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 <コラム25>アシモス「生物学の歴史」 2019.04.27

     
生物学の誕生と化学ー・・・


 
   アシモス選集 生物篇 『生物学小史』 共立出版 1969年発行
    (2014年『生物学の歴史』 講談社)

 (資本論ワールド編集部 まえがき

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 1. 気体と生物 -生命過程の機械論
 2. 有機化合物と生物学
 3. 有機物の構成素材
 4. 細胞ー組織と胚


  アシモスの「生物学の歴史」 第5章化合物と細胞は、18世紀から19世紀にかけて中核概念が生成し、現代の生命科学へと成長してゆくための土台が形成されました。
 (1)消化は化学的な過程であり、生命における化学の役目が有効に示された
 (2)生命とさまざまな気体との関係が探求された
 (3)有機物から炭素化合物の化学へ
 (4)有機物の構成素材と有機化学の発展
 (5)細胞科学と原形質の成立

  短い論文ですが、科学概念ー生命過程と化学分析ーの形成過程を克明に学ぶことができる力作となっています。『資本論』の科学史ハンドブックの最初に参考されるよう、期待しています。
 なお、
17世紀「デカルトと機械論の展開と併用して、科学史の世界を散策することで西洋の伝統の醍醐味を堪能されるものと祈念しています。




   
第5章 化合物と細胞

 
気体と生物 ・・・生命過程の機械論・・・

1. 種がうまく分類されている間に、生命の科学は新しい非常に実りの多い方向へ広がっていった。化学の研究で大きな変革がおこり、化学者たちは自分たちの技術を無生物系と同様に生物にも適用し始めた。こうするのが当然であるのは、消化についての初期の研究で明らかに示された。
 消化は比較的研究しやすい動物体の一つの機能である。消化はからだの組織そのものの中ではなく、外界に開いている消化管の中でおこり、消化管は口から到達できる。17世紀には、消化とは胃のすりつぶし運動のような物理的な過程なのか、あるいは胃液の発酵作用のような化学的な過程なのかが重大な疑問であった。
 フランスの物理学者、レオミュール(1683-1757年)は、これを調べる方法を考えた。1752年に、彼は両側が開いた小さな金属の筒(その両側は金網でおおわれた)に肉を入れ、それをタカにのみこませた。金属の筒は肉がすりつぶされるのを防ぎ、一方金網によって肉が筒の外へ出ることなしに胃液が中に入りこむようになっている。タカは一般に消化できないものを吐き出す。そしてレオミュールの夕カが金属の筒を吐き出したとき、内部の肉は一部分とけていた。
 次にレオミュールは、タカにスポンジをのみこませ、吐き出させてチェックした。スポンジにしみこんだ胃液をしぼり出し、肉とまぜた。肉はゆっくりとけ、論争は終わった。
消化は化学的な過程であり、生命における化学の役目が有効に示された。


2. 18世紀には、ヘルモントにより始められた気体の研究が、特に急速に進み、一つの魅力的な研究分野となった。生命とさまざまな気体との関係が探究されたのは当然のことであった。イギリスの植物学者で化学者のヘールズ(1677-1761年)はその探究者の一人である。彼は1727年に本を出版し、その中で植物の生長速度と樹液の圧力を測定した実験について述べている。そのため、彼は植物生理学の創始者と考えられている。彼はまたさまざまの気体について実験し、それらの一つである二酸化炭素が植物の栄養に何らかの貢献をしていることを認めた最初の一人であった。この点で、水だけから植物の組織がつくられるというヘルモントの見解を訂正した(あるいはむしろ拡張した)。

 次の発展は、半世紀後に
イギリスの化学者プリーストリ(Joseph Priestley 1733-1804)によりなされた。1774年に、彼はわれわれが酸素とよぶ気体を発見した。彼はそれは心地よく呼吸できるもので、ハツカネズミは酸素を入れたガラス鐘の中に入れられると、特にはねまわることをみつけた。彼はさらに植物が空中の酸素量を増加する事実も知った。オランダの医師インゲンホウス(Jan Ingenhousz 1730-99年)は、植物が二酸化炭素を消費して酸素をつくり出す反応は、光があるときにのみ生じることを示した。

 その時代の最大の化学者は、フランス人のラボアジェ(Antoine Laurent Lavoisier 1743-94年)である。彼は化学における正確な測定の重要さを強調し、それを現在でも真実として受け入れられている燃焼説の展開に利用した。この説によれば、燃焼は燃焼する物質と空中の酸素の化学的結合の結果である。彼はまた空気は酸素のほかに燃焼を助けない気体である窒素も含んでいることを示した。
  
ラボアジエの“新しい化学”は生命をもった物にも適用される。ある点でろうそくにあてはまることは、(ハツカネズミにも同じようにあてはまる。ろうそくが密閉されたガラス鐘の中で燃えると、酸素が消費され、二酸化炭素がつくられる。後者はろうそくの成分中に含まれる炭素が酸素と結合してできる。ガラス鐘の中の空気に含まれる酸素のすべてまたはほとんどすべてが消費されると、ろうそくは消え、もはや燃焼しなくなる。

 このことは動物の生活についても同様である。ガラス鐘の中のハツカネズミは酸素を消費し、二酸化炭素をつくる。後者は組織の中の炭素が酸素と結合して生じる。空中の酸素の濃度が低くなると、ハツカネズミは呼吸困難になり死ぬ。全体的にみると、植物は二酸化炭素を消費し、酸素をつくり出す。動物は酸素を使い二酸化炭素をつくり出す。植物と動物は共通して化学平衡を維持するのに役立ち、その結果、結局大気中の酸素の濃度(21パーセント)と二酸化炭素の濃度(0.03パーセント)は一定に保たれる。
 ろうそくも動物もともに二酸化炭素を出し、酸素を消費するので、ラボアジエは、呼吸は燃焼の一形式であり、酸素が一定量消費されるとそれに相当する熱量が発生する(ろうそくでもハツカネズミでも)と仮定するのが合理的と考えた。この方面の彼の実験は当然ぞんざいなものであった(当時利用できた測定技術から考えて)。彼が得た結果はおおまかなものであったが、彼の主張を支持していると思われた。

3.  これは機械論的な生命観の側における強力な手柄であった。なぜなら、同じ化学的過程が生物と無生物の両方でおきることを意味するように思われるからである。このことは、機械論者が主張するように、同じ自然法則が生物と無生物両方の世界を支配しているという考えを支持することがより合理的であると思わせた。
 ラボアジエの考え方は、19世紀の前半に物理学が進歩するにつれて強められた。この数十年の間に、熱は蒸気機関の発達によって興味をかきたてられた多くの科学者により研究された。蒸気機関によって、熱は仕事にかえることができる。また、物を落下させたり、水を流したり、空気を動かしたり、光、電気、磁力などのような他の現象に変化させることもできる。1807年に、イギリスの物理学者ヤング(Thomas Young 1773-1829年)は、“
エネルギー ” という語を、それから仕事を得ることができるすべての現象をあらわすことばとして提案した。この語は、“ 中に仕事がある ”(work within)という意味のギリシヤ語に由来している。

4.  19世紀の初めの物理学者は、エネルギーの一つの型を他の型にかえることができる方法を研究した。そして、だんだんそのような変化の精密な測定がなされるようになった。1840年代までに少なくとも3人の人々、イギリス人のジュール(James Prescott Joule 1818-89年)、2人のドイツ人のマイアー(Julius Robert von Meyer 1814-78年}およびヘルムホルツ(Hermann Ludwig Ferdinand von Helmholtz 1821-94年)が、“ エネルギー転換 ”の考えを進歩させた。この考えによれば、エネルギーの一つの型は自由に他の型に変化できるが、その過程中でエネルギーの総量は減少も増加もしない。
 いろいろな種類の厳密な測定にもとづいてつくられたそのような広い一般的な法則は、無生物と同様に生物にも適用できるのが当然のように思われた。どんな動物も食物から連続的にエネルギーを得ることなしに生存を続けられないという単純な事実は、生命現象が無からエネルギーをつくり出すことはできないように思わせる。植物は動物がするのとまったく同様な方法で食物をとったり、呼吸したりはしないが、一方、光のエネルギーを定期的に受けなければ生存することはできない。
 マイアーは、地球上のさまざまなもののすべてのエネルギー源は、太陽からの光と熱の放射であると明確に述べた。そして、太陽の光と熱はさらに生物を支えているエネルギー源であると述べている。それは植物にとっての直接のエネルギー源であり、植物を通じて動物(もちろん人間も含めて)のエネルギー源である。
 
エネルギー転換の法則は生命のない自然に対すると同様に生命をもつ自然にも厳密に適用され、この非常に重大な点で生命は機械的なものであろうという考えがしだいに成長してきた(そして、それは19世紀の後半に広く示されていた)。


 
 有機化合物と生物学
 ・・・・
5. しかしながら、生気論者の地位はなお強かった。エネルギー転換の法則が無生物と同様に生物にあてはまること、あるいはまた、たき火も生きている動物もともに酸素を消費し二酸化炭素をつくり出すことを認めたにしても、それらは単に全体の限界を示しているにすぎない。-人間も山の頂もともに物質からできているというようなものである。その限界の中には、まだ詳しい点について莫大な疑問が残っている。
 たとえば、生物は物質からできているが、無生物界の物質とはまったく異なった物質の形でつくられているのではなかろうか。この疑問は、ほぼそのとおりと肯定の形で答えられるように思われた。
 上や海や空中に豊富にある物質は、丈夫で、安定していて、変化しない。水は加熱すると沸騰して水蒸気になるが、冷やして液体の水にもどすことができる。鉄や塩は溶かしうるが、もうI度もとの状態へ凝固させることができる。一方、生物から得られた物質-砂糖、紙、オリーブ油-はそれらが由来した生物のもつ微妙さやもろさを受けついでいるように思われる。それらは熱すると、くすぶり、こげ、または炎をあげて燃える。そして、その変化は不可逆的である。紙が燃えてできた煙と灰は、冷やしてもふたたび紙にもどらない。それゆえ、明らかに物質には二つの異なった区分があると考えるのが適当なように思われる。
   ・・・・・・・・
6. スウェーデンの化学者、ベーセリウス(Jöns Jakob Berzelius 1779-1848年)は、1807年に、生物(あるいはかつて生物だったもの)から得られた物質を “ 有機物 ” とよび、その他のすべての物質を “ 無機物 ”とよぶことを提案した。彼は有機物を無機物に変化させることはたいへんたやすいが、その逆は生命のはたらきを通してでなければ不可能であると考えた。無機物から有機物をつくり出すには、生きている組織内にのみ存在するある生命力が介入しなければならない。
 しかし、この考えは長く続かなかった。1828年に
ドイツの化学者ウェーラー(Friedrich Wöhler 1800-82年)は、シアン化合物とその関連化合物を研究していた。それらは無機物とみなされていた。彼はシアン化アンモニウムを熱した。そして、驚いたことに、調べてみて尿素であることがわかった結晶を得た。尿素は哺乳類の尿のおもな固体成分で、明らかに有機物であった。

    〔 有機物から炭素化合物の化学”〕

7. ウェーラーの発見は、他の化学者たちが無機物から有機物を合成する問題にとりくむことをさかんにし、すみやかな成功が続いた。フランスの化学者ベルテロ(Pierre Eugène Marcelin Berhelot 1827-1907年)の研究によって、無機物と有機物の間に考えられていた壁は完全にくずれ去ったことが疑いなくなった。1850年代に、ベルテロは、メチルアルコール、エチルアルコール、メタン、ベンゼン、アセチレンのようなよく知られた有機化合物を、明らかに無機の化合物から合成した。
  19世紀の初めの二、三十年間における、適当な分析技術の発達によって、化学者たちは有機化合物がおもに炭素、水素、酸素および窒素からつくられていることを見出した。まもなく、彼らは、これらの物質をいっしょにすることで、生物体内には実際には生じないが有機物の一般的性質をもつ物質をつくり出す方法を知った。

8. 19世紀の後半には、無数の“合成有機化合物”がつくられ、もはや有機化学を生物によりつくり出された化合物を研究する学問であると定義することはできなくなった。なるほど、化学を有機と無機の二つの部分に分けるのはやはり便利であるが、それらはそれぞれ“炭素化合物の化学”と“炭素を含まない化合物の化学”と定義されるようになった。生命はそれと何も関係をもたない。
  しかし、まだ生気論者が引きこもるにはかなりの余地が残っていた。19世紀の化学者たちによりつくられた有機化合物は、比較的簡単なものである。生物の組織内には、非常に複雑で、19世紀の化学者がそれを複製しようと期待できなかった多くの物質が存在する。

 〔“最も重要なもの”という意味のギリシャ語から、“タンパク質”(protein)という語をつくり出した 〕

9. これらの複雑な化合物は、イギリスの医師プラウト(William Prout 1785-1850)が1827年に最初に述べたように、三つの群に分けられる。これらの群は、今日“炭水化物”、“脂質”、“タンパク質”と名づけられている。炭水化物(糖、デンプン、セルロースなど)は、脂質(脂肪、油)と同様に炭素、水素、酸素のみよりなる。しかし、炭水化物は比較的酸素が多く、脂質は酸素が少ない。さらに、炭水化物は初めから水に可溶であるか、あるいは酸のはたらきで簡単に水にとけるようになるが、脂質は水に不溶である。
 タンパク質は、これら三つの群の中で最も複雑な化合物で、最もこわれやすく、みたところ最も生命に特徴的な物質である。タンパク質は、炭素、水素、酸素のほかに窒素、イオウを含み、ふつう水にとけるが、おだやかに熱すると凝固して、水に不溶になる。タンパク質は初めその代表的な例が
ラテン語で“アルブメン”(albumen)とよばれる卵白で見出されていたので、“アルブミン様物質”といわれた。しかし、1837年、オランダの化学者ムルダー(Gerard Johann Mulder 1802-80年)が、アルブミン様物質の重要性を認め、“最も重要なもの”という意味のギリシャ語から、“タンパク質”(protein)という語をつくり出した。
 

   
有機物の構成素材

  
〔 構成素材はすべての種で同じであり、食物の中の複雑な物質は、食べるほうと食べられるほうに共通な構成素材にまでこわされるからである 〕

10. 有機化学の知識の発展は、また進化の概念にも貢献した
 生物のすべての種は、同じ有機物の種類よりなっている。すなわち、炭水化物、脂質およびタンパク質である。なるほど、これらは種によって違っているが、その違いはわずかである。ヤシの木とウシは非常に違った生物であるが、ココナツと牛乳からとれる脂肪は、ごくささいな点で違いがあるだけである。
 さらに、
複雑な構造をもつ炭水化物、脂質およびタンパク質は、消化の過程で比較的単純な“構成素材”(“building blocks”)に分解されることが19世紀の半ばの化学者たちによってしだいに明らかになってきた。構成素材はすべての種で同じであり、ただその組み合わせが細かい点で違っているらしい。一つの生物はさまざまに異なった他の生物を食べることができる(人間がイセエビを食べたり、ウシが草を食べたりするように)。なぜなら、食物の中の複雑な物質は、食べるほうと食べられるほうに共通な構成素材にまでこわされるからである。そして、これらの構成素材は吸収され、それを食べた生物の複雑な物質にふたたび組み立てられる。 

11. 化学的な見方では、すべての生物はその外観が多様であっても、一つのものであるように思われる。もしそうであれば、一つの種から他の種へと進化して変わっていくことは、ささいなことにすぎず、真の根本的な変化を必要としないように思われる。この考え方は、それ自身では進化の概念を確立しはしなかったにしても、進化の考え方の妥当性を増すのに役立った。



 
  細胞ー組織と胚 18世紀~19世紀
  ・・・
12.  この考え方〔前成説〕によれば、すべての生物は、その外観が異なっていても、生命をもった物質の単純な一滴から発生する。そして、すべての生物はその起源が似たものになる。生物は、小さいがすでに特殊化した器官あるいは生物から発達するのではない。
 正しく研究してみると、完全に発達した生物でさえ、それらの外観が異なるほどに違ってはいない。フランス人の医師ビシャー(Marie François Xavier Bichat 1771-1802)は、顕微鏡も使わずに(!)、彼の短い生涯の晩年に、種々の器官が異なった外観のいくつかの構成物からできていることを示した。これらの構成物を彼は、“
組織”と名づけ、そして組織について研究する学問である「組織学」を創設した。それほど多くの異なった組織はないこと(動物において重要な種類は、上皮、結合、筋肉、神経組織である)、異なった種の異なった器官はこれら数種の組織からできていることがわかってきた。一つ一つの組織は、生物全体が異なっているほど種によっての違いはない。

13. さらにもっと進めることができる。この本の前のほうで説明したように、17世紀半ばのフックは、コルクが、彼が細胞と名づけた小さな長方形の室に分かれていることをみつけた。それらは中空であり、コルクは死んだ組織であった。後の研究者たちは、生きているかあるいは最近まで生きていた組織を顕微鏡で観察し、これらもまた小さな壁で隔てられた単位からつくられていることを認めるようになった。
生きている組織では、その単位は中空ではなく、
ゼラチン様の液体でみたされている。この液体は、チェコの生理学者プルキニエ(Johannes Evangelista Purkinje 1787-1869)によりついに名前がつけられた。1839年、彼は卵の中の生きている胚の物質を“原形質”と名づけた。これはギリシヤ語の“最初に形づくられた”という意味の語からきている。ドイツの植物学者モール(Hugo von Mohl 1805-72年)は、翌年この語を、組織一般の中にある物質のよび名とした。生きている組織の仕切られた単位は中空ではないが、フックの“細胞”という語はそれをよぶのにずっと使われている。

14. 細胞はますます一般的に見られるようになり、多くの生物学者たちはそれらが生きた組織内に普遍的に存在しているのであろうと推測した。ドイツの植物学者シュライデン(Matthias Jakob Schleiden 1804-81年)が、すべての植物は細胞からなり、生命の単位は細胞であり、この小さな生きているものからすべての生物がつくられていると主張した1838年に、この考えは具体化した。
 次の年、ドイツの生理学者シュヴァン(Theodor Schwann 1810-82年)は、この考えを拡張し強化した。彼は、すべての動物も、すべての植物と同様に細胞からなり、おのおのの細胞はそれを外界から区切っている膜によって囲まれていると指摘した。そして、ビシャーの述べた組織は特定の種類の細胞からなっていることも指摘した。ふつう、シュライデンとシュヴァンが、“細胞説”の名誉にあずかっているが、多くの人々もまたこれに貢献し、彼らによって細胞学(細胞を研究する学問)が始まった。
 細胞が生命の単位であるという仮説は、一つの細胞が独立して生活でき、生きるために10億も1兆も集まる必要がないことを示すことができれば、特に印象的になるであろう。ある細胞が実際に独立の生活をすることができるということは、ドイツの動物学者、シーボルト(Karl Theodor Ernst von Siebold 1804-85年)により示された。

15. 1845年、シーボルトはレーウェンフックにより最初にみつけられた小動物である原生動物について、くわしく取り扱った比較解剖学の本を出版した。シーボルトは、原生動物は単細胞からなると考えるべきことをはっきりさせた。個々の原生動物は単一の膜で囲まれ、それ自身の中に生活に必要な全機能をもっている。食物を摂取し、消化し、同化し、老廃物を捨てる。環境を感じとり、それにしたがって反応する。成長し、二分してふえる。なるほど、原生動物は、人間のような多細胞生物をつくりあげている細胞よりも一般に大きく、より複雑である。しかし、原生動物の細胞は、独立した生活を可能にするために必要なすべての能力をもつために、そうあらねばならないのである。一方、多細胞生物の個々の細胞は、この機能の多くを捨てる余裕がある。

16. 多細胞生物でさえ、個々の細胞の重要性を示すのに用いることができる。ロシアの生物学者ベーア(Karl Ernst von Baer 1792-1876年)は、1827年にグラーフ濾胞(ろほう)〔オランダの解剖学者グラーフ1641-73年。動物の精巣と卵巣の微細構造を研究し、卵巣のある小さな構造を記載した。〕の中で哺乳類の卵を発見し、次に卵が独立して生活する生物へ発達していくしかたを研究しつづけた。
 次の10年間に、彼はこの問題に関して大きな2巻の教科書をあらわした。こうして、発生学(胚、すなわち発生しつつある卵を研究する学問)を創設した。彼はヴォルフの後成説(その当時はほとんど無視されていた)をより詳しく、より実証された形で復活し、発生中の卵は数層の組織を形成し、それらのおのおのは初めに未分化であるが、そのおのおのからさまざまの分化した器官が発達してくることを示した。これらの最初の層を、彼は、“胚葉”(germ layer-“germ”は生命の種子の中に含まれるすべての小さな対象に対する総称名)と名づけた。
 この胚葉の数は、最終的には3層であることになった。1845年、ドイツの医師レマーク(Robert Remak 1815-65年)は、それらに今日知られている名前をつけた。それぞれ、“外胚葉”(ギリシャ語で、“外側の皮”の意味)、“中胚葉”(“中央の皮”)および“内胚葉”(“内側の皮”)である。
 スイスの生理学者ケリカー(Rudolf Albert von Kölliker 1817-1905年)は、1840年代に、卵と精子はそれぞれ一つの細胞であると指摘した(後にドイツの動物学者、ゲーゲンバウル(1826-1903)は、鳥類の大きな卵すら単一の細胞であることを示した)。精子と卵は融合して、“受精卵”となる。これもやはり一つの細胞であることをケリカーは示した(この融合すなわち“受精”は胚の発生を開始させる。生物学者たちは、19世紀の半ばまでに、この過程がおこることをすでに仮定し、この仮説を支持する多くの観察がその前の何十年かになされていたが、スイスの動物学者フォル(1845-92年) がヒトデの卵が精子によって受精されるのを目撃した1879年までは、実際にくわしく記述されていなかった)。
 1861年までに、ケリカーは発生学の教科書を出版し、その中でベーアの研究は細胞説の立場でふたたび説明されている。すべての多細胞生物は受精卵という単一の細胞から出発する。受精卵が分裂を繰り返すので、でき上がった細胞はもとのものとあまり違いはない。しかしながら、それらは成体の複雑にからみあった構造がつくられるまでゆっくりと、異なった方向に、特殊化していく。これが、細胞のことばで述べた後成説である。・・・中略・・・

17. いくつかの異なった分野-比較解剖学、古生物学、生化学、組織学、細胞学および発生学-からのすべての合図は、初めはささやき声であったが、19世紀の半ばになると ある種の進化的な考え方が必要であるとの叫びになった。進化に対してある満足を与えるしくみが存在すべきであった。

 ・・・以下、省略・・・