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  第2篇 貨幣の資本への転化2021.02.19
第4章 貨幣の資本への転化 Die Verwandlung von Geld in Kapital
   第一節 資本の一般定式 1. Die allgemeine Formel des Kapitals (1-24)

→D.『資本論』第4章_2021.02.25

1.  商品流通は資本の出発点である。商品生産と、発達した商品流通である商業は、資本の成立する歴史的前提をなしている。世界商業と世界市場は、16世紀において、資本の近代的生活史を開始する。
 商品流通の素材的内容、すなわち各種使用価値の交換は、これを見ないことにして、この過程がっくり出す経済的な諸形態のみを考察するならば、われわれはその最後の生産物として貨幣を見出す。商品流通のこの最後の生産物は、資本の最初の現象形態である。
2.  歴史的には資本は、土地所有に、いたるところでまず第一に貨幣の形態で相対する。貨幣財産、商人資本および高利貸資本として。だが、貨幣を資本の最初の現象形態として認識するためには、資本の成立史を顧みる必要はない。同じ歴史が、毎日われわれの眼の前で行なわれている。すべての新資本が、最初に舞台を、すなわち、市場を、商品市場、労働市場または貨幣市場を、踏むのは、なおいつでも貨幣としてである。この貨幣が、一定の過程をつうじて資本に転化されることになるのである。
(1) 人身的な隷属関係および支配関係にもとづく土地所有の権力と、貨幣の非人身的な権力とのあいだの対立は、二つのフランスの諺に明瞭に表現されている。すなわち、「領主なくして土地なし」「貨幣に主人なし」というのである。

3.  貨幣としての貨幣と資本としての貨幣は、まず第一には、ただそのちがった流通形態によって区別されるだけである。
4.  商品流通の直接の形態はW―G―Wである。すなわち、商品の貨幣への転化および貨幣の商品への再転化であり、買うために売ることである。しかしながら、この形態とともに、われわれには、第二の特殊なちがった形態がある。すなわちG―W―Gという形態であり、貨幣の商品への転化および商品の貨幣への再転化であって、売るために買うことである。この後の方の流通を描いて運動する貨幣は、資本に転化され、資本となる。そしてすでにその性質からいえば、資本である。
5.  流通G―W―Gをもっと詳しくみよう。この流通は、単純なる商品流通に等しく、二つの対立した段階を通過する。第一の段階のG―Wすなわち買いにおいては、貨幣は商品に転化される。第二の段階W―Gすなわち売りにおいては、商品は貨幣に再転化される。そして、両段階の統一が、貨幣を商品にたいして、また同じ商品を再び貨幣にたいして交換する総運動であって、売るために商品を買うのである。いいかえれば、もし買いと売りとの形式的な差異を無視すれば、貨幣をもって商品を買い、商品をもって貨幣を買うのである。全過程が消えて残る結果は、貨幣の貨幣にたいする交換G―Gである。私が100ポンド・スターリングで2000ポンドの綿花を買い、2000ポンドの綿花を、再び110ポンド・スターリングで売るとすれば、私はけっきょく、100ポンド・スターリングを、110ポンド・スターリングにたいして、交換したことになる。すなわち、貨幣を貨幣にたいして交換したのである。

(2) 「貨幣をもって商品を買い、商品をもって貨幣を買う」(メルシェ・ドゥ・ラ・リヴィエール『政治社会の自然的本質的  序』543ページ)。
6.  もし流通過程G―W―Gという迂り路をとおって、同一の貨幣価値を同一の貨幣価値と、したがって、たとえば100ポンド・スターリングを100ポンド・スターリングと交換しようとするのであれば、この過程が、無意味であり、無内容なものになるだろうということは、もちろん明瞭なことである。これよりは、彼の100ポンド・スターリングを流通の危険にさらすかわりに、じっともっている貨幣退蔵者の方法が、ずっと単純であり、確実であろう。他方において、商人が100ポンド・スターリングで買った綿花を、再び110ポンド・スターリングで売るかどうか、あるいは、これを100ポンド・スターリングで、ばあいによっては50ポンド・スターリングですら、売り払わなければならぬかどうか、いずれにしても、すべての事情の下において、彼の貨幣は、特別の、そして独自の運動を描いたのであって、単純なる商品流通におけるとは、たとえば穀物を売って、それで得た貨幣で、衣服を買う農民の手中におけるとは、全くちがった種類の運動をなしているのである。したがって、まず第一にG―W―Gなる循環と、W―G―Wなる循環との間の、形態のちがいの特徴を知ることが重要である。これによって、同時に、これら形態の差異の背後にかくれている内容の相違が、露われてくるだろう。
7.  われわれは、まず両形態に共通なるものを見よう。
8.  両循環は、同じ二つの相対せる段階、W―Gすなわち売りと、G―Wすなわち買いとに分かれる。両段階のおのおのにおいて、二つの同じ物的要素dieselben zwei sachlichen Elementeが相対している。商品と貨幣である。――そして二人の人物が、同一の経済的扮装をもって相対している。買い手と売り手である。両循環のおのおのは、同一の相対立している段階の統一であって、両者ともに、この統一が、三人の契約者の出現によって、媒介されている。そのうちの一人は売るだけであり、他の一人は買うだけであり、しかして第三人目は交互に買ったり、売ったりする。
9.  だが、二つの循環W―G―WとG―W―Gを最初から分かつものは、同じく対立せる流通段階の逆の順序である。単純なる商品流通は、売りをもって始まり、買いをもって終わる。資本としての貨幣の流通は、買いをかって始まり、売りをもって終わる。前者では商品が、後者では貨幣が、運動の出発点と終局点をなしている。第一の形態では貨幣が、第二の形態では逆に商品が、全体の進行を媒介している。
10. W―G―Wなる流通においては、貨幣は結局、商品に転化され、この商品は使用価値として用いられる。かくて、貨幣は最後的に支出される。これに反して、逆の形態G―W―Gにおいては、買い手が貨幣を支出するのは、売り手として貨幣を収得するためである。彼は、商品の買いに際しては、貨幣を流通に投ずる。これを、再び同じ商品の売りによって流通から引き出すためである。彼は、貨幣をただ、再び手に入れるという狡猾な意図をもってのみ、手離すのである。したがって、貨幣は、ただ前貸しされるだけである(注3)。
 (3) 「一つの物が、再び売られるために買われるならば、このために用いられた額は、前貸しされた貨幣と名づけられる。再び売られるために買われるのでないとすれば、この額は支出されたものと称んでよい」(ジェイムズ・ステュアート『著作集』、彼の息子サー・ジェイムズ・ステュアート将軍編、ロンドン、1805年、第1巻 274ページ)。
11.  W―G―Wなる形態において、同一個貨は二度地位をえる。売り手は買い手からこれを受取る。そしてこれを、他の売り手に支払ってしまう。商品にたいする貨幣の取得をもって始まる総過程は、商品にたいする貨幣の供与をもって終わる。G―W―Gなる形態においては逆である。ここでは二度地位を変えるのは。同一個貨ではなくして、同一商品である。買い手は商品を売り手の手から受取り、これを他の買い手の手に引渡す。単純なる商品流通においては、同一個貨の二度の地位変更が、その一方の手から、他方の手への決定的移行をもたらしたのであるが、このばあいには、同一商品の二度の地位変更は、貨幣の第一の出発点への還流をもたらす。12. 貨幣のその出発点への還流は、商品が買われたより高く売られるかどうか、ということにかかっているのではない。後の方の事情は、ただ還流する貨幣額の大いさに影響するのみである。還流という現象自身は、買われた商品が再び売られる、したがって、G―W―Gなる循環が完全に描かれるとともに、起こるのである。したがって、このことは、資本としての貨幣の流通と、単なる貨幣としての貨幣の流通とのあいだに存する、感覚的に認知しうる相違である。
13.  W―G―Wなる循環は、一商品の売却が貨幣をもたらし、この貨幣を、他の商品の買いが、再び持ち去るや否や、完全に終わる。それにもかかわらず、貨幣のその出発点への還流が行なわれるとすれば、それは、ただ全コースの更新または繰り返しによって、行なわれるのである。もし私が1クォ-ターの穀物を、3ポンド・スターリングで売り、この3ポンド・スターリングで衣服を買うとすれば、この3ポンド・スターリングは、私にとっては、最後的に支出されるのである。私はそれ以上、これをもっては、何ものも得ることができない。それは衣服商人のものである。そこで私が第二のクォ-ターの穀物を売れば、貨幣は私のところにかえってくる。しかし、第一の取引の結果ではなく、ただ取引を繰り返しただけのためである。貨幣は、私が第二の取引を終えて、新たに買い入れをするや否や、再び私から離れ去る。したがって、W―G―Wなる流通において、貨幣の支出は、その還流とはなんら関係がない。これに反して、G―W―Gにおいては、貨幣の還流は、その支出そのものの様式によって、なければならぬものになっている。この還流なくしては、操作は不成功に終わり、または過程は中断され、そしてなお完了していないのである。というのは、この買いを補足し、結了する売りという、第二の段階がないからである。
14.  W―G―Wなる循環は、一つの商品の極から発出して、他の商品の極をもってとじられる。この商品は、流通から出て消費に帰着する。したがって、消費、すなわち欲望の充足、一言でいえば、使用価値が、その最終目的である。
15. これに反して、G―W―Gなる循環は、貨幣の極から発出して、結局同じ極に帰着する。したがって、その推進的動機と規定的の目的は、交換価値そのものである。
16.  単純なる商品流通においては、両極は同一の経済形態をもっている。それらはともに商品である。それらは、また同一価値量の商品でもある。しかし、それらは、質的にちがった使用価値であって、たとえば穀物と衣服である。生産物交換、すなわち社会的労働の表わされているちがった素材の交代が、ここでは運動の内容をなしている。G―W―Gなる流通においては、それとちがっている。この流通は、一見しては無内容に見える。というのは、同じものの繰り返しであるからである。両極は同一経済形態をもっている。それは双方ともに貨幣である。したがって、何ら質的にちがった使用価値ではない。何故かというに、貨幣はまさに商品の転化した態容であって、この中では、商品の特別なる使用価値は解消している。はじめ100ポンド・スターリングが綿花と交換され、ついで再び同一綿花が、100ポンド・スターリングと交換される、したがって、まわり路をして貨幣が貨幣と、同一物が同一物と交換されるというのであって、これは無意味でもあり、また無目的の操作でもあるように見える。一方の貨幣額と他方の貨幣額とが区別されうるのは、一般にただその量によってのみである。したがって、G―W―Gなる過程は、その内容を、両極の質的な相違から受け取るのでなく、ただその量的な相違から受け取るのである。何故かというに、その両極はともに貨幣であるからである。結局流通からは、はじめ投入されたより多くの貨幣が取り去られる。100ポンド・スターリングで買われた綿花は、たとえば再び100プラス10ポンド・スターリング、すなわち110ポンド・スターリングで売られる。この過程の完全なる形態は、したがって、G―W―G´であって、このばあいG´=G+ΔG´ すなわち、最初に前貸しされた貨幣額プラス増加分である。この増加分、すなわち、最初の価値をこえる剰余を、私は――剰余価値(Mehrwert: surplus value)と名づける。したがって、最初に前貸しされた価値は、流通において自己保存をするだけでなく、ここでその価値の大いさを変化させ、剰余価値を付加する。すなわち、価値増殖をなすのである。そしてこの運動が、この価値を資本に転化する。
17.  W―G―Wにおいて、両極のWとW、たとえば穀物と衣服が、量的にちがった価値量であるということは、可能なことでもある。農民は、その穀物を価値以上に売り、あるいは衣服をその価値以下に買うことがありうる。彼としては、衣服商人から詐取されることもありうる。だが、このような価値の相違は、この流通形態そのものにとっては、純粋に偶然的なものである。両極、たとえば穀物と衣服が等価であっても、この形態ではG―W―Gの過程のように、無意味ではない。それらが等価値であるということは、むしろその正常なる進行の条件である。
18.  買うために売ることの反復または更新は、売り買いの過程そのものと同じように、その外にある最終目的、消費、すなわち一定欲望の充足ということに、程度と目標とをもつものである。これに反して、売るために買うことでは、最初と最終は同一であって、貨幣、交換価値である。そしてすでに、このことによって運動は無限である。もちろん、GからG+ΔGが生じた。すなわち、100ポンド・スターリングから100プラス10が生まれた。しかし、単に質的に考察すると、110ポンド・スターリングは、100ポンド・スターリングと同じもので、すなわち、貨幣である。そして量的に見れば、110ポンド・スターリングは100ポンド・スターリングと同じく、一定の限定された価値額である。この110ポンド・スターリングが貨幣として支出されるならば、それはその役割から脱落する。それは資本であることを止める。流通から引き上げられるならば、それは化石して退蔵貨幣となり、かりに世界最後の日まで寝かせておいても、1ファージングも、これから増加はしない。だから、価値の増殖が問題であるとすれば、110ポンド・スターリングの価値増殖Verwertungにとっても、100ポンド・スターリングのそれにとっても、同一の欲望があるということになる。というのは、両者ともに交換価値の限定された表現であり、したがって、両者ともに量の増大によって、富そのものに接近するという同一任務をもっているからである もちろん、一時的には、最初に前貸しされた価値100ポンド・スターリングは、流通においてこの価値に付け加わった10ポンド・スターリングの剰余価値と区別される。しかし、この区別はただちに消失する。この過程の終わりにおいて、一方には100ポンド・スダーリングの原価値があり、また他の側には10ポンド・スターリングの剰余価値がある、というように出てくるのではない。出てくるのは110ポンド・スターリングの一つの価値であって、それは、価値増殖過程Verwertungsprozeßを開始するために、最初の100ポンド・スターリングと同じように、全くこれに相応する同一形態にある。貨幣は、運動の終わりには、再び運動の発端として出てくる(注5)。売りのための買いが行なわれる各個々の循環の終結は、したがって、おのずから新しい循環の発端をなしている。単純なる商品流通――買いのための売り――は、流通の外にある終局目的にとって、すなわち、使用価値の取得、欲望の充足ということにとって、手段としての用をなしている。これに反して、資本としての貨幣の流通は、自己目的である。何故かというに、価値の増殖は、ただこのたえず更新される運動の内部においてのみ存するのであるからである。したがって、資本の運動は無制吸である(注6)。
(5) 「資本は…・:本来の資本と利得、すなわち、資本の増加分とに分かたれる。……もちろん、実際そのものの上では、この利得はただちにまた資本に加えられ、これとともに活動せしめられるのではあるが」(F・エングルス『国民経済学批判大綱』・・・パリ。1844年)。

(6) アリストテレスは経済学を貨殖学に対せしめている。彼は経済学から出発する。それは、生業の術であるかぎり、生活に必要なる、そして一家や一国に有用な財貨の調達にかぎられる。「真実の富〔・・・ギリシャ語・・・〕は、このような使用価値から成る。何故かというに、快い生活に充分なこの種の所有の程度は、無制限ではないからである。しかし、第二種の生業の術がある。それはとくに、貨殖学というのが正し
い。これによれば、富や所有には限界は少しもないように見える。商品取引(言葉どおりには、小売商業をいうのであって、アリストテレスがこの形態を取り上げるのは、ここでは使用価値が主たる役をつとめるからである)は、本来は貨殖学には属しない。何故かというに、ここでは、交換は、ただ彼ら自身(買い手と売り手)のために必要なるものにかんするだけであるからである」。彼はさらに論ずる、だから、商品取引の最初の形態もまた、物々取引であった。しかし、その拡大とともに、必然に貨幣が成立した。貨幣の発見とともに、物々取引は、必然的に、すなわち商品取引に発達しなければならなかった。そしてその最初の傾向と矛盾して、この商品取引は貨殖学にすなわち、貨幣を得る技術になっていった。そこで貨殖学は、経済学と次のことによって区別される。すなわち、「貨殖学にとっては、流通は富の源泉である。そしてこの流通は、貨幣をめぐって動いているように思われる。何故かというに、貨幣はこの種の交換の最初であって最後であるからである。したがって、貨殖学が得ようと努力する富もまた、無制限である。すなわち、その目標が手段としてでなく、最後の終局目的と考えられているあらゆる技術が、その努力において無制限――何故かというに、それは目的にどこまでも近づいてゆこうとするからである――であり、他方、目的のための手段のみを追求する諸技術は、無制限ではない――というのは、目的そのものがこれらの技術に限界を与えるものである――のであるが、このようにしてまた、この貨殖学にたいしては、目標の制限はなく、その目標は絶対的な致富である。貨殖学でなく、経済学がひとつの限界をもっている。……後者は貨幣自身と異なれるものを目指し、前者は貨幣の増大を目指している。……相互に重なり合うこの二形態を混同して、ある人々は、貨幣の保持と無限の増大を、経済学の終局目標と考えるにいたっている」(アリストテレス『デ・レプブリカ』べッケル版、第1巻、第8章・第9章、その他)。
19.  この運動の意識的な担い手として、貨幣所有者は資本家となる。彼の一身、またはむしろその懐は、貨幣の発出点であり、帰着点である。かの流通の客観的内容――価値の増殖――は、資本家の主観的な目的である。そして抽象的富の取得増大のみが、彼の行動のもっぱらなる推進的動機であるかぎり、彼は、資本家として、または人身化せられ、意志と意識とをあたえられた資本として、機能する。このようにして、使用価値は、決して資本家の直接的な目的として、取り扱われるべきものでない。またその直接的な目的は、個々の利得でもなく、休みなき利得の運動以外でない。この絶対的な致富衝動、この激情的な価値への追跡は、資本家にも貨幣退蔵者にも共通のものである。だが、貨幣退蔵者が、ただ気狂いじみた資本家であるに反して、資本家は合理的な貨幣退蔵者である。貨幣退蔵者が、獲ようと努力する価値の休みなき増大は、貨幣を流通から救い出そうとすることによって、行なわれるのであるが、より聡明なる資本家は、これを常につぎつぎに流通に投げ出すことによって達成する。
20.  独立の形態、すなわち商品の価値が単純なる流通でとる貨幣形態は、ただ商品交換を媒介するだけで、運動の終末において消失する。これに反して、流通G―W―Gにおいては、両者、すなわち、商品と貨幣とは、ただ価値そのもののちがった存在様式としてのみ機能し、貨幣はその一般的の存在様式として、商品はその特別の、いわばただ仮装した存在様式としてのみ機能する。価値は、たえず一つの形態から他の形態に移行して、この運動の中に失われることがなく、かくて自動的な主体に転化される。増殖する価値が、その生涯の循環において、かわるがわるとる特別の現象諸形態を固定すれば、人は、資本は貨幣であり、資本は商品である、という声明を受け取ることになる。しかし、実際においては、価値はここでは一つの過程の主体となる。この過程で価値は、貨幣と商品という形態の不断の交代の下にあって、その量自身を変化させ、剰余価値として、原初の価値としての自分自身から、突き離し、自己増殖をとげる。何故かというに、価値が剰余価値を付け加える運動は、彼自身の運動であり、彼の増殖であり、したがって、自己増殖である。価値は、自分が価値であるから、価値を付け加えるという神秘的な性質を得る。価値は生ける赤児を生む。あるいは少なくとも金の卵を生む。
21.  価値は、あるときは貨幣形態や商品形態を取り、あるときはこれを脱ぎすてるのであるが、とにかくこの交代の間に自己を保持し、自己を拡大してゆく。このような過程の積極的な主体として、価値は、とくに一つの独立した形態を要求する。これによって、彼の自分自身との同一性が、確証される。そしてこの形態を、彼はただ貨幣においてのみもつ。したがって、貨幣は、すべての価値増殖過程の出発点をなし、またその終局点をなしている。価値は100ポンド・スターリングであった。いまやそれは110ポンド・スターリングである、等々。しかし貨幣自身は、ここではただ価値の一つの形態と考えられるにすぎない。何故かというに、価値は、その二つの形態をもっているのであるから。商品形態をとることなくして、貨幣は資本とはならない。貨幣はここでは、かくて、貨幣退蔵におけるように、商品にたいして挑戦的な態度をとらない。資本家は、すべての商品が、どんなみすぼらしい様子をしていようと、あるいはどんないやな臭気をはなっていようと、信仰と真理において貨幣であり、内的に割礼を受けたユダヤ人であり、かつそのうえに、貨幣からより多くの貨幣をつくるための奇跡的な手段である、ということを知っている。
22.  商品の価値は、単純なる流通において、その使用価値にたいしては、せいぜいで貨幣という独立的形態を得るのであるが、ここでは突如として自己過程的な、自動的な実体として表わされる。この実体にとっては、商品と貨幣とは、ともに単なる形態である。しかしながら、さらに加わる。商品関係を表示するかわりに、価値は、いまや、いわば自分自身にたいする一つの私的関係にはいる。価値は、原初の価値としては、剰余価値として、自分自身から区別される。父なる神が、子なる神として自分自身から区別されるように。そして両者はおないどしである。そして事実上一身をなしている外にない。何故かというに、10ポンド・スターリングという剰余価値によってのみ、前貸しされた100ポンド・スターリングは資本となるからである。それが資本となるや否や、すなわち、子が産まれ、そしてこの子によって父が生まれるや否や、その区別は再び消え、両者はともに一つとなる。110ポンド・スターリッグとなる。
23.  こうして、価値は自己過程的の価値となり、自己過程的の貨幣となる。そしてこのようなものとして、資本となる。価値は流通から出てくる。再びそこにはいる。その中に自己を保持し、殖える。ここから増大して帰ってくる。そして同一の循環を、つねにまた新たに始める(原注13)。G―G´、貨幣をはらむ貨幣――お金を生むお金――として、資本は、その最初の翻訳者である重商主義者の口を通じて、描かれている。
 (原注13) 「資本は、………永遠の自己増加的な価値である」(シスモンディ『新経済学原理』〔パリ、1819年〕、第1巻・89ページ)。
24.  売るために買うこと、またはもっと完全にいえば、より高く売るために買うこと、G―W―G´は、資本の一種、すなわち、商人資本に特有の形態であるにすぎないように見える。しかし、産業資本もまた貨幣であって、これは商品に転化され、また商品の販売によって、より多くの貨幣に再転化される。およそ買いと売りとの間で、流通部面の外部に行なわれる行為は、運動のこの形態に少しも変えるところはない。最後に、利子付資本においては、流通G―W―G´は、簡略化されて、媒介のない流通の結果として、いわば簡潔文体で、G―G´として表わされる。すなわち、より多くの貨幣に等しい貨幣であり、自分自身より大いなる価値だというのである。
 こうして、事実上G―W―G´は、直接に流通部面に現われる資本の一般定式である。  ・・・・以上、第4章 貨幣の資本への転化 Die Verwandlung von Geld in Kapital
   第一節 資本の一般定式  ・・・終わり・・・