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 資本論翻訳問題 創刊号2016.02
価値形態Wertformと形式Form


 2016 資本論入門8月号

 
資本論翻訳問題 2



 
 翻訳語 と 翻訳問題


参考テキスト 『翻訳語成立事情』 柳父 章 著



 資本論ワールド編集委員会より
 

 
 残暑お見舞い申し上げます
 
 さて、8月も残すところ1週間となりました。編集委員会では、夏季休暇期間中に合宿を行い、これまでの中間総括を兼ねて反省会を行ないました。またお寄せいただいたご意見、要望、質問等をもとに、今後の編集に活用させていただきます。ありがとうございました。
 8月号では、2月創刊号に続いて、「翻訳問題」を取り上げることにしました。7月号「商品の物神性」問題を「言葉の問題や翻訳語の角度からも検討してゆく」ことが重要、との指摘があり本日の企画となりました。
創刊号では、『資本論』ドイツ語に対応する翻訳語の問題点にしぼって資本論ワールドの入門としました。今回は、江戸から明治への時代、西洋文明が日本に輸入され、現代用語として定着してきた「翻訳語」をもう一度見直してみようという問題意識です。
 編集委員会では、共通テキストに
柳父章『翻訳語成立事情』(岩波新書)を基に検討を重ねてきました。『資本論』のキーワードと重なる翻訳語として 1.社会、2.個人、3.近代、4.存在、5.自然(この書ではほかに、美、恋愛、権利、自由、彼・彼女の5項目)が取り上げられています。

 著者の柳父氏は、まえがきで次のように語っています。

 「
本書で取り上げている「社会」「個人」「近代」などの翻訳語は、学問・思想の基本用語であるが、中学・高校の教科書や、新聞紙面などにもよく出てくるようなことばである。それにもかかわらず、たとえば日本の家庭の茶の間での家族どうしとか、職場の仲間どうしのくだけた会話の中では、まず口にされることがないだろう。・・・つまり、使われる場所が限られている。

 
日本の学問・思想の基本用語が、私たちの日常語と切り離されているというのは、不幸なことであった。しかし、それには漢字受容以来の、根の深い歴史の背景がある。他面から見れば、翻訳語が日常語と切り離されているおかげで、近代以後、西欧文明の学問・思想などを、とにもかくにも急速に受け入れることができたのである。ところが同時に、そこには、本書の至る所で述べているように、いろいろとかくれた歪みが伴っていた。

 
このような、私たちの宿命的な事実を、いいか悪いかと割り切るよりも、まず事実そのものを知ってほしい、と思う。それは、意外に、ほとんど知られていない。私が本書を書いた理由である


 私たち編集委員会では、柳父氏の提言を大変貴重な“財産”と受け止めています。
 7月から9月に集中的に議論される「商品の物神的性格」は、全く新しいマルクスの概念装置であると同時に、
翻訳語としても難解な用語「Fetischismus:フェティシズム、呪物崇拝・物神崇拝」を共通理解に立って議論を行う上で、どうしても避けて通ることのできない大きな課題です。
 まず、参加者一同で「
まず事実そのものを知って」から討論を開始してゆきます。出来るだけ、『資本論』の該当箇所や関連用語を明示しながら、進めてゆく計画です。

 
第2部では、フェティシズムの創始者であるド・ブロスの『フェティッシュ諸神の崇拝を紹介しながら、『資本論』「商品の物神性」解読のための一里塚を目指します。
今回の報告集も大変長文となっています。今後の議論に役立つように努力して参りますので、ご協力をよろしくお願い申し上げます。
 2016年8月25日

 <目次>
 
1. 第1節 『翻訳語成立事情』の概要
 2. 「社会」について ― 
society にあたる日本語はなかった
 3. 「存在」について ― 「私はある」は間違っている
 4. 「自然」について ― 翻訳語が生んだ誤解



 
第1部 翻訳語と翻訳問題 2

 
編集部事務局:
 夏季休暇の合宿ご苦労さまでした。
 編集委員会から説明がありましたが、第1部として柳父さんの『
翻訳語成立事情』を参考にしながら、西洋の伝統的「自然」観を交えながら「商品の物神性」の背景を探ってゆきたいと思います。
第2部では、フェティシズムという原始宗教概念を創始したド・ブロスの『
フェティッシュ諸神の崇拝』を紹介して、『資本論』の「物神性」―生産者たちにとっては、彼らの私的労働の社会的連結は、あるがままのものとして現われる。すなわち、彼らの労働自身における人々の直接に社会的な諸関係としてではなく、むしろ人々の物的な諸関係として、また物の社会的な諸関係として現われる―について検討します。 「価値形態論と商品の物神的性格」(資本論入門7月号~9月号)の議論に引き継いでゆきます。
 では最初に、『翻訳語成立事情』のレポートを小川さんに担当していただいています。よろしくお願いします。

 
小川レポーター:
 8月の暑さ厳しいなか、大変ご苦労さまです。リオ・オリンピック興奮の余韻も残っていますが、資本論ワールド探検を続行してゆきますので、熱中症に注意しながら進んでゆきましょう。
 さて、レポーターに与えれられた第1番は、『翻訳語成立事情』を『資本論』との関わりの観点から報告を、との編集委員会から依頼でした。まず、この本の概要報告(抄録・要約)を行い、「商品の物神的性格」を学ぶうえで、「翻訳語と翻訳問題」の検討がなぜ必要か、その問題点をご提案します。その後に、全体討論をお願いしたいと思います。

 
事務局:
 それでは、以下の順序で進めてゆきますので、よろしくお願いします。
 
 第1節 『翻訳語成立事情』の概要
 第2節 西洋の伝統的自然観と翻訳語としての「自然」について
 第3節 『資本論』の登場する“Natur”―自然、天然、自然状態(生まれたまま))、本性、性質―の翻訳問題について
 
 
小川レポーター
 では、報告します。


 
第1節 『翻訳語成立事情』の概要について

 
1. 1982年に岩波書店から刊行されましたが、柳父氏は共通する課題として1976年に『翻訳とはなにか』を出版され、以後毎年のように翻訳問題として取り組まれています。私の手元にあるのは、2010年10月25日第34刷発行となっていてベストセラー作品です。読書人の間に翻訳文化に対する関心の高さとエネルギーの強さが示されていると言えます。

 著者は、10の翻訳語(テーマ)を選択しています。①幕末から明治時代に新しく翻訳・造語されたもの:社会、個人、近代、美、恋愛、存在、 ②日本語として歴史を持つが、同時に翻訳語として新しい意味を与えられたことば:自然、権利、自由、彼・彼女(彼女は新造語)です。
 「まえがき」で、翻訳語の問題点について
「とくに後者の、伝来の日本語を翻訳語として用いた場合には、異なる意味が混在し、しかも矛盾している、という問題が重要である。いずれの場合にも、後に詳しく述べるように、翻訳語に特有の効果によって、ことばの意味の分かりにくさや矛盾がかくされていて、人々に気づかれにくい、ということがもっとも重要であろうと思う。」と述べています。

 また、『資本論』「商品の物神的性格」においても、翻訳語-自然、社会、個人、存在など-が数多く採用されていますので、改めて、翻訳文化の影響についても検討してゆきたいと考えています。 以下、『資本論』の翻訳上に関わりの強い「社会」「存在」「自然」の3点を中心に抄録・要約して報告します。


 
2. 「社会」について - society にあたる日本語はなかった
 
 
① society にあたる日本語はなかった
 
 「社会」ということばは、今日、学問・思想の書物はもちろん、新聞・雑誌など、日常私たち目にふれる活字で至るところで使われている。この「社会」ということばは、societyなどの西洋語の翻訳語である。およそ1世紀ほどの歴史をもっているわけである。しかし、かつてsocietyということばは、大変翻訳の難しいことばであった。それは、第一に、societyに相当することばが日本語になかったからなのである。相当することばがなかったということは、その背景に、societyに対応するような現実が日本になかった、ということである。
 
 
 やがて「社会」という訳語が造られ、定着した。しかしこのことは、「社会」―societyに対応するような現実が日本にも存在するようになった、ということではない。そしてこのような事情は、今日の私たちの「社会」とも無縁ではないのである。

 ③ 『オックスフォード英語辞典』によると、society の項は、
  (1)仲間の人々との結びつき、仲間どうしの集まり
  (2)同じ種類のものどうしの結びつき、あつまり、交際における生活状態、調和のとれた共存という目的や、互いの利益、防衛などのため、個人の集合体が用いる生活の組織、やり方。
が、この(2)の意味については、
広い範囲の人間関係という現実そのものがなかったしたがってそれを語ることばがなかったのである。当時、「国」とか「藩」などということばはあった。が、societyは、究極的には、この(2)でも述べられているように、個人individualを単位とする人間関係である。「国」や「藩」では、人々は身分として存在しているのであって、個人としてではない。

 
④ 福沢諭吉の訳語「人間交際」
 
 福沢諭吉は、1868(慶応四)年、『西洋事情 外編』を出している。ここで、society の、福沢による訳語は「人間交際」であることがわかる。
 
Society is therefore, entitled by all means consistent with humanity to discourage, and eve to punish the idle.
 
柳父訳:社会は、だから、人道にかなったあらゆる手段で、怠惰な人をおさえ、罰しさえもする権利を与えられている。
 
福沢訳:故に人間交際の道をまっとうせんには、懶惰(ランダ)を制して之を止めざるべからず。或いは之を罰するもまた仁の術と云う可し。

 ところで、この福沢訳における「人間交際」という翻訳語の扱い方に注目しておきたい。原文の
societyは主語である。だから現代流の私の訳も「社会は」となっている。だが、福沢訳の「人間交際」は主語ではなく、この訳文に主語はない。このことは、どういうことか。福沢は明らかにsocietyの翻訳語として「人間交際」を意識していた。が、他方、「人間交際」ということばを使う以上、このことばの日本語としての意味に従って、日本文のことばの前後関係を考え合わせながら用いていた。

 
 今日、私たちがsocietyを「社会」と訳すときは、その意味についてあまり考えないでも、いわばことばの意味をこの翻訳語に委ね、訳者は、意味についての責任を免除されたように使ってしまうことができる。・・・
が、かつて、societyに相当する日本語はなかったのである。そして、societyに相当する伝来の日本語がたとえなくても、「社会」という翻訳語がいったん生まれると、societyと機械的に置き換えることが可能なことばとして、使用者はその意味について責任免除されて使うことができるようになる。 「社会」とは、そのような翻訳語であった。そのことを、福沢の訳語「人間交際」は気づかせてくれるのである。

 
⑥ 『学問のすすめ』の「社会」ということばを、少し詳しく考えてみよう。
 
 この「社会」は、初めの方の「世間」と対立している。まず端的に言って、「社会」はいい意味、「世間」は悪い意味である。・・・
 「社会」ということばの意味が、「世間」ということばに対比されて、肯定的な価値をもち、しかも抽象的であるということは、もっとも初期の福沢のこの用例に典型的に表われているが、以後、私たちの国の文献にの至るところに、同じような現象をみることができるのである。
 たとえば、二葉亭四迷の『浮雲』〔明治20-22年〕に、次のような用例がある。
  
まづ世間の娘っ子をごらんなさい。・・・・学問や何かはそっちのけでぜひ色狂ひとか何とかろくなまねはしたがらぬものだけれども、・・・・
  お役人様、今のいわゆる官員さま、後の世になれば社会の公僕とか何とか名のるべき方々・・・・

 つまり、「世間の娘っ子」「社会の公僕」である。それぞれの用例について、対立関係があることが分る。「世間」ということばは、「社会」と違って、日本語としてすでに千年以上の歴史を持っている。語感の豊かな、私たちの日常語である。その意味について考えてみると、societyとかなり共通している。たとえば今日の国語辞書を見てみると、「社会」の説明分中に「世間」ということばがあり、「世間」ということばの説明に「社会」があったりする。

 
 しかし、この「世間」を、societyの訳語として用いた例は意外に稀である。そして、「社会」という翻訳語がいったん定着すると、これと対比的に、「世間」は、翻訳的な文章からほとんどしりぞけられていく。このことから、逆に、私たちの翻訳語「社会」の持つ重要な特徴を、以上述べてきたようにとらえることができるのである。
 つまり、
それは肯定的な価値をもっており、かつ意味内容は抽象的である、と。

 
⑧ 意味内容が乏しいから乱用される翻訳語
 
 このことは、「社会」に限らない。それは一般に、私たちの翻訳語の特徴なのである。翻訳語は、先進文明を背景にもつ上等舶来のことばであり、同じような意味の日常語と対比して、より上等、より高級という漠然とした語感に支えられている。・・・・
 このころつくられた翻訳語には、こういうおもに漢字二字でできた新造語が多い。とりわけ、学問・思想の基本的な用語に多いのである。外来の新しい意味のことばに対して、こちらの側の伝来のことばをあてず、意味のずれを避けようとする意識があったのであろう。だが、このことから必然的に、意味の乏しいことばをつくり出してしまったのである。

 そして、ことばは、いったんつくり出されると、意味の乏しいことばとしては扱われない。意味は、当然そこにあるはずであるかのごとく扱われる。使っている当人はよく分からなくても、ことばじたいが深遠な意味を本来持っているかのごとくみなされる。分からないから、かえって乱用される。文脈の中に置かれたこういうことばは、他のことばとの具体的な脈絡が欠けていても、抽象的な脈絡のままで使用されるのである。


 
3. 「存在」について - 「私はある」は間違っている

 
① 辞書における「存在」の翻訳史
 
 「存在」ということばは、英語のbeing、ドイツ語のSein、フランス語のêtreなどの訳語として、「存」と「在」とを組み合わせて造られたことばである。まずその翻訳史を、辞書で概観してみよう。
 『波留麻和解』(1796年)では、オランダ語のwezenが、「自然、然ラシムルモノ、道、教」となっている。今日言う「存在」に相当するのは、「自然、然ラシムルモノ」であろうか。・・・・
 『英和対訳袖珍辞書』(1862年)では、beingが、「顕ハレテ居ルモノ、形体」である。 「存在」ということばが最初に現われるのは、私の見た限りでは、1871年(明治4年)にでた、長崎の人、好樹堂訳『仏和辞典』で、êtreが、「存在、形体」となっている。以後、フランス語系の訳語でよく使われたようで、『仏和辞林』(1887年)では、êtreが、状況、存在、品位(物ノ)、物、生存物、人、生活、生命、物性、物質、生物ノ性質、有などとなっている。


 
② ところで、beingやSeinなどの西欧語と、「存在」ということばには、重要な違いがある。
 
 beingの動詞形beは、
I am.すなわち、私がある、という意味で使われるとともに、I am a boy. すなわち、私は少年である、という意味でも使われる。前者の「がある」は、ふつうに言う「存在する」の意味で、哲学における「存在」論のテーマである。後者の「である」は、連辞copulaであり、主語と述語を結ぶ働きをもつ。これは「人間は動物である」というような文全体の持つ意味として、論理学の問題とされている。beには、この二つの意味があるのだが、「存在する」ということばには、前者の意味だけで、後者の意味はない。

 
③ 「ある」と「有」は同じでない
 
 次に、和辻哲郎の言う「有」という翻訳語について考えよう。ロブシャイドの『英華字典』にあったように、beingの訳語を、もし「在」の一字であてていたならば、ここには、漢語であり日本語でもある「在」の伝来の意味が生きている。「有」の一字の訳語にも、日本語の「ある」の意味は当然生きている。

 しかし、
「有」と「ある」には重要な違いもまたある。第一に、哲学用語として使われる一字の漢字「有」は名詞だが、「ある」は動詞である。
 第二に、「がある」、「である」と使い分けできて、beの意味に近い意味で使えるのは、「ある」であって、「有」ではない。 日本語の「ある」は、とくに名詞化しにくい動詞である。一般に、日本語の動詞は、連用形で名詞化する。読み、量り、伸び、などに見られる通りである。しかし、「あり」という名詞形で使われることは、まずない。

 「ある」が名詞化しにくいのは、「ある」は、実質的な意味ももちろんもっているが、形式的な機能として使われることが多いからであろう、と思う。・・・・形式的なことばでは、名詞化する必要が乏しいのである。・・・・和辻哲郎は、beingに対応する日本語を考察したとき、とかく漢字を中心に用例をあげ、考えている。私たちのもっとも根深い母国語のやまとことばが軽視されている。せっかく「ある」をとらえながら、「有」と言い換えている。

 
 これには、深い根拠があって、「存在」論や、「有」論は学問になるが、「ある」論は学問にならないのである。なぜなら、古代ギリシャ以来、哲学に限らず、学問は、名詞形のことばを中心に組み立てられてきたからである。これには、西欧の言語構造が、深い係わりをもっている。西欧文は、名詞形の主語を必ず持ち、三人称代名詞や、関係代名詞など、名詞を中心に文を展開するようにできている。このような機能は、日本語では弱いか、またはないと言うべきである。

 
 たとえば「有は何か」と問いかけ、「有は何々である」と考えていくとき、この「有」は当然名詞である。だからこそ、beingやSeinの哲学用翻訳語になりうるのである。ところが、「ある」については、このような問いかけ方、考え方は、本質的にふさわしくない。「ある」は名詞にはなりえない動詞だからである。従って、もし日本語の「ある」を考えるなら、文の主語の位置において考えるのではなく、何か別の方法をとらなければならないであろう。


 
⑥ 「私はある」は間違っている

 いわゆる「存在」論の古典的な命題とされている、デカルトの『方法序説』の一節、
   
Je pense, donc je suis.
 つまり英語で言えば
  
 I think therefore I am.
 は、日本語では、
私は考える、だから私はある。
 というように翻訳され、「ある」という表現になっている。
 これはどうもおかしい、と私は考える。
私はある、ではない。私はいる、と言うべきであろう。それが日本語の正当なことば使いである。

 ところが、この「
私は考える、だから私はある」という変な日本語の訳文は、どの哲学翻訳書を見ても書いてある。高校の教科書でもそうなっている。いったいどうして、こういう変な日本語の言い方がまかり通っているのだろうか。 この文句は、かつて、「我思う、故に我あり」というように、文語体で翻訳されていた。文語体ならば、これはおかしい言い方ではない。
この「あり」の影響で、口語の言い方も「ある」となった、という事情が考えられる。しかし、それにしても、口語には口語の、いわゆる共時的な構造がある。その中へ勝手に文語体を入れてはいけない。・・・・

 だが、この文語体の影響というよりも、おそらく重要なのは、哲学用語「存在」の影響であろう。
 je suis をまず「私は存在する」と訳し、それをさらに日本語でやさしく言い換えて、「私はある」としたのではないだろうか。・・・・
  suis → 存在する → ある 
 という、いわば二段階の翻訳の過程をたどっているのである。この矢印の方向は、一方通行であって、逆の方向の思考の働きはない。

 
 「ある」という一見やさしい日常語風のことば使いは、実は日常語の文脈のルールに従って使われているのではなく、西欧語から翻訳用日本語へ、さらにその翻訳用日本語からの翻訳、という経路で天降ってきたのである。哲学の専門家にとっては、表面上「ある」とは言われていても、その頭の中では、suisなどの横文字と、その翻訳語「存在する」が働いており、そのことばで考えている。「ある」で考えているのではない。だからこそ、「私はある」ということば使いのおかしさが、これまで全く見過ごされてきたのである。

 
 デカルトの『方法序説』で、前掲文の少し後のところでは、この je suis ということを、 mon être (私の être )と言い換え、そのことからまた、 Être parfait (完全な être、つまり神)を考える。ここでは、suis の名詞形 être の方が、思考の中心になる。
そしてまた、
この être は、名詞であるとともに、suis などの変化形の原形として、動詞でもある。だから、名詞中心に考えながらも、それを時に動詞表現に言い換え、名詞表現と動詞表現との間を、容易に思考が往復できる。

 こういう事情は、英語やドイツ語でも、それほど変わりはない。I am のamの原形は be で動詞だが、名詞形は being で、一見して同じことばと分る。また Ich bin のbin の原形の動詞は sein で、名詞形は Sein である。
 他方、翻訳用日本語、「存在する」は動詞だが、「存在」は名詞である。両者は一見して元が同じことばと分る。しかも名詞「存在」の方が初めにあって、動詞形は、これに「する」をつけたサ変動詞である。

名詞中心の構成という点では、西欧語よりも徹底している。西欧学術用語の翻訳にはつごうよいわけである。というよりも、実は、翻訳にとってつごうがよいように、長い時間かけてつくられてきた構造を持っている、というわけなのである。・・・つまり翻訳に適した漢字中心の表現は、他方、学問・思想などの分野で、翻訳に適さないやまとことば伝来の日常語表現を置き去りにし、切り捨ててきた。日常ふつうに生きている意味から、哲学などの学問を組み立ててこなかった、ということである。
それは、まさしく、今から350年ほど前、ラテン語ではなくあえてフランス語で『方法序説』を書いたデカルトの試みの基本的態度と相反するのであり、さらに言えば、ソクラテス以来の西欧哲学の基本的態度と相反するのである。


 
4. 「自然」について翻訳語が生んだ誤解

 
① 混在する二つの意味
 
 これまでとりあげてきたことばは、いずれも、翻訳のために、幕末―明治以後、はじめて使われるようになったことばであった。あるいは、古い用例はあったとしても、一応それとは別に、西欧語の翻訳語として、新たに生まれ変わったようなことばであった。 「自然」ということばも、やはり近代以後、西欧語の nature の翻訳語として使われるようになった。

が、これは翻訳のための新造語ではない。漢籍にもたとえば老子の古い用例があり、日本語としても、仏教用語の「自然じねん」などは、歴史も長いことばである。しかも、近代以後、「自然」が翻訳語として使われるようになっても、同時に、それとは別に、多くの人々に使われ続けていたことばである。つまり近代以後、今日に至る私たちの「自然」ということばには、新しい nature の翻訳語としての意味と、古い伝統的な意味とが共存しているのである。
 
 
 翻訳語「自然」ということばをめぐる問題は、第一に、この、言語(西欧語)の意味と母国語(日本語)の意味との混在ということであり、そして重要なことは、この混在という事実が、翻訳語に特有の「効果」によって覆いかくされている、あるいは、このことばの使用者にとって分かりにくくなっている、ということである。二つの異質な意味は、時に、たがいに論理的に矛盾するほど深刻であり、そして矛盾するから、翻訳語「自然」は、この矛盾を覆いかくすように働くのである。

 
 言い方を変えれば、翻訳語「自然」には、 nature という原語の意味と、伝来の日本語としての「自然」の意味とが混在し、その結果として、ただ二つの意味が共存している、というだけでなくて、いわば第三の意味ともいうべき、翻訳語特有の効果を生みだしているのである。


 
④  nature と「自然」、意味の比較

 今日私たちの使っている「自然」ということばの意味を、辞書で調べてみよう。『広辞苑』によると し‐ぜん〔自然〕 ①(ジネンとも)おのずからそうなっているさま。天然のままで人為の加わらぬさま。(副詞的にも用いる)・・・・
 ② (nature イギリス・フランス) ㋑ 人工・人為になったものとしての文化に対し、人力によって変更・形成・規整されることなく、おのずからなる生成・展開によって成りいでた状態。・・・・㋥ 精神に対し、外的経験の対象の総体。即ち、物体界とその諸現象。
となっている。この ①の意味が伝来の日本語の意味で、② が翻訳語「自然」の意味である。

 ところで、この根深い伝来の「自然」と、 nature の意味には、共通するところがある。『広辞苑』の①と②とを比べると分るように、どちらも「人為」というようなことと対立する。この点から見る限り、「自然」を nature の翻訳語にあてたのは適切であった。
 しかし、この両者の違いにも注目しておかなければならない。第一に、伝来の「自然」は人為と対立し、両立しない。「自然」であるとは、人為でない、ということである。一方、nature は、人為 art、Kunstと対立するが両立する。というよりも、たがいに補い合っている。
 nature の世界は、art の世界と、対立しつつ補ない合う関係である。・・・・
 このことから、また、nature は客体の側に属し、人為のような主体の側と対立するが、伝来の意味の「自然」とは、主体・客体という対立を消し去ったような、言わば主客未分、主客合一の世界である、といえる。

 
⑤ 「自然」は名詞でなかった
 
 nature の翻訳の歴史をふり返ってみよう。
 nature が「自然」と翻訳された歴史は古い。『波留麻和解』(1796年)では、オランダ語のnatuur が、まず「自然」と書かれている。・・・・
 やがて英学の時代に入っても、・・・・『英和対訳袖珍辞書』(1862年)では、 natural の項は、「自然ノ。天造ノ」などだが、nature の項は、「天地万物。宇宙。本体。造物者。性質。天地自然ノ道理。品種」となっている。わずかに「自然」が顔を出しているが、これにしても、「天地自然」とは、「天地がおのづからしかる」というような意味で、この「自然」は名詞ではない。漢文における、天地という主語に対する述語の働きをもった形容詞なのである。

 
 nature の訳語に「自然」をあて、「自然」をはっきり名詞として扱っているおそらく最初の例は、『仏語明要』(1864年)である。そこでは、
   
nature, n. 自然、性質
   naturel, -elle, adj. 自然ノ、生レノママナル

 となっている。しかし、これはむしろ例外で、nature の翻訳の影響によって、「自然」が名詞として使われるようになるのは、明治20年代以後のことである。・・・・
 
 だが、1891(明治24)年になると、大槻文彦の『言海』では、
 
しぜん (名) 自然 オノヅカラ然ルコト。天然
 しぜんに (副) 自然 オノヅカラ。天然ニ

となっている。・・・・
 
こうして、この頃、「自然」が nature の翻訳語となることによって、名詞とみなされるようになってなってきた、そのことばの動きがここに現われている。

 
 「自然」ということばの翻訳語としての用法には、およそ三つの重要な分野があった。「自然法」という法律上の用法、 「自然科学」のような科学上の用法、そして「自然主義」という文学上の用法である。


 
 
⑧ 「自然淘汰」はおのづからの淘汰、だった

 明治10年代のころから、「自然科学」上の用語である「自然淘汰」ということばが盛んに使われ、思想界における流行語の一つともなった。 「自然淘汰」はもちろんnatural selection の翻訳語で、ダーウィンの進化論のキー・ワードである。
 では、この「自然淘汰」の「自然」とは何であったのか。結論から先に言うと、この「自然」には、nature の意味は乏しかった。むしろ日本語の「自然」で、「おのずから」の淘汰、というように理解されていた。いや、もっと正確に言えば、前述の、第三の意味をもつことばとしての翻訳語「自然」であった。

 
 日本の「自然主義」については、すでに多くの意見や批判がある。とくに、naturalism は、その代表者ゾラが、「自然」科学者クロード・ベルナールの『実験医学序説』の影響を受けて、「自然」科学の方法にならって小説を描こうとした方法を意味しているのに、日本の「自然主義」は、それを理解しなかった、あるいは誤解した、と言われるのである。・・・・

 「自然」とは、nature ということばが日本にくる以前に日本語であった。それが、nature の翻訳語として用いられるようになって、以後、nature と等しい意味のことばになったわけではない。学者や知識人が、ことばの意味をどう定めようと、単なる記号ならいざ知らず、現実に生きていることばは、少数者の定義で左右できるものではない。また、巌本や花袋が、意識的にはnature と同じと思いながら、伝来の「自然」の意味を動かしがったように、ことばの意味は、使用する人の意識をも超えた事実なのである。
 
 
⑩ 日本語「自然」における意味の変化
 
 「自然主義」とは、naturalism と等しい意味のことばではなかった。ではこの「自然主義」は、伝来の日本語そのままであったのだろうか。おそらくそうではない、と私は考える。
 いったい
「自然のままに自然を書く」ということも、考えてみると矛盾である。伝来の意味の「自然」とは、意識的でない、ということで、
これに対して、「書く」とは、非常に意識的な行為だからである。「自然主義」とは、また一段と矛盾した用語である。
「主義」とは、あえて唱え、行なうということで、「自然」とは正反対の態度だからである。
 そして、ここで重要なことは、このような矛盾を通して、伝来の「自然」の意味も変化している、と考えられるのである。
 
 
 「自然」は、nature の翻訳語とされることによって、直ちにnature の意味がそこに乗り移ってきたわけではない。
「自然」は、翻訳語とされることによって、まずnature と同じような語法で使われるようになった

論理学の用法で言えば、内包的な意味はもとのままで、外延的、あたかもnature ということばのように扱われた。
対象世界を語ることばのように扱われた。これは意味の上からは矛盾である。
そしてこの矛盾が、新しい意味を求め、「自然」ということばの使用者は、矛盾を埋めるような意味を求めていく。
こうして、あえて、意識的に「自然」であろうとし、「自他」「融会」〔例題として取り上げられた田山花袋と島村抱月の文章を
指している-抄録者〕する。「自然」の意味はこうして回復され、同時に新しい意味を生みだしているのである。



 
5. よくない翻訳語がなぜ残るか
                         ・・・・『翻訳語成立事情』 9. 「自由」より・・・・
 かつて福沢諭吉は、liberty の翻訳語として、「自由」ということばなよくない、と言いながら、結局この訳語を用いた。
おそらく「自由」が、民衆の日常語だったからであろう。それで、自分の書いたものを読む人は、この訳語に気をつけてくれ、という
福沢の願いであった。 しかし、ことばというものは、いったん広く人々の間に流通させられると、それじしんの働きや運命を
持つようになる。初めの使用者、造語した人の意のままにはならないのである。やがて『自由之理』が、広く読まれるようになった。
そのような背景のもとで、結局、「自由」は freedom や liberty の翻訳語としての地位を独占するのである。・・・・

 一般に、どんな翻訳語が選ばれ、残っていくのか、という問いに答えることはやさしくない。しかし、およそ、文字の意味から
考えて、もっとも適切なことばが残るわけではない、ということは言える。
 一つ言えることは、いかにも翻訳語らしいことばが定着する、ということである。翻訳語とは、母国語の文脈の中へ
立入ってきた異質な素性の、異質な意味のことばである。異質なことばには、必ずどこか分からないところがある。
語感が、どこかずれている。そういうことばは、逆に、分からないままであった方が、むしろよい。
母国語にとけこんでしまっては、かえってつごうが悪いこともある。
 
 日本語のなかで、音読みされる漢字のことばは、元来、異国の素性のことばであった。日本語は、この異国語を、異質な
素性を残しつつ、やまとことばと混在させてきたのである。近代以後の翻訳語に、漢字二字の字音語が多いのも、
この伝統の原則に自ずから従ったのである。
そして、二字の字音語のうちでも、母国語にしっくりなじむことばよりは、どこか違和感のあることばの方がよい。人々が
意識的にそう選ぶのではなく、いわば、日本語という一つの言語構造が、自ずからそう働いているのである。
翻訳語とは、伝来の母国語からみれば、区別されたことばである。
人々が直観的に感得できるような、区別のしるしをどこかに持っていることばなのである。



 
以上、『翻訳語成立事情』の抄録を報告します。だいぶ長い報告となってしまいました。


編集部事務局:

 長時間にわたり、貴重なレポート、ありがとうございました。
 事務局から、『資本論』との関連で、若干のコメントを述べさせていただきます。

 
1. 「社会」について
 『資本論』は一般的に「経済学という社会科学の一分野」と思われますが、この「社会」科学についても
 今、レポーターの指摘があったように、翻訳語の「社会」として見直すことが必要なのではないでしょうか。
 『資本論』では、「社会」の根底概念として、その成立のおおもとに「生産有機体」という「自然」科学の用語で
 概念規定を行なっています。たとえば、商品流通・W-G-Wの具合で表示されるケースです。
 マルクスは、これを「商品の変態」という生物学の用語(ゲーテの形態変化)を採用しました。ですから、
 「社会」科学という既成概念を見直しながら、『資本論』を読む姿勢が必要ではないでしょうか。

 
2. 「存在」について
 柳父さんの「存在」報告のなかで、『資本論』と直接連動すると思われる個所がありました。
 デカルトの『方法序説』⑧ですが、
 この être は、名詞であるとともに、suis などの変化形の原形として、動詞でもある。だから、名詞中心に考えながらも、
それを時に動詞表現に言い換え、名詞表現と動詞表現との間を、容易に思考が往復できる。
 「この動詞表現と名詞表現との間を、容易に往復できる」という指摘ですが、
『資本論』の第3節価値形態 Wertform また交換価値において、形態と翻訳されるドイツ語 Form についてです。
ヘーゲル論理学でも報告されましたが、Form を「形態」から「形式」へと理解する場合に起こる動詞表現への作用です。
価値形態は、A.単純な価値形態、B.拡大された価値形態、C.一般的価値形態、D.貨幣形態へと発展・展開されますが、
このA.→B.→C.→D.の論理形式を表現する用語:
Form は“何か”という問題が残されたままです。
ここでも、翻訳語の「Form : 形態」が、なんとなく分かったような、議論もなく素通りされています。
「商品の物神的性格」の論理形式の議論が十分に尽くされていないと思われます。

 
3. 「自然」について
 『資本論』第3節価値形態または交換価値の冒頭に、
 「商品は使用価値または商品体の形態で、すなわち、鉄・亜麻布・小麦等々として、生まれてくる。これが彼等の
生まれたままの自然形態である」とあります。この「自然」形態のドイツ語は「Naturalform 」です。
岩波『資本論』などでは「自然形態」と訳していますが、他の翻訳では、「現物形態」(大月書店)、「実物形態」(筑摩書房)
などとしてあり、ここに、現代日本の『資本論』翻訳文化の現状が端的に表われています。
ドイツ語 Natur を辞書で見てみましょう。
1. a) (英語:nature) 自然、自然界、自然現象、など b) (人為の加わらない)自然〔状態〕、天然
2.(ふつう単数で)天性、本性、素質、本質
3. (特定の)性格、性質 など
 このように、やはり「自然」と訳されることが、一般的のように思われます。
 従って、「現物形態」や「実物形態」と翻訳される場合では、本文の文脈から解釈する必要があります。
 具体的に外国語から翻訳された用語を検討するにあたり、柳父さんの『翻訳語成立事情』は、
大変貴重は提言だと実感しました。翻訳語の成立時点にさかのぼって、検討することの大事さ・重要さを
示しています。
 
 次回の議論に活かして、活発な討論が期待されます。
 本日は、予定された時間も大幅に超過しましたので、終了といたします。
 
 >>つづく>>