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  『資本論』の文体/叙述形式研究 (1)
   -カント哲学から非ユークリッド幾何学へ-


カント「空間理論」の批判と非ユークリッド幾何学の創造
球面幾何学など非ユークリッド幾何学 (1)


   カント 『純粋理性批判 Kritik der reinen Vernunft』 序論

  第5節 理性に基づくすべての理論的な学には、アプリオリな総合判断が原理として含まれる

  
カント批判哲学と数学的命題

『純粋理性批判』第2部超越論的な方法論


     ・・・ 参照-関連資料 ・・・
  『資本論』のドイツ古典哲学-カントとヘーゲルから『資本論』へ
 Ⅰ. カント      
近代弁証法の源流 カント, ゲーテ, ヘーゲル
 Ⅱ. ヘーゲル   
エンチュクロペディ-
 Ⅲ. シュヴェーグラー 『西洋哲学史』ー 
カント  ヘーゲル
 Ⅳ. カント哲学から「非ユークリッド幾何学」へ 
・・・カント「空間理論」批判
 Ⅳ. 『資本論』の科学史トレース
  第1章第1節
三角形面積計算の方式(ユークリッド幾何学)~
    ~第3節 価値方程式(価値形式)への転換
       
***   ***   ***

  カント 『純粋理性批判』 ・・・批判哲学と数学的命題  

   
資本論ワールド 編集部
   はじめに
1. 資本論ワールドでは『資本論』の文脈上必須の、カント(1724-1804)-ヘーゲル(1770-1831)からマルクス(1818-1883)へと継承された「ドイツ哲学の連続性」を、トレースするためにカントとヘーゲルの「ドイツ古典哲学」のミニミニ抄録を行います。『資本論』の副題は「経済学批判」(Das Kapital. Kritik der politischen Ökonomie)となっていますが、『経済学批判』(1859年)や『資本論』初版(1867年)が刊行された当時のドイツでは、表題に「・・・批判 Kritik」とあれば、カントの著作集が思い出されたものと推測されます。1847年には、歴史的な哲学史としてシュヴェーグラー(1819-1857)の『西洋哲学史』が公刊され、「カントからヘーゲルのドイツ古典哲学」の全体像が明らかにされます。

2.  シュヴェーグラー 『西洋哲学史』
 ドイツ古典哲学を継承する『資本論』の文脈を跡付けてゆくには、第一に西洋史の中で
カントの歴史的位置を見定めることです。次に、カントを継承・発展したヘーゲルに対して、マルクスが『資本論』の中で対応したトレースを伺ってみることです。こうして、西洋思想の“ドイツ精神”が全体として弁証法のもとに活写され、『資本論』の舞台装置で陣立てが遠望されてゆきます。


3. 非ユークリッド幾何学の “革命
 カントからヘーゲルのベルリン大学時代(1818-1831)に、ドイツをはじめ西洋では新たな“革命”が進行します。2000年の歴史を有する「ユークリッドの幾何学」から「非ユークリッド幾何学」が誕生してきます。ちょうどマルクス(1818-1883)が誕生したドイツの地で、ガウス(1777-1855)とロバチェフスキー(1792-1856)が新しい科学を構築しています。さらに、1854年6月10日にリーマン(1826-1866)が、「幾何学の基礎にある仮説について」講義を行います。これらの一連の新しい非ユークリッド幾何学を土台に、50年後 アインシュタインが「20世紀の宇宙論」を創始します。

 カントの「空間論」哲学との関係では近藤洋逸著 『新幾何学思想史』- ロバチェフスキイとリーマンの概要等-を紹介します。(数学史関係に関心のある方は、
こちらを参照してください。)
   
近藤洋逸著 『新幾何学思想史 

 (1)カントへの移り行き-「批判哲学」と数学論
 (2)ヘーゲルへの移り行き-「論理学」と有機体論
 (3)『資本論』へ継承された科学史一覧 ・・・・準備中です・・・
     - 資本論ワールド 編集部 -



         『純粋理性批判』 
   目 次
 序論
  第1節 純粋な認識と経験的な認識の違いについて
  第2節 わたしたちはアプリオリな認識を所有していること、日常的な知性の利用にもアプリオリな認識がふくまれないわけではないこと
  第3節 哲学には、すべてのアプリオリな認識の可能性、原理、範囲を規定する学が必要である
  第4節 分析的な判断と総合的な判断の違いについて
  
第5節 理性に基づくすべての理論的な学には、アプリオリな総合判断が原理として含まれる
  第6節 純粋理性の普遍的な課題
  第7節 純粋理性批判と呼ばれる特別な学の理念と区分
 
第1部 超越論的な原理論    ・・・・以下、省略・・・


    第2部 超越論的な方法論
   序
 第1章 純粋理性の訓練
   第1節 独断的な使用における純粋理性の訓練
   第2節 論争的な使用における純粋理性の訓練
   第3節 仮説についての純粋理性の訓練
   第4節 理性の証明についての純粋な理性の訓練
 第2章 純粋理性の基準
   第1節 わたしたちの理性の純粋な使用の究極的な目的について
   第2節 純粋理性の究極の目的を規定する根拠となる最高善の理想について
   第3節 臆見、知、信念について
   第3章 純粋理性の建築術
   第4章 純粋理性の歴史

       ・・・・・・・・・・・

       
『純粋理性批判』 
 
序論
  
第5節 理性に基づくすべての理論的な学には、アプリオリな総合判断が原理として含まれる

 014 
数学的な命題と矛盾律
(1)
 数学的な判断はすべて総合的な判断である。この命題は、議論の余地のないほど確実なものであり、そのためにきわめて重要なものである。しかしこれまで人間の理性を分析する人々はこの命題に注目してこなかったし、これらの人々の見解とは、正面から対立しているかのようである。というのも数学者の推論は、すべて矛盾律にしたがって行われるものであることが確認されてきたために(数学という学問が必然的な確実性という性格をもつためには、これは必要なことである)、数学のさまざまな原則もまた、矛盾律から認識されるべきものだと信じ込まれていた。しかしここで彼らは間違えたのだ。たしかに総合的な命題もまた、矛盾律にしたがって理解できる場合があるが、それは別の総合的な命題が前提となっていて、この命題にしたがって推論できる場合にかぎられる。総合的な命題そのものを矛盾律によって推論できるわけではないのである。


 015 
純粋数学のアプリオリ性
 まず何よりも確認する必要があるのは、ほんらいの意味での数学的な命題はつねにアプリオリな判断であって、経験的な判断ではないということである。数学的な命題には必然性という性格がそなわっているが、この必然性は経験からは決してえられないからである。しかしこのことを認めようとしない人もいるかもしれない。いいだろう、それではわたしは純粋数学だけに話を限定することにしよう。純粋数学はつねにアプリオリな純粋認識だけを含み、経験的な認識を含まないということは、純粋数学という概念そのものが必然的に示していることだ。


 016 
算術の命題が総合的であることの証明
 あまり深く考えない人なら、あるいは「7に5を加えると12になる」という命題は純粋に分析的な命題であり、7と5の〈和〉という概念から、矛盾律にしたがって導かれると考えるかもしれない。しかしもっとじっくりと考えてみると、7と5の〈和〉という概念に含まれているのは、二つの数を一つの数に結びつけるということだけであり、二つの数を結びつけた数がどのようなものであるかは、まったく考えられていないことが分かる。12という概念は、わたしがたんにあの7と5という数を結びつけたときに、すでに考えられているものではない。だからわたしがこのような可能的なものにすぎない和という概念をどれほど分析してみたとしても、その概念のうちに12という数に出会うことはないのである。[12という数をみいだすためには] この7と5という概念の外にでる必要があるのであり、そのためにはこの二つの概念の片方に対応する具体像[=直観]を助けとするのである。たとえば自分の5本の指や、(ゼーグナーが著書『算術』で示したように)5つの点などを助けとして、この具体像として与えられた5つの単位を、7という概念につけ加えるのである。
 つまりわたしはまず、7という数字をとりあげてみる。そして5という概念にたいして、5本の指の具体像を助けとして利用することで、それまで5という数を構成するために利用していた単位を、5本の指を手掛かりにして、7という数に一つずつ加えてゆくと、12という数が生まれてくるのがわかるのである。7を5に加えるべきであるということは、わたしはすでに7と5の〈和〉という概念において考えているが、この和が12であるということは、この[和という]概念のうちではまだ考えられていなかったのである。だから算術の命題はつねに総合的なのである。このことは、もっと大きな数を考えてみれば、さらにはっきりとする。というのは、わたしたちが自分の概念をどれほど好きなようにいじくりまわしてみても、具体像の助けを借りなければ、わたしたちの概念を分析しただけでは、その和をみいだすことは決してできないのは明らかだからである。


 017 
純粋幾何学の総合性
 純粋な幾何学の根本命題にも、分析的な命題はまったく存在しない。「直線は、二つの点を結ぶ最短 [の距離] である」という命題は、一つの総合的な命題である。まっすぐなというわたしの概念には、量の概念はまったく含まれず、質の概念が含まれるだけだからである。最短 [の距離] であるという概念は、この命題にただ[そとから」つけ加えられたものであり、直線という概念を分析しても、この概念は取りだすことができない。ここでも具体像を助けとして利用せざるをえないのであり、これを利用することで、初めて総合が可能となるのである。


 018 
幾何学と総合命題
 幾何学者が前提とするいくつかの根本原則は、たしかに分析的であり、矛盾律にもとづいたものである。しかしこれらの原則は、同一律の原則と同じように、方法の連鎖として役立つだけであり、原理として利用できるものではない。たとえばa=a´ すなわち「全体はそれ自身 [全体] と同一である」とか、(a+b)>a´ すなわち「全体は部分よりも大きい」などである。これらの原則はたしかにたんなる概念によって妥当するものではあるが、数学においてこれが許容されているのは、それを具体像 [=直観] において記述することができるからである。一般にこうした原則では、このような必然的な判断の述語が、すでにわたしたちの概念のうちに含まれているかのような印象を、すなわちそれが分析的な判断であるかのような印象をもちやすいが、わたしたちがそう考えるのは、記述のあいまいさのためである。

 つまり、わたしたちは与えられた[主語]概念に、ある特定の述語をつけ加えて考えることを求められているのだが、こうした概念にはすでにこのような必然性 [の印象] がそなわっているのである。しかし問題なのは、わたしたちが与えられた [主語] 概念に何をつけ加えて考えるべきかということではなく、漠然とではあっても、わたしたちがこの [主語] 概念において何を現実に考えているかということである。 [このことを考察してみれば] この述語概念はその [主語] 概念に必然的に結びついたものではあるが、それ[主語概念]そのものにおいて考えられたものではないこと [すなわち分析的なものではないこと]、そうではなく、この[主語] 概念に結びつけられるべき具体像を媒介として、この [主語] 概念に結びつけられた[すなわち総合的な] ものであることが明らかになるのである。


 019 
自然科学とアプリオリな総合命題
(2)
 自然科学(物理学)は、アプリオリな総合判断をみずからの原理として含んでいる。その実例として、二、三の命題だけをあげておくことにしよう。たとえば「物体の世界では、あらゆる変化をつうじて、物質の量はいつまでも不変である」という[質量保存の]法則と、「運動のあらゆる伝達をつうじて、作用と反作用はつねに同じでなければならない」という[作用・反作用の]法則をあげておこう。いずれの命題も必然的なものであり、これらがアプリオリに作られた命題であることは明らかであり、しかもこれらの命題が総合的な命題であることもまた、明らかな心である。
なぜならわたしが物質という概念で理解するのはその持続性ではなく、たんにその物質が空間を満たすことによって、その空間のうちに存在しているということだからである。だからわたしが物質という概念のうちに考えていなかったものを、この概念においてアプリオリに考えることができるためには、ほんとうの意味でこの概念から外に出るのである。だからこの命題は分析的なものではなく、総合的なものであるが、それでもアプリオリなものとして思考されているのである。自然科学の純粋科学の部門で利用されるその他の命題についても、同じことが指摘できる。


 020
 形而上学とアプリオリな総合命題
(3)
 形而上学は、これまではたんに試みられただけの学であるにすぎないが、人間の理性の性格から考えて不可欠な学とみなされているかぎりでは、アプリオリな総合認識を含んでいるはずである。だから形而上学が試みるのは、わたしたちが事物についてアプリオリに作りだす概念をたんに分析することによって、これを分析的に説明することではない。むしろわたしたちはみずからのアプリオリな認識を拡張することを望むのである。そのためにわたしたちは、与えられた概念に、そこに含まれていなかったものをつけ加える原則を利用しなければならないのである。こうしてアプリオリな総合判断によって、わたしたちはこの概念から遠く離れたところまで外にでてゆくのであり、もはや経験はわたしたちに追いつけなくなるのである。たとえば「世界には端緒があるのでなければならない」という命題がその一例である。だから形而上学は少なくともその目的においては、アプリオリな総合命題だけで構成されるのである。
  ・・・以下、省略・・・


  
 『純粋理性批判』 第2部 超越論的な方法論 
 序 第1章 純粋理性の訓練  第1節 独断的な使用における純粋理性の訓練
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