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序章 
 
『政治算術』に現れているペティの「商品と価値」の認識について

       
資本論ワールド編集部 まえがきより
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 *論点KKー古典派と『資本論』の継承

   マルクス『経済学批判』の「A商品分析の歴史」によれば、「商品の分析とペティ」の関係について次のように説明がされています。

 ① 商品を分析して二重の形態の労働に、すなわち、
使用価値を現実の労働または合目的的な生産的な活動に帰着させ交換価値を労働時間に、すなわち等一なる社会的労働に帰着させることは、古典的経済学の150年以上にわたる研究の批判的成果である。

 ② この経済学は、イギリスにおいてはウィリアム・ペティに・・・始まり、・・・リカードで終わっている。
ペティは、使用価値を労働に分解するが、その創造的な力に自然的限界のあることを見誤ってはいない。

 ③ ペティは、
現実の労働をそのまま社会的総体として分業と考えている。素材的富の源泉関するこの考えは、・・・ペティの場合は、政治算術 〔政治経済学〕 に導いている。

 ④ 政治算術は、経済学が独立の科学として分離した最初の形態である。だが、彼は、商品の交換過程に現れる交換価値を貨幣と考え、貨幣そのものを現存する商品、すなわち、金および銀と解する。重商主義の観念にとらわれて、彼は、
金や銀を獲得する特殊の種類の実体的労働を、交換価値を生む労働と説明する。

 ⑤ 彼は実際にこうのべている、ブルジョア社会の労働は直接の使用価値を生産しないで、商品を生産せざるをえない、別の言葉でいえば
交換過程で譲渡されることによって金および銀として、すなわち貨幣として、または、交換価値として、いいかえると対象化された一般的労働として現わされる使用価値を生産する外ないというのである。  〔は、編集部の追記、第2部参照〕

 ⑥ いずれにしても彼の例はこういうことをはっきり示している、すなわち、
労働を素材的富の源泉として認識しても、そのことは決して労働が交換価値の源泉となっている一定の社会的形態についても誤解しないですむわけのものでないということである。〔編集部注1


 資本論ワールド編集部
 1. 〔編集部注1
 「労働が交換価値の源泉となっている一定の社会的形態」について
 「人間労働、または抽象的に人間的な属性において、労働は商品価値を形成する-
社会的総労働という概念」との関連を理解すること。
   (『資本論』第1章第2節(岩波文庫p.87)
 2. 
ここでマルクスが説明している文脈①~⑥は、使用価値からの抽象として一般的に理解されている 資本論蒸留法 をくつがえす「説明文である」ことを示しています。しかし、文章はきわめて難解です。
 まず、

 3. 『資本論』の翻訳問題として探究すれば、
  『資本論』第2版第1章第1節11段落(岩波文庫p.72)
 いまもし商品体の使用価値を無視するとすれば、商品体に残る属性は、ただ一つ、労働生産物という属性だけである。」
 

 しかしながら、この「説明文」は、『租税貢納論』、『アイルランドの政治的解剖』そして『政治算術』など、実際に
ペティの著作を体験しなければマルクスの“真意”をつかみ取ることが不可能であると言わざるを得ません。 ここに『資本論』の叙述の、マルクス特有の方法論ー「歴史的に、論理的に」-が存在しています。



 
『資本論』第1章第1節第11段落
 「
いまもし商品体の使用価値を無視するとすれば、商品体に残る属性は、ただ一つ、労働生産物という属性だけである。だが、われわれにとっては、この労働生産物も、すでにわれわれの手中で変化している。・・」

 
このマルクスの叙述の理解は、重商主義時代のペティたち自身の「商品と価値」概念の認識に沿って、「歴史的に、論理的に」 認識の進展と深まりを追求するマルクスの方法論―弁証法論理学ーによらなければ、正確な理解が難しいことを証明しているのです。 いよいよ古典派経済学の「本丸」へと進みます。

 
ではペティ~スミス・リカードへ、「古典派」の文脈に戻りましょう。