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 『資本論』 第1章 対話篇の研究

 

プラトン対話篇とアリストテレス「誤謬論」
 特別報告 2016.04.07


                          編集:北部資本論研究会 


★目 次★
1.  第1節 プラトンの対話篇 『ゴルギアス』
2.  第2節 「プラトンの対話篇」の時代背景
3.  第3節 アリストテレスの「誤謬論」(背理法・帰謬法)

はじめに

 プラトンの対話篇に登場するソフィストたちは、評判がよろしくない。しかし、ソフィスト哲学の文化史的意義は決して小さくはない。「一般にソフィストたちは、多くの一般的な知識を国民の間にひろめ、多くの実り多い発展の種子をまき、認識論や論理学や言語にかんする研究をよびさまし、人知の多くの部門の方法論的な取扱いに基礎をおき、当時のアテナイの驚嘆すべき精神的活動を創りだしたり促進したりしたのである。」
 (シュヴェーグラー『西洋哲学史』ソフィストの哲学)

 
ここでは、ソフィストの評価を問わないことにして、プラトンとアリストテレスなど古代ギリシャから伝わる哲学的問答法や誤謬論を報告します。



誤謬論: 

 思考内容と対象との一致しない思惟,判断などをいい,真理の反対語。誤謬は大きく,実質的 (質料的) 誤謬 errorと 論理的 (形式的) 誤謬 fallacyとに分けられる。前者は判断がそれに対応する事物に一致しないことをいい,後者は,同一律,矛盾律,排中律などの思考の法則に従わない論理的誤謬 (論理学上では虚偽という) をいう。 (ブリタニカ国際大百科事典)

 まず、古代ギリシャ世界で、当時もっとも著名な弁論家として名声を博した『ゴルギアス』から始めよう。

 
第1節 プラトンの対話篇  『ゴルギアス』


ソクラテス
    あなたが心得ておられる技術は何であるか、したがって、
    あなたを何と読んだらいいのかを。
ゴルギアス
    弁論術だよ、ソクラテス。
ソクラテス  
    そうすると、あなたを弁論家と呼べばいいわけですね。
ゴルギアス 
    そうだとも、それも、すぐれた弁論家だとね、ソクラテス。

ゴルギアス 
    わたしの言おうとしているのは、言論によって人びとを説得する能力があるということなのだ。つまり、法廷では裁判官たちを、政務審議会ではその議員たちを、民会ではそこに出席する人たちを、そのた、およそ市民の集会であるかぎりの、どんな集会においてでも、人びとを説得する能力があるということなのだ。しかも、君がその能力をそなえているなら、医者も君の奴隷となるだろうし、体育教師も君の奴隷となるだろう。それからまた、あの実業家とやらにしても、じつは、他人のために金儲けをしていることが明らかになるだろう。つまり、自分のためにではなく、弁論の能力があり、大衆を説得することのできる、君のために金儲けをしているのだということがね。

ソクラテス 
    今度こそどうやら、ゴルギアス、あなたが弁論術をどんな技術であると考えておられるかを、ほぼ納得のいくところまで示してくださったように思われます。・・・弁論術は説得の技術であるとしても、その説得とは、いったい、どのような説得であり、また何についての説得であるか、と。

ゴルギアス
    つまり、さっきも言っていたように、法廷やその他いろいろな首魁シュカイにおいてなされる説得であり、またそれは、正しいことや不正なことについての説得なのだ。

ソクラテス 
    そうすると、どうやら、弁論術というのは、「説得をつくり出すもの」といっても、その説得とは、正と不正について、そのことを教えて理解させるのではなく、たんに信じこませることになるような、そういう説得のようですね。

ゴルギアス
   そうだ。・・・もし君が、何もかもわかっていてくれたのならなあ!ソクラテス。弁論術は、 言ってみれば、ありとあらゆる力を一手に収めて、自分のもとに従えているのだとね。

ソクラテス 
    実際、あなたは今しがた、健康に関する事柄についても、弁論家のほうが医者よりも、説得力があるだろうと。

ゴルギアス
    そう、それは、大衆の前でなら、と言っていたのだよ。

ソクラテス  
    では、その「大衆の前で」ということは、「ものごとを知らない人たちの前で」ということでないですか。というのはむろん、ものごとのわかっている人たちの前でなら、 弁論家のほうが医者よりも、説得力があるはずはないでしょうから。

ゴルギアス 
    それは君の言うとおりだ。

ソクラテス 
    それでは、医者よりも説得力があるはずだとすれば、 知識のある者よりも説得力がある、ということになりませんか。

ゴルギアス 
    それはたしかに、そうなる。

ソクラテス 
    つまり弁論術は、事柄そのものが実際にどうであるかを、少しも知る必要はないのであって、ただ、何らかの説得の工夫を見つけ出して、ものごとを知らない人たちには、知っている者よりも、もっと知っているのだと「見えるように」すればよいわけなので す。

ゴルギアス 
    それなら、弁論術というものは、たいへん重宝なものだということになるので はないかね、ソクラテス、ほかのいろいろな技術を学ばなくても、ただこの一つの技術を学んでおくだけで、専門化たちに少しもひけをとらないというのであれば。

ソクラテス  ・・・・


  
第2節 「プラトンの対話篇」の時代背景
 
 
次に登場するのは、「人間は万物の尺度である」という言葉で知られた、ソフィストのプロタゴラスについて、『西洋哲学史』から紹介します。

 「すべての認識は知覚であり、両者は同一のものであるというのがプロタゴラスの命題 であった。そしてここから、プロタゴラス自身がそれをひきだしているように、 事物はわれわれにあらわれる通りのものであり、知覚や感覚は誤らないという結論が生まれた。
 しかし、知覚や感覚は無数の人々によって無数に異なっており、 同一の人においてさえ非常に変化し易いものであるから、さらに次のような結論が出てくる。 すなわち、一般に客観的な規定や客観的な述語というものはなく、物そのものが何であるかはわれわれにはわからない、大小、軽重、増減などすべての概念には相対的な意味しかなく、したがって変転きわまりない多くの事物の総括である類概念もなんら恒久不変のものではないという結論が。」
 
 「プラトンはこうしたプロタゴラスの命題に反対して、それに次のような矛盾と反証とを指摘している。
 第一に、プロタゴラスの説はもっとも驚くべき結論に導く。すなわち、もし存在と仮象、認識と知覚とが 同一であるとすれば、知覚の能力をもった非理性的な動物も同様に万物の尺度であるはずであるし、 またわたしの主観的な規定すなわちわたしのその時その時の状態の表現である表象が 誤りのないものであるとすれば、もはや教えることも、学問的に取扱うことも、論争することも、 不可能であるはずである。

 第二に、プロタゴラスの説は論理的矛盾である。というのはプロタゴラス自身、だれも誤ったことを表象せず各人は真実なことのみを表象すると主張しているのであるから、プロタゴラスは自分の説を誤りとする説をも正しいものと認めなければならず、したがってプロタゴラスのいう真理なるものはだれにとっても真理ではなく、 かれ自身にとってすら真理でないからである。・・・」

 
古代ギリシャは民主政のもとで、論争の時代だった。ソフィストたちが活躍した論争のなかから、今日に伝わる弁証法の原型が形づくられてゆく。

 「弁証法あるいは論理学という概念を、古代の人たちはたいてい非常に広い意味に使っており、プラトンはしばしば哲学一般というほどの意味で使っている。・・・したがってかれは弁証法をいわばより高い意味での哲学とし、・・・弁証法そのものをプラトンは、言葉の普通の意味にしたがって、対話的に「問い」と「答え」とのうちで認識を展開していく術と定義している。

 しかし、対話において正しく考えを伝える術は、プラトンによれば同時に正しく思考する術でもあるのだから
  ― 一体に古代の人々は思考と対話とを区別することができず、あらゆる思考過程は生き生きとした対話だったのである。」  「かれが弁証法をもっと詳しく定義して、正しく語り、事物の類すなわち概念を正しく結合し正しく区別する学と言っている。・・・弁証法とは、何が結合され何が結合されえないかを知ること、およびどうしたら分割したり合成したりすることができるかを知ることである。」


 
第3節 アリストテレスの「誤謬論」(背理法・帰謬法)について
 
 
アリストテレスは、西洋文化史上そびえ立つ巨人である。現代まで伝わる学問的集成を列記すれば論理学、自然学、生物・動物学、形而上学(第一哲学)、倫理学、政治学、詩学等々であり、それらのどの分野においても、2000年有余にわたって脈々と語りつがれてきた。
(古代ローマ帝国の没落後はイスラム圏で翻訳・研究され続けた。その後ラテン西洋諸国に随時輸入されながら中世キリスト教神学と一緒にトマス・アクィナスなどによって研究された。)


 
『資本論』入門3月号では、「バーボンの注」の概要説明があった。
 ソクラテスとプラトンの哲学的対話法を引き継いで、アリストテレスが行っている 「ソフィスト的問答法の枠組み」を探究しよう。
 こうして、マルクスが 「アリストテレスの肩の上に」しっかりと乗っている様子が観察できるのである。


 
 アリストテレス 『詭弁論駁論』

     (
詭弁的な論駁について、ソフィスト的論駁について
 
第1章  「詭弁的な論駁、すなわち、論駁であるように見えるが実際には誤謬推論であるに過ぎない言論について、まず、事柄の本質から見て、最も基本的な点から議論を始めよう。ところで、ある議論はまことの推論であるのに対し、他の議論は推論であるように見えるが、実際にはそうではない、ということは明らかである。・・・ある人々は、彼ら自身の美しさによって美しいのであるが、他の人々はお化粧をすることによって、美しくあるように見えるに過ぎないのだからである。・・・そのある物どもは本当に銀であり、ある物どもは本当に金であるのに対し、他のある物どもは銀でも金でもないにもかかわらず、われわれの感覚には、そうであるように見えるのだからである。

 例えば黄色酸化塩製のものや錫製のものは銀製のもののように見え、黄色い金属でできている物は金製のものであるように見えるがごとくである。それと同様に、推論や論駁についても、あるものは真に推論であり論駁であるのだが、あるものはそうではないものかかわらず、人々の未経験のためにそうであるように見えるのである。・・・
 
 推論とは、立てられたある論述を起点として成立する、すなわち、その命題〔前提〕から、それとは異なるある他の命題を、その命題に基づいて、必然的なものとして導出主張することなのであり、論駁とは、相手が導き出した結論に対する反駁を含んでいる推論であるからである。ところが、ある推論や論駁は、このことを実際には遂行していないのに、遂行しているかのように見えるのであるが、それには多くの理由がある。」

第4章 「論駁には二つの型がある。その一つは、(a)「言葉使い」によるものであり、他は、(b)「言葉使い」とかかわりがないものである。「言葉使い」によって論駁の見せかけを作り出す仕方は、数にして6つある。すなわち。「語義曖昧〔二義性〕」「文意不明確」 「結合」「分離」「抑揚〔アクセント〕」「表現形式」がそれである。

 ・・・
われわれが同じ名前〔言葉〕や表現を用いたとしても、それによって必ずしも同じものが意味され得るとは限らないのであって、そのような場合の数はこれだけある、ということに基づく推論によってもまた、われわれはそれを確信することができる。」 「語義曖昧による〔詭弁的な〕議論とは、つぎのようなものである。例えば、「知っている人々が 学ぶのである。何故なら、文法家たちは、弟子たちが暗誦することを、学ぶのであるからだ」のごとき。
 この議論が「語義曖昧」によるものといわれるのは、「学ぶ」という語が、ここでは、〔すでに持っている〕知識を用いて理解するという意味と。知識を〔初めて〕獲得するという意味との、二つの意味で使われており、したがって、「曖昧〔二義的〕」であるからである。

第5章 「不可能な結論に導く推論〔帰謬法〕において起こることなのであるが、それは、このような推論においては、不可能な結論に導くために、立てられている前提の一つを棄却する必要があるからである。それで、結論が不可能なものであることを証明するのに必要な問いにおいて、この似て非なる原因が、原因として考慮の中に算入されるに至れば、論駁が成立するのは、この似て非なる原因によってであるかの如く、しばしば思われるであろう。」

第11章 「検証術〔吟味法〕は弁証術の一部門であって、知識のある者をではなくて、知識を持っていないのに持っていると言い張る者を、目標にしているからである。それゆえに、 問題の事柄に即して、その共通の原理を考察するのが「弁証家」であり、それに対して、外観上このことをなしているかに見えるだけの者が「詭弁家」である。」

第12章 「応答者が何か誤謬を犯していることを示すこと」と、「応答者の議論を逆説へ引き込む」ことについてであるが、これらの目的は、まず第一に、ある聴き出し方と問いの立て方とによって、実際、最もよく達成されるものである。・・・
 相手から逆説的議論を引き出すためには、議論〔推理問答〕の相手が哲学のどの学派に属しているかを、見極めなければならない。・・・」

第18章 「詭弁的論駁に対する本来の解決は、どのような問い方によって誤謬が生じてきているかを指摘することによって、偽なる推論を暴露することに在る」。

 
アリストテレスは、ソクラテスとプラトン以来の哲学的問答法を理論的に整備した。「論駁」は、「相手の結論が、矛盾を伴う推論」と定義され、問い手と答え手の間で行なわれる問答法的議論においても展開される。
 
『資本論』は、アリストテレスの「論駁」を活用していることがうかがえる。
                                           以上