ホーム |
デカルト 発見の方法
野田又男
それでは数学のどこに目をつけたらよいか。ユークリッド幾何学は定義と公理とから出発して諸
定理を「証明」するが、今求めるのはこの演繹的「証明」の方法ではない。これはすでに与えられた命題
を理由づけることであるが、求めるのは未知の命題を発見する方法形式なのであります。デカルトが着目
するのは、作図題の解を発見するときの手続き、すなわち幾何学で「解析」と呼ばれる手続きであります
。それは「証明」とは逆のやり方であって、図形がすでに与えられたと仮定して、それの条件にさかのぼ
って行き、すでに知られた条件に達する(すでに知られている作図法に達する)ことである。デカルトが
「幾何学者の解析」とか「古代人の解析」とかいうのはそれであります。彼は、古代の幾何学者が新たな
真理を発見するときはいつもこの解析の手続きを用いていながら、その真理を他人に示すときには意地わ
るく隠しておいた、ともいっている。
さて幾何学者が図形に対して用いた「解析」の手続きを、数に応用したものが「代数」であると
デカルトは認めます。われわれも中学校で学んだように、算術から代数に入ると、応用問題が与えられた
とき方程式を立ててそれを解いて答を見出すという手続きが用いられる。これは、求める未知量をχと置
いて既知量と同じ扱いをして、問題に示された条件のすべてを表現する式すなわち方程式をつくるという
やり方である。それは、幾何学の作図題の場合に、求める図形がすでに画きえたと仮定するというやり方
と同じやり方なのであります。
ところでさらにこの解析の手続きを自然研究にあてて考えると、それは、われわれの感覚に与え
られる事実を、未知の条件と既知の条件との複合体すなわち「問題」と見なして、それを分析してゆくこ
とによって未知を既知に化することにほかならないわけである。ただこのときは、事実を諸条件の複合体
と見なすときに、方程式をたてるという数学的操作とともに、それに先立って「観察」とか「実験」とか
いわれる物理的操作が必要であり、この二種の操作は実は次元のちがったものであります。デカルトもの
ちにそのことを顧慮して、『方法序説』の終わりのほう(「第6部」)では、一つの事実について数学的に
考えられる仮説が幾通りもあり、それらのいずれが真であるかは実験によらねばきまらない、と認めてい
る。けれども彼の考え方は、全体として、自然学を幾何学と一つのものに見ようとする考え方であって、
方法的形式としては「実験」も「分析」に帰する、とするのであります。(「解析」という語はわが国で
数学者がanalyseに当てて使う訳語ですが、論理学や自然学では同じ語を「分析」と訳していて、「分析」
という訳語のほうが一般的な意味に通用しています。)
さてこのように一般的に見てくると、デカルトの目ざした「発見の方法」とは「分析の方法」で
あるということに尽きるわけであります。けれども、「分析」はもちろん「綜合」(「複合」)の手続き
を無用にしているわけではない。幾何学の作図題の場合でも「解析」によって作図法を見出したのち、や
はり「証明」「(すなわち「綜合」)を加えることが大抵の場合必要なのであり、自然研究においても複
合的事実を分析して原理に至ったのちに再び綜合的に事実に戻る手続きが要求されます。デカルトの方法
は「分析の方法」と呼ばれても、「綜合」を廃するのではありません。ただ彼がそれまでの数学や自然学
において閑却されていると認めて特に強調したのが「分析」の手続きであって、そういう顕著な特徴に着
目して、彼の方法は「分析の方法」と呼ばれるのであります。それで『方法序説』の中でデカルトが自分
の見出した方法の規則を列挙したとき、それは、「分析」の規則とともに「綜合」の規則をも含んでいる
のであります。
すなわち彼は四つの規則を挙げ、その第二、第三をそれぞれ分析と総合との手続きの規定にあて
ている。そしてそれらに先立つ第一の規則として、原理が明晰判明でなくてはならぬ、という「明証の規
則」をのべ、最後に第四の規則として「枚挙の規則」をつける。「枚挙」というのは、問題について吟味
すべきいろいろな事情をもれなくとりあげたかどうかを調べることであって、またユークリッド幾何学の
作図題の解法に戻って考えると、「吟味」といわれたものに相当します。四つの規則は次のようなもので
あります。
第一、「私が明証的に真であると認めた上でなくてはいかなるものをも真として受けいれないこ
と、いいかえれば注意ぶかく速断と偏見とを避けること」。
第二、「私が吟味する問題のおのおのを、できる限り多くの、しかもその問題を最もよく解くた
めに必要なだけの数の、小部分に分かつこと」。
第三、「私の思想を順序に従って導くこと。最も単純で最も認識しやすいものからはじめて、少
しずつ、いわば階段をふんで、最も複雑なものの認識にまでのぼってゆくこと」。
第四、何ものをも見おとすことがなかったと確信しうるほどに、完全な枚挙と、全体にわたる見
直しとを、あらゆる問題におこなうこと」。
『方法序説』を読んで第2部のこの四つの規則までくると人々は軽い失望を覚えるかもしれません
。四つの規則の趣旨は、明瞭な事柄だけを真と認める心組みで、与えられたものを正しく分析し、総合し
、見落とした点がないかを見直す、ということであって、しごくあたりまえのことをいっているにすぎな
い、と思われる。けれども改めていうまでもなく、方法や規則は実際にどう使うかという点が大切であっ
て、デカルトがそれを使って何をしたかが問題である。そしてそれを彼はすぐにつづけて書いているが、
そこにはわれわれを再び考えこませるような事実が記されているのであります。
すなわち彼はこういる規則を心にもってまず当時の数学の問題を解き、のちの歴史家の言葉でい
えば「数学の大革新」をやったことをのべている。三つのことがのべられている。第一、数学というもの
は一般に諸量の比例関係をあつかうもので、比例関係がいろいろ違った対象に見出されても数学は一つで
ある。特に数学自身の諸部門はそういう考えで統一できる。デカルトは他のところでそういう計量的関係
一般の学問を「普遍数学」と名づけている。第二、この比例関係を、一つ一つはっきり「想像」の対象と
して思い浮かべるためには、それを「線」によって表現するがよい。しかし第三に、多くの比例関係を一
まとめにして考え、したがって「記憶」にとどめるためには、ある種の「記号」(代数記号)を用いるが
より。そのためにデカルトは当時の代数の混乱した記号法を簡単に明確にするための工夫をした、――と
いう。この第二第三の点が、解析幾何学の創始を示すのであって、曲線と代数式との対応がかくてつけら
れたわけであり、第一にいわれた「普遍数学」とは、解析幾何学にはじまってのちに微積分の算法にまで
すすむ「解析学」の全体を予示しているのであります。
お問い合わせは、『資本論』ワールド編集委員会 メール宛て