにおいてであり、そしてその場合においてのみである、ということに注意せねばならない。それ以外のすべての場合に比較は準備を必要とするが、その理由は、こうした共通の本性が、比較の両項のなかに等しく存しているのでなく、何か他の関係や比例に従属し包みこまれているからにほかならない。そして人間としての主な仕事は、これらの比例を煎じつめていって、求めるものと既知のあるものとの間の相等性が明晰に見てとられるようにする、ということ以外になり。


 次に注意すべきことは、こうした相等性へと引直すことができるのは、より大とより小の関係をもちうるもの以外にはなく、そしてこれはすべて「大きさ」という語のもとに包括される、ということである。したがって、前の規則により困難の諸項があらゆる主体から抽象された後、ここではそれに続いて、われわれが取扱うのはただ大きさ一般のみであるということが理解される。

14
 問題が完全に規定されている場合、それが含む困難は、比例を解きほぐして相等性に帰着させること以外にはほとんどない。そして、正確にそのような困難が見出されるところのものは、すべて、それを他のあらゆる主体から分離して、延長と形に移すことが容易にできるし、またそうしなければならない。こうした事情の故に、われわれはこれから規則25に至るまで、他のあらゆる考慮は別にしておいて、延長と図形のみを取扱うことにする。私はここで、読者が数論と幾何学の研究に興味をもたれるよう、希望したい。


15
 規則16
推論するためには必要であるが、精神が現前して注意を向けていることは要しないもの、そのようなものは、完全な図形によってよりも、極めて短い記号によって表示する方がよい。こうすれば、記憶が誤ることはありえず、しかも思考はその間、それらのものを保持することで分散されずに、他のものを演繹することに集中しうるからである。

16
 それ故、困難の解決にとって一つのものとして見なされるべきものは、すべて、一つの記号だけで表示することにしよう。この記号は任意の仕方でつくってよい。しかし事柄を見やすくするために、文字a、b、c、等を既知の大きさを表わすために用い、A、B、C、等を未知の大きさにあてよう。そして、それらの多さを示すために、しばしば数字1、2、3、4、等を文字の前におき、また他方、それらにおいて考えられねばならぬ関係の数を示すために、文字に数字を付けるようにしよう。例えば、2a3と書けば、文字aであらわされ三つの関係を含むところの大きさの二倍、というのと同じことである。こうした工夫により、われわれは、多くの言葉の代りになる要約をつくるばかりでなく、これが主眼なのであるが、困難の諸項を純粋に、そしてあらわに示し、用いるべきものは一つも除かれていないが、余計なものは何一つ見出されない、というようにする。この余計なものがあると、精神が多くのものを一度に総括しなければならないときに、知能の包括力が無駄に使われるのである。

17

 規則17
 提示された困難を直接的に辿ってゆくようにすべきである。すなわち、その諸項のうち、あるものは既知であるが、他は未知である、ということを度外視し、それらの個々の項について他との相互的な依存関係を、真の道順を経て直観してゆくのである。

 最初のものと最後のものとが或る仕方で相互に連結されているのを知っているということから、両者を結合する中間のものがいかなるものかを演繹しようとすれば、われわれは全く間接的で逆になった秩序を追うことになる。ところが、ここでわれわれが取扱うのは、まさに複雑な問題なのであって、既知の両端から、逆転された秩序によって中間のものを認識しなければならない。したがって、この場合にとるべき方策のすべては、未知のものも既知と仮定することにより、いかに錯綜した困難においても、容易で直接的な探求の道をとりうるようにすること、これである。そしてこれがいつも成功することを妨げるものは何もない。何故なら、われわれがこの第二部の初めから前提してきたところでは、問題のなかにあ
る未知のものはすべて既知のものに依存し、しかも前者は後者によって完全に規定されていることを、われわれは知っているのだからである。そこで、この規定関係をそれとして知るときに最初に現われてくる当のものを考察し、それらが未知であっても既知のもののなかに入れ、それらから出発して、段階を追い真の道順を経て、他のすべてのものを、既知であっても未知であるかのように、演繹してゆくならば、この規則が指示するところをすべて実行することになろう。


 ・・・・以上、終わり・・・・