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 貨幣が滅ぶとき    (インタビュー)  

     ピケティと現代シリーズ 2
                                   ◆浜教授の黒田日銀批判 

      

                   朝日新聞2016年4月8日より
 中央銀行の不遜
 

   金融政策だけで 人びとの心は操れぬ


        早稲田大学大学院教授 
岩村 充(いわむら みつる)さん
               1950年生まれ。日本銀行を経て98年から現職。
      近著に「中央銀行が終わる日――ビットコインと通貨の入門の未来」

 
先進国の中央銀行は近年、大量のお金を市場に流す超金融緩和でインフレをめざし、通貨安を競ってきた。自国通貨の価値を自ら減ずるそれは目先の景気対策として意味があっても、どこか倒錯した試みのように映る。際限なき金融緩和が「貨幣」や「中央銀行」を滅ぼすことはないか。
金融史に詳しい岩村充さんが読み解く。


――先進国の中央銀行はどこも適度なインフレ経済をめざして猛烈な金融緩和をしてきました。しかし大きな効果は出ていません。まるで低成長と低金利のワナに、はまってしまったかのようです。
 
「大きな成長の波を享受できた20世紀後半は、歴史的にもまれな成長材料に恵まれた幸運な時代だったと言えます。その高成長とセットで始まったのが慢性的なインフレでした。そうした大きな成長の材料が尽きれば、世界が低成長とデフレの時代に戻るのは普通にありうる話です」
 「現代の産業社会につながる成長が始まったのは、19世紀の英国でした。その成長の始まりとともに不足してきた金貨を補うための仕掛けが、紙幣を発行する中央銀行でした。当時の英国の物価は、持続的な下落とも言うべき状況でした。物価が上がれば好況、下がれば不況というのは、短い歴史経験にもとづく短絡的な理解です」


――黒田東彦(はるひこ)総裁率いる日本銀行は、金融政策で人びとにインフレ期待を抱かせることにこだわり、いまも緩和を続けています。


 「日銀が人の心の中まで操縦できるわけがないし、やるべきでもありません。中央銀行が自在に人々の心を操れると思うのは不遜です。人々の心と物価水準とがどう影響し合っているのかだって、仮設を述べることはできても実証はできていません。経済学ではまだ解明できていない課題なのです」


――金融政策では必ずしも物価は引き上げられないのですか。

 「そうです。それに日銀があおるインフレ期待そのものに消費抑制効果があることも忘れてはいけない。1970年代の石油危機で分かったのは、物価の値上がりが予想されれば、所得が実質的に下がるのを警戒する人々が買い控えに動くことです。2%の消費税引き上げをためらっている政府が、2%のインフレ目標で景気拡大をめざすのは何ともチグハグです」

――日米欧の中央銀行は利下げの果てにゼロ金利に突き当たり、苦し紛れに量的緩和のような非伝統的手段に乗り出しました。その試みは逆効果だったのですか。

「非伝統的な金融政策で得られたのは、株高など資産価格の上昇ぐらいでしょう。米国ではもともと上位0.1%の金持ちの資産は下位6割のそれに匹敵するといわれます。そうした格差の問題に目をつぶって景気に気を取られているから大衆の不満が爆発し、大統領選でトランプ現象やサンダース旋風が起こったのでしょう」
 「実はその米国より、バブル崩壊後の日本の方がはるかに厳しい問題に直面しています。中産階級の所得下落です。日本では景気が悪かったからそれを『間違った金融政策』のせいにしてこられたのですが、いくら日銀総裁のクビをすげ替えても事態が良くならないということになったら、金融政策なんかいらないという声が広がってくるのは時間の問題です」
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――金融緩和の限界説に対し、日銀は「まだまだやれることがある」と、マイナス金利政策まで打ち出しました。その評価は。

 「日銀のやり方は失敗でした。黒田総裁は、マネーの供給さえ増やせば人々がインフレを予想して消費に動くはずだと、3年間、量的緩和を続けてきました。これに対しマイナス金利は、インフレ期待が簡単には起きないことを前提にして、何とか金融政策の有効性を維持しようとする政策手段です。矛盾していて、日銀がいったい何をやりたいのかさっぱり分かりません」

――預金して損してしまうならみな現金で持つようになります。マイナス金利の手法そのものが選択肢になり得るものでしょうか。

 「預金ではなく貨幣そのものにマイナス金利がかけられるなら、デフレ期待が広がる世の中に適した金融政策として選択肢になります。例えば戦前のドイツの思想家シルビオ・ゲゼルが提案したスタンプ付き紙幣は、一定期間が過ぎたらスタンプを買って貼らないと使えなくなる。これならタンス預金に逃げられない。妙案ですが、手間がかかるので実用化されなかった。現代ならICカードやフィンテック(金融と技術を合わせた造語)を活用したデジタルの世界で簡単に実用化できるでしょう」

――マイナス金利政策は自国の通貨安を促す政策でもあります。ところが日銀の導入後むしろ円高が進みました。世界経済悪化の影響で円が「安全通貨」と見なされたからです。日本は先進国で最悪の財政状態なのに、不思議です。


 「効果がないことを自ら実証してしまった金融政策より、日本政府の強い徴税力に金融市場の注目が集まったのでしょう。徴税力とは消費増税ができるかどうかという政治的な力のことではありません。増税したらどれだけの国民が逃げるかという問題です。日本は島国で、温暖で暮らしやすい。さらに日本人は外国語が苦手。だから増税しても簡単に海外に逃げ出さない。ところが世界には少し増税しただけで国民がどっと逃げ出す国もある。日本でこれだけ消費増税への反対世論が強いのは、多くの日本人が増税されても外国に逃げられないからでしょうね」
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――3年前、キプロスで通貨危機が起きた時、仮想通貨ビットコインで国外にお金を持ち出す人が現れました。日本でも同じ現象が起きる可能性がありませんか。

 「キプロス危機で、国境を越えて相当の資金を動かせるビットコインの存在が知られました。米国ではマイクロソフトなどの有力IT企業が決済に採用して普及しつつあります。日銀がマイナス金利のように貨幣価値を減ずる政策を採り続けるなら、円を信用できなくなった人たちがビットコインに流れてもおかしくありません」

――ただ、2年前にビットコイン取引の世界最大手マウント・ゴックス社が盗難などの問題で破綻(はたん)したのを見ると、仮想通貨はどこか危なっかしい感じもします。

「盗まれたら取り返せない。それが一人前の貨幣の証拠です。盗まれても政府が救済してくれる通貨は、逆に政府が突然台無しにもできる。仮想通貨は政府や中央銀行の手が及ばないのがいいところです。価格は急騰もするし、急落もする。危なくもあり、安心でもある点は金や銀に似ています」
 「紙幣の発行コストは要するに印刷費だけ。いくらでも発行できるのです。それに比べ、金は採掘量に制約され、採掘コストもかかる。だから金に価値があると見なされるのです。ビットコインも同じ。発行量を政府や中央銀行が恣意(しい)的に増やせない。発行するのに電気代がすごくかかる。ネットワーク上にたくさんあるビットコイン取引の正当性を保証するのに、コンピューターを使った大量の計算作業が必要だからです。新たなビットコインを生むのは金の採掘のように大変なのでマイニング(採掘)と呼ばれています」

――将来、ビットコインが円やドルに取って代わる可能性は。

 「そこまではいかなくても、将来は仮想空間でデジタル化された銀行券が多くの仮想通貨とともに使われるかもしれません。そうやって貨幣に選択肢が生まれるのはいいことです。いまは円やドルが信用できなくなっても、国民には逃げ場がないのですから」
 「自由を標榜(ひょうぼう)し続けた経済学者として知られるハイエクは世界が高インフレに悩んでいた時代に、通貨を国家のコントロール下に置くな、と主張しました。民間銀行がそれぞれ貨幣を発行し、通貨価値を競い合えば通貨への信認を回復できると考えたのです。彼の主張は結局、民間銀行の競争ではなく、各国中央銀行の間の競争として実現しました。それが変動相場制です。そして世界のインフレは見事に終息したわけです」
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――複数の貨幣が競い合うような未来になれば、中央銀行の存在価値は失われるのでしょうか。
 
「役割は残ると思います。教科書的には、『価値尺度』の提供というのですが、モノやサービスの価値を測る基準を人びとに提供する仕事です。政府に都合良く無理やりインフレ期待をあおるのではなく、人々の自然な期待にあわせて基盤を作る金融政策です。エリートが世界を指導するモデルではなく、エリートが世界に奉仕するモデルと言ってもいい。景気浮揚にばかり気を取られている今の金融政策では、未来はありません」


取材を終えて
 「成長」と「インフレ」は経済社会にあらかじめ内蔵された、市場の特質のようなものだと長らく思い込んできた。もしそうでないとしたら――? 両者のお陰で誕生した中央銀行が、それらを取り戻すために奮闘している。いったい誰のためなのか。なるほど異次元緩和の見え方も少し変わってくる。 (論説委員・原真人)