→ 化身/受肉-資本論用語事典2021
稲垣良典著 「存在(エッセ)」の形而上学 春秋社 2013年発行
~トマス・アクィナスのキリスト教神学~
「存在(エッセ)」 と 神学的キリスト論 (「受肉」論)
1 神学的キリスト論
「神学的キリスト論」という表現は、聖書学的研究にもとづく「歴史のイエス伝」から区別された、教義神学的な「信仰のキリスト論」を指すものと受けとられるかもしれないが、トマスにおいてはそのような区別は意味を持たないのであって、そこではまず神の啓示に基づいて信仰から出発する「神がわれわれの救いのために人間になり給うた」という受肉の神秘に関する神学的探求があり、それに続いて「人間となった神」であるイエス・キリストは地上の生においていかなることを為し、また蒙ったかについての神学的考察が行われるが、これも根本的には受肉の神秘に関する神学的探求である。言いかえると、トマスにおける神学的キリスト論は、その全体が受肉の神秘に関する神学的探求であって、それ以外のものではない。
では神学的キリスト論それ自体は、いつ、どのようにして成立したのか、といえば、受肉、すなわち「神がわれわれの救いのために人間になり給うた」という信仰の神秘が教会の教義(dogma)として確定された時に、広い意味での神学的キリスト論の歴史が始まった、と言えるであろう。この教義、すなわち人間となった神であるキリストにおいては神的本性(natura divina)と人間本性(natura humana)が「子」(Filius)あるいは「言(ことば)」(Verbum)と呼ばれる神的ペルソナにおいて合一しており(ペルソナ的あるいはヒュポスタシス的合一(unio personalis seu hypostatica))、そのことのゆえに一にして同一のキリストは真実の神(Verus Deus)であって真実の人間(verus homo)である、という教義が確定されたのは現在のトルコ、ボスポラス海峡をはさんでコンスタンティノポリスの対岸に位置するカルケドンで451年に開催された第四回公会議においてであった。
この公会議ではキリストのうちに神的と人間的という二つのペルソナが在ると主張するネストリオスの主張と、キリストにおいて人間性は神性に融合せしめられ、現存するのは神性のみであるというエウテュケスの単性説(monophysitism)が斥けられて右の教義が確定されたのであるが、この二つの説はこの後も様々の形で主張され続けた。ここでは読者ができるだけ問題の核心に迫ることができるよう、この公会議の記録の最も重要な一節を紹介する(原文はギリシャ語とラテン語の並記)。
それゆえ、われわれはみな、聖なる教父たちに従って、声を一つにして(次のような)信仰宣言を教える。われわれの主イエス・キリストは一なる同一の御子である。彼は神性において完全であり、また同じく人間性において完全である。彼は真実に神であり、理性的霊魂と身体を有し、真実に人間である。神性に即しては御父と同一本質であり、同じ彼は人間性に即してはわれ われと同一本質であり、罪を除いてはすべてわれわれと同じである。彼は神性に即しては世々の前に御父 から生れ、人間性に即してはその同じ彼は終りの日々にわれらのため、またわれらの救いのために神の母なる乙女マリアから生れた。
一にして同一のキリスト、主なる御ひとり子であり、何らの混合、変化、分割、分離もないところの二つの本性において認識されるべきである。合一のゆえに二つの本性の差違が取り去られることはなく、むしろ両本性の特性は保全されながら一つのペルソナそして自存(subsistentia)へと合流し、彼は二つのペルソナへと分離、分割されることなく、さきに預言者たちが彼について、そして彼イエス・キリスト自身がわれわれに教え給い、教父たちの信経がわれわれに伝えたごとく、一にして同一の御ひとり子、神、言(みことば)、主なるイエス・キリストである。
受肉という信仰の神秘についてこの「定義」(definitio)は、「同一本質」「ペルソナ」「自存」などの特殊な用語は使用しているものの、全体としてほとんど単純・素朴という印象を与える文章であり、決してキリストの福音がギリシア哲学やヘレニズム文化の影響によって変質したことを感じさせるものではない。この公会議に参加した司教たちの「われわれは『哲学者』(アリストテレス)のようにではなく、『漁師』(ペトロ)のように発言することに意を用いた」という感想は額面通り受けとめてよいように思われるのである。
しかし他方、ここで明確に宣言されている受肉の神秘の教義は、使徒たちから伝えられた教会の信仰が誤った解釈によって歪められ、破壊されることを阻止することはできても、信じ、告白すべきこの教義が含意しているように見える矛盾を解消してくれるものではない。たとえば、この教えをそのまま受け入れた場合には、真実の神であるキリストは真実の人間なのであるから、キリストに関しては「神は人間である」「人間は神である」という明白な矛盾を肯定しなければならなくなるのではないか。それに全く不可変であって最高度に一である神が人間になる、すなわち変化する、ということがどうして起こりうるのか、教義そのものはこれらの明白な矛盾ないしは不条理と思われることを説明して、そこに秘められている神の測り難い知恵や恵み深さを悟り、味わう道を開いてはくれない。言いかえると教義は信仰がまさしく信仰として求めてやまない理解を与えるものではなく、その限りではまだ神学ではないのである。
2 「受肉の神秘」という神の「もっとも驚くべき不思議な業」(opus mirabilissimum)を理解しようとする試みとしての神学的キリスト論が最初に生れたのは、何世紀にもわたって「キリストは何者であるか」という問いをめぐって烈しい論争を行ってきた東方ギリシア教会においてであり、その中心的人物はヨナネス・ダマスケヌスであった。彼は『正統信仰論』(De
Fide Orthodoxa)において教会の伝統的な教説を論述しており、その第三巻「キリスト論」の第46章から第64章にわたって受肉の神秘について詳細に考察しているが、その内容はカルケドン公会議で確定された教義を、教父たちの著作からの数多くの引用によって綿密に解説するものであり、その博引傍証ぶりは圧倒的である。
この解説においてとくに注目に値いするのは、カルケドン教義の「一つのペルソナにおける二つの本性の混合・変化・分割・分離なき、そして両本性の差違・特性を保全したままの完全な合一」という定義を解説するにあたって、「受容」(assumptio)という概念を導入したことである。キリストにおいて神的本性は永遠の昔から超時間的に神的ペルソナである永遠の言(ことば)によって所有されているのにたいして、人間本性は終わりの時に(in
ultimis)同じペルソナによって「受容」されるのであって、それが「言(ことば)の受肉」(Incarnatio Verbi)であり、ペルソナ的(ヒュポスタシス的)合一(Unio Personalis(Hyposlatica))である、と説明される。確かに、「受容」という概念の導入によって「一つのペルソナ(ヒュポスタシス)における二つの本性」という定式が呼び起しがちな様々の難問に対処する新しい道が開かれたのであり、その意味でダマスケヌスは神学的キリスト論の歴史において重要な寄与をした。
しかし、ダマスケヌスは「受容」の概念について明確に規定してはいないし、何よりも「神が人間となる」という誤解され易い語り方を「神的ペルソナが人間本性を受容する」という神の業についての明確な記述で置き換えていながら、そのことの意味について何も説明していない。さらにまた、神であるペルソナが人間本性を受容するという、無限・永遠なものがいわば自らを「無化」して直接的に有限・時間的なものと結びつくということがいかにして可能であるかを存在論的に説明する、という問題を取り上げてもいない。トマスの神学的キリスト論の意義は、独自の存在論に基づく神学的探求を通じて、これらの問題と正面から取り組んだことであった、と言えるであろう。
3 トマスの神学的キリスト論
トマスは「神がわれわれの救いのために人間になり給う」という受肉の神秘を、前述のように神の「もっとも驚くべき不思議な業」と呼ぶが、それは無限・全能である万物の創造主が、被造物にすぎないひとりの乙女から生れる、という、神の威厳、権能と全く矛盾・対立するとしか言いようのない業を為すことが、実は神の正義と知恵、そして無限のちからを示すものであって神に最もふさわしい(conveniens)と肯定することであり、彼はそのことを自らの神学的キリスト論の冒頭で論証するのである。言いかえると、独自の形而上学的「存在(エッセ)」理解に基づくものであるトマスの神学的キリスト論は、深遠な神学的問題をめぐって精妙な恩弁を展開する試みではない。それはむしろこの神秘が神に最もふさわしい業であることを理解しようと試みることを通じて、われわれが神の本質である限りない恵み深さ、おしみなき愛により親密にふれることが可能になり、そのことによって神に感謝と讃美をよりふさわしい仕方で捧げることができるようになることを目指すものであった。
ここでおそらく多くの人の頭に浮ぶ疑問は、有限な被造物にすぎない人間が、いったいどのような基準にてらして神の業(それは神の本質そのものである)の「ふさわしさ」(convenientia)について判断することができるのか、またかくも僭越極まる考えをどうしてトマスが抱くことができたのか、であろう。ところがトマスをひるませ、困惑させるに十分と思われるこの難問にたいする彼の解答は意外なほど単純で簡潔なものである。それによると、いかなるものにとってもそれに「ふさわしい」とされるのは、そのものの固有の本性に基づいてそのものに属する事柄である。ところで神の本性そのもの(ipsa
natura Dei)とは善性(恵み深さ)(bonitas)であるから、善いものという本質側面(ratio boni)に属するものは何であれ神にふさわしい(conveniens)のである。
では神の本性そのものとされる「善性」、何らかの特殊な限られた意味での「善さ」ではなく、最高善であり善そのものである神の「善性」はどのようにして認識されるのか。トマスはディオニュシオス・アレオパギテースの「善は自らの存在をおし拡げるものである」(bonum
est diffusivum sui esse)という言葉をよりどころに、自らを他者に分与し、他者と共有する(communicare)ことが、善の本質側面に属することを確認する。ところで、トマスによるとこのような神の本性そのものとされる「善性」が、「三・一なる神」についての啓示において明らかに示されていることについては既に述べた。また神の本性そのものとは「善性」であり、あるものの善性はそのものが自らの存在をおしみなく他者に分与し、他者と共有することにおいて示される、という洞察は「存在」と「善」をめぐるトマスの形而上学的探求全体の実りとも言うべきものであることについても、断片的ながら既に述べた。
そしてトマスはこのような神の本性そのものとは「善性」であるとの洞察に基づいて、神の永遠の言(ことば)の受肉、すなわち神的ペルソナが人間本性を受容するという仕方で、神が被造的な本性を自分自身に結びつけ、合一させることは、まさしく「最高の仕方で自己を被造物に伝え、自らの存在を被造物と共有すること」であり、それは最高善であり「善性」そのものである神の本性に最もふさわしいことである、と判断したのである。受肉という神の業の「ふさわしさ」についてのこうしたトマスの議論は、かなり飛躍をふくむように思われ、結論が唐突に下されているとの印象を与えるかもしれない。しかしそれは『神学大全』第三部「キリスト論」におけるトマスの議論をそれだけ切離して見た場合のことであり、彼が『神学大全』第一部、第二部の全体における様々の問題の考察を通じて、われわれが「神」と呼ぶ存在の本質あるいは実体に到達するために行った探求を注意深くたどった場合にはその印象は大きく変化するに違いない。
言うまでもないことであるが、トマスは受肉の神秘を自然理性によって到達された限りでの(神の本性そのものとしての)神の善性に基づいて把握し、説明しつくすことができるとは決して考えなかった。しかし他方、信仰の神秘をどこまでも神秘として保全しつつ、それを人間理性によって可能な極限まで探求し、言語化しようとする試みは、神を単にわれわれが直接に認識する事柄の原因としてのみでなく、確かに神の本質あるいは実体に到達できる――「われわれは〈知られざるもの〉たるがままの神に結ばれている」――ことを彼は確信していた。トマスは一方においてはこれ以上の不可知論的あるいは否定神学的な表現はありえないと思われる程に、人間理性が独力では神の「何であるか」を知り得ないことを強調した。しかし他方、信仰に奉仕するもの(obsequiun
fidel)としての人間理性は神の本質あるいは実体に到達するところまでその「無限へのちから」(virtus ad infinita)が恩寵によって完成される、とトマスは確信していたのである。
4 受肉の神秘の言語哲学的省察
さきにカルケドン教義をそのまま受け入れると、真実の神であるキリストは真実の人間であるから「神は人間である」「人間は神である」という明白な矛盾を肯定しなければならなくなる、という難問に直面することになるのではないかと述べた。トマス『神学大全』第三部第1~15問題における「受肉の神秘」の体系的な神学的探求を、言語哲学的省察とも呼ぶべき第16問題で振り返ることによってこの難問と取り組んでいる。そこで取り上げられているのは「『神は人間である』は真であるか」「『人間は神である』は真であるか」「『神は人となった』は真であるか」などのいわば基本的な問いの他「『キリストは被造物である』は真であるか」というアレイオスの異端説に関わる微妙な問い、そして更に微妙な問いと言うべき「キリストは、人間である限りにおいて、ヒュポスタシスあるいはペルソナであるか」など12の多様な問いである。
トマスがこれら多様な問いの解答において試みていることは、簡単に言えば、受肉した神の言(ことば)であるイエス・キリストは真の神であり真の人間である、という言明の意味を正確につきとめることである。しかし、より厳密には次のように言えるであろう。確かにカルケドン教義が信ずべきこととして呈示した、一にして同一のキリストにおける神性と人間性の明確な差違・区別とそれら二つの本性の完全な合一、という相互に明白に矛盾・対立するかに見える事柄は、その意味を正確に理解し、明確に言語化しようと試みるとき、その矛盾・対立は益々極端で絶対的なものとなるように思われるかもしれない。
ところが実はわれわれは信仰の導きの下に知的探求を徹底させることによって、これら矛盾・対立を超えて、それらの命題・言明が語ろうとしている神秘そのものに到達できるのであり、そのとき言語表現は決して不条理、不可解なものではないことがあきらかになる、というのである。言いかえると、信仰のみによって肯定される神秘を、信仰の導きの下に可能な限り理解しようとする知的探求によって、絶対的に矛盾・対立すると思われた命題・言明が実は一致することがあきらかになる、とトマスは主張したのであった。
このように、われわれが信仰によってのみ肯定される受肉の神秘を、可能な限り理解し、言語化しようと試みた場合に、不可避的に行きつかざるをえないかのように思われる絶対的な矛盾・対立、もしくは不可解・不条理とか言いようのない命題・言明への転落、それを回避し克服する道としてトマスが提示しているのが、「属性共有」(communicatio idiomatum)と呼ばれる神学的概念である。この概念は、名辞の意味表示(significatio)と、名辞が命題において果す機能としての代示(suppositio)とを明確に区別し、代示の多様な種類を精密に区別する、中世論理学の重要かつ独自の学的貢献である代示理論に基づくものであるが、ここで代示理論についての詳細な説明に立入ることはできないので、トマス自身がそれに基づいて属性共有をどのように理解していたかを簡単に解説するにとどめる。
受肉した神の言(ことば)であるキリストにおいては、神性と人間性との完全な合一のゆえに、「神は十字架につけられて死に給うた」「神は乙女から生れ給うた」と語ることも、「人間は天地の創造主である」
「人間は永遠の昔から在る」と語ることも可能である。その根拠は、神性と人間性の両者についてヒュポスタシスないしペルソナは一つであり同一なのであるから、言いかえると、御子なる神あるいは言(ことば)という一つのペルソナあるいはヒュポスタシスが二つの本性において自存している(subsistere)のであるから、ここで「神」および「人間」という二つの名辞は同一のヒュポスタシスを代示している(supponere)ということにほかならない。
受肉した言(ことば)であるキリストが「人間」という名辞で表示(significatio)されようと、「神」という名辞で表示されようと、右で挙げた諸命題において代示されているのは、神性および人間性において自存しているヒュポスタシスなのである。したがって、真の神であり真の人間であるキリストにおいては、神と人間は、神性および人間性に属するすべての固有性(proprietas)ないし属性(idioma)を共有するのであり、そのことのゆえに神性に属することが人間について述語され、人間性に属することが神について述語される、という逆説あるいは明白な矛盾と思われることが有意味になる、というのがトマスの「属性共有」の考え方である。
それは決して、受肉の神秘を人間理性によって理解し、言語化しようとする試みが不可避的に陥るかに見える逆説的で不条理な言明は、実は有意味であることを示すための単なる論理的道具もしくは「神学的なテクニック」ではないし、また人間理性による信仰の神秘の知的探求そのものを否定する「不条理なるがゆえにわれ信ず」(credo
quia absurdum)という信仰主義(fideism)に与するものでもない。そうではなく、トマスが理解する「属性共有」は、信仰のみによって肯定される神秘に向って人間理性による知的探求をその可能性の極限まで徹底的に進めるにあたって、人間的言語の有効さの限界を超え出る危険(リスク)を敢て冒すことをも辞さない探求態度に裏付けられている。
〔 「存在(エッセ)」 と 神学的キリスト論 (「受肉」論) 〕
〔 「受肉」 Inkarnation : 化身ー『資本論』の物神性への道標 〕
その意味で、それは人間の通常的経験の内部で妥当する論理とは違う論理であって、人間の自己超越の論理と呼ぶのがふさわしいものである。そして、このような論理の根底には、事物が「何である」かを表示する「本質」(essentia)、「何性」(quidditas)、「本性」(natura)あるいは「形相」(forma)のレベルで「在るもの」(ens)の探究を行うにとどまったそれまでの存在論を超える、最高の現実性ないし完全性としての「存在」(esse)――それは或る意味で人間的言語の有意味性・可知性の限界を超え出ている――を中心に据えるトマス独自の存在理解ないし存在論があった、というのが私がここで提示している解釈にほかならない。
5 受肉の神秘の存在論的考察
第16問題では、神である言(ことば)が人間になるという神秘を、われわれが人間理性に可能な限り理解し、言語化しようと試みるときに、この神秘ふくまれている「在る」(esse)と「なる」(fieri)との関わりから生じる問題が言語哲学的に考察された。次の第17問題から第19問題においてはキリストの「一(なること)」(unitas)が存在(esse)、「意志」(voluntas)、および「働き」(operatio)に関して考察されるが、ここではキリストの存在が一であることを論じている第17問題がわれわれの関心の対象である。
問題はある意味で極めて単純であり、「人間となった神である」キリストは真の神であり、真の人間であるとわれわれが信じて告白するとき、どうしてキリストのうちに「神である」「人間である」という二つの異なった「存在(ある)」を定立する(penere)ことにならないのか、が問われている。この問題に関するトマスの基本的立場は、「在る」と端的に言われるのはペルソナあるいはヒュポスタシスであり、本性は端的に「在る」のではなく、ペルソナあるいはヒュポスタシスが「それにおいて」在るところのものだ、というものである。したがって、キリストにおいては二つの本性が区別されるが、ペルソナあるいはヒュポスタシスは一つのみであるから、キリストのうちにはただ一つの存在(エッセ)のみがある、と結論される。
しかし、トマスのこの議論はおそらく多くの人を納得させるものではないであろう。われわれはむしろ、神が真実に人間となるのであれば人間性に即して新しいペルソナ的存在(エッセ)を取得するのであり、そうでなければキリストが真実に人間として存在し、生き、活動するとは言えない、と考えるのではないか。トマス自身は、神は人間になることによって新しいペルソナ的存在(エッセ)を取得するのではなく、先在するペルソナ的存在(エッセ)(神の永遠なる言(ことば)というペルソナ的存在(エッセ))が人間本性への新しい関係(nova
habitudo)を取得し、かくして当のペルソナは今や神性に即してのみでなく、人間性に即しても自存する(subsistere)と言われる、と説明しているが、この説明も容易に受け入れられるとは考えられない。
ところが実際のところ、問題の根元はわれわれが通常の経験の領域でのみ妥当する論理をそのまま神であるキリストに適用したことに存するのであって、トマスはそのような誤謬を避けるために存在論的探求を「本質」や「本性」、あるいは「形相」を超えて(つまり、人間的言語の有効性の限界を超えて)「存在(エッセ)」という最高の現実態ないし完全性に到達するところまで徹底させたのである。今の場合でいうと、「神が人間になった」と言われるとき、それは神が何か別のものに変化することでは決してなく、神の本性は同一なままにとどまるのであるから、神の本性・本質と同一であるところの「存在(エッセ)」もまったく同一なままにとどまる、としなければならない。人間キリストは確かに時間のうちに在るが、その存在(エッセ)は変わることのない(神の本質と同一である)永遠的存在(エッセ)に基づいて理解しなければならない。
言いかえると、神の本性・本質そのものである存在(エッ)のほかにもう一つの人間的存在(esse humanum)があるのではなく、神の御子・言(ことば)である神的ペルソナが人間本性を受容することによって、当の神的ペルソナに属する存在(エッセ)が「人間の存在」(esse hominis)となる、というのである。
トマスはここでは「神的ペルソナが人間本性を受容する」ということを、「人間本性は神の本質そのものである存在(エッセ)を共有することへと引きよせられる(trahatur
in communicationem illius)という言い方をしている。受肉する言(ことば)(のペルソナ)の側から言えば、自らがそれによって自存している「存在(エッセ)」を人間本性に「伝え・共有する」(communicare)のである。別の言い方をすれば、「この(神の御子の)ペルソナは、今や神的本性に即してのみではなく、人間本性に即しても自存する」のであり、自存する存在はただ一つ、神の御子に固有の存在のみである。
このように、トマスの神学的キリスト論の中心問題である受肉の神秘を、一貫して信仰の導びきの下に、人間理性の可能性の限りを尽して理解しようとする神学的探求において決定的に重要な役割を果したのが「存在(エッセ)」の形而上学であった。そして、このことを可能ならしめたのは最高の現実態・完全性である「存在(エッセ)」は専有的・排他的な仕方で所有されるものではなく、根源的に他者との関係・交わりを特徴とするものであること、さらにすべての在るもの(存在(エッセ)を有するもの)を在らしめる第一の根源である「自存する存在(エッセ)そのもの」すなわち神は、まさしく「最高の仕方で自己を被造物に伝え・共有する(communicare)」こと、すなわち純粋な善性(bonitas)が自らの本性そのものであるような最高善であるとの洞察であった。
こうした「存在(エッセ)」理解が、受肉の神秘、すなわち無限・永遠なる神のペルソナが有限で時間的な人間本性を「受容する」という、神が「自らを虚(むな)しくする」としか言いようのない「神の最も不思議な業」を理解する道を開いた、というのが私の解釈である。
・・・・以下、省略・・・
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