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『経済学批判』第1章 交換価値 に関する分析・抄録

 
    *注:()内の数字は、段落番号を示す
                   
→ 『使用価値』に関する分析・抄録


   『経済学批判』 第1章 商品


 ■ 目 次
  1. 
社会的労働の物質化
  2. 使用価値の相関的な量が「 等価 Äquivalent 」である
  3. 量的な労働の整約は抽象として現われる
  4. 価値を生む労働の条件・・・社会性の特殊な
  5. 個人の労働時間が一般的〔普遍的〕労働時間で現れる
  6. 交換価値は個人労働の一般的等価の社会的形態
  7. 交換価値は使用価値の社会的な性質規定性
  8. 
いまもし商品体の使用価値を無視するとすれば、・・・” 
  9. 社会的分業の二重性としての交換価値と使用価値



   
<使用価値>と*交換価値*

1.(1)  市民(ブルジョワ)社会の富は、一見して、巨大な商品集積であり、個々の商品はこの富の成素的存在であることを示している。しかして、
商品は、おのおの、<使用価値>と*交換価値*という二重の観点で現われる

2.(3)  直接的には、
<使用価値>は、特定の経済関係、すなわち*交換価値*が表われる素材的な基礎である。

3.(4)  
*交換価値*は、まず第一に、<使用価値>が相互に交換される量的な比率であることを示している。 この比率においては、これらの<使用価値>は、同じ交換の大いさである。それで、プロペルシウス詩集一巻と 8オンスの嗅ぎ煙草とは、煙草と悲情の詩という異なった<使用価値>にもかかわらず、同一の*交換価値*であってよいわけである。*交換価値*としては、一つの<使用価値>は、他の<使用価値>に対して、もし両者が正しい割合にありさえすれば、ちょうど同じ値である。大邸宅一つの*交換価値*は、靴墨罐の一定数で表わすことができる。ロンドンの靴墨製造業者は、逆に彼らの莫大な靴墨罐の*交換価値*を、大邸宅で表わした。したがって、それらのものの自然的な存在様式とは全く無関係に、またそれらのものを<使用価値>たらしめる欲望の特殊な性質をば少しも顧慮する所なく、商品は、一定の分量で等置され、交換されてお互を置き換え、等価物として通用し、このようにしてその雑多な外観にもかかわらず、同一の等一物であることを示す。


4.(5)  社会的労働の物質化として、すべての商品は同じ等一物の結晶である。この等一物、すなわち、*交換価値*に表わされている労働の一定の性格、これをいま考察しようというのである。

  5. 使用価値が 「等価物:Äquivalent」 としては・・・

  (6)
 1オンスの金、1トンの鉄、1クォーターの小麦及び20エルレの絹が、大いさを等しくする*交換価値*であるとしよう。これらの<使用価値>は、その質的相違が消えているこのような等価物Äquivalentとしては、同一労働の等しい量を表わしている。これらのものに均等に対象化されている労働は、それ自身一様で、無差別の単純な労働でなければならない。

6. (6) 金を採掘し、鉄を鉱山から搬出し、小麦を栽培し、絹を織るということは、質的にはお互にちがった労働の種類である。実際上、物的に<使用価値>の相違となっているものは、過程的には、<使用価値>をつくり出している活動の相違として現われる。したがって、
*交換価値*を生む労働は、<使用価値>の特別な素材とは何の関係もない労働であるから、労働そのものの特別の形態に対しても無関係である。


7. 「
等価」であるとすれば・・・
 (7)  1オンスの金、1トンの鉄、1クォーターの小麦及び20エルレの絹が、同じ大いさの*交換価値*または
等価であるとすれば、1オンスの金、2分の1トンの鉄、3ブシェルの小麦及び5エルレの絹は、全くちがった大いさの*交換価値*である。そしてこの量的な相違ということは、これらのものがそもそも*交換価値*として示すことのできる唯一の相違である。これらのものは、ちがった大いさの*交換価値*としては、*交換価値*の実体をなしているかの単純な、一様の、抽象的で一般的な労働の大小、すなわち、その量が大きいか小さいかを示している

 これらの定量をどうして測るかが問題となる。あるいはむしろかの労働そのものの量的な正体(Dasein ダーザイン)はどういうものであるかが問題となる。というのは、
商品の*交換価値*としての大いさの相違は、ただこれらの商品に対象化されている労働の大いさの相違にすぎないからである。運動の量的な正体(ダーザイン)が時間であるように、労働の量的な正体(ダーザイン)は労働時間である。労働そのものの継続のちがい(差別Verschiedenheit)が、労働の質を与えられたものと前提すれば、可能な唯一の相違(区別 Unterschied)である。労働は、労働時間としては、自然的な時間標準である。

8. 使用価値の相関的な量が「等価」である

  (7) それは、同時に
内在的な基準をもった、労働の量としての生きた正体(ダーザイン)である。
 同時にその商品の<使用価値>に対象化されている
労働時間は、これらの<使用価値>を*交換価値*とししたがって商品とする実体であると同時に、またそれらのものの定められた価値の大いさを測るものでもある。同一労働時間が対象化されているちがった<使用価値>の相関的な量が等価である。
 あるいはすべての<使用価値>は、同一の労働時間がついやされ、対象化されている割合に応じて
等価である。*交換価値*としては、すべての商品は、膠結した〔ゲル化した〕労働時間の一定の量であるにすぎない。


  9. 
労働時間による交換価値の規


 (8) *交換価値*の労働時間による規定を理解するためには、次の主要な観点をしっかり理解しておかねばならない。すなわち、労働を単純な、いわば質の差のない労働に整約すること。*交換価値*を生む、したがって商品を生産する労働を、社会的労働となしている特殊な仕方。最後に、<使用価値>という結果を生む労働と、
*交換価値*という結果を生む労働との相違。商品の*交換価値*を商品に含まれている労働時間で測るためには、さまざまな労働自身が、無差別の、一様な、単純な労働に、簡単にいえば、質的に同一であり、したがってただ量的にのみ区別される労働に整約されていなければならない。

  
*単純労働について ・・・・ レーニン『マルクスの経済学説』 「価値」 参照

  10. 
量的な労働の整約は抽象として現われる

 (9) この
整約は抽象として現われる。しかし、それは、社会的生産過程において毎日行われている抽象である。・・・このように時間によって測られる労働は、実際には様々な主体の労働として現われるのではなく、むしろ労働する様々な個人が、同じ労働の単なる器官として現われる。あるいは、*交換価値*に表われる労働は、一般に人間的な労働という言葉で表わされえよう。この一般的に人間的な労働の抽象は、一定の与えられた社会の各平均的な個人が行いうる平均労働として存在している。


11. (9)
単純労働は、いろいろな統計から人のよく知ることができるように、市民(ブルジョア)社会のすべての労働の圧倒的多数をしめている。・・・・例えば、1複雑労働日は3単純労働日に等しいというようになる。・・・しかし、この整約が行われるということは、明瞭である。何故かというに、複雑労働の生産物は、*交換価値*としては、一定の割合で単純なる平均労働の生産物に対して等価をなし、したがって、この単純労働の一定量に等しいとおかれているからである。

12. (10)
労働時間による*交換価値*の規定は、更に次のことを含んでいる。すなわち、一定の商品、例えば、1トンの鉄には、それがAの労働であるかBの労働であるかにかかわりなく、同量の労働が対象化されている、あるいはちがった個人が、質的にも量的にも一定した同一<使用価値>の生産のために、同じ大いさの労働時間を用いている、ということである。他の言葉でいえば、一つ商品の中に含まれている労働時間は、その生産のために必要な労働時間であるということ、すなわち、与えられた一般的な生産諸条件のもとで同一商品を新たにもう一つ生産するために必要な労働時間である、ということが含まれている。

  13. 
価値を生む労働の条件・・・社会性の特殊な

 (11)
*交換価値*の分析から生ずるこの価値を生む労働の諸条件は、労働の社会的規定である、あるいは、社会的な労働規定である。しかし、社会的といっても一般的にただ社会的であるというのではなく、特殊な様式をもつ社会的という意味である。それは、社会性の特殊な(eine spezifische Art der Gesellschaftlichkeit)である。まず第一に、労働の無差別な単純さということは、ちがった個人の労働が等一であるということを意味するのであって、つまり彼等の労働が等一なるものとして相互に関係することである。


14. (11) そしてしかもそれは一切の労働が同一種の労働に事実上整約されることによるのである。各個人の労働は、それが
*交換価値*に表われる限りにおいて、等一性(相等性Gleichheit)というこの社会的性格をもつのである。
 そしてこの労働は、それがすべての他の個人の労働に対して等一なるものとして相関係するかぎりでのみ、*交換価値*に表われるのである。

  *注 :
この第12段落は、特に「ヘーゲル論理学」が鋭く表れています。
      『小論理学』第3部概念論A主観的概念参照 

15. 個人の労働時間が一般的〔普遍的〕労働時間で現れる

  (12)
 さらに、*交換価値*においては、個々の個人の労働時間が、直接に一般的労働時間( allgemeine Arbeitszeit : 普遍的な労働時間)として現われる

 そして
個別的な労働のこの一般的性格(allgemeine Charakter : 普遍的な性格)が、その労働の社会的性格として現われる。*交換価値*に表われる労働時間は、個々の人の労働時間である。個々の個人の労働時間ではあるが、他の個々の個人から、区別(Unterschied)されない個々人の、すなわち同一労働を支出する限りでのあらゆる個々の個人の労働時間である。したがって、ある人にとって、一定の商品の生産に必要とされる労働時間は、同時に他の人もみな同一商品の生産に用うる必要労働時間なのである。
 この労働時間は個々の個人の労働時間である。すなわち、すべての人に共通の労働時間であるかぎりにおいてのみ、彼の労働時間である。したがって、この労働時間にとっては、個々の誰の労働時間であるかは、どうでもよいことである。この労働時間は、一般的労働時間として、一般的生産物に、すなわち一般的等価に、すなわち、対象化された労働時間の一定量に表わされる。



  16. 交換価値は個人労働の一般的等価の社会的形態 

 (12)
それは、直接にある人の生産物として現われる<使用価値>の特定の形態には、まったく無関係なものであって、他のいずれかの他の人の生産物として表わされる<使用価値>のあらゆる他の形態に、いかようでも転化するものである。それが社会的な大いさであるのは、ただこのような一般的な大いさとしてのみである。
  *
交換価値*という結果として表われるためには、個々人の労働は、一般的な等価とならざるをえない

17.(12) こうして、個々の人の労働時間は、実際には、社会が一定の<使用価値>をつくるために、すなわち、一定の欲望を充すために必要とする労働時間である。しかしながら、
ここで問題であるのは、労働が社会的な性格をうけとるその特殊な形態だけである

  18. 社会的有機体の成員の機能

 (12) あるいは、中世の役務や実物給付をとって見よう。自然形態をとる個々の人の一定の労働、すなわちその特殊性が、ここでは社会的紐帯をなしていたのであって、労働の一般性ではなかった。あるいは、最後にわれわれが すべての文化民族の歴史の入口の辺りで見る自然発生的な形態の共同労働をとって見よう。 ここでは、労働の社会的性格は、明らかに、個々人の労働が一般性の抽象的形態をとり、またはその生産物が一般的等価の形態をとるということによって媒介されているのではない。個々人の労働が私的労働であり、その生産物が私的生産物であることを妨げており、個々の労働をむしろ直接に
社会的有機体の成員の機能として現われさせるのは、この生産の前提となっている共同体である。*交換価値*に表われる労働の前提となっている
 のは、個別的な個人の労働である。
この労働が社会的となるのは、その直接的な反対物の形態、すなわち抽象的一般性の形態をとることによってである。


  19. 物の社会的関係として、表われる

 (13)  最後に、
人間の社会的関係(die gesellschaftliche Beziehung der Personen)が、いわば逆さに、すなわち、物の社会的関係として、表われるというのが*交換価値*を生む労働の特徴となるのである。
 一の<使用価値>が他のそれに対して*交換価値*として関係するかぎりにおいてのみ、それぞれちがった人間の労働がたがいに、等一な一般的な労働としてあい関係する。したがって、もし*交換価値*は人間の間の関係である、ということが正しいとすれば、これに対して、物的な外被におおわれた関係であるということが付け加えられなければならない。

  20. 
交換価値は使用価値の社会的な性質規定性

 (13) 1ポンドの鉄と1ポンドの金とが、物理学的に化学的にちがった性質であるにもかかわらず、同一量の重さを表わすように、同一労働時間を含む商品の二つの<使用価値>は、同一の*交換価値*を表わしている。
 かくて、
*交換価値*は、<使用価値>の社会的な性質規定性(Der Tauschwert erscheint so als gesellschaftliche   Naturbestimmtheit der Gebrauchswerte)として、すなわち、これらの物としての<使用価値>に与えられる規定性として表われる。そしてこの性質規定のために、これらの<使用価値>は交換過程で、ちょうど単純な化学的元素が一定の量的比率で化合し、化学的等価をなしているように、一定の量的比率で置き換えられ、等価をなしている


  21. ペティの「労働価値論」(富の源泉として)と使用価値の関係

 
 ・・・複雑で奥が深い・・・ → 第2部 “蒸留法”批判の解読 参照・・・

    いまもし商品体の使用価値を無視するとすれば、・・・ (『資本論』 岩波文庫P.72)


  (14)  商品の*交換価値*が事実上、個々の人々のおたがいの間の等一にして一般的なものとしての労働の関係に外ならず、労働の特殊的に社会的な形態の対象的な表現に外ならないのを見れば、
労働が*交換価値*の唯一の源泉であり、したがって、*交換価値*からなる限り、富の唯一の源泉である、 というようなことをいうのは、無意味である。 
 同じように、自然素材は、少しの労働も含んでいないから、そのものとしては何らの*交換価値*をもたない、また*交換価値*は、そのものとしては何等の自然素材を含んでいない、というようなことを教えるのも、
*無意味なのである。  

  〔
*編集部注:交換価値と使用価値を‟分離して語る”ことは無意味であることを表明している〕

  しかし、
ウィリアム・ペティが「労働は富の父であり、土地はその母である」といい、またはバークリ僧正が、「四大(地水火風)とその中における人間の労働が富の真の源泉であるのではないか」と問い、あるいはアメリカ人のTh・クーパーは通俗の言葉で 
  「
一かたまりのパンからこれに用いられた労働、すなわち、パン焼工、製粉工、小作人等々の労働をとり去って見よ。そこに一体何が残るか?残るのは野生で人間に少しも役に立たぬ若干の穀粒である」 
 ことを明言したのであるが、これらのすべての考え方は、*交換価値*の源泉である抽象的労働については少しも論じなくて、
素材的富の源泉としての具体的な労働について、簡単に言えば、<使用価値>を生むかぎりにおいての労働について論じているのである。商品の<使用価値>が前提されると、このために費消された労働の特別な有用性、特定の合目的性が前提されることになる。しかし、それと同時に、商品の立場からいえば、有用労働としての労働についての一切の考慮はつくされている。


  22.
 社会的分業の二重性としての交換価値と使用価値

 (14) <使用価値>としてのパンについてわれわれの関心をひくのは、食糧品としての性質であって、決して小作人や製粉工やパン焼工等の労働なのではない。何かの発明によって、この労働の20分の19がしなくてすむようになったとしても、一塊のパンは、以前と同じような働きをするだろう。もし出来上ったパンが天から落ちてきたとしても、その<使用価値>が、ほんの少しでもなくなると言うようなことはない。
 
一方*交換価値*を生む労働が、一般的等価として諸商品が等しいということに実現されているとすれば、合目的的な生産的活動としての労働は、その<使用価値>の無限の多様性のうちに実現されている。 *交換価値*を生む労働が、抽象的で一般的なそして等一の労働であるとすれば、<使用価値>を生む労働は、具体的で、特殊な労働であって、この労働は形態と素材にしたがって無限に違った労働様式に分れる。

23.(15) <使用価値>を生むかぎりの労働について、これが、つくり出した富、すなわち素材的富の唯一の源泉である、 というのは間違っている。労働は、いかなる目的かのために素材的なものを獲得する活動であるのだから、前提として素材を必要とする。<使用価値>の異なるにしたがって、労働と自然素材との割合は大変ちがっている。しかし、つねに
 
<使用価値>は、自然的な原基を含んでいる。どんな形態かで自然的なものを獲得するための合目的的な活動としては、労働は、人間の生存の自然条件である。すなわち、人間と自然との間の物質代謝の条件であって、すべての社会形態から独立している。これに反して、*交換価値*を生む労働は、労働の特殊的に社会的な形態である。

 例えば、特別な生産活動として、一定の物質的性質を与えられた裁縫労働は、上衣を生産するのではあるが、上衣の*交換価値*を生産するのではない。労働が上衣の*交換価値*を生産するのは、裁縫労働としてではなく、抽象的で一般的な労働としてである。そしてこの抽象的で一般的な労働は、社会関係から生ずるものであって、これを裁縫師が縫い上げるわけのものではない。このようにして、古代の家内工業では、職工は上衣を生産したが、上衣の *交換価値*を生産することはなかった。
素材的富の源泉としての労働は、立法者モーゼにも、税官吏のアダム・スミスにも知られていた


以上
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