エンゲルス 
自然の弁証法


   「科学史から」 ・・・19世紀の3大発見      マルクス=エンゲルス全集第20巻 p.507

 ところが同じころ経験的自然科学は大きな躍進をとげ、輝かしい成果をあげたので、これによって18世紀の
機械論的な一面性を完全に克服することが可能になったばかりでなく、自然科学自体もまた、
自然そのもののうち
に存在するところの、さまざまな研究領域(力学、物理学、化学、生物学、等)の連関を
立証することによって、経験的な学問か
ら理論的な学問に変わり、また既得の成果を総括することによって
唯物論的な自然認識の一体系に変わった。

 気体の力学。無機物からいわゆる有機の化合物を製出することによってそれら有機物のひとつひとつから
つぎつぎとそこに残されていた最後の謎を剥ぎとっていった新たにはじめられた有機化学。
1818年に始まる科学的な発生学。地質学と古生物学。植物と動物との比較解剖学。――
すべてそれらはいまだかつてなかったほどのおびただしい新材料を提供するものであった。
しかし決定的に重要だったのは次の三つの大発見であった。


 
 Ⅰ. エネルギー転化・・・熱の仕事当量の発見

第一のものは、熱の仕事当量の発見(ローベルト・マイアー、ジュール、コルディングによる)
に由来するエネルギー転化の証明であった。これまではいわゆる力として、説明のつかぬ謎の存在で
あっ た自然における無数の作用原因――力学的な力、熱、輻射線(光と放射熱)、電気、磁気、化学的な
結合力と分離力――のすべては、いまや
同じ一つのエネルギーつまり運動の、特殊な形態ないしは存在の仕方
であることが立証された。われわれは自然のなかでたえず生じているエネルギーの一形態から他の形態へ
の転化を証明しうるばかりか、こうした転化そのものを実験室や産業のなかでおこなわせることもでき、
しかもそのさいある形態のエネルギーの所与の量にはあれこれの形態のエネルギーの特定の量が対応する
という仕方で、そうした転化をおこなわせることができるのである

 こうしてわれわれは熱の単位をキログラム・メートルであらわし、電気的エネルギーや化学的エネルギーの
単位ないしは任意量をふたたび熱の単位であらわすことができ、またその逆に後者を前者であらわすこともできる。
われわれはまた同様に、生きている生物のエネルギーの消費と供給とを測って、これを任意の単位たとえば
熱の単位であらわすこともできる。自然のなかでの運動の統一はもはや哲学的主張ではなくて、自然科学的な
事実となったの
である


  Ⅱ. 生物細胞の発見


 第二の発見は――時代からいえばこのほうが早いのだが――シュヴァンとシュライデンによる生物細胞の
発見であり、最下等の生物を除くあらゆる生物がその増殖と分化とによって発生し成長する単位としての
細胞の発見である。この発見によってはじめて生きた有機的な自然産物の研究――比較解剖学と比較生理学、
ならびに発生学――は、しっかりとした土台を獲得することになった。
生物の発生、成長、またその構造上の秘密は一掃された。これまでは不可解な謎であったものが、どんな
多細胞生物にとっても本質的には同等である或る法則にしたがっておこなわれている一過程に解消されたのである

 
  
Ⅲ. 生物の進化学説

しかしまだ本質的な欠陥が一つ残されていた。もしもすべての多細胞生物――植物や、人間をもふくめて動物――
が、それぞれ一つの細胞から細胞分裂の法則にしたがって成長してくるものとすれば、そうした生物のかぎりない
多様さはいったいなにに由来するのだろうか?この問題への解答は第三の大発見、ダーウィンによってはじめて
総合的に叙述され基礎づけられた進化学説によってあたえられた。たとえこの学説がこれからも個々の点では
多くの変更を受けることになるにしても、それは大局的には今日すでにこの問題を十二分に解決している。
少数の簡単なものから出発して、今日われわれが眼前に見るようなより多様な、より複雑なものへとすすみ、
ついには人間にまで到達する生物の進化の系列は、大綱においてはすでに立証された

これによって有機的な自然産物[生物]の現有成員すべてにたいする説明が可能になったばかりではなく、
人間精神の前史、つまりたんなる無構造の、ただし刺激だけは受容するところの最下等の生物の原形質から、
思考する人間の脳にまですすむそのさまざまな進化の段階を追跡するための基礎もまたあたえられたのである。
そしてこのような前史がなければ、思考する人間の脳が現に存在するという事柄は一つの奇跡にとどまるのである


 
これらの三大発見によって自然の主要な過程は説明され、それらの過程は自然の諸原因に帰せられるように
なった。ここにはまだなすべきことが一つだけ残されている。すなわちそれは無機的な自然からの生命の発生を
説明することである。そのことは科学の今日の段階にあっては無機物から蛋白体をつくりだすことにほかならない。
こうした課題にむかって化学はますます近づきつつはある

しかし化学はま だそこまではほど遠い。しかしながら、もしわれわれが1828年にやっと最初の有機物質、尿素が
ヴェーラ ーによってつくりだされたことを考慮し、また今日ではいかに多くのいわゆる有機合成物がどんな有機物をも
もちいることなく人工的につくられるようになったかを考慮すれば、われわれは蛋白体の前で化学に「とまれ!」を
命じる気にはならないだろう。今日までのところでは化学は、その組成さえ精密に知れば、どんな有機物を
もつくることができるのである

ひとたび化学が蛋白体の組成を知るならば、化学は生きた蛋白の製出にすすむことができよう。
しかし少数の天体上のきわめて好都合な状況のもとでだけ、自然自体が数百万年をかけてやって成功する事柄を
今日の化学に一朝一夕のうちにやりとげさせようなどということは、――奇跡を求めるようなものである


 こうして唯物論的な自然観は今日では前世紀におけるものとはまったく違った確固とした足場の上に立っている。
当時はただ天体の運動と重力の影響のもとでの地上の固い物体の運動とだけがまがりなりにも遺漏なく理解されて
いたにとどまり、化学の領域全体と生物界の全体はそのほとんどが理解されない秘密としてとどまっていた。
今日では自然全体は、もろもろの連関や過程のすくなくとも大綱においては解明され理解されるにいたった
ところの一体系としてわれわれの前に横たわっている

もとより唯物論的な自然観とは自然をたんにあるがままに、よけいなつけたしをくわえずにとらえるとらえ方に
ほかならない、またそれゆえにギリシャの哲学者たちの場合にはそれはもともと自明のことだった。
しかしあのギリシャ人たちとわれわれとの間には、本質的に観念論的な世界観の二千年以上もの歳月が
横たわっている。だからたとえ自明なものとはいえ、そうした自然観に立ちもどるのは、一見してそう思われる
以上にはるかに困難なことなのである。それというのも、問題はけっしてあの二千年の思想内容全体を
たんに放棄してしまうことにあるのではなくてそれを批判することにあり、たとえ誤った形式だったにもせよ、
その時代とその発展の道程そのものにとっては避くべくもなかった観念論的な形式の内部で獲得されていた
諸成果から、このような一時的な形式の殻をとりのぞくことにあるからである




  物質について

                               物質の運動諸形態、諸科学の分類 p.561

 注意。物質そのものということは純然たる思考の創造であり、抽象である。われわれがもろもろの物を
物質的に現に存在するもの(kӧrperlich existierende)として物質(Materie)という概念のもとに総括するとき、
われわれはそれによってそれらの物の質的差違を度外視する。だから特定の現存している物質と
区別された物質そのものというのは、感性的=現存的なものではない

もしも自然科学が一元的物質そのものを見つけだし、もろもろの質的区別を同一の最小粒子の結合のたんなる
量的差違に帰着させようとするならば、それはサクランボ、ナシ、リンゴのかわりに果物そのものを、ネコ、イヌ、
ヒツジのかわりに哺乳動物そのものを見たがり、気体そのもの、金属そのもの、石そのもの、化合物そのもの、
運動そのものを見たがるのと同じことをやっていることになる

ダーウィンの学説はそのような原始哺乳動ヘッケルの原哺乳動物(Promammale)を要求しているが、
しかしそのときにはこの学説は同時に次の
とをも認めねばならない。それは、そうした原始の哺乳類が
現在および未来の哺乳動物のすべてを自己のうちに未然にふくむものであるとすれば、
その動物は実際に今日のあゆる哺乳動物よりも下等であり原始的未熟さのうちにあって、またしたがって
今日のもののどれよりももっと一時的な存在だったという ことであ

すでにヘーゲル(『エンチュクロペディー』、第一巻、199ページ)も証明しているように、
このような見方、つまり物質を量的にのみ規定しうるもの、しかし質的にはもともと等しいものとみなす
土台となっているこのような「一面的な数学的立場」は、18世紀のフランス唯物論の「立場にほかならない」ので
ある。それは、数すなわち量的規定性をさえ物の本質だと考えていたピュタゴラスへの後退です
らある


第一にケクレ。つぎに、今日ますます必要なものとなってきた自然科学の体系化は、諸現象自体のもろもろの
連関のなかに見いだす以外には見いだしようがない。こうして、一天体上の小物体の力学的運動はいつも
二物体の接触に終わるが、接触には摩擦と衝突という、程度のうえでの区別しかない二つの形態がある。
だからわれわれがまず研究するのは、摩擦と衝突というその力学的作用である

ところが、この力学的作用はそれではつくされないということがわかる。
摩擦は熱や光や電気を生みだし、衝突は電気こそ生じないが熱や光を生ぜしめる、
――したがって物体運動から分子運動への形態変化が生じるのである。
われわれは分子運動の領域つまり物理学にはいり、研究をすすめることになる。
ところが、ここでも分子運動が研究の最終局面をなすものではないことがわかる

電気が化学変化に移行したり、化学変化からでてきたりする。熱や光も同じである。
分子運動はいつしか原子運動に移っているのである。――化学。化学的過程の研究は研究領域として
有機界[生物界]を見いだすようになる。すなわちそれは、化学的な諸過程が無機の世界におけると
同じ法則に従いながら、無機の世界におけるとは異なる諸条件のもとに進行しているような一つの世界であり、
化学はこの無機の世界の説明には十分まにあっているのである

これに 反して、有機界の化学的研究は結局のところ一つの物質にたどりつくことになるのであるが、
それは、
普通の化学的過程の結果でありながら、しかも自分で自分を実現してゆく恒久的な化学的過程で
あるという点で他のすべてのものから区別される物質――蛋白である。
この蛋白がかつていわゆる一原形質として明らかに生成してきたそのときの確定的なすがたにおいてであれ、
あるいはそれが蛋白の他のあらゆる形態を潜在的に自分自身のうちに包含しているそうした確定的というよりは
不確定的なすがたにおいてであれ(この場合には原形質が一種類だけしか存在しないと仮定する必要はない)、
化学がこうした蛋白をつくりだすのに成功したあかつきには、弁証法的移行は実在するものにおいても
証拠だてられたことになり、 またしたがって完全に立証されたことになる

そこにいたるまでのあいだは、そうした移行は思考の領域、いいかえれば仮説のそれにとどまっている。
化学が蛋白をつくりだすことによって、化学的過程はさきの力学的過程がそうだったように、
自分自身をのりこえて拡大してゆき、言いかえればそれはいっそう広大な領域、生物の領域に達する。

生理学はもちろん生きた物質の物理学であり、またとりわけその化学であるが、しかしそれによって生理学は
特殊的に化学であることをやめる。一面ではそれは自分自身の範囲を限定することになるのであるが、
しかしそのなかでいっそう高次の段階にまで自己を高めているのである




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