ホーム


純粋理性批判第2部第1章独断的な・・・2020.10.09
第2部超越論的な方法論 第1章純粋理性の訓練


 →D.Kant- Kritik der reinen Vernunft_2020.09.30


 『純粋理性批判』 序論 


第5節 理性に基づくすべての理論的な学には、アプリオリな総合判断が原理として含まれる



『純粋理性批判』
第2部超越論的な方法論
目次
 序
第1章純粋理性の訓練
第1節 独断的な使用における純粋理性の訓練
第2節 論争的な使用における純粋理性の訓練
第3節 仮説についての純粋理性の訓練
第4節 理性の証明についての純粋な理性の訓練
第2章 純粋理性の基準
第1節 わたしたちの理性の純粋な使用の究極的な目的について
第2節 純粋理性の究極の目的を規定する根拠となる最高善の理想について
第3節 臆見、知、信念について
第3章 純粋理性の建築術
第4章 純粋理性の歴史
・・・・・・・・・・・



資本論ワールド 編集部
はじめに

『純粋理性批判』 第2部超越論的な方法論
第1章純粋理性の訓練
  第1節 独断的な使用における純粋理性の訓練

831 
数学での成功による理性の錯覚   

 数学は、経験の助けを借りずに、純粋理性がみずからの領域を拡張することに成功した輝かしい実例である。ところで実例というのは伝染するものであって、理性は[数学という] 一つの分野で大きな成功を収めたために、その他の分野でも同じような成功を収めることができると自負するようになってしまうのである。こうして純粋理性は、数学という分野でなし遂げたように、[理性の]超越論的な使用の領域においても、数学の分野できわめて有益だった方法を適用することで、同じような成功を収めて、理性の領域を根本的に拡張できるのではないかと期待するのである。だからここで何よりも必要とされているのは、数学という学問分野において、数学的な方法という名前で、必然的な確実性に到達するために使われた方法が、哲学において同じように必然的な確実性を獲得しようとする方法と同じものであるかどうかを調べることである(哲学の分野ではこの方法は独断論的な方法と呼ばれている)。



832 概念の
構成/構築 Konstruktion der Begriffe

 哲学的な認識とは、概念を使った理性認識である。数学的な認識は、概念の構成による理性認識である。しかし概念を構成するということは、その概念に対応する直観 Anschauung をアプリオリに示すということである。だから概念を構成するためには、経験的な性格のものではない直観が必要である。この直観は、直観であるからには個別の客体であるが、一般的な〈観念〉[=表象]としての概念を構成するという意味では、その概念に含められるすべての可能な直観に普遍的に妥当するものを、この〈観念〉のもとで表現しなければならない。
 たとえばここで
三角形 Triangel を構成するとしよう。そのときにはわたしは、三角形の概念に対応する対象を次のいずれかの方法によって示す。すなわち想像力によって、純粋な直観として描きだすか、それともこの純粋な直観に基づいて、実際の紙の上に、経験的な直観として描きだすかのどちらかである。しかしどちらにしても、三角形をまったくアプリオリに示すのであって、いかなる経験からも、この三角形の<手本>を借りてきたわけではない。このようにして描きだされた個々の図形は経験的なものではあるが、その概念を示すことができるのであって、[経験的なものであることで]その概念の普遍性が損ねられることはない。わたしはこの経験的な直観においては、概念を構成する営みだけにつねに注目するのであって、その他の多くの規定、たとえば三角形の大きさとか、辺とか、角度などは、三角形の概念にかかわるものではなく、それらの差異は、その概念そのものを変化させることがないため無視するのである〔abstrahiert 度外視する〕



833 
哲学と数学における個別的なもの
 だから哲学的な認識では、特殊なものは普遍のうちだけで考察されるが、数学的な認識では普遍を特殊において、それだけでなく個別において考察するのである。ただし数学では、対象を理性によってアプリオリに考察するために、個別的なものを、その〈構成 Konstruktion〉に含まれた特定の普遍的な条件に規定されたものとして考察する。この個別的なものは、その概念に対応する図式の役割をはたすのであって、この概念の対象もまた普遍的に規定されていると考えねばならない。



834 
哲学と数学の違い――形式の違い

 だから[哲学的な認識と数学的な認識という]これらの二種類の理性認識の本質的な違いは、形式における違いであって、その実質が違うわけでも、対象が違うわけでもない。ときに、哲学の客体はたんなる
性質〔Qualität:質〕であり、数学の客体は量であると、[客体の違いによって]哲学を数学と区別しようとする人がいるが、それは結果[にすぎないもの]を原因と考えてしまったための間違いである。
 
数学的な認識の形式のために、数学は量だけにかかわることができると考えられるようになったのである。というのは、構成することができるのは、すなわち直観のうちでアプリオリに示すことができるのは、量の概念だけだからである。これにたいして性質Qualitätenは、経験的な直観としてしか示すことができない。だから性質の理性的な認識は、[構成ではなく]概念によってしか示すことができない。いかなる人も、実在性の概念に対応する直観は、経験のうちからしか取りだすことはできないのであり、自分のうちからアプリオリに取りだすことはできず、このような経験的な意識に先だって、この直観にかかわることはできないのである。
  わたしたちは円錐形を、いかなる経験の手助けもなしに、概念だけにしたがって直観することができる。しかしこの円錐の色彩は、あれこれの経験によって前もって与えられていなければならない。またわたしが経験によって獲得した実例に頼らずに、原因一般の概念を直観において示すことは決してできないのである、などなど。
  また哲学は数学と同じように、量を考察することもある。たとえば全体性や無限などの概念は量を扱う概念である。さらに数学で[量ではなく性質を扱うことがある。たとえば] さまざまな性質Qualitätをもつ空間的な要素としての線と平面の違いを考察したり、
空間の性質Qualitätとしての拡がりの連続について考察したりすることもある。このような場合には数学と哲学は同じ種類の対象を考察するのであるが、理性がこれらの対象を取りあつかう方法は、哲学的な考察と数学的な考察ではまったく異なるのである。
  哲学的な考察はたんに普遍的な概念だけにかかわるが、数学的な考察は、たんなる概念だけではまったく作業を進めることができず、ただちに直観に助けを求める。数学は直観において概念を具体的に考察するが、経験的に考察するのではなく、数学においてアプリオリに描きだした形で、すなわちアプリオリに構成された直観において考察するのである。こうした直観においては、構成の普遍的な条件によって定められたものが、構成された概念の客体についても普遍的に妥当しなければならない。



835 
哲学のやり方と数学のやり方――三角形の実例

 哲学者に三角形の概念を与えてみよう。そして三角形の内角の和が直角とどのような関係にあるか、哲学の方法で調べさせてみよう。その場合に哲学者がもっているのは、三つの直線によって囲まれた図形という概念と、この図形のもつ三つの内角という概念だけである。哲学者がどれほど時間をかけてこれらの概念と取りくんだとしても、そこから何も新しいものを取りだすことはできないだろう。たしかに直線、内角、三という概念を分析して、それらの概念を明確にすることはできるだろうが、これらの概念のうちに含まれていない性質を発見することは、どうしてもできないのである。

 
ところがこの問題を幾何学者に与えてみよう。幾何学者はまず三角形を〈構成する〉ことから始める。そして一つの直線のある点から何本の直線を引いたとしても、その接する角度の合計は二直角になることを知っているので、三角形の一つの辺を延長してみる。この直線において接する[三角形の内角と外角の]二つの角度の合計は、二直角になる。次にこの内角の点から、三角形の対辺に平行な直線を引いてみると、[外角が二つの角に分割されることになる。] この二つの外角はそれぞれが、他の二つの内角の一つと等しいのである、などなど。このように幾何学者はつねに直観に導かれながら、推論の連鎖を構築する。そしてこの問題を完全に明白に、そして普遍的に解いてみせるのである。



836 
代数学の方法

 ところで数学は、たんに幾何学の場合のように外延量〔bloß Größen (quanta)〕を構成するだけでなく、代数学の場合のように、内包量〔bloße Größe (quantitatem)〕も構成する。代数学ではこうした内包量の概念にしたがって考察すべき対象の、あらゆる性質〔Beschaffenheit〕を無視する〔abstrahiert 度外視する 〕のである。そして量一般(数)のすべての構成を示す記号を採用する。すなわち加算、減算、累乗根を求める操作を示す記号などである。そして量の普遍的な概念を、量のさまざまな関係によって記号化した後に、量によって作りだされ、変化させられるすべての処理を、ある種の普遍的な規則にしたがって、直観において描きだすのである。たとえばある量を別の量で割る場合には、これら二つの量を表示する記号を、除法を示す形式で結びつける、など。このように記号を使った構成の方法を利用することで代教学は、対象そのものを現示的に〔ostentativ : 明白に、あからさまに〕そして幾何学的に構成する幾何学と同じように、たんなる概念だけを使って推論による認識を利用する哲学には実現できないような成果をあげることができる。



837 
数学におけるアプリオリな総合命題の構成

 このように、哲学者は概念を利用する道をたどり、数学者は直観を利用し、直観をアプリオリに概念に対応させる道をたどる。どちらも理性の技術者でありながら、このような違いが生まれるのはどうしてなのだろうか。これまで検討してきた超越論的な原理論によれば、その理由は明らかである。ここで問われているのは、概念を分析するだけで生みだすことのできる分析命題ではなく(分析命題においては、哲学者は数学者よりも有利な立場に立つのは明らかである)、総合命題であり、しかもアプリオリに認識すべき総合命題である。

 すなわちわたしは [分析命題の場合のように] 三角形の概念において実際に考えられているものだけに注目していてはならない(そうしたものはたんなる定義にすぎない)。むしろこの概念を超えて外にでて、この概念のうちに含まれてはいないが、それでもこの概念に属する特性に到達する必要があるのである。しかしそのためにはわたしは、この対象を経験的な直観の条件によって規定するか、純粋な直観の条件によって規定するか、そのどちらかの方法を採用しなければならない。経験的な直観の条件によって対象を規定した場合には、([たとえば] 一つの三角形の角度を実際に測定して)経験的な命題を示すことができるだけであり、このような命題は普遍性をもたず、必然性も含まないのであり、ここではまったく問題にならない。
純粋な直観の条件によって対象を規定するのが数学の構成の方法であり、ここでは幾何学的な構成の方法である。この構成の方法においてわたしは、経験的な直観の場合と同じように純粋な直観において、三角形一般の図式に属する多様性を、すなわち三角形という概念に属する多様性を定立する。このような方法で、普遍的で総合的な命題を構成する必要がある。



838 
数学的な考察の課題

 だから三角形について哲学的に思考すること、すなわち論証的に思考することは、無益なことなのである。こうした思考によっては、せいぜい定義に到達することしかできないが、それでも哲学的な思考はこうした定義から始めなければならないのである。たしかに [哲学の分野には] 超越論的な総合というものがあって、これは概念だけから始めるものであり、哲学者だけが遂行できる作業である。しかしこれは物一般だけにかかわるものであって、物の知覚がどのような条件のもとで、可能的な経験に属しうるかを示すだけである。
 しかし
数学の課題は、このような条件を考察するものではないし、[物の] 現存についてもまったく問題としない。数学では対象に特有の性質が、その対象の概念と結びついているかぎりで、対象そのものにおけるこうした特性を問うのである。

Aber in den mathematischen Aufgaben ist hiervon und überhaupt von der Existenz gar nicht die Frage問題, sondern von den Eigenschaften特性 der Gegenstände an sich selbst, lediglich sofern diese mit dem Begriffe 概念derselben verbunden sind.



839 理性使用の違いについての二つの問い

 ここまで示してきた実例から、概念にしたがって論証的に思考する理性使用 [である哲学] と、概念を構成しながら直観によって作業を行う理性使用 [である数学]とのあいだには、大きな違いがあることが明らかになってきた。ここで当然ながら問題となるのは、理性の使用にこのような二種類の使用方法が必然的に存在するのはどうしてなのかということであり、さらには第一の [哲学的な] 理性使用だけが行われるべき場合と、第二の[数学的な] 理性使用もまた行われるべき場合を決定するのは、どのような条件なのかということである。

840 
哲学と数学において直観が占める役割

 人間のすべての認識は、究極のところは可能的な直観にかかわるものである。対象がわたしたちに与えられるのは、直観だけだからである。ところで経験的でないアプリオリな概念は、[数学の場合のように]すでに純粋な直観を含んでいて、この直観から構成することができるか、あるいは[哲学の場合のように] アプリオリには与えられていない可能的な直観の総合しか含んでいないかのどちらかである。この第二の場合には、アプリオリな概念によって総合的に、そしてアプリオリに判断することはできるが、ぞれは概念にしたがって論証によって判断できるだけであり、[数学の場合のように] 概念を構成し、それを直観することでは、決して判断できないのである。
・・・以下、中略・・・



852 
表示的な証明について・・・

 第三に、表示的な証明について。必然的な証明は、それが直観的なものである場合には、表示的な証明デモンストラツィオーンDemonstrationと呼ばれる。経験は、あるものがどのようなものであるかを教えてくれるが、それがほかの形では存在しえないこと[すなわちその必然性]を示してくれるわけではない。だから経験的な証明根拠は、必然的な証明を作りだすことはできないのである。また論証的な認識におけるアプリオリな概念からは、その他の点では判断が必然的に確実なものであったとしても、直観的な確実さ、すなわち自明性をもたらすことは決してありえない。表示的な証明をもたらすことができるのは数学だけである。
数学は概念からではなく、概念の構成Konstruktionから、すなわち概念に対応してアプリオリに与えられることのできる直観から、認識を引きだすからである。

 
方程式をもちいる代数学の手続きVerfahren der Algeberは、方程式を約分Reduktionすることによって証明とともに真理を取りだすものであって、これは幾何学的な構成ではないが、記号による構成であり、概念の記号において、量の相対的な関係を直観できるように示すのである。この方法では発見的な方法によらなくても、すべての推論は誤謬を免れていて、誤謬はすぐに明らかになる。これにたいして哲学の認識には、このような利点は存在しない。哲学では普遍的なものはつねに概念によって、〈抽象的に〉考察しなければならない。しかし数学は普遍的なものを個別の直観のうちで〈具体的に〉、純粋な〈像〉によってアプリオに考察することができるのであり、誤謬を犯した場合にはすぐに明らかになる。だからわたしは、たんに言葉だけで、すなわち思考のうちの対象だけで証明を進めようとする哲学的な方法を、論述的な(diskursive論証的な)証明Beweiseと名づけたい。これにたいして[数学の]表示的な証明は、その名称〔Ausdruck (事柄を言い表わす)言葉〕から明らかなように、対象の直観を表示することで証明を進めるのである。

  (編集部注:名称〔Ausdruck :表現、(事柄を言い表わす)言葉〕
  〔『資本論』では、この「名称〔Ausdruck〕」について、次のような用法があります。
 Der Tauschwert kann überhaupt nur die Ausdrucksweise, die "Erscheinungsform" eines von ihm unterscheidbaren Gehalts sein.
 
岩波・向坂訳:交換価値はそもそもただそれと区別さるべき内在物の 表現方式〔Ausdrucksweise:表現の仕方〕、すなわち、その「現象形態〔"Erscheinungsform":現象の形式・型〕」でありうるにすぎない。
 
日経BP・中山訳:交換価値はそもそもある内容 [価値] の「現象形態」であり、交換価値が表現する内容は、交換価値とは違うものである。 (『資本論』第1章第1節第6段落)
 *編集部では、
翻訳問題の『資本論』第2版1-6において、別の角度からの探究を行っています。〕



853 
哲学と数学の連帯の夢
 これらのすべての考察から明らかになることがある。哲学の営みにおいて、独断論的な進め方dogmatischen Gangeを誇ったり、数学的な方法という称号や飾り帯で身を飾ったりすることは、哲学としての性格にふさわしぐないこと、とくに純粋理性の領域においてはふさわしくないことである。哲学は数学と〈姉妹関係〉を結ぶことを望むだけの十分な理由はあるものの、哲学は数学の〈仲間〉となるものではない、哲学が数学と仲間になることは、決して実現できない越権的な試みであり、哲学の意図するものを妨げざるをえない。哲学が意図するのは、ほんらいの領域の限界を誤認しようとする理性の幻惑をきだし、わたしたちの概念を十分に明らかにして、思索の自惚れを捨てさせて、控え目ではあっても根本的な自己認識に引き戻すことにある。
 だから理性はその超越論的な試みにおいては、これまで歩んできた道が、目指す目的地にまで一直線に進んでいるかのように、確信をもって目標を遠く眺めやることはできないし、これまで土台としてきた前提をそのまま堂々と信頼することもできない。
理性はしばしば背後を振り返り、推論の途上においてヽ原理のうちの誤りを見過ごしてきたのではないか、こうした原理を新たに規定し直すか、まったく変更する必要があるのではないかと、十分に注意を払う必要があるのである。
  ・・・以下、省略・・・