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『経済学批判』 第1章 使用価値 に関する抄録


        
*注:()内の数字は、段落番号を示す
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 交換価値 関する抄録


 『経済学批判』 第1章 商品

  <使用価値>と*交換価値*


1.(1)  市民(ブルジョワ)社会の富は、一見して、巨大な商品集積であり、個々の商品はこの富の成素的存在であることを示している。しかして、商品は、おのおの、<使用価値>と*交換価値*という二重の観点で現われる。

2. (2)  商品は、イギリスの経済学者達の言葉でいえば、まず第一に「人生にとって必要であり、有用であるか、あるいは快適であるなんらかの物」、すなわち人間の欲望の対象、最広義においていう生活手段である。<使用価値>であるという商品の固有性(ダーザイン:Dasein)とその手でつかみうる自然的な存在とは一致する。例えば、小麦は、綿花、硝子、紙等等の<使用価値>と区別された一つの特別な<使用価値>である。
 <使用価値>は、使用するための価値にすぎないのであって、消費の過程で初めて実現される。同一の<使用価値>は、いろいろに利用されうる。だが、その可能な利用の総体は、特定の属性をもった物であるという<使用価値>の固有性 (Dasein ダーザイン)のうちに綜合されている。さらに、<使用価値>は、ただ質的に規定されるだけでなく、量的にも規定される。それぞれの<使用価値>は、その自然的な固有の性質にしたがって、それぞれの量目をもっている。例えば、1シェッフェルの小麦、一帖の紙、1エルレの亜麻布等々というようなものである。



  <使用価値>の形態規定〔形式規定:Formbestimmung〕


3 .(3) <使用価値>は、富の社会的形態がどうあったにしても、つねにこの形態にとってはまず第一には無関係といってよい内容を成している。小麦について、誰がこれを栽培したか、ロシアの農奴だったのか、フランスの零細農民だったのか、それともイギリスの資本家だったのか、ということを味い分けることはできない。<使用価値>は、社会的欲望の対象であり、したがってまた社会的連関をもってはいるが、すこしも社会的生産関係を言い表わしてはいない。この商品は、<使用価値>としては、例えばダイヤモンドである。 ダイヤモンドについて、それが商品であることを認知しようとしてもできない。ダイヤモンドが<使用価値>として、美的にまたは機械的に、娼婦の胸にまたはガラス磨りの手に、用いられるところでは、それは ダイヤモンドであって商品ではない。<使用価値>であるということは、商品にとって必要な前提であるよう に見えるが、商品であるということは、<使用価値>にとってはどうでもよい規定であるように見える。経済上の形態規定に対してこのようにどうでもよい<使用価値>、すなわち<使用価値>としての<使用価値>は、経済学の考察範囲の外にある。
 その範囲にはいるのは、ただ<使用価値>自身が形態規定 〔形式規定:Formbestimmung〕を持っている場合のみである。
 直接的には、
<使用価値>は、特定の経済関係、すなわち*交換価値*が表われる素材的な基礎である。

  〔
*交換価値*は<使用価値>が交換される量的比率quantitatives Verhältnis


4.(4)  *交換価値*は、まず第一に、<使用価値>が相互に交換される量的な比率であることを示している。 この比率においては、これらの<使用価値>は、同じ交換の大いさである。それで、プロペルシウス詩集一巻と8オンスの嗅ぎ煙草とは、煙草と悲情の詩という異なった<使用価値>にもかかわらず、同一の*交換価値*であってよいわけである。
*交換価値*としては、一つの<使用価値>は、他の<使用価値>に対して、もし両者が正しい割合にありさえすれば、ちょうど同じ値である

5. (5)  <使用価値>は、直接には生活手段である。しかし、逆に、これらの生活手段そのものは、社会的生活の生産物、すなわち、支出された人間の生命力の成果であり、対象化された労働である。

 社会的労働の
物質化Materiatur der gesellschaftlichen Arbeit〕 として、すべての商品は同じ等一物の結晶である。この等一物、すなわち、*交換価値*に表わされている労働の一定の性格、 これをいま考察しようというのである。


  
*交換価値*を生む労働は抽象的・一般的な労働

6.(6)  
1オンスの金、1トンの鉄、1クォーターの小麦及び20エルレの絹が、大いさを等しくする*交換価値*であるとしよう。 これらの<使用価値>は、その質的相違が消えているこのような等価物としては、同一労働の等しい量を表わしている。 これらのものに均等に対象化されている労働は、それ自身一様で、無差別の単純な労働でなければならない。 この労働にとっては、それが金、鉄、小麦、絹のいずれに現われるかは全くどうでもいいことであって、それはちょうど酸素が、鉄のさび、大気、葡萄の果汁、または人間の血液のいずれに現われようと同じことであるようなものである。

 金を採掘し、鉄を鉱山から搬出し、小麦を栽培し、絹を織るということは、質的にはお互にちがった労働の種類である。実際上、物的に<使用価値>の相違となっているものは、過程的には、<使用価値>をつくり出している活動の相違として現われる。
したがって、*交換価値*を生む労働は、<使用価値>の特別な素材とは何の関係もない労働であるから、労働そのものの特別の形態に対しても無関係である。さらに、それぞれちがった<使用価値>は、それぞれちがった個人の活動の生産物である。したがって、個性的にちがった労働の結末である。しかし、これらの労働は、*交換価値*としては、同一無差別の労働を、すなわち、労働する者の個性が消失した労働を表わしている。
 したがって、
*交換価値*を生む労働は、抽象的で一般的な労働である。


7. (7) 
運動の量的な正体(Daseinダーザイン)が時間であるように、労働の量的な正体(ダーザイン)は労働時間である
 ・・・労働時間は、労働の生きた正体(ダーザイン)であって、その形態、その内容、その個性には無関係である。・・・それは、同時に内在的な基準をもった、労働の量としての生きた正体(ダーザイン)である。
 同時にその商品の
<使用価値>に対象化されている労働時間は、これらの<使用価値>を*交換価値*とし、したがって商品とする実体であると同時に、またそれらのものの定められた価値の大いさを測るものでもある。同一労働時間が対象化されているちがった<使用価値>の相関的な量が等価等価物〕である。あるいはすべての<使用価値>は、同一の労働時間がついやされ、対象化されている割合に応じて等価〔等価物〕である。*交換価値*としては、すべての商品は、膠結した〔ゲル化した〕労働時間の一定の量であるにすぎない。

 *
個人の労働時間〔個々の使用価値を形成する労働時間一般的労働時間となる

8.(12)  さらに、*交換価値*においては、個々の個人の労働時間が、直接に一般的労働時間として現われる。そして 
個別的な労働のこの一般的性格が、その労働の社会的性格として現われる。*交換価値*に表われる労働時間は、個々の人の労働時間である。個々の個人の労働時間ではあるが、他の個々の個人から、区別(Unterschied)されない個々人の、すなわち同一労働を支出する限りでのあらゆる個々の個人の労働時間である。したがって、ある人にとって、 一定の商品の生産に必要とされる労働時間は、同時に他の人もみな同一商品の生産に用うる必要労働時間なのである。

 この労働時間は個々の個人の労働時間である。すなわち、すべての人に共通の労働時間であるかぎりにおいてのみ、彼の労働時間である。したがって、この労働時間にとっては、個々の誰の労働時間であるかは、どうでもよいことである。この労働時間は、一般的労働時間として、一般的生産物に、すなわち一般的等価に、すなわち、対象化された労働時間の一定量に表わされる。


 それは、直接にある人の生産物として現われる<使用価値>の特定の形態には、まったく無関係なものであって、 他のいずれかの他の人の生産物として表わされる<使用価値>のあらゆる他の形態に、いかようでも転化するものである。それが社会的な大いさであるのは、ただこのような一般的な大いさとしてのみである。*交換価値*という結果として表われるためには、個々人の労働は、一般的な等価とならざるをえない。


9.(12) すなわち、個々の人の労働時間を一般的な労働時間として表わし、または一般的な労働時間を個々人のそれとして表わすようにならざるをえない。それは、ちょうどさまざまな個人が彼等の労働時間を一緒にして、彼等の共有の労働時間をつくって、そのうちからそれぞれちがった分量を、おのおのちがった<使用価値>で表わしたようなものである。
 こうして、個々の人の労働時間は、実際には、社会が一定の<使用価値>をつくるために、すなわち、一定の欲望を充すために必要とする労働時間である。

10.(13) 1ポンドの鉄と1ポンドの金とが、物理学的に化学的にちがった性質であるにもかかわらず、同一量の重さを表わすように、同一労働時間を含む商品の二つの<使用価値>は、同一の*交換価値*を表わしている。
かくて、
*交換価値*は、<使用価値>の社会的な性質規定性(Der Tauschwert erscheint so als gesellschaftliche Naturbestimmtheit der Gebrauchswerte)として、すなわち、これらの物としての<使用価値>に与えられる規定性として表われる。そしてこの性質規定のために、これらの<使用価値>は交換過程で、ちょうど単純な化学的元素が一定の量的比率で化合し、化学的等価をなしているように、一定の量的比率で置き換えられ、等価をなしている


   
労働は富の父であり、土地はその母である

11.(14) 商品の*交換価値*が事実上、個々の人々のおたがいの間の等一にして一般的なものとしての労働の関係に外ならず、労働の特殊的に社会的な形態の対象的な表現に外ならないのを見れば、労働が*交換価値*の唯一の源泉であり、したがって、*交換価値*からなる限り、富の唯一の源泉である、というようなことをいうのは、無意味である。
 同じように、自然素材は、少しの労働も含んでいないから、そのものとしては何らの*交換価値*をもたない、また*交換価値*は、そのものとしては何等の自然素材を含んでいない、というようなことを教えるのも、無意味なのである。
 しかし、
ウィリアム・ペティが「労働は富の父であり、土地はその母である」といい、またはバークリ僧正が、 「四大(地水火風)とその中における人間の労働が富の真の源泉であるのではないか」と問い、あるいはアメリカ人のTh・クーパーは通俗の言葉で「一かたまりのパンからこれに用いられた労働、すなわち、パン焼工、製粉工、小作人等々の労働をとり去って見よ。そこに一体何が残るか?残るのは野生で人間に少しも役に立たぬ若干の穀粒である」ことを明言したのであるが、
 これらのすべての考え方は、*交換価値*の源泉である抽象的労働については少しも論じなくて、素材的富の源泉としての具体的な労働について、簡単に言えば、<使用価値>を生むかぎりにおいての労働について論じているのである。商品の<使用価値>が前提されると、このために費消された労働の特別な有用性、特定の合目的性が前提されることになる。しかし、それと同時に、商品の立場からいえば、有用労働としての労働についての一切の考慮はつくされている。


12.(14) <使用価値>としてのパンについてわれわれの関心をひくのは、食糧品としての性質であって、決して小作人や製粉工やパン焼工等の労働なのではない。何かの発明によって、この労働の20分の19がしなくてすむようになったとしても、一塊のパンは、以前と同じような働きをするだろう。もし出来上ったパンが天から落ちてきたとしても、その<使用価値>が、ほんの少しでもなくなると言うようなことはない。

13.(14) 一方*交換価値*を生む労働が、一般的等価として諸商品が等しいということに実現されているとすれば、合目的的な生産的活動としての労働は、その<使用価値>の無限の多様性のうちに実現されている。*交換価値*を生む労働が、抽象的で一般的なそして等一の労働であるとすれば、<使用価値>を生む労働は、具体的で、特殊な労働であって、この労働は形態と素材にしたがって無限に違った労働様式に分れる。

14.(15)  <使用価値>を生むかぎりの労働について、これが、つくり出した富、すなわち素材的富の唯一の源泉である、というのは間違っている。労働は、いかなる目的かのために素材的なものを獲得する活動であるのだから、前提として素材を必要とする。<使用価値>の異なるにしたがって、労働と自然素材との割合は大変ちがっている。しかし、つねに <使用価値>は、自然的な原基を含んでいる。どんな形態かで自然的なものを獲得するための合目的的な活動としては、労働は、人間の生存の自然条件である。すなわち、人間と自然との間の物質代謝の条件であって、すべての社会形態から独立している。
これに反して、*交換価値*を生む労働は、労働の特殊的に社会的な形態である

例えば、 特別な生産活動として、一定の物質的性質を与えられた裁縫労働は、上衣を生産するのではあるが、上衣の*交換価値*を生産するのではない。
労働が上衣の*交換価値*を生産するのは、裁縫労働としてではなく、抽象的で一般的な労働としてである。そしてこの抽象的で一般的な労働は、社会関係から生ずるものであって、これを裁縫師が縫い上げるわけのものではない。このようにして、古代の家内工業では、職工は上衣を生産したが、上衣の*交換価値*を生産することはなかった。素材的富の源泉としての労働は、立法者モーゼにも、税官吏のアダム・スミスにも知られていた。


15.(17)  <使用価値>としては、商品は、原因の作用をする。例えば、小麦は、食糧のはたらきをする。機械は一定の割合で労働に代わる。商品はこの作用によってのみ<使用価値>となり、消費の対象となるのであるが、これを商品の効役(ディーンスト)と名づけることができる。すなわち、商品が<使用価値>としてはたす効役である。しかしながら、*交換価値*としては、商品は、つねに結果の観点からのみ考察される。ここで問題となるのは、商品のはたす効役ではなく、商品を生産するとき商品のためになされた効役なのである。

16.(18)  したがって、商品の生産のために必要とされる労働量が不変であるとすれば、その*交換価値*は不変という ことになろう。しかし、生産の難易はたえず変化している。労働は、その生産力が増大するならば同一の<使用価値>をより短い時間で生産する。労働の生産力が低下するならば、同一の<使用価値>の生産のために要する時間は多くなる。
 一商品に含まれている労働時間の大いさ、すなわち、その*交換価値*は、したがって変化するものであって、労働の生産力の増減に逆比例して増減する。


     
社会的生産諸力の前進的な展開

17.(19)  さまざまな<使用価値>は、その不等な分量の中に、同一の労働時間または同一の*交換価値*を含んでいる。 一定量の労働時間を含んでいるある商品の<使用価値>の分量が、他の<使用価値>と比較して小さければ小さいほど、この商品の特殊な*交換価値*は大きい。文化段階がそれぞれ遠く時をへだててちがっている場合に、いろいろの <使用価値>がおたがいの間に特別の*交換価値*の系列をつくっており、それらの*交換価値*が、正確に同じ数の比例をなしてはいなくとも、例えば、金、銀、銅、鉄、または小麦、裸麦、大麦、燕麦というように、相互に上位下位の 一般関係をたもっているとするならば、このことから生ずる結果は次のようになる外ない。すなわち、社会的生産諸力の前進的な展開は、かの各種の商品の生産のために必要な労働時間に作用して、これを均等に、あるいは近似的に均等にしてゆくということである。


    
商品の<使用価値>は比例関係・Verhältnisに置かれる 
           
・・・比例関係のもとで、社会性が生成する ・・・


18.(20)  商品の*交換価値*は、それ自身の<使用価値>のうちに表われるものではない。
 だが、
一商品の<使用価値>は、一般的な社会的労働時間の対象化として、他の商品の<使用価値>と比例関係におかれるこの一商品の*交換価値*は、このように、他の商品の<使用価値>で表明されている
 実際上、他の一商品の<使用価値>に表現された一商品の*交換価値*が
等価である。例えば、1エルレの亜麻布は 2ポンドのコーヒーに値するとすると、亜麻布の*交換価値*は、コーヒーという<使用価値>で、しかもこの<使用価値> の特定の量で表現されている。この割合が与えられているとすれば、亜麻布のいかなる分量でもその価値をコーヒーでいい表わすことができる。一商品、例えば亜麻布の*交換価値*は、他の特別な一商品、例えば、コーヒーがその等価をなしている比例関係でつきているものでないことは明らかである。


 一般的労働時間の一定量は、これを表示しているのが1エルレの亜麻布であるが、同時に他のすべての商品の <使用価値>の無限に多様な分量に実現されている。
あらゆる他の商品の<使用価値>が等量の労働時間を表わしている割合にしたがって、それらの商品の<使用価値>は、1エルレの亜麻布の等価をなしている。したがって、この個々の商品の*交換価値*を十分に表現するには、他のすべての商品の<使用価値>がその等価をなしている無限に多数の方程式をもってくる外ない。これらの方程式の総計、または一商品が他のあらゆる商品と交換される種々の比例関係の総体においてのみ、この商品は一般的等価として、あますところなく表現される。

以上

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