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古典派経済学文献 2023.06.25


 重商主義時代の「商品と価値」その(1)


 
 小林 昇著 『経済学の形成時代』 未来社 1961年発行

       付録
ペティからスミスまで ―商品把握の形成


 ■資本論ワールド編集部
  

『経済学の形成時代』

  まえがき (p191~p193)
 近代科学としての経済学は、資本主義の経済的運動法則の暴露を目的とするものであるが、この法則の根底には
商品経済の法則あるいは商品生産の運動法則が存在する。
 だから
経済学では、商品と何か、商品生産とは何かということについての正しい把握が前提とされるが、このばあい、われわれの「移行」の観点からすれば、つぎのような問題が見出される。

 封建制から資本主義への移行にさいしては、そのそれぞれの生産関係の基底にあってそれらの歴史的性格を決定している、基本的な生産手段および生産物の占取のしかた、すなわち「富」(Reichtum, wealth)の基礎形態が、「土地」から「商品」に移行する。封建制のもとにあっては、何よりも「土地」所有が、経済外的強制による「地代」(封建的地代)のかたちで剰余労働(剰余生産物)を収取するのであって、そこに土地所有と共存する前期的「資本」は、商品流通のかなりの展開を前提としながらも、右の地代のなかからその特定の部分を貨幣の形態で前期的「利潤」として抽出するにすぎない(だから、蓄蔵された貴金属貨幣としての「財宝」Schatz, treasure は、ここでも富の一形態として存在する)。ところが資本主義のもとにあっては、逆に、「土地」所有は「商品」生産の法則に、そうしてそれをつうじて産業「資本」の利害に従属させられ、形式上自由な労働力の雇用によっておこだわれる商品生産から生ずる剰余価値のうちの特定の部分を、資本家の手から、「地代」(資本主義的地代)として分ち与えられるのである。
このような意味で、
富の基礎形態としては「土地」と「商品」とは範躊的差異をもち、明白に相容れないものなのである。


 ところが、以下の論述にとっては重要な点てあるが、末期封建社会および初期ブルジョア社会における個人としての経済思想家たちの観念のなかにあっては、
「土地」に代る富の新らしい基礎形態である「商品」は、その本質にただちに肉迫し浸透することがいちじるしく困難であった。彼らは、広汎な商品生産という対象にはじめて直面することによって、先人の知らなかった多くの難問の前に立だされたのみならず、彼らの周囲にも彼らの内部にも存在していた「土地」=富の観念は、商品の生産についての・商品の価値についての・さらに剰余価値についての彼らの把握を混濁させ、それらのもののなかに「土地」の役割が存在すると誤認させやすかったのである。それに加えて、「土地」=富の観念とともに存していた「財宝」=富という一方の観念も、「商品」の正しい把握を妨げるものであった。


 そこで、この小論でのわたくしの視角は、「経済学の漸次的生成」期における諸理論が「商品」の把握にあたって示したさまざまな矛盾と不徹底とを指摘しつつ、それがわずかずつ解消されていった方向を主要な論点のいちいちに即してたどり、これらの道筋が一歩一歩
経済科学の体系に近づいていった次第の大筋を追求するという点にすえられる。重ねていえば、それは具体的には、「商品」の理解にあたって古い「土地」(および「財宝」)の観念の投影がどのようにしてすこしずつ薄れていったかを跡づけることとなるであろう。


 1  ペティにおける論点の設定

 われわれは叙述の出発点を「近代的経済学の創始者」ウィリアム・ペティ(1623-87)におく。ハンプシャの織元の子に生まれ、きわめて多くの職業を経験し、市民革命(ピューリタン革命)の期間にその学問を進めるとともにやがてアイルランドの土地収奪に参加し、王政復古期には大地主としての地位を固めて著作活動を展開し、名誉革命の前年に没した、この人物の理論のなかに、当面の「移行」期の問題が十分に設定されていることをわれわれは知るであろう。当面の目的のために、ここではつぎの
4つの論点がとりだされる。


 
第一の論点
 これは
富の「源泉」に関する把握以下「源泉」論と略称)であって、これについてのペティのつぎの言葉は周知である。「土地が富(wealth)の母であるように、労働は富の父でありその能動的要素(active principle)であるこの命題は、物材(使用価値)としての富の源泉を土地と労働とに求め、しかも労働をその能動的要因として捉えたものである。そうしてそれは、命題自体としては、富をその社会的形態については無規定のまま認識したものにすぎず、これと同様の認識は、16世紀においてラティマ-(Bishop Hugh Latimer )が表明して以来、トーマス・マン(Thomas Mun)やホッブス(Thomas Hobbes)がくりかえしたところであった(ペティにおける「土地」が、彼らにあっては「神」あるいは「自然」として表現されていたのではあったが)。しかし同時にペティは、ここにいう「富」をじっさいには「商品」として捉えていた
すなわち、それは
現実には交換価値をもつものだったのである。


 
つづいて第二の論点において知るように、彼が「自然価格」論をはじめて展開していることは、この事情を示すであろう。そうしてそのかぎり、右の命題はまた、一方における「財宝」=富の観念からも脱却しえたものであった。また逆に、ここで「富」の二つの源泉のうち「労働」が能動的要因として「土地」から区別されていること、すなわち労働の役割が重視されていることは、ヘティの「自然価格」論が労働価値論として展開されることの前提となるのである。
 しかし、この命題における
「富」がじっさいには「商品」であるとすれば、この「商品」の把握―「富」の経済学的把握 ―にとっては、命題のなかで「土地」が「富」の一方の源泉として居据わっていることは、大きい妨げを残すものであった
いかにも、効用(→使用価値)をもつすべての物が人間労働の所産であるとはかぎらないし、反対にまたあらゆる使用価値は自然の素材なしにはつくりだされえない。だが、
商品」がこのような「富」の歴史的・社会的な一形態であるのは、それが使用価値であることを前提としながらもさらに交換価値という独自な属性をもつからであるのに、かんじんのこの交換価値の形成の局面には自然は関与することがないのである。

なぜなら、交換価値がどのようにして決定されるにせよ、それは物材の生産における物理的諸機能にかかわる問題ではなく、
このばあい自然は、無償であるか、あるいはむしろそれへの支出を促すところの労働対象であるかの、いずれかだからである。ペティはこの点をまだはっきりと把握できなかったため、以下の第二・第三の論点である「価値」と「剰余価値」との問題にここでの規定における「富」の観念をもちこんで、みずからか開拓したこれらについての認識をくもらせることとなった。このことは、封建制の下で支配的だった 「土地」=富の観念が、王政復古期にアイルランドの大地主となった成功者ペティのなかで、その新らしい「商品」=富の観念をゆがめていたことを示すものである。



 第二の論点
 これは労働価値論に関するものであって、つぎのペティの言葉もまた周知である。
 「
もしある人が、1ブッシェルの穀物を生産できるのとおなじ時間で、1オンスの銀をペルーの大地のなかからロンドンにもってくることができるとしよう。このばあい、一方は他方自然価格である(One is the natural price of the other. )。
 ところで、もし新らしい、しかももっと楽に採掘できる諸鉱山のおかけで、ある人が、かつて1オンスを獲得したとおなじたやすさで2オンスの銀を獲得できるようになるならば、そのときは、他の条件がひとしいかぎり、穀物は1ブッシェルが10シリングでも、これまで1ブッシェルが5シリングであったとおなじに安価だということになるであろう


 右の命題は、相ことなる使用価値をもつすべての商品のあいだに共通に見いだされてそれらの交換価値(交換比率)を決定するもの―すなわち商品の「価値」―は、それら各々の商品の生産にあたって支出(投下)された労働の量であり、それは労働時間によってはかられる、という認識を述べているものである。
したがってそれは、労働価値論のもっとも早い表明であり、「商品」の本質への最初の有効な肉迫であるというべきである。だが、
ペティのこの労働価値論は、一方では、彼の「源泉」論〔富の「源泉」に関する把握(以下「源泉」論と略称)〕のもっていた混濁、すなわち「土地」=富の観念の残存によって、大きい制約を受けることとなる。


 すなわちペティは、右の労働価値論を表明したと同一の著作〔『租税貢納論』〕のなかで、「
すべての物は、二つの自然的単位( natural denominations )すなわち土地と労働とによって価値づげられなくてはならない」といい、つづいてこの両者の間に「自然的同価関係」(a natural par )を見い出して両者を相互に還元しあうことが、貨幣の呼称であるペンスとポンドとのあいだの還元とおなじように可能だと考えており、さらにそのごに執筆された著作のなかでこの着想をほぼつぎのように具体化している。

 ― 「
土地と労働との間に同価・均等の関係( par and equation )をつくりあげてあらゆる物の価値をそのいずれか一方だけで表現する」ために、いま一定の土地に放牧された仔牛が1年間に100ポンド重くなったとし、それが50日分の食料に相当するとすれば、それはこの土地の1年のレント(土地の貢献)である。ところが、人間が右の土地を1年間耕作して60日分以上の食料を生産できるとすれば、差引き10日分以上の食料の右の超過分がこの人間の賃銀(労働の貢献)であるということになる、というのである。


 しかしペティのこのような努力は、すでに述べたように「商品」の交換価値→「価値」の説明としては無意味であり、さきに樹立された彼の労働価値論からの後退を示すものである。のみならず、このように「価値」の形成における2要因の
公分母として食料を措定することは、彼にあってはさらに、「価値の共通の尺度」(common measure of value)は「成人の日々の食料であってその日々の労働ではない」という説明を生むにいたった。ここではもはや、「価値」を決定するものは投下された労働量ではなくて実質的な賃銀(労働の価格)だとされているわけである。


 第三の論点
 これは剰余価値論に関するものである。「富」についての認識は、とうぜん、「富」の社会的な増加(「社会的剰余」)の認識とつながるが、「商品」の把握が、このような剰余の生産と「蓄積」とを至上命令とする資本主義経済の運動法則の解明のための前提としてはじめて意義をもつものであるかぎり、
この論点の意義は重要である。これについてペティはつぎのように述べている。

  「
ある人が自分の手で一定の面積の土地に穀物をつくることができたとしよう。……
 
この人がその収穫のなかから、彼の種穀や、同様にその食べたものや、衣類その他のどうしても必要なものと交換に他人に与えたものを差引いたとき、そこに残る穀物は、この年のその土地の自然的な真実のレント(natural and true rent)である。 …しかしさらに、副次的な問題であろうが、この穀物すなわちレントがイングランドの貨幣でどれほどに値いするかという問題がある。それは、…別の一人が貨幣の生産と製造とに専念したとして、同一の期間内に、その支出以上に余しえた貨幣に値いすると答えられる

 ここでいうレントとは農業における剰余であって、地主に現実に支払われる地代よりも広い概念であるが、この概念についてはほぼつぎの2点に留意すべきであろう。
(1)ここでは農業労働を貨幣(貴金属)を生産する労働と関係づけるという手続きによって(第一の論点を想起されたい)、農業における剰余を剰余価値としてつかもうとしている。
(2)しかし、剰余価値は農業におけるレントとしてつかまれているのであって、利潤、ことに工業部面での利潤は、ペティにあっては明確な認識の外におかれている(右の引用には貴金属の生産における「支出以上に余しえた貨幣」への言及があるが、貴金属の生産もまた、広義の「土地」を労働対象とする第一次産業である)。この限界は、とうぜん、彼における「資本」の概念の未成立と結合し、商品生産の把握を幼い段階のなかにとどめるものである。


 したがってペティは、剰余価値から支払われるところの利子を、利潤にではなくレントに結びつけて説明し、貨幣は土地を購入することもできるから、その貸与はレントと同率の報酬を要求すると考えた。
 「 
貨幣賃料(usury)についていえば、その最低限は、安全性について疑問がないところでは、借りた貨幣で買えるだけの土地がもたらすレントである。」
 ただ、この言葉は利子(「貨幣賃料」)の源泉がレントであるといっているのではないから、それは別の源泉から分ち与えられうると考える余地を許すものであることに留意しておきたい。ともあれ、ペティの時代はまだ彼にマニュファクチュアにおける利潤と高級な賃銀とのあいだの範疇的差異を識別させるまでにいたらず、一方、
土地におけるレントという剰余価値の存在は誰の目にも明白であった。彼がさきに商品の価値は土地と労働との二つの「単位」から成るとし、つづいて前者の貢献する部分をレント、後者の貢献する部分を賃銀と表現したのは、この事情によるものと考えられる。―以上の三つの論点は、相かかわりつつ、ベティにおける「商品」の観念のなかに「土地」の観念が払拭されがたく混淆されていたことを示すであろう。



 第四の論点
 これは貿易差額説にかかわる諸問題であり、封建制のもとで「土地」=富の観念と共存しえていた「財宝」=富の観念の、ペティにおける残存の局面である。まず、ベティはつぎのように述べている。

  「トレード(trade) 」の偉大にして究極の成果は富一般( wealth at large )ではなくて、とくに銀・金および宝石の豊富である。これらのものは腐朽しないし、他の財貨のようには変質もせず、いついかなるところでも富である。ところが、ぶどう酒・穀物・家禽率家畜の肉等々は、その時その場かぎりの富にすぎない。
 だから、その国に金・銀・宝石等々を貯蔵させるような財貨を生産すること、このようなトレードに従事することは、他のどれよりも有利である。」
 ここでは、「
財宝」は「普遍的富」( universal wealth )であるとして「富一般」から区別され、またこのような別格の富として蓄蔵の対象と見なされ、このようにして「商品」=富の観念の成熟を制約している。 
 ただここでは、右の「財宝」の獲得が国民経済的な政策の目標として掲げられており、その手段として現実には貿易差額のプラスの実現が要求されているのであって、しかもこの実現のために〔輸出〕商品の生産―ことに毛織物を主とする工業製品の生産-が不可欠とされているのである。このことは国内におけるマニュフアクチュアの展開を反映するものであり、そのかぎりここでの「財宝」の観念は、社会的形態については無規定のままの「富」の認識をつきやぶる糸口となるものであるとともに、単に地代のなかから抽出された前期的「利潤」とはことなる性質の
剰余価値の観念の萌芽なのである。
 ペティが「重商主義者」といわれるのはこのような意味においてである。 「重商主義者」ペテイは、「近代的経済学の創始者」ペティを制約しつつも、同時に前者は後者の前提となっているというべきであろう。

 ところがペティは、右の「財宝」=剰余価値という観念との相違をはっきりと意識することなしに、さらに一歩をすすめて、外国貿易との関連とはいちおう別に、
稼得する(to earn )ところの多い職業―いっそう限定的には「剰余利得者」(superlucrators )を生む職業-がそうではない種類の職業よりも「富」を増すと考えているのであって、この立場からさまざまな「トレードや複雑な技能」( trades and curious arts )を単純な農業よりも重んじており、これによって、彼が第三の論点における剰余価値の把握を、事実上は産業利潤をふくむ概念としての剰余価値の把握の方向へ深めていると解することができる。

 上来の引用にあっては、
「トレード」とは、むしろ生産者に―まだ「資本家」にではない―剰余価値をもたらす産業、ことに製造業を意味する言葉であり、単なる流通上の職業ではないのである。ペティはこのような立場から、生産と「勤倹」(thrift)とを欲して「無用に、収益(return)の見込みなしに費消すること」 をきらっているのであって、剰余価値の蓄積こそ彼の政策論の目標であった。後述のためにいえば、このような彼にあっては、まだ、生産された商品の販路を保証するうえでの(すなわち経済循環上の)役割を消費支出にみとめようとするような認識は、とうてい生まれる余地がなかった。
 こうしてペティは、「財宝」=富の観念に縛られつつもこれを脱却する方向を示し、「わが国民にはトレードを営んでゆくのに〔すでに〕十分な貨幣がある」という、統計的結論に到達するとともに、貨幣の過剰はその過少とともにかえって産業に害をおよぼすという立言をおこなうこととなったのであった。

 ・・・・以上・・・・・


  『資本論』第1版(p.30). 第2版第1章第2節 商品に表わされた労働の二重性 (p.78)