リカード著 『経済学および課税の原理』 1819年
第1章 価値について
第20章 価値と富、両者を区別する特性について
リカード著 『経済学および課税の原理』 岩波文庫、羽鳥・吉澤訳 1987年発行
◆目次
第1章 価値について
1. 価値の二つの意味: ・効用ー使用価値、・物の所有による財貨の購買力
2. 交換価値の二つの源泉 ー 希少性と必要労働量
3. アダム・スミス 「労働は本源的購買貨幣」
4. リカードの経済学研究 「諸商品の相対価値の変動効果」
第20章 価値と富、両者を区別する特性
1. 価値は本質的に富とは異なる
2. 経済学における多くの誤り・・・富の増加と価値の増加とを、同じことを意味すると考える
3. 富は価値には依存していない
セー氏の混同について・・・富と価値、効用について
4. 効用は交換価値の尺度ではない
5. 価値と富の用語の混同による混乱
第1章 価値について
第1節 ある商品の価値、すなわちこの商品と交換される他のなんらかの商品の分量は、 その生産に必要な相対的労働量に依存するのであって、その労働にたいして支払われる対価の大小に依存するのではない。
1. 価値の二つの意味 効用ー使用価値、 物の所有による購買力
アダム・スミスは次のように述べた。「 価値 〔Value〕 という言葉には、二つの異なる意味がある。それは、ある時はある特定の物の効用〔utility〕を表現し、またある時はこの物の所有がもたらす他の財貨の購買力を表現する。一方を使用価値 〔value in use〕、他方を交換価値 〔value in exchange〕 と呼ぶことができる。」
続いて彼はこう言っている。「最大の使用価値をもつ物が、交換価値をほとんど、または全くもたないことがしばしばある。これに反して、最大の交換価値をもつ物が、使用価値をほとんど、または全くもたないことがしばしばある。」と。
水や空気は大いに有用で〔useful〕ある。なるほどそれらの物は生存にとって不可欠ではあるが、しかし、通常の事情のもとでは、それらの物と交換にはなにも取得することができない。これに反して、金は空気や水と比較すれば、ほとんど有用性〔use〕をもたないけれども、他の財貨の多量と交換されるだろう。
そうだとすれば、効用は交換価値の尺度ではない。だが、そうはいっても、効用は交換価値にとって絶対に不可欠である。もしある商品が少しも有用でないなら、―言いかえれば、もしそれがわれわれの欲望の充足に少しも寄与しえないなら、―それは、どれほど稀少であろうと、あるいはどれほどの労働量がその獲得に必要であろうと、交換価値をもたないだろう。
2. 交換価値の二つの源泉ー 希少性と必要労働量
商品が効用をもっておれば、その交換価値は二つの源泉から引き出される。つまり、その稀少性からと、その獲得に要する労働量からとである。
商品のなかには、その価値がその商品の稀少性のみによって決定されるものがある。労働はこういう財貨の量をけっして増加することができない。それゆえ、それらの物の価値が供給の増加によって引き下げられることはありえない。いくつかの珍しい彫像や絵画、稀覯(きこう)の書物や鋳貨、広さがきわめて限られている特殊な土壌で栽培されるぶどうからだけしか醸造できない特別な品質のぶどう酒、これらの物はすべてこの種類に属している。これらの物の価値は、その生産に最初必要であった労働量とは全く無関係であり、それを所有したいと思っている人々の富と嗜好との変動に応じて変動する。
だが、これらの商品は、市場で毎日交換される商品総量のなかの、ごく小部分を占めているにすぎない。欲求の対象となっている財貨のなかの、きわだって大きな部分は、労働によって取得される。そして、それらの物は、もしわれわれがその獲得に必要な労働を投下する気になれば、ただ一国においてだけでなく、多くの国においても、ほとんど無制限に増加することができるだろう。
そこで、商品、その交換価値、およびその相対価格を規定する法則を論ずる際には、われわれはつねに、人間の勤労の発揮によってその量を増加することができ、またその生産には競争が無制限に作用しているような商品だけを念頭におくことにする。
3. アダム・スミス-「労働は、本源的購買貨幣」
社会の初期の段階には、これらの商品の交換価値、すなわち一商品のどれだけの分量が他の商品との交換において与えられなげればならないかを決定する法則は、もっぱらそれぞれの商品に支出された相対的労働量に依存している。
アダム・スミスはこう言っている。「あらゆる物の真の価格、すなわちあらゆる物がそれを取得したがっている人に真に費やさせるものは、それを獲得する際の苦労と手数とである。あらゆる物が、それをすでに取得していて、それを処分、つまりそれをなにか別の物と交換したいと思っている人にとって、真にどれほどの値打があるのかといえば、それによって彼自身が節約することができ、他の人々に負わせることができる苦労と手数とである。」
「労働は、すべての物に対して支払われた最初の価格-本源的購買貨幣であった。」と。さらに、彼はこうも言っている。「資本の蓄積にも土地の専有にも先立つ社会の初期未開の状態においては、さまざまな物の取得に必要な労働量の間の比率が、それらの物を相互に交換することに対して、なんらかの法則を与えうる唯一の事情であるようである。例えば、狩猟民族の間では、一頭のビーヴァーを仕止めるのに費やされる労働が、通常は、1頭の鹿を仕止めるのに費やされる労働の2倍だとすれば、1頭のビーヴァーは、当然2頭の鹿と交換されることになる、つまり、2頭の鹿の値打をもつことになる。通常は2日、あるいは2時間の
労働の生産物であるものは、当然、通常は1日、あるいは1時間の労働の生産物であるものの2倍の値打をもつだろう。」と。 * 『国富論』第1編第5章。
4. 「価値」には、曖昧な観念がある
人間の勤労によって増加することができない物を除けば、これこそ真にすべての物の交換価値の基礎であるという学説は、経済学において最も重要なものである。というのは、価値という言葉に付きまとっている曖昧な観念ほど、この学問のなかで多くの誤謬や多くの意見の相違を生み出す源泉は、ほかにはないからである。
商品に実現される労働量がその交換価値を規定するのだとすれば、労働量の増加は必ずその労働が加えられた商品の価値を上昇させるにちがいないし、同様に、その減少は必ずその価値を低下させるにちがいない。
5. アダム・スミスには、二つの労働-価値標準尺度がある
アダム・スミスは交換価値の本源をきわめて正確に定義した。そこで、彼は首尾一貫して、あらゆる物の価値がその生産に投下される労働の増減に比例して騰落する、と主張すべきであった。〔だが、〕彼はみずから別の標準尺度をたてた。そして、物の価値は、それと交換されるこの標準尺度の増減に比例して騰落する、と説いている。彼は標準尺度として、ある時は穀物を、別の時は労働をあげている。
ただし、ここでの労働とは、ある物の生産に投下される労働量ではなく、その物が市場で支配できる労働量〔編集部注1〕のことである。すなわち、あたかもこの二つのことが同義の表現であるかのように、またあたかも、ある人の労働の効率が2倍になり、したがって彼が2倍の量の商品を生産できるようになったということのために、彼が必然的に労働と交換に以前の2倍の量の商品を受けとりでもするかのように〔彼は考えている〕。
〔編集部注1〕 岩波現代経済学事典「支配労働説」より
財が購入、ないし支配する労働量(支配労働量)を尺度として用いる説。たとえば、1万円の財があり、労働の時給が2000円ならば、この財の支配労働量は5時間である。アダム・スミス、マルサス、ケインズらは、この支配労働量を、実質経済量を測る尺度とした。
もしこのことが本当に真実であって、労働者の報酬 〔編集部注2:労働賃金のこと〕 がつねに彼が生産した量に比例しているなら、ある商品に投下される労働量と、その商品が購買する労働量〔編集部注1〕とは、等しいだろう。そこで、どちらの労働量でも他の物の〔価値〕変動を正確に測定できるだろう。だが、両者は等しくはない。
6. 穀物・労働も価値変動を免れない ー スミスの誤り
前者は大抵の事情のもとで、他の物の〔価値〕変動を正確に示す不変の標準であるが、後者はそれと比較される商品と同じ程度に〔価値〕変動を免れない。アダム・スミスは、他の物の価値の変動を確定するためには、金銀のような可変の媒介物では不適当だということを最も巧みに説明した後で、穀物あるいは労働を選定することによって、みずから金銀に劣らぬほど可変の媒介物を選び出したのである。
7. 金・銀も穀物・労働も、価値変動する
金銀は、より豊かな新鉱山の発見によって、疑いもなく〔価値〕変動を免れない。だが、このような発見はまれであり、またその影響は、強力ではあるけれども、比較的短期間に限られている。金銀はまた、鉱山採掘上の熟練および機械の改良によっても、〔価値〕変動を免れない。というのは、こういう改良の結果、同一量の労働で獲得できる金銀の量が増加するからである。さらに金銀は、鉱山が幾時代にもわたって世界に供給しつづけた後に、その産出量を逓減することによっても、〔価値〕変動を免れない。だが、果して穀物は、〔価値〕変動をひき起すこれらの源泉のどれかを免れているだろうか。穀物はまた、一方では、農業改良や、農耕に使用される機械や道具の改良によっても、また、他の諸国で耕作にひき入れることのできる新しい肥沃地地帯の発見によっても、〔価値〕変動するのではないだろうか。他の諸国での肥沃地の発見は、輸入の自由なあらゆる市場における穀物の価値に影響を及ぼすだろう。他方では、穀物の価値は、輸入の禁止によって、人口と富との増加によって、また劣等地の耕作に要する追加労働量のために供給の増加分を獲得することの困難の増大によって、騰貴するのを免れないのではない
だろうか。労働の価値も同じく可変なのではないだろうか。
というのは、それは他のすべての物と同じように、社会状態に変化が起る度ごとにきまって起る需要・供給間の比率の変動によって影響されるばかりでなく、労働の賃金の支出対象である食物その他の必需品の価格変動によっても影響されるからである。
8. 同じ国で、ある時に一定量の食物と必需品とを生産するのに、遠く離れた別の時に必要であったと思われる労働量の2倍が必要になるということがあるかもしれない。だが、そうなっても、労働者の報酬はおそらくほとんど減少しないだろう。もし以前の時期の労働者の賃金が食物および必需品の一定量であったとすれば、その量が減らされたなら、彼はおそらく生存できなくなっただろう。この場合の食物および必需品は、その生産に必要な労働量で評価すれば、100パーセント騰貴しているだろうが、それらの物と交換される労働量で測定すれば、その価値はほとんど上昇していないだろう。
二つまたはそれ以上の国々についても、同じことが言えるだろう。アメリカとポーランドとの、最後に耕作にひき入れられた土地では、ある一定数の人々の1年の労働は、イギリスの同じ事情のもとにある土地においてよりもはるかに多量の穀物を生産するだろう。いま、かりに穀物以外のすべての必需品がこの3国で同等に低廉だとすれば、労働者に与えられる穀物の分量はそれぞれの国での生産の容易さに比例するだろう、と結論しては大きな誤りになるのではないだろうか。
もし労働者の靴や衣服が機械の改良によって、その生産に現在必要である労働の4分の1で生産できるようになれば、それらの物はおそらく75パーセント値下りするだろう。だが、労働者がそのために1着の上着または1足の靴の代りに、4着の上着または4足の靴を永続的に消費できるようになるなどということは、とうてい真実ではない。
そこで、彼の賃金は間もなく、競争の効果と人口に対する刺激とによって、賃金の支出対象である必需品の新たな価値に適合することになるだろう。こういう改良が労働者のすべての消費対象にまで及べば、これらの商品の交換価値は、その製造においてこういう改良が行われなかった他のいかなる商品と比較しても、著しく削減されただろうし、また、これらの商品は著しく減少した分量の労働の生産物となったではあろうけれども、しかし、労働者の保有する享楽品は、おそらくわずか2、3年後には、たとえ増加しているとしても、ごくわずかしか増加していない、ということがわかるだろう。
9. そうだとすれば、アダム・スミスとともに次のように言うのは、けっして正しくない。
「労働が、時にはより多量の財貨を、また時にはより少量の財貨を購買することがあるからといって、変動するのは、それらの財貨の価値なのであって、財貨を購買する労働の価値 〔労働賃金〕 なのではない。」それゆえ、「労働は、それだけがそれ自身の価値をけっして変動させないのだから、それだけがいつでも、どこでも、あらゆる商品の価値を評価し、比較することができる究極的な真の標準である。」
と。
10. しかし、アダム・スミスが前述していたように、次のように言うのは正しい。
「さまざまな物の取得に必要な労働量の間の比率は、それらの物を相互に交換することに対して、なんらかの法則を与えうる唯一の事情であるようである。」
と。つまり、言いかえると、それら商品の現在または過去の相対価値を確定するものは、労働が生産する商品の相対的分量なのであって、労働者に対してその労働と交換に与えられる商品の相対的分量なのではない、
ということである。
11. もしわれわれが、その生産には、現在も、またいかなる時にも、まさに同一量の労働を要するなんらかの一商品を発見できるなら、その商品は不変の価値をもつだろうし、そこで、それは他の物の〔価値〕変動を測定できる標準として大いに役立つだろう。「だが、」われわれはそのような商品を全く知らない。したがって、なんらかの価値標準を選定することができないのである。しかし、われわれが諸商品の相対価値の変動の原因を知るためには、またその原因が作用すると思われる程度を計算できるようにするためには、標準にとって欠かせない性質とはなにか、ということを確定することが、正しい理論に到達するために大いに有益である。
12. しかし、労働がすべての価値の基礎であり、諸商品の相対価値を相対的労働量が決定すると述べたからといって、私が、労働の質の差異と、ある業務における1時間または1日の労働を、別の業務における同じ持続時間の労働と比較することの困難とに注意を払わぬ者だ、と考えてはならない。異質の労働が受ける評価は、あらゆる実用上の目的にとっては十分な正確さをもって、市場で直ちに調整されるようになる。そしてそれは、大部分は労働者の相対的熟練度と遂行される労働の強度とに依存している。この目盛は、いったん形づくられると、ほとんど変更されることがない。もし宝石細工匠の1日の労働が普通の労働者の1日の労働よりも大きな価値をもっているなら、それはずっと以前に調整されて、価値の目盛のうえでその妥当な位置に置かれてきたのである。(*)
(*アダム・スミスの『国富論』)
「しかし、労働はすべての商品の交換価値の真の尺度ではあるけれども、商品の価値が普通評価されているのは、労働によってではない。二つの異なる労働量の間の比率を確定することは、しばしば困難である。二つの異なる種類の仕事に費やされた時間は、必ずしもそれだけではこの比率を決定しないだろう。
耐えられた辛苦、発揮された創意の程度の相違も、同様に斟酌されなければならない。つらい一時間の仕事には、楽な2時間の業務のなかにあるよりも多くの労働がふくまれているかもしれない。あるいは、習得に10年の労権が費やされる事業に1時間従事することのなかには、普通のわかり易い業務での1か月の勤労のなかにあるよりも多くの労働が含まれているかもしれない。だが、辛苦や創意のどちらについても、なんらかの正確な尺度を見出すことは容易ではない。なるほど、異なる種類の労働の異なる生産物を相互に交換する際には、普通ある斟酌が辛苦と創意との両者に対して加えられている。だが、その調整は、なんらかの正確な尺度によって行われているのではなく、市場のかけひきによって、精密ではないけれども、日常生活の業務の処理には十分だという類の大ざっぱな公平にしたがって行われているのである。」-『国富論』第1編第10章。
13. それゆえ、異なる時期における同一の商品の価値を比較するにあたっては、その特定の商品に要する労働の相対的熟練度と強度とについて、考慮を払う必要はほとんどない。というのは、それは両時期において同等に作用しているからである。ある時のある種類の労働が、別の時の同じ種類の労働と比較されているのである。もし10分の1、5分の1、または4分の1の増加あるいは減少が起ったとすれば、この原因に比例した効果がその商品の相対価値に生み出されるだろう。
もし1枚の毛織物が現在は2枚のリネンの価値をもっているが、10年後には、1枚の毛織物の通常の価値が4枚のリネンになるとすれば、われわれは、毛織物の製造に要する労働が増加したか、あるいは、リネンの製造に要する労働が減少したか、それともまた、この両方の原因がともに作用したか、そのどれかである、と結論して差支えないだろう。
13. 私が読者の注意をひきたいと思う研究は、諸商品の相対価値の変動の効果に関するものであって、その絶対価値のそれに関するものではないから、異なる種類の人間労働が受ける評価の比較上の程度を検討することは、ほとんど重要ではないだろう。われわれは次のように結論するのが妥当であろう。すなわち、最初はその異なる種類の労働の間にどれほどの差異があったとしても、またある種類の手先の技巧の習得のためには、他の種類のものよりも、どれほど多くの創意、熟練または時間が必要だったとしても、それは一つの世代から次の世代へかけてひきつづきほとんど同じであるか、あるいは少なくとも、その変動は年々についてはきわめてわずかであり、したがって短期間については、諸商品の相対価値に影響を及ぼすことはほとんどありえないのだ、と。
* 『国富論』
「労働および資本のさまざまな投下部門における異なる賃金率ならびに異なる利潤率の間の比例は、すでに指摘したように、社会の貧富、つまり社会が発展的状態にあるか、静止的状態にあるか、それとも衰退的状態にあるかによっては、あまり影響されないようである。公共の福祉におけるこのような大きな変化は、一般的賃金率ならびに一般的利潤率には影響を及ぼすけれども、すべての異なる部門の賃金率および利潤率には、結局は、同等に影響を及ぼすにちがいない。それゆえ、なにかこのような大きな変化が起っても、異なる部門の賃金率および利潤率の間の比例は同じままであるにちがいないし、少なくともかなりの長期間については、容易に変更されることはありえない。」 * 『国富論』第1編第10章
・・・・以上、第1章終わり・・・
価値は生産の難易、富は必需品の豊富
1. 価値(value)は本質的に富(riches)とは異なる
「人の貧富は、彼が人間生活の必需品、便宜品、娯楽品を享受しうる程度に応ずる。」とアダム・スミスは言っている。そうだとすれば、価値(value)は本質的に富(riches)とは異なる。なぜなら、価値は豊富の度合に依存するのではなく、生産の難易に依存するからである。製造業における100万人の労働はつねに同一の価値を生産するけれども、つねに同一の富を生産するは限らないだろう。機械の発明、熟練の向上、分業の改善、あるいはより有利に交換することのできる新市場の発見があれば、100万人はある一つの社会状態においては、彼らが別の社会状態で生産できる富(リッチズ:riches)、すなわち「必需品、便宜品、娯楽品」の分量の2倍ないし3倍を生産するかもしれない。だが、それだからといって、彼らは価値に少しでも多くを付加しはしないだろう。
なぜなら、あらゆる物の価値は、その生産の難易に比例して、言いかえれば、その生産に使用される労働量に比例して、騰落するのだからである。
2. 経済学における多くの誤り・・・富の増加と価値の増加とを、同じことを意味すると考える
かりに、一定額の資本を用いて、一定数の人の労働が1,000足の靴下を生産していたが、機械の発明によって、同数の人が2,000足を生産できるようになるか、あるいはひきつづき1,000足を生産して、そのほかに500個の帽子を生産できるようになると仮定しよう。その場合には、2,000足の靴下の価値、あるいは1,000足の靴下と500個の帽子との価値は、機械採用前の1,000足の靴下の価値よりも多くも少なくもならないだろう。
なぜなら、双方とも同一量の労働の生産物だからである。しかし、それにもかかわらず、商品総量の価値は減少することになるだろう。なぜなら、改良の結果、生産量の増加した商品の価値は、改良が行われなかった場合に生産された、より少ない量の商品の価値と正確に同じであるけれども、改良に先立って製造された財貨のうちの未消費部分にも、〔改良によって〕ある効果が生ずるからである。そういう財貨の価値は引き下げられるだろう。なぜなら、それらの財貨の価値は、各量ごとに、改良のあらゆる便宜のもとで生産される財貨の価値の水準まで下落しなければならぬからである。そこで、社会は、商品量の増加にもかかわらず、その社会の富の増加と享楽手段の増加とにもかかわらず、より少量の価値をもつことになるだろう。われわれは生産の便宜を絶えず増進することによって、以前生産されていた商品のうちの若干の部分の価値を絶えず減少させる。
とはいえ、われわれは同じ手段によって国民の富を増加させるだけでなく、将来の生産力の増加をもひき起す。
経済学における誤りの多くは、この問題についての誤りから、つまり富の増加と価値の増加とを、同じことを意味すると考えることから、そしてまた、価値の標準尺度はなんであるのか、についての根拠のない観念から生まれてきた。
3. 富は価値には依存していない
ある者は貨幣を価値の標準とみなしている。そこで、彼の意見によると、一国民は、その国民がもつあらゆる種類の商品をより多量の貨幣と交換することができるか、より少量の貨幣と交換することができるかに比例して、より富裕になるか、または、より貧困になる、というのである。他の人々は、貨幣が交換のためにきわめて便利な媒介物ではあるが、他の物の価値を測定すべき適切な尺度ではない、と述べている。彼らの意見によると、価値の真の尺度は穀物である、というのであって(*)、一国の貧富は、その国の商品がより多くの穀物と交換されるか、より少ない穀物と交換されるかに応ずる、というのである。さらにまた、一国の貧富は、その国が購買できる労働量に応ずる、と考える人々もいる。しかし、なぜ金なり穀物なり労働なりが、石炭や鉄よりもすぐれた価値の標準尺度でなければならないのか。―なぜ毛織物や石鹸やろうそくやその他の労働者の必需品よりもすぐれた価値の標準尺度でなければならないのか。要するに、ある商品なり全商品総体なりがなぜ標準でなければならないのか。こういう標準自体が価値の変動を免れない場合に、なぜ標準でなければならないのか。
穀物も、金と同様に、生産の難易のために、他の物に対して10、20、あるいは30パーセント変動することがある。なぜわれわれはつねに、変動したのは他の物のほうであって、穀物ではない、と言わなければならないのか。その商品の生産にいつでも同じ手数と労働という犠牲を要する商品だけが不変である。
われわれはこういう商品を知ってはいない。けれども、われわれは、あたかもそれを知っているかのように、仮説的に議論したり、言及したりすることはできる。そして、これまで採用されてきたすべての標準が絶対に不適当だということを明確に証明することによって、この学問についてのわれわれの知識を改善することができるだろう。しかし、これらの物のどれかが価値の正確な標準であると仮定しても、なおそれは富の標準ではないだろう。なぜなら、富は価値には依存していないからである。人の貧富は、彼が支配できる必需品および奢侈品の分量に応ずる。そして、それらの物の、貨幣、あるいは穀物、または労働に対する交換価値が高かろうと低かろうと、それらの物はその所有者の享楽に同じように役立つだろう。これまで、諸商品の分量を減少させれば、つまり人間生活の必需品、便宜品および享楽品の分量を減少させれば、富を増加させることができると主張されてきたのは、価値と富(ウェルスまたはリッチズ)との観念の混同の結果である。
もし価値が富の尺度だとすれば、この主張を否認できないだろう。なぜなら、商品が稀少になれば、その価値は騰貴するからである。だが、もしアダム・スミスが正しく、富が必需品および享楽品であるとすれば、その場合には、富が分量の減少によって増加することはありえない。
(*) アダム・スミスはこう言っている。「諸商品および労働の真の価格と名目価格との相違は、たんなる思索上の問題ではなく、時どき実用上でかなり役立つだろう。」 と。 私は彼に同意する。しかし、労働および諸商品の真の価格は、アダム・スミスの名目的尺度である金や銀で測られたそれらの物の価格によっては確定することができないのと同様に、彼の真の尺度である財貨で測られたそれらの物の価格によっても確定することができない。労働者の賃金が多量の労働の生産物を購買する時に、はじめて彼は彼の労働に対して真に高い価格を支払われているのである。
4. 排他的な所有は、他の者の富の減少に通じる
稀少なある商品を所有する人が、それによって人間生活の必需品および享楽品のより多量を支配できる時には、彼がより富裕になる、というのは真実である。だが、各人の富が引き出される源である総資産の分量は、そこから誰であれ個人が引き出す分の全部だけ減少するのだから、この恵まれた個人が専有できる分量が増加するのに比例して、他の人々の分前は必然的に減少するにちがいない。
ローダデイル卿はこう言っている。水を乏しくさせて、一個人に排他的に所有させてみよ。そうすれば、彼の富(riches:リッチズ)は増加するだろう。なぜなら、その場合には水が価値をもつからである。そして、富(wealth:ウェルス)が個人の富(リッチズ)の集計であるとすれば、富もまた同じ方法で増加するだろう、と。この個人の富が増加するだろうことは、疑う余地がない。
しかし、以前は無料で獲得されていた水を調達することを唯一の目的として、農業者はその穀物の一部分を、靴製造業者はその靴の一部分を売らなければならず、すべての人が彼らの所有物の一部分を人手に渡さなければならないのだから、彼らはこの目的にあてなければならない商品量全体だけ貧しくなるのであり、そして水の所有者は、まさに彼らの損失分だけ利益をあげるのである。社会全体が享受している水も商品も同一量なのだが、それらの物の分配に差異が生まれているのである。とはいえ、以上のことは水の稀少、というよりもむしろ水の独占を仮定してのことである。かりに水が乏しくなれば、その国および個々人の富は実際に減少するだろう。なぜなら、その国は享受してきた物のなかの一つの物の一部分を失うからである。農業者は、彼にとって
必要もしくは望ましい他の商品と交換に与えるべき穀物を、より少なくしかもっていないだけではなく、彼も他のすべての個人も、彼らの安楽品中の最も重要な物の一つの享受を削減するだろう。
5. 富の分配に差異が生ずるだけでなく、富の実際の損失も生ずるだろう
そうだとすれば、あらゆる生活の必需品および安楽品の、まさに同一量を所有する二つの国は、両国の富裕度は同等である、ということはできるだろうが、両国それぞれの富の価値は、それらの物の生産上の相対的難易に依存するだろう。なぜなら、もし一台の改良された機械によって、われわれが追加労働を用いないで、1足ではなく2足の靴下を製造できるようになるとすれば、1ヤードの毛織物と交換に2倍量の靴下が与えられるだろうからである。もし毛織物製造業でも同様な改良が行われれば、靴下と毛織物とは以前と同じ比率で交換されるだろう。しかし、それらの物の価値は、双方ともに低下しているだろう。なぜなら、それらの物を帽子、金あるいは他の商品一般と交換する場合には、以前の数量の2倍が与えられなければならないからである。
改良を金やその他のすべての商品の生産にまで拡大してみよ。そうすれば、それらの物はすべて以前の比率を回復するだろう。その国で年々生産される商品の数量は2倍になり、したがってその国の富は2倍になるだろう。しかし、この富(wealth)の価値は増加してはいないだろう。
アダム・スミスの誤り・・・
6. 再三指摘してきたように、アダム・スミスは富の正しい記述を与えたにもかかわらず、後では異なる説明を与え、「人の貧富は、彼が購買することができる労働量に応ずるにちがいない。」と言っている。さて、この記述はもう一つの記述とは本質的に異なっており、確かに正しくない。なぜなら、鉱山がより生産的になり、その結果金銀の価値がそれらの物の生産の便宜の増進のために下落したと仮定すれば、あるいは、ビロードが以前よりもはるかに少ない労働によって製造されるために、以前の価値の半分に下落したと仮定すれば、これらの商品を購買するすべての人々の富は増大するだろうからである。ある人は彼が所有する金銀製食器の数量を増加させることができるだろうし、別の人は2倍の分量のビロードを購買することができるだろう。しかし、この追加量の食器やビロードを所有していても、彼らは以前よりも多量の労働を雇用することはできないだろう。なぜなら、ビロードや食器の交換価値が低下するので、彼らは1日の労働を購買するためには、この種の富をそれに応じてより多く手放さなければならないからである。富は、彼らが購買できる労働量によっては測定することができない。
7. 一国の富の増加について・・・
上述したところから、一国の富(wealth)は二つの方法で増加させることができるということがわかるだろう。それは収入のうちのより大きな部分を生産的労働の維持に使用することによって増加させることができる。―
ただし、この方法は商品全体の数量を増加させるだけではなく、その価値をも増加させるだろう。あるいはまた、富(wealth)は追加量の労働を少しも使用しないで、同一量〔の労働〕をより生産的にすることによって、増加させることができる。―
この方法は商品の数量を増加させるけれども、その価値を増加させることはないだろう。
第一の場合には、一国は富裕になるだけではなく、その国の富(リッチズ)の価値も増加するだろう。その国は、節倹、つまり奢侈品および享楽品に対する支出の減少と、その貯蓄の再生産への使用とによって、富裕になるだろう。
第二の場合には、奢侈品および享楽品に対する支出の減少も、生産的労働の雇用量の増加も必ずしも起るのではなく、同一量の労働を用いて、生産量が増加するだろう。富(wealth)は増加するが、価値は増加しないだろう。これら二つの富(wealth)の増加方法のうち、後者の方法が選好されなければならない。なぜなら、この方法は、第一の方法に伴わざるをえない享楽品の欠乏や減少をひき起さずに同一の効果を生ずるからである。資本は 一国の富(wealth)のうちの、将来の生産のために使用される部分であって、富(wealth)と同じ方法で増加させることができる。追加資本は、それが熟練および機械の改善から得られようと、より多くの収入を再生産のために使用することから得られようと、同じように将来の富(wealth)の生産において有効であろう。
なぜなら、富(wealth)はつねに商品の生産量に依存するのであって、生産に使用される道具が入手された際の容易さとはなんらの関係もないからである。一定量の衣服および食料は、100人の労働によって生産されようと、200人の労働によって生産されようと、同数の人を維持し、雇用するだろうし、したがって同一量の仕事を行わせるだろう。しかし、それらの物の生産に200人が使用されていたとすれば、それらの物は2倍の価値をもつだろう。
富と価値、効用〔utility:有用、ドイツ語 Nutzen:有用〕について
8. セー氏は氏のすぐれた著書の第1章の、富(riches)と価値とについての氏の定義では、奇妙にも成功しなかったように思われる。氏の推論の要旨は以下のとおりである。―氏の述べるところでは、富(riches)は、それ自身がある価値をもつ物だけから成っている。富を構成する物の価値総額が大きい場合に、富は大きい。それらの物の価値総額が小さい場合には、富は小さい。等しい価値をもつ二つの物は、等額の富である。それらの物が一般的同意によって相互に対して自由に交換される時には、それらの物は等しい価値をもっている。さて、もし人間がある物に価値を付与するとすれば、それを諸種の用途に充用することができるということのためである。私は、人間のさまざまな欲望をみたすという点で、ある物がもっているこの能力を効用(utility)と呼ぶ。
9. なんらかの種類の価値をもっ物を創造することが、富を創造することである。
なぜなら、物の効用こそが物の価値の第一の基礎であり、富を構成するのは物の価値だからである。しかし、われわれは物を創造するのではない。われわれがなしうることは、物質を別の形態で再生産することだけである。― つまり、われわれにできることは物質に効用を与えることである。そうだとすれば、生産とは、物質の創造ではなくて、効用の創造である。そして、それは生産される物の効用から生ずる価値によって測定される。一般的評価によれば、ある物の効用は、その物と交換される他の商品の分量によって示されている。 社会によって形成される一般的評価から生ずるこの価値評価は、アダム・スミスが交換価値と呼ぶもの、テュルゴーが評価価値と呼ぶもの、そしてわれわれがもっと簡単に価値という用語で呼ぶことができるものである。
10. 効用は交換価値の尺度ではない
以上がセー氏の所見である。だが、価値と富(riches)とについての氏の説明では、つねに区別しておかなければならぬ二つの事柄、そしてアダム・スミスが使用価値および交換価値と呼んでいる二つの事柄が混同されている。もし私が改良された機械によって、同一量の労働を用いて、1足ではなく2足の靴下をつくることができるようになれば、私は1足の靴下の価値を減少させるけれども、その効用を少しも損ないはしない。もしその時に私が以前とまさに同一量の上着・靴・靴下およびその他のすべての物をもっておれば、私はまさに同一量の有用物をもっているだろう。それゆえ、効用が富(riches)の尺度である限り、私は以前と同等に富裕であろう。しかし、私のもつ価値額は減少するだろう。なぜなら、私の靴下は以前の価値の半分しかもたないからである。そうだとすれば、効用は交換価値の尺度ではない。
11. われわれがセー氏に対して、富(riches)とはなんであるのか、と質問すると、氏は、それは価値をもつ物の所有である、と答える。それから、氏に対して、価値という言葉はなにを意味するのか、と質問すると、氏は、物の価値はその物のもつ効用に比例する、と答える。さらに、われわれが氏に対して、いかなる方法によって物の効用を判定すべきか、という点についての説明を求めると、氏は、その物の価値によって判定すべきだ、と答える。こうしてみると、価値の尺度は効用であり、効用の尺度は価値である、ということになる。
12. セー氏は、アダム・スミスの大著の長所と短所とを論評するにあたって、「スミスが価値を生産する力を、人間の労働のみに帰着させる」のは、彼が犯した誤りだと言っている。「より正確な分析の示すところでは、価値は労働の作用による、というよりもむしろ、人間の勤労と、自然が供給する動因の作用および資本の作用との結合によっている。この原理を知らなかったために、彼は富の生産における機械の影響に関する真の理論を樹立することを妨げられた。」
と。
13. アダム・スミスの見解とは反対に、セー氏は第4章で、生産において、時には人間の労働にとって代り、時には人間と協働する太陽、空気、気圧などのような、自然の動因によって商品に与えられる価値について語っている。しかし、これらの自然の動因は商品に対して、大いに使用価値を付加するけれども、セー氏が論じているように、交換価値を付加することはけっしてない。機械の助けによって、あるいは自然科学の知識によって、以前は人間がやった仕事を自然の動因にやらせるや否や、こういう仕事の交換価値はそれに応じて下落する。かりに10人が挽臼を廻していたが、風力または水力の助けによってこの10人の労働を節約できる挽臼が発明されるとすれば、この挽臼によってなされる仕事の生産物である小麦粉の価値は、直ちに、節約された労働量に比例して下落するだろう。そして、この社会は、この10人が生産できる商品だけ、より富裕になるだろう。
なぜなら、彼らの維持にあてられる基金は、少しも損われていないからである。使用価値と交換価値との間にある本質的相違は、セー氏によってつねに見落されている。
14. セー氏は、スミス博士がすべての物の価値は人間の労働から引き出されると考えたために、自然の動因や機械によっても商品に価値が付与されるということを見逃してきた、と言って非難している。だが、私にはこの非難が立証されているとは思えない。なぜなら、アダム・スミスは、この機械や自然の動因がわれわれのために遂行する用役を、どこでも過小評価しているのではなく、それらが商品に付与する価値の性質を、きわめて正しく特徴づけているからである。
― すなわち、その機械や自然の動因は、生産物の分量を増加させ、人々をより富裕にし、使用価値を増加させることによって、われわれに役立っているけれども、その仕事を無償で遂行するため、つまり空気や熱や水の使用は無料であるため、それらがわれわれに与える助力は交換価値を少しも増加させないのである。セー氏自身が第2編第1章〔セー著『経済学概論』〕では、価値について同様な説明を与えている。というのは、氏は次のように言っているからである。
「 効用は価値の基礎である。商品が欲求されるのは、それがなんらかの仕方で有用であるからにほかならない。しかし、商品の価値は、その効用、つまりその商品がどの程度欲求されるかということに依存するのではなく、それを獲得するのに必要な労働量に依存している。」
「 ある商品の効用は、このように理解されるが、それはその商品を人間の欲求の対象にして、彼にそれを欲しがらせ、そしてそれに対する需要を生み出す。ある物を獲得するには、それを欲求するだけで十分だという場合には、そういう物は、人間に対して無限の分量が与えられて、人間がいくらかの犠牲を払って購買することなしに享受している自然的富(wealth)の一項目とみなすことができる。
空気、水、日光はその例である。もし人間がすべての欲求の対象をこういう方法で獲得するなら、人間は無限に富裕になるだろう。つまり、人間にとって欠乏するものはなにもないだろう。
しかし、不幸なことに、事実はこうではない。人間にとって便利で快適な物の大部分も、社会状態において必要不可欠となっている物も ー 人間はとくに社会状態に適するようにつくられているようだが
ー 人間に対して無償で与えられているのではない。それらの物は、一定の労働の行使、一定の資本の使用によって、そして多くの場合に、土地の使用によって、はじめて生まれることができる。これらの事柄は、無償の享受の行く手にある障害である。この障害から生産の真の経費が生ずる。なぜなら、われわれはこれらの生産の動因の助力に対して支払わざるをえないからである」
「 この効用がこのようにして(つまり、勤労、資本および土地によって)一つの物に伝達された場合に、はじめてそれは一つの生産物であり、そこで、それは一つの価値をもつ。その物の効用こそがそれに対する需要の基礎である。しかしそれを取得するのに必要な犠牲と経費、言いかえれば、その物の価格は、この需要の範囲を限定する。」
と。
15. 価値と富の用語の混同による混乱
次の諸章句のなかに最もよく見出されるだろう。氏の弟子は次のように述べている。
「そのうえ、御高見によると、ある社会の富は、その社会が所有する価値総額から成る、ということでした。そうなると、ある生産物、例えば靴下の下落は、その社会に所属する価値総額を減少させることによって,その社会の富(riches)の量を減少させることになるように、私には思えます。」 と。
この所見に対しては、次のような回答が与えられている。 「そのために、その社会の富の量が減少することはないでしょう。靴下は、1足ではなく、2足が生産されるのです。3フランのもの2足は、6フランのもの1足と等しい価値があります。その社会の所得は同じままです。
なぜなら、製造業者は6フランのもの1足であげたのと同じだけの利得を、3フランのもの2足であげているからです。」 と。
ここまでのところは、セー氏は、不正確ではあるけれども、少なくとも首尾一貫してはいる。もし価値が富の尺度であれば、その社会の富裕度は等しい。なぜなら、その社会の全商品の価値は以前と同じだからである。だが、ここで氏の、次のような推論を見よう。
「しかし、所得が同一のままで、生産物の価格が下落する場合には、その社会の富裕度は実質的に増進します。もし同じ〔価格の〕下落が全商品に同時に起るとすれば、―
これは絶対に起こりえないことではありませんが ― その社会は、その所得のいかなる部分も失わずに、その消費対象のすべてを、以前の価格の半額で取得することによって、実質的に以前の2倍も富裕になり、2倍の分量の財貨を購買できるでしょう。」 と。
16. 最初の章句では、われわれは次のように教えられる。すなわち、かりにあらゆる物が豊富になるため、その価値が半額に下落するとしても、その社会には以前の価値の半額の商品の2倍の分量が存在するだろうから、言いかえれば、そこには同一の価値が存在するだろうから、その社会の富裕度は等しいだろう、というのである。ところが、最後の章句では、われわれは次のように教えられる。すなわち、商品量を2倍にすれば、たとえそれぞれの商品の価値は半額に低下し、したがって全商品の価値総額は以前とまさに同額になるとしても、その社会の富裕度は以前の2倍になるだろう、というのである。
第一の場合には、富は価値額によって評価されているが、第二の場合には、富は人間の享楽に役立つ商品の豊富の度合によって評価されている。
セー氏は、さらにこうも言っている。
「もし人間がその欲求の全対象を無償で取得できるなら、彼は価値のある物をもたなくても無限に富裕である。」 と。けれども、氏は別の箇所では、次のように教えている。
「富は生産物の価値にあるのであって、生産物自体にあるのではない。なぜなら、その生産物が価値をもたなければ、それは富ではないからである。」 (第2巻2頁) と。
『資本論』第1章第4節注31
リカード全集版『経済学および課税の原理』第3版第20章より追加
「結論すれば、諸商品の実際の豊富と安価からして、すべての消費者階級におよぶ利益を高く評価しようとする気持においては、私はけっして人後に落ちるものではないけれども、しかし、一商品の価値を、それが交換される他の諸商品の豊富さによって評価することには、私はセエ氏に同意することができない。私は非常に著名な著者デステュト・ド・トラシ氏と同じ意見である。氏は言う、「なにか一つの物を測るということは、それを、われわれが比較の標準として、すなわち単位として採用するその同一物の確定量と、比較することである。ある長さ、ある重さ、ある価値を測り、そうして確かめるということは、これらの物が、メートル、グラム、フラン、一言でいえば、同じ種類の単位を何倍含んでいるかを発見することである。」
フラン貨幣および測らるべき物が、両者に共通ななにか他の尺度に還元されえないかぎり、1フラン貨幣はなにものにたいしても価値の尺度ではなくて、ただフラン貨幣の素材と同一の金属のある分量にたいする尺度であるにすぎない。これら両者は共通な尺度に還元されうる、と私は思う、というのは、これらは共に労働の結果であるからである、それゆえに、労働は、それらの物の相対価値ばかりでなくその実質価値をも評価しうる、一つの共通尺度である。幸いにも、これらまたデステュト・ド・トラシ氏の意見のようである(注*)。彼は言う、「われわれの肉体的および精神的諸能力のみがわれわれの本源的富(リッチズ)であることは確かであるから、それらの能力の使用、すなわちなんらかの種類の労働は、われわれの唯一の本源的財宝である、そしてわれわれが富(リッチズ)と呼ぶすべての物、すなわち、もっとも純粋に快適な物ばかりでなくもっとも必要な物が創造されるのは、つねにこの能力の使用に基づくのである、ということは確かである。さらにまた、それらすべての物は、それらを創造した労働を代表しているにすぎず、もしもそれらの物が一つの価値をもつならば、あるいはたとえ二つの別個の価値をもつとしても、それらはそれをその発生源である労働の価値からひき出しうるにすぎない、ということも確かである。」
(注*) Elemens d’Ideologie, Vol.p.99. ― 本書において、ド・トラシ氏は、経済学の一般原理にかんする有用かつ立派な論説を発表した、しかし私は、氏がその権威にもとづいて、「価値」、「富(リッチズ)」および「効用」という言葉についてセエ氏が与えた定義を支持していることを、付記せざるをえないのが、遺憾である。
・・・以下、省略・・・
『資本論』第1章第1節注31-32
さて経済学は不完全ではあるが(注31)価値と価値の大いさを分析したし、またこれらの形態にかくされている内容を発見したのではあるがそれはまだ一度も、なぜにこの内容が、かの形態をとり、したがって、なぜに労働が価値において、また労働の継続時間による労働の秤量(ひょうろう)が労働生産物の価値の大いさの中に、示されるのか?(注32)いう疑問をすら提起しなかった。生産過程が人々を支配し、人間はまだ生産過程を支配していない社会形成体に属するということがその額に書き記されている諸法式は、人間のブルジョア的意識にとっては、生産的労働そのものと同じように、自明の自然必然性と考えられている。
したがって、社会的生産有機体の先ブルジョア的形態は、あたかも先キリスト教的宗教が、教父たちによってなされたと同じ取扱いを、経済学によって受けている。
(注31) リカードの価値の大いさの分析-そしてこれは最良のものである―に不充分なところがあることについては、本書の第3および第4巻で述べる。しかしながら、価値そのものについて言えば、 〔ー編集部注参照〕
「古典派経済学はいずこにおいても、明白にそして明瞭な意識をもって、価値に示されている労働を、その生産物の使用価値に示されている同じ労働から、区別することをしていない。古典派経済学は、もちろん事実上区別はしている。というのは、それは労働を一方では量的に、他方では質的に考察しているからである。しかしながら、古典派経済学には労働の単に量的な相違が、その質的な同一性または等一性を前提しており、したがって、その抽象的に人間的な労働への整約を前提とするということは、思いもよらぬのである。」 〔ー編集部注〕
リカードは、例えば、デステュット・ド・トラシがこう述べるとき、これと同見解であると言言している、すなわち「われわれの肉体的および精神的の能力のみが、われわれの本源的な富であることは確かであるから、これら能力の使用、すなわち一定種の労働は、われわれの本源的な財宝である。われわれが富と名づけるかの一切の物を作るのが、つねにこの使用なのである。…その上に、労働が作り出したかの一切の物は、労働を表わしているにすぎないことも確かである。
そしてもしこれらの物が、一つの価値をもち、あるいは二つの相異なる価値をすらもっているとすれば、これらの物は、これをただ自分が作られてくる労働のそれ」(価値)「から得るほかにありえない」(リカード『経済学原理』第3版、ロンドン、1821年、334ページ 〔小泉信三訳『経済学及び課税の原理』岩波文庫版、下、19ページ〕。
〔デステュット・ドゥ・トラシ『観念学概要。第4・第5部』パリ、1826年、35・36ページ参照〕)。われわれはリカードが、デステュットにたいして、彼自身のより深い意味を押しつけていることだけを示唆しておく。デステュットは、事実、一方では富をなす一切の物が「これを作り出した労働を代表する」と言っているが、他方では、それらの物が、その「二つのちがった価値」(使用価値と交換価値)を「労働の価値」から得ると言っている。彼は、これをもって、俗流経済学の浅薄さに堕ちている。俗流経済学は、一商品(この場合労働)の価値を前提して、これによって後で他の商品の価値を規定しようとするのである。リカードは彼をこう読んでいる、すなわち、使用価値においても交換価値においても、労働(労働の価値ではない)が示されている、と。しかし彼自身は、同じく二重に表示される労働の二重性を区別していない。したがって、彼は、「価値と富、その属性の相違」という章全体〔編集部注:第20章「価値と富、両者を区別する特性」参照〕にわたって、苦心してJ・B・セイ程度の男の通俗性と闘わなければならない。したがって、最後にまた彼は、デステュットが、彼自身と価値源泉としての労働について一致するが、また他方で価値概念についてセイと調和することを、大変に驚いている。
(32)古典派経済学に、商品の、とくに商品価値の分析から、まさに価値を交換価値たらしめる形態を見つけ出すことが達成されなかったということは、この学派の根本欠陥の一つである。A・スミスやリカードのような、この学派の最良の代表者においてさえ、価値形態は、何か全くどうでもいいものとして、あるいは商品自身の性質に縁遠いものとして取扱われている。
その理由は、価値の大いさの分析が、その注意を吸いつくしているということにだけあるのではない。それはもっと深いところにある。労働生産物の価値形態は、ブルジョア的生産様式のもっとも抽象的な、だがまたもっとも一般的な形態であって、この生産様式は、これによって社会的生産の特別なる種として特徴づけられ、したがって同時に歴史的に特徴づけられているのである。したがって、もし人あって、これを社会的生産の永久的な自然形態と見誤るならば、必然的に価値形態の、したがってまた商品形態の、さらに発展して、貨幣形態、資本形態等の特殊性をも看過することになる。それゆえに、労働時間による価値の大いさの秤定について全く一致する経済学者に、貨幣、すなわち一般的等価の完成体についての、もっとも混乱した、そしてもっとも矛盾した観念を見ることになるのである。このことは、はっきりと、例えば銀行制度の取扱いにあらわれる。ここでは、貨幣の陳腐な定義だけでは、もはや間に合わなくなる。反対に、価値を社会的形態とだけ考え、あるいはむしろその実体のない幻影としか見ないような新装の重商主義(ガニイ等々)が、ここに発生した。―これを最後にしておくが、私が古典派経済学と考えるものは、W・ペティ以来の一切の経済学であって、それは俗流経済学と反対に、ブルジョア的生産諸関係の内的関連を探究するものである。俗流経済学は、ただ外見的な関連のなかをうろつき廻るだけで、いわばもっとも粗けずりの現象を、尤もらしくわかったような気がするように、またブルジョアの自家用に、科学的な経済学によってとっくに与えられている材料を、たえず繰返して反芻し、しかもその上に、ブルジョア的な生産代理者が彼ら自身の最良の世界についてもっている平凡でうぬぼれた観念を、体系化し、小理屈づけ、しかもこれを永遠の真理として宣言する、ということに限られているのである。
・・・・・・以上、第20章 終わり・・・・