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 資本論用語事典2021
 ドイツ・イデオロギー/カント-ヘーゲル-マルクス


 → カント 『純粋理性批判』 数学的命題と哲学
 「Quantität」 岩波事典
大論理学』第1巻存在論比例 



    算術ー関係づけの仕方 Beziehungsweisen

 
 
ヘーゲル 『大論理学』第2篇大いさ(量)  第2章 定量

    武市健人訳 岩波書店 上巻の2 1960年発行

 
  
A 数 

      注釈 1
  〔 算術の算法。カントの直観の先天的綜合命題〕

 〔 総論――空間の大きさと数の大きさ――算法の体系的編成について〕


1._ 普通に空間の大きさと数の大きさとは大きさの二つの種類と考えられ、空間の大きさも数の大きさも共に、別々にある一定の大きさとせられている。即ち両者の差別はただ連続性と分離性という規定の差にあるが、定量としては同一の段階にあるとせられる。一般に幾何学は空間の大きさの中で連続量を対象とし、算術は数の大きさの中で分離量を対象とする。しかし両者はこの対象の差異のみでなく、また限定Begrenzungまたは規定在Bestimmtseinの
在り方 〔Weise 仕方〕 と完全性Vollkommenheitとの度を異にする。空間の大きさは単に一般的に限定をもつにすぎない。

空間の大きさを全く規定的な定量として考察せよと云われる場合には数が必要となる。幾何学そのものは空間形象を計量するものではない。幾何学は計量術ではない。幾何学は客間的形象を比較するだけである。その諸々の定義にあっても、規定の一部は辺や角Seiten, Winkel,の相等Gleichheit、距離Entfernungの相等から来たものである。円にしても、その規定のために数を必要としない。円は周上の点がすべて中心から等距離であるということにのみ基くものだからである。このような相等性、不等性に基く諸規定は純粋に幾何学的である。けれども、これらの規定だけでは十分でなく、他の規定、例えば三角形Dreieckとか四辺形Viereckとかの規定のためには数を必要とする。数はその原理である一 〔一者〕 の中に向自的な規定在(das Für-sich-bestimmtsein)〔自立的な規定性〕 をもつもので、何か他者の助けに、つまり比較に頼るような規定在というものをもたない。なるほど空間の大きさにあっても、点は一者〔一〕に相応する規定性である。しかし点が自分の外に出て行くかぎり、点も一つの他者になるのである。即ち点は線となる。つまり点は本質的に空間の一者としてのみあるものだから、点が関係の中に這入るときには連続性となるのであって、この連続性の中では点性Punktualität(向自的規定在、一者)は止揚されている。向自的規定在がその自己外有の中で自分を維持するものとせられるかぎり、線は多くの一〔一者〕の集合Mengeと考えられねばならない。従って限界が多数の一という規定を獲得しなければならない。云いかえると、線の大きさは、――同様にまた
他の空間規定の大きさも――数と見られねばならない



  〔この
関係づけの仕方 Beziehungsweisen が算法(Rechnungsarten)〕

2._ 算術(Arithmetik)は数と数の形象とを考察する。否、それらを考察するというよりは、それらでもって演算をするのである。というのは、数は無関心的規定性であり、惰性的な規定性だからである。即ち数は外部から活動させられ、関係づけられなければならない。この
関係づけの仕方 Beziehungsweisen が算法(Rechnungsarten)である。ところで算術において、いろいろの算法が列挙されるが、それらが互に依存関係をもっていることは明らかである。にもかかわらず、これらの算法の進行を導いているところの絲〔糸〕が算術の中で摘出されるということには到っていない。けれども、数そのものの概念規定に基いて、その体系的編成は容易に与えることができる。事実また、教科書の中でこれらの要素の説明をやってみると、この体系的編成の必要が痛感されるのである。それで、ここに簡単に、この指導的な諸規定について述べておかねばならない。

 数は一をその原理とするものであるから、一体に外面的に結合されたものであり、何らの内面的連関をもたないところの全く分析的な形象である。このように数は単に外面的に産み出されたものであるから、すべての計算は数の産 出( Hervorbringen von Zahlen )であり、即も算えること( ein Zählen )、或いはヨリ厳密に云えば、算え合わせること〔合算すること、計算すること〕( Zusammenzählen )である。この外面的な産出そのものは常に同じことをやっているものであるが、この外面的な産出の差異は全くただ算え合わされる〔計算される〕当の数相互の区別の中にある。それで、このような区別はそれ自身、他の何処かから、それも外面的な規定から借りて来なければならない。

上に考察したように、
数の規定性を構成するところの〔数の〕質的区別は単位と集合数との区別である。だから、それぞれの算法の中に出て来るあらゆる概念規定性は、この単位と集合数との区別に還元される。もっとも、定量としての数のもっている区別は反省の契機としての外面的同一性と外面的区別、即ち同等と不等であるから、本質の諸規定を論ずるとき、その『区別』の所で取扱うことにしなければならない。
  次に、もう一つあらかじめ触れておかなければならないことは、数が一般に結合によるか、またはすでに結合され たものの分離によるかの、
二つの仕方zwei Weisenで処理されるものだということである。――この二つは同一のやり方dieselbe Weiseでやっている或る一つの種類の算法の中に出て来るものであるが、その場合には数の結合に対応するものは積極的算法( positive Rechnungsart )とでも呼ばれ得るものであり、分離は消極的算法( negative Rechnungsart )とでも呼んでよいものである。しかし算法そのものの規定〔本性〕は、この対立とは無関係である。



    〔 ・・・ 〕

  〔Ⅱ、算法の種類〕 
1、 〔加法と減法――カントの見解の検討〕 
以上の注意につづいて、いろいろの算法〔算法の種類〕について述べよう。数の最初の産出は数多( die Vielen ) そのものの結合である。即ち、その各々が単に一として立てられているような数多の結合である。即ち〔順々に〕算えること( das Numerieren )である。それぞれの一は互いに外的なものであるから、感性的形象によって表象される。それで数を産出する演算は指を折ったり、点をつけたりなどして算えてみることである。4、5などが何であるかは、〔指などでもって〕簡単に示すことができる。だが、幾つ数えて中絶するかということは、限界が外面的のものであるために、一種の偶然的なものであり、任意なものである。――算法の進行の中に出て来る集合数と単位との区別に基いて、二進法( dyadisches System )とか十進法( dekadisches S. )とかといった数の体系が立てられる。しかし、このような体系は一般に如何なる集合敷を恒常的な単位として採用すべきかという任意なものの上に成り立っている。

7._ 算えることによって出来た数が、更にまた算えられる。だが、これらの数はこのように直接的に立てられたものであるから、まだ互に何の関係もつけられておらず、相等とか不等Gleichheit und Ungleichheitとかということには関係がない。即ち互に偶然的な大きさであり、つまり一般に不等な大きさである。ところで、この不等な数を算え合せることは加法〔加算、足し算、寄せ算〕( das Addiren )である。7と5が12になるということを、われわれは次の仕方で知り得る。即ち7に対して更に5個の一を指を折ったり、その他のやり方で算えて行き、この結果を後まで暗記しておくのである。なぜといって、この場合には内面的〔概念的〕なものは何もないからである。同様に7×5=35ということも、指を折ったりして算えてみることによって7に7を加え合わせることを5回くり返し、その結果を暗記することによって知られる。のみならず、この計算の苦労、和または積を見つけ出す苦労は、すでに出来上っているところの「1ニ1足ス2」とか、「1ン1ガ1」とかの九々によって除かれる。われわれはただ、この九々を暗記しさえすればよいのである。



8._ 〔カントの場合〕 カントは(純粋理性批判、緒言、5の中で) 7+5 = 12 という命題を総合命題と見た。彼は言う。「 はじめは、この命題はなるほど単なる分析命題で、7と5との和の概念から矛盾律に従って生ずるものと考えられる(たしかに!)にちがいない」と。 〔岩波文庫本、上巻、70頁〕 その場合、和の概念とは、この二つの数が結び合 わさるべきだということ、しかも数として外面的な、即ち没概念的な仕方Begrifflose〔...los..がない〕 Weise没概念的な仕方,で結び合わさるべきだということ、即ち7から始めて、集合数を5とする附加さるべきそれそれの一が算えつくされるまで算えらるべきだということ、そういう抽象的規定を意味するものにほかならない。そしてその結果として出て来るものは12という周知の名称である。
 カソトは続けて云う。「けれども、これを詳しく考察してみると、7と5との和の概念は、この二つの数をただ一つの数に結合したということ以上の何ものをも含まないということ、しかもそれ〔この結合ということ〕によっては、この二つの数を総括するところのこのただ一つの数が何であるかは全く思惟されておらないことが知られる。――私がこのような可能的な私の概念をどれほど分析しても、私はその中に12を見出すことはないであろう」と。〔同〕 たしかに、この課題からその結果への移り行きは和の思惟とか、概念の分析とかとは何のかかわりもないことである。そこでカントは云い添えている。「われわれは、これらの概念を越え出なければならない。そして5本の指などといった直観の助けをかりて、直観の中に具えられた5の単位を順次に7という概念に附け加えて行かなければならない」と。 〔同―自由引用〕5はたしかに直観の中に与えられている。云いかえると、5は一という任意に繰り返えされた思想の全く外面的に結合されたものである。しかし同様に7も概念ではない。そこには越え出て行くような如何なる概念も存在しない。5と7との和とは、二つの数の没概念的結合にほかならない。それで、われわれはこの7から出発して5個がつくされるまで没概念的に算えて行く計算を、一から出発する計算と同様に、綜合(ein Zusammenfügen, ein Synthesiren ) と名づけることができる。けれども、この綜合ということの本性は全く分析的なものである。というのは、この連関は全く作為的な連関で、その中には全く外面的でないようなものの存在する余地も、また這入る隙もないからである。7と5とを加えよという要請が一般に〔順次に〕算えよという要請に対してもつ関係は、直線を延長せよという要請が直線を引けという要請に対してもつ関係と同じである。

 総合Synthesierenいう言葉Ausdruckが空虚であるとともに、また総合が先天的に行われるという規定も空虚である。たしかに計算するということは感覚の規定ではない。感覚の規定はカントの直観の規定に従えば、もっぱら後天的なもののために残されている。従って計算は抽象的な直観の(即ち一というカテゴリーによって規定されており、そこではすべての他の感覚の規定と概念とが共に捨象されているような抽象的な直観の)地盤の上での仕事である。一体に先天的ということも何か漠然としたものである。感情の規定が衝動、感性などといったものであるにかかわらず先天性の契機をももつが、同様にまた空間や時間も実存的なものとして、即ち時間的なもの、空間的なものとして後天的な規定をもつのである。・・・以下、省略・・・



  2、〔乗法と除法〕 

次の規定は算えられる数の間の相等性Gleichheitということである。それぞれの数は、この相等性の点で一つの単位〔統一〕であるが、またここに数の中に単位と集合数との区別が現われてくる。乗法〔掛算〕( Multiplikation )は、それ自身一つの集合数であるところのそれぞれの単位の集合数を算え合わすことを課題とするものである。・・・中略・・・

  3、〔乗冪(累乗:同じ数または文字を何回か掛け合わせること。また、その積。)〕

 単位と集合敷として対立的な規定をもつ二つの数は、数としてはまだ直接に対立するものであり、従って一般に不等である。それが進んで相等性になると、それは単位と集合数との相等そのものである。これによって数の規定の中に含まれている二規定の相等性に向っての進展は完成する。この完全な相等性に基く計算は乗冪じょうべき・(累乗)das Potenzieren (その消極的算法は開法 das Wurzelenziehen )であるが、――その最初の形は自乗( das Quadrat ) である。――計算は、ここ〔乗冪〕において、はじめて計算のそれ自身の中における完全な規定性( das vollkommene Bestimmtsein des Numerierens in sich selbst )となる。即ちここでは(1)加えられるところの多くの数が同一のものとなり、(2)それらの数の多数即ち集合数そのものは乗ぜられる当の数、即ち単位と同一となる。従って、この場合には区別を立て得るような如何なる規定も数の概念の中にないとともに、また数の中にある区別を消して、均等なものとする規定も存在しない。自乗より高次の冪への高揚は、この自乗の形式的続行にすぎない。もっとも、その場合に一方、偶数冪( gerade Exponenten )の場合には自乗の繰り返えしが現われるにすぎないが、他方、奇数冪( ungerade Potenzen )の場合には再び不等性が現われる。即ち(例えば、まず三乗 der Kubus の場合に)新しい因子の集合数や単位との形式上の同等にもかかわらず、その新しい因子は単位として集合敷に對して(自乗に対して、即ち3が3×3に対して) 不等である。4の3乗になると、この不等は更に著しい。ここでは集合数は3であるから、単位である数は、この集合数、3だけ自分自身と掛け合わされねばならないのであるが、この集合数、3は単位そのものとは異なるものである。――この集合数と単位との二つの規定は元々数の概念の本質的区別として存在するものであるが、両者は自己外脱出の完全な自己復帰のために等しいものとせられなければならない。以上の叙述の中には、更にまた、一つは高次の各方程式の解法die Auflösung der höheren Gleichungenが何故に二次方程式への還元から出て来なければならないかという理由、また一つには奇数冪の方程式が何故に形式的にのみ規定されるものであるかということ、及びその根が有理数〔eine rationale Zahl 〕の場合に、何故に根は仮想的な表現imaginären Ausdruck(即ち根そのものと根が表現するものとの正反対のものの表現)による以外の仕方では生じ得ないかということの理由が含まれている。上に述べたところから明らかなように、算術的自乗だけが自分の中での絶対的規定在( das Schlechthin-Bestimmtsein in sich )をもっている。そのために、それよりも以上の形式的な冪をもつ諸々の方程式も、それに還元されねばならないのである。このことは丁度、幾何学における直角三角形rechtwinklige Dreieckがそれ自身の中において絶対的に規定されているという性質を含み(この点はピュタゴラスの定理の中で云われていることである)、まさにそのために、ここでもまた他のすべての幾何学的形象が完全な規定となるためには、直角三角形に還元されねばならないのと同じである。・・・以下、省略・・・



   
 注釈 2  〔哲学的概念の表現に対する数の規定の使用〕

〔1. 数の規定――数と思想との類似点と相違点〕
 ピュタゴラスが理性の諸関係または哲学の諸問題を数によって表わしたことは知られている通りである。近世においてもまた、数や数の関係〔比〕のいろいろの形式が、例えば冪などのようなものが哲学の中で使用され、これによって思想を規制したり、また思想を表現したりしようとする試みがなされた。――教育上の見地からも、数は内的直観に最も適した対象と見られ、また数の関係〔比〕を計算する操作は、最も精紳的な精神固有の諸関係や、或いはまた一般に本質の根本的な諸関係を直観の上で分るようにするところの精紳の活動と考えられている。――しかし如何なる程度まで数にこの高い価値が与えられてよいかは、上述の数の概念から明らかである。
 われわれは数を量の絶対的規定性と見、数のエレメント〔要素〕を無関心になった区別と見た。――このことは数の即自的な規定性であるが、同時に全くただ外面的なものとして措定されてもいる。――算術は分析的な学問である。というのは、その対象の中に出てくる一切の結合や区別は対象そのものに内在するものではなくて、全く外面的に対象に加えられたものだからである。算術は如何なる具体的な対象をももたない。言いかえると、最初は知識にかくされていて、その対象についての直接的な表象の中に与えられてはおらず、認識の努力によってはじめて取り出されるといった内的な諸関係を本来もっているような具体的な対象というものを、算術はもたないのである。算術は概念をもたないのみでなく、従ってまた概念的思惟に対する課題をもたないのみでない。むしろ算術は概念的思惟とは正反対のものである。ここでは結合には必然性が欠けており、結合されたものはこういう結果に対して無関心であるために、思惟は思惟自身の全くの放棄を意味するような行動をとることになる。即ち強引な行動をとり、没思想的に立ち廻り、必然的に結びつけることの出来ないものを結びつけるというような行動をとるのである。対象もまた外面性そのものという抽象的な思想なのである。・・・以下、省略・・・



 
 〔哲学と数学〕


 しかし数学的カテゴリーを持って来て、それに基いて哲学的な学の方法や内容に何らかの規定を与えようとするのは元来、それ自身が本末転倒であることを告白するものである。なぜかといえば、数学的公式が思想や概念の区別を意味するものであるかぎり、このような数学的公式こそ、むしろ哲学の中でまず付与され、規定され、権利づけられねばならないものだからである。哲学は、その具体的諸科学の叙述に当たって論理的原理を論理学から取るべきであって、数学から取るべきではない。哲学の論理的原理を獲得しようとして、他の諸科学の中で仮定的に取られているような論理的原理の諸形態に、――それも、その多くは単に論理的原理の予感にすぎず、また他のものは論理的原理の萎縮したものでしかないのに、――こういうような諸形態に避難を求めるというのは、哲学的無能力のさせる応急手段でしかあり得ない。このような借物の公式を適用することは元々外面的な態度である。むしろこのような適用そのものの前に、公式の価値と公式の意義とについての意識が先行しなければなるまい。けれども、このような意識は、ただ思惟的考察のみが与えるものである。しかも、思惟的考察の権威は数学に由来するものではない。つまり論理学そのものこそ公式に関するこのような意識にほかならない。従って、この意識こそ公式のもつ形式の特殊性を剥ぎ取って、これを余計なもの、無価値なものとし、これらの公式を訂正して、それらにその椎利づけと意味と価値とを与えてやるのである。・・・以下、省略・・・

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