『資本論』生誕150周年 アダム・スミスからマルクスへ

2018資本論入門2月号-1

2018資本論入門2月号-2


 資本論ワールド編集部 はじめに


   1月号に続いて、内田義彦さんの「経済学史」を探究してゆきます。

  半世紀以上も前の論文ですが、今日なお拝聴すべき画期的作品と言えます。

  私たちが特に注目しているのは、
 
   「
アダム・スミスは、分業の発展の成果によって、私的所有が純化すればするだけ、

   それだけ、社会的生産は発展するという見方でとらえた
ことを強調していることです。


   マルクスが古典派をくつがえそうとした理論的中核ー要石keystone-がここにあります。

  アダム・スミスなど古典派経済学と対比することで、『資本論』第1章が始まります。



  内田義彦 『経済学史講義』  未来社 1961年発行


 〔
アダム・スミス・古典派経済学とマルクスの経済学との対比


 
『経済学史講義』 目次

  はじめに
1 重商主義
2 重農主義
3 古典学派の成立 1  アダム・スミス4とその時代
4 古典学派の成立 2  『国富論』の構造
5 古典学派の完成 1  マルサス=ゴッドウィン論争
6 古典学派の完成 2  過渡的恐慌とリカード経済学
7 マルクス経済学 1
 補 論
8 マルクス経済学 2
 あとがき

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


   
◆ マルクス経済学 1

 1

1.  いままでの講義で、私はスミスやリカードウをイギリス資本主義の発展に即しながら述べてきました。資本主義の発展の中でどういう問題がでてきたか、それをスミスやリカードウがどう解いたか。その解明に焦点がおかれています。スミスの場合では旧帝国主義の危機、リカードウの場合は穀物関税問題、そういう時事問題を解くために、いかに理論が形成されたか、そういう観点です。そういう問題を一歩一歩解決しながらイギリス市民社会が形成されてきたあとを見るので、いわば古典経済学を市民社会形成史の一環としてとらえてきたのです。―こういう観点に立つ場合、理論の有効性はその時代の時事問題を解くのにいかに有効であったかの観点で評価されますし、事実、私はいままで主としてそういう観点から評価をあたえてきました。
 しかし、スミスとマルクスとの対比を行なうためには、いままで表面におしだしてきた時論的・歴史的アプロ-チとは、異なった視角をもたねばなりません。つまり、スミスやリカードウがその時代の問題にどうこたえたか、あるいはさらに言うと、イギリス・ブルジョアジーのために市民社会建設の理論としていかに歴史的に有効な役割を果したか、という問題をはなれて、
一般に、資本主義体制そのもの、を科学的に分析してゆくために、かれらの理論がどこまで有効であるか、つまり、資本主義社会体制分析の科学的理論として、かれらの分析の錘はとこまで深部に下りていたか(いるか)、これがマルクスとの対比の場合、正面におしだされねばならぬことです。


2. マルクスは、スミスやリカードウの経済学を高く評価しました。スミスやリカードウの理論と全面的にとりくみ、それをつくりかえることによって初めてマルクスの経済学は生まれので、その深みゆえにマルクスは古典経済学という名誉ある名をあたえたのです。しかし、そういうマルクスの高い評価は、かれらの理論がかれらの時代の時事問題解明においてもった有効性を第一の理由にしているのではありません。むろん、産業資本の側に立って古い勢力と闘うという、歴史的に前進的な姿勢をかれらがとっていたということが、かれらの体系に鋭く深い理論的な性格をあたえた根因でありますし、かれらの市民社会建設者としての前進的・歴史的な姿勢をそのものとして評価することもマルクスは忘れてはいません。
 しかし、マルクスが古典経済学という名をつけて敬意をはらっている何よりの理由は、かれらが古い勢力と闘つて市民社会をつくりあげたという歴史的に前進的な姿勢や、その時代の時事問題を解明する時論的有効性にあるのではなくて、そういう姿勢で生みだされたかれらの理論が、かれらの時代の特殊な問題をはなれて、一般に資本主義社会の基礎矛盾をとらえている、それであるから、古典経済学の分析をとことんまでおしすすめることで、科学的な資本主義の理論をきずくことができたという、その点に主眼があります。
たとえば、マルクスがリカードウを高く評価しているのも、リカードウが地主勢力に対立して産業ブルジョアジーの側に立ち、産業資本支配の新しいイギリスを作りあげたという点ではなく、何よりもリカードウが限界を持ち、矛盾をもっているにしても、資本主義の矛盾に目をおおうことなく科学的な認識の歩をすすめた点にあります。また、マルサスをマルクスは俗流経済学者として軽蔑していますが、それは、マルサスが地主を弁護して産業資本の利益を擁護しなかったからでなく、事象の表面にとらわれて、資本主義体制の奥底につきいって矛盾を明らかにするという科学的な分析の歩をすすめず、したがってリカードウのように科学的理論の建築のために役立つべきものを残さなかったという、その理由からです。
 むろん、古い勢力に対立して産業資本の立場にしっかりと立って分析を進めたという歴史的に前進的なリカードウの姿勢が、そのためにかえって資本主義そのものの矛盾を明らかにすることをリカードウに可能ならしめたという点も、決して忘れてはならぬ点です。しかし、古典経済学という評価のさいごのクライテリオン〔criterion:英語で基準、尺度〕が、歴史的時論的有効性にではなく、資本主義なる社会体制の科学的認識の武器としての有効性にあるということを、ここで強調しておかねばなりません。 
古典経済学とマルクス経済学との対比という場合、対比せらるべきは、後者の面、すなわち、資本主義の科学的認識としての面であります。第一、時論としては古典派とマルクスでは対立にならない。問題がちがう。
マルクスとスミスという対立が可能なのは、あくまでも、資本主義一般に対する科学的認識の理論という面においてです。時論的有効性を問うかぎり、明らかにスミスの対立物は重商主義であり、リカードウの対立物はマルサス。だから私も時論的アプローチを前面に出した『経済学の生誕』の前編や、講義のいままでのところでは、そういうとらえ方をしています。何が対立物かは問題設定によってちがうのです。・・・中略・・・


3.  さて、資本主義についての表象は、資本主義とブツカリあう面、実践=生活過程のなかで生まれてくるので、したがって生活=実践の場所がちがえば、同じ資本主義についてちがう表象ができます。社長室のデスクで見るか、工場の現場の作業員の眼で見るか、でちがうのです。こうして実践の中でえた表象が、さらに抽象の方向と限度を規定します。図を見て下さい。表象が基礎範疇を規定するという面と、基礎範疇が理論(展開された複雑な範疇をふくむ)を規定する面とあることがわかります。資本主義把握がちがうから価値論がちがうという面と、価値論がちがうから資本主義把握がちがうのだという面がある。この点を、ハッキリ理解しておいて下さい。


   <
図 Ⅰ.>

 これだけ言って、もとへもどります。日本の従来の、古典とマルクスという研究系列では、<図Ⅰ.>で言えば第一に、Bの側面だけが一方的にとりあげられていて、Aの側面をもっていない。第二に、Bの側面でも基礎範疇だけがとりあげられて、資本蓄積論という、より具体的な点の検討がされていなかったと言えます。しかし、封建制から資本主義への推転のブルジョア的指導理論としての古典経済学と、資本制から社会主義への歴史的過程をおしすすめるプロレタリアートの指導理論たるマルクスの経済学とは表象理論の全過程において対立しており、そういうものとしてとらえなければなりません。
 まず第一の点について言えば、マルクスにとって経済学批判は、同時に最深部におけるブルジョア的思想の批判でもあったのです。マルクスは、叙述においてはもっとも抽象的なものから具体物へ、一歩一歩上昇してゆかねばならぬことを正しい方法として確認し、『資本論』体系も価値論(商品把握)から始まっていますが、同時に、もっとも抽象的な範疇を検討する時でも、具体的なもの、全体としての社会が、表象として思い浮かべられていなければならぬと言っています。このことを決して忘れてはなりません。ところで、
そのマルクスの思い浮かべた資本主義の表象は、古典派の学者の表象とは180度ちがったものであったはずです。とすれば、たとえば「価値論」というような抽象的なところで、古典とマルクスとの対比を論理的にあつかうにしても、その場合、この二つの経済学体系の前提にあるヴィジョンの差を同時に考え合わせておかねばならないはずです。私が『経済学の生誕』の後編のはしめの一章をヴィジョンの差の説明にあてだのは、そういった理由からです。
 第二の点について言えば、歴史の理論としての経済学は、資本蓄積論のところで初めて具体的な姿をあらわします。
古典経済学とマルクス経済学とのちがいも、何よりもまず資本蓄積論の対比において検討すべきです。あるいは、より正確に言えば、資本蓄積論をふくむ生産過程論において検討すべきです。二つの経済学の歴史の理論としてのちがいはこの点を中心に検討して初めてわかります。あたかも、産業資本確立期の理解が、その初発点=原蓄の理解にも、その終極の理解にも、鍵をあたえるように、この点の理解が、価値論と総過程の双方の理解の鍵をあたえます。私は、今まで古典経済学を資本蓄積論を中心に話しましたが、それは時論として古典を解明するためであったと同時に、以上の意味で、以下に述べるマルクス資本蓄積論との対比のための伏線をはる意味でもあったのです。



4.
 さて、『資本論』の叙述に即しながら、マルクスの市民社会分析のあとをたどってみましょう。この場合、マルクスの「市民社会」bürgerliche Gesellschaft というのは、歴史的社会としての資本主義を指すと同時に、上部構造に対する経済的下部構造を指しています。

 本論にはいるまえに、若干の注意をしておきます。
 『資本論』は、第一に、かれの歴史理論たる史的唯物論を前提にし、逆にまたその基礎づけとして書かれています。マルクスが分析しようとおもったのは、法とか思想とか上部構造をふくめての資本主義社会で、その上部構造を規定するものとしての市民社会―経済的下部構造―の分析を、歴史的社会である資本主義社会について果すのが『資本論』のテーマであります。
 マルクスは、生活の再生産の仕方(その仕組と発展)に歴史(の発展)の鍵があると見ました。もちろんマルクスも法や思想が下部構造に対してもつ影響を無視しているわけではありません。マルクス=
エングルスにとって、歴史を直接に動かす原動力は、やはり意欲し、行動するところの人間でした。生活の再生産の仕方が歴史において規定的要素だというのは、その最深部で人間の思想と行為を規定するという意味です。・・・中略・・・

5. ところで、いま言った意味合いをこめて一切の歴史の基礎たる市民社会をその十全な姿でえがききるためには、― たんなる歴史的ないし社会学的な方法によってではなく、市民社会の構造および運動の法則性を明らかにする経済学にまたねばならない、というのがマルクスの考えでありました。経済学は上部構造をふくめての歴史の理論の基礎として展開されているわけであります。マルクスの思想を云々する場合に、史的唯物論を忘れるものはいません。しかし、『資本論』を見る場合に、体系の厖大さ、とくには価値論での論理の複雑さに気をとられて、この基本的視角を見失うということが起こりがちです。
いうまでもなく
『資本論』の厖大な体系は価値論を基礎にしています。―しかし商品論といった方が正しいとおもいますが―は、たんなる価格の理論として意味をもっているのではありません。何よりも、資本制社会における生産=再生産の把握が基本テーマであり、それを明らかにするためにこそ価値論があるのです。ということは価値論の理論的な重要さを軽視したり、いわんや無視することではありません。価値論研究において、基本的テーマを見失ってはならぬということにすぎません。
 古典経済学においても、価値論はたんなる価格の理論にすぎぬものでないことは、すでに講義で述べたとおりです。スミスやリカードウが明らかにしようとしたことは、何よりも生産過程であり資本蓄積の過程であります。そのためにこそ、かれらは価値という厄介な問題にとりくんだのです。
マルクスが古典派をくつがえそうとしたのは、かれらの資本制生産過程の把握(の一面性)であります。マルクスの古典派価値論の批判的継承は、この一点にかかわります。いわば、資本制生産の構造と法則を、その歴史性において、矛盾において、つかむこと。古典派価値論からマルクス価値論への転回は、古典派的歴史理論からマルクス歴史理論への転回、大づかみに言えば、自然法的歴史把握から史的唯物論への転回として考えねばなりません。


6. 第一に、古典派の場合には資本主義が超歴史的なものとして考えられていますが、マルクスの場合には歴史的なものとして考えられています。
たとえば、ケネーの経済学説を思い出して下さい。かれの理論はこうでした。王様といえどもどうしようもない客観的な経済的自然法則がある。その法則が要求するような法が実定法として施行されていれば、経済はうまく運行する。しかし、それに矛盾するような実定法が施行されていると、経済はうまく運行せず、生産力も発展しない。フランスの現在の疲弊は、正に、経済の自然法則に合わない実定法が施行されているからだ。
 この場合、経済の自然法則というのは経済一般の法則という抽象的なものでなく、事実上は、生まれつつあるブルジョア経済の法則でした。かれは、生まれつつあるブルジョア的経済と、もはや古くなった絶対主義的法=政策体系との矛盾をとらえていたのです。
 しかし、
かれは、自ら発見した事実上歴史的なものを、まさに歴史的なものとして理解することが出来なかった。ケネーは、ブルジョア経済を歴史的なものと見ず、ブルジョア経済の法則を超歴史的な生産の自然法則としておさえます。だから、それに(ブルジョア経済に)対応する実定法も、歴史的なものと考えられずに、本来いつでも施行さるべきであったところの(ただ王と人類の無知によって施行されなかったところの)永遠的な合理的体制として考えられたのでした。
 スミスの場合になると、も少し「歴史的」要素が入って、経済の自然法則に対応するような人々の意識が生産のなかから生まれ、そしてそれが実定法として次第に現実化するという考えがでています。しかし、その場合でも、経済の法則はやはり超歴史的なものとして考えられています。


7.
 交換による孤立的労働の結合、これがいつの時代でも社会的生産の基礎でした。
交換は、相手の所有を尊重して、つまり正義を犯すことなく自己の利己心をはかる各人の行為によってひきおこされるが、交換という個々人の行為の総結果として客観的におこるのは孤立的労働の社会的結合である。その交換をひきおこす原理をスミスは人間の本能として考えながら、同時に、その現実的な発現は「歴史的」に発展したものとしています。未開人の場合には、交換すべき剰余生産物が少なく現実に交換関係に入る場合がまれであるために、交換本能は現実的にならない。社会が発達し、交換さるべき剰余生産物が増大するにつれて、人々はますます多く現実の交換関係に入る機会を多くもつようになってくる。その交換の実践が人々の心に「正義を犯すことなく利己心を発揮」するという近代的エトスを定着させ、自然的正義が実定法として実現される基礎をつくる。
つまり、
交換において人は相互に ― 等しく商品所有者としての ― 相手方の立場に立ち、相手方に「ついてゆく」ことを要求されるが、交換が日常的になるにしたがって、交換において対処しあう無数の商品所有者が、ついにはかれの胸中に入って「内なる人」となり、所有者としての他人の立場を尊重することを内から見張るようになってくる。交換や蓄積の条件たる所有の安全は、いちいちの場合に腕力や法で守られなくても内面的な規制によって人々相互の間で守られるようになる。それゆえ、たまたま所存権を犯す人が出た場合に、国家が強制力を発動しても、人々はそれを強圧とは感ぜず、むしろ、それを是認し、要請するようになる。こうして生成してきた近代的実定法に守られた所有の安全が、また逆に資本の蓄積を可能ならしめ、いよいよ交換による労働の結合を普遍的なものにしてゆく。こういった事こそが、支配階級の利己心と迷妄からくるあやまった実定法にもかかわらず、拡大再生産を可能にし、同時に基本的には、あやまった実定法にかわって正しい実定法が制定される基礎になる。『道徳感情の理論』と『グラスゴウ大学講義』でのスミスの叙述を『国富論』の論理で整理してみると、かれの自然法学の内容はこうでした。ブルジョア的人間とブルジョア的法体系とが、歴史的生成において考えられています。しかし、ここでもやはり、社会的生産の基礎そのものは、いつでも、超歴史的に―交換による孤立的労働の結合として―考えられています。かれが見た拡大再生産の自然的法則は、事実上、ブルジョア的拡大再生産の法則であった。それをスミスは超歴史的な自然法則と考える。それだからまた、それに対応するブルジョア的人間と法体制も、究極するところ超歴史的ととらえられています。ブルジョア的経済、ブルジョア的人間、ブルジョア的法体制、この三位一体は歴史のはじめにすでに予定されていて、ただ現実の歴史への満面開花が漸次的な進行をするというのみです。
 というわけで、自然法的歴史把握は歴史的には、生まれつつあるブルジョア経済を、古くなった法体制から解放するという役割を果しましたが、思考方法それ自体は超歴史的です。ブルジョア経済が、自然的、超歴史的なものとしてとらえられています。経済的土台そのものが歴史的特殊性においてとらえられず、したがって生産力と生産関係との統一としてとらえられていない。生産関係的なものは法や、政策や、人間の意識として経済の外に放り出されている。拡大再生産が生産力の拡大であると同時に生産関係の拡大であるということ、したがって、拡大再生産が生産力と生産関係との矛盾の拡大再生産でもあるという考えはむろんない。拡大再生産それ自体が手放しに望ましいことで、困ると考えられたのは、経済と矛盾する法の体系が拡大再生産をチェックするということだけ。ここには、自然法(経済の自然法則)と実定法との矛盾はあるが、経済的下部構造自体の矛盾という考えはない。同時に、資本家的実定法が実現された場合には、いま述べた経済と実定法の矛盾もすべてなくなる。矛盾のない経済がひたすら拡大再生産してゆくばかりである。

8. マルクスの場合には、経済的法則が歴史的にとらえられており、生産力と生産関係の矛盾が、経済的下部構造それ自体において、把握されております。以下、『資本論』の市民社会分析のあとを紹介する場合に、「一見、超歴史的に見えるものを、いかに歴史的にとらえてゆくか」、その仕方を伝えることに、強調点をおこうとおもいます。
 いま一つ。『資本論』は社会主義の科学的実証として書かれています。社会主義思想それ自体はマルクス以前にもありました。マルクスの仕事は、社会主義がいかに現実性を有するかの論証であります。史的唯物論の実証をまず―数多い社会体制のうち、他でもない―資本主義の経済的基礎の分析に求めようとしたのは、従来の社会のうち資本主義が一番発展している、だから資本主義の分析は従来の社会体制の分析に対して、あたかも人間の分析が猿の分析に対してもつような基礎的な意味をもつ、という論理的意味もありますが、何よりも、資本主義が社会主義に直接に先行するという実践的意義があるからでしょう。社会主義実現の主体的客体的条件が、資本主義それ自体のなかでいかに用意されてくるか。それが、マルクスの資本分析をつらぬく基本的視角です。その基本的視角をつらぬきながら、
マルクスは、資本主義という特殊、歴史的な体制の下での社会的生産力の発展の様相を研究しました。この点も、くわしいことはのちにゆずらねばなりませんが、前章までの叙述を古典対マルクスという観点で整理する意味をもかねて、ごくかんたんに古典派と比較しておく方が便利かとおもいます。

9. 古典派でも生産力をやはり社会的な生産力としてつかまえています。分業=社会的に結合した労働。これが生産力の基礎でありました古典派の場合には、近代的な私的所有が、社会的生産に対応する法と考えた。つまり近代的私的所有を、社会的生産がそこで一番発展する法的な形成と考えたわけであります。個々人の私的労働も、その実は「見えざる手」によって社会的労働に結合している、それがスミスの分業論のかなめであって、近代的私的所有権があたえられていれば、いかにして社会的生産が発展するかが、スミスのもっとも言いたかったことです
 資本主義社会は、一方では、それまでの階級社会のなかでもっとも社会的生産の発展した社会であります。巨大な工場を考えてみれば明瞭です。しかし他方、資本主義社会は、所有の形式について考えると所有が純粋に私的な性格のものとなり、かつ、かかる私的所有が外延的にもすべてをおおいつくした社会です。私的所有は、資本主義以前でもあります。しかし、これは私のもの、これは貴方のもの、ということが明瞭化し純粋になり、すべてのものに対して言われるようになったのは、資本主義社会です。資本主義は、一方で、私的所有の私的側面をもっとも純粋にし、他方で、生産の社会的性格をもっとも発展させた、と言えます。これを
スミスは私的所有が純化すればするだけ、それだけ、社会的生産は発展するという見方でとらえたわけです。


10.
 ところが、マルクスの場合では、資本主義における私的所有と社会的生産とが矛盾した姿でとらえられています。もちろん、マルクスも資本家的私的所有の下で社会的生産が発展したということは、決して否定しない。個々の資本家への生産手段の集積によって社会的生産力が発展する。最大の剰余生産物が出来、その剰余生産物が最大の割合で生産に再投入され、社会的生産力を発展させる。このことの歴史的意義をマルクスはいかなる場合でも見失っていません。しかしマルクスは、社会的生産が私的所有のワクの中で発展するというその矛盾を見逃さない。また(したがって)私的所有のワクの中で発展する社会的生産が、私的所有というワクには合わなくなつてくるという事実をかれは明らかにします。社会的生産に対応する社会的所有がいかに不可避になるか、そのプロセスをかれは資本主義の矛盾にみちた発展のなかに見るのです。この点が古典派とは、同じ資本主義を分析の対象としながら、180度ちがう点であります。(注1)

 
(注1) いま述べた、二つの点における古典派とマルクスの違いは、社会的生産の機構のおさえ方の違いとなって現われています。スミスは、工場内で発展する分業も、商品交換によって媒介される社会内の分業も、同一視していますが、マルクスは両者の対立を鋭く把握する。スミスのこの同一視は、かれの問題意識によります。スミスは工場内にある分業と同じものが、眼には見えないが、商品交換によって社会全体に存在し、私的に遂行されている労働が、じつは社会的労働の一環になっていること、これこそが文明社会の生産の基礎だとしたのです。自由な人間のいとなむ社会的労働、これが「見えざる手」の思想で支えられたスミスの生産的基礎把握です。私的所有と社会的生産の矛盾が論理的に導入される余地はありません。マルクスの場合では「商品生産のなかで矛盾的に展開し、「資本制生産過程そのものの機構によって訓練され結合され組織されるところの」(『資本論』青木文庫、第4分冊、1159頁)、近代的労働者をつくりだすことによって、商品生産そのものを止揚してゆく基礎としての、工場内での社会的生産」(『経済学の生誕』234頁〔本著作集第1巻210頁〕注)が、資本主義の生産的基礎として分析の中心にすえられています。くわしくは『生誕』後編・第1-2章。

11. 以上、一口で言うと、古典派の場合は、資本主義が社会的生産の発展する自然な形態としてとらえられ、したがって歴史の終極点として考えられているのに対して、マルクスの場合には、私的所有の中で社会的生産が発展するその矛盾の終極点としてとらえられ、階級なき社会的所有の社会という新しい社会の前段階としてとらえられている。すなわち、一方(古典派)では歴史の終極点であり、マルクスでは本来の歴史の前段階にすぎない。こういったちがいがある。ではそのちがいはどうしてできたか。表象的把握のちがいに注目しよう。

 一つには、資本主義社会という階級社会の特殊な―従来の社会とはちがった―性格、一つにはその(資本主義社会の)最大多数をしめる直接的生産者=賃金労働者を、他の社会の直接生産者と区別する場合、どこに着目して見るかという視点のちがい、この二つが問題になります。

 資本主義社会の基礎は、直接生産者たる賃労働者が、商品たる労働力の(そして労働力のみの)所有者であるということです。マルクスの表現に従えば、かれは、二重の意味において自由(frei)である。すなわち、一方でかれは、労働力を自分のものとして所有し、(直接的に他人にしばられることなく)自由に処分しうるという意味で。同時にまた他方、生産手段を失い(frei)、生産物たる商品ではなく、他ならぬかれ自身=労働力を商品として、生産手段の所有者に売りわたさねばならぬという意味において。
すると、賃労働者は二重の資格をもっているわけです。すなわちかれは、労働力という商品の所有者であり、同時にまた、かれ自身によって日々売りわたされるところの商品それ自体(労働力)でもある。
 一方において、賃労働者は、労働力という商品の所有権者であり、一般に所有権の完全なる主体としての他の階級と全く同じ権利能力を(法的には)もっている。そして、直接的生産者が法の完全なる・他の階級と全く異なるところのない・権利能力を保有するというのは、階級社会のなかでは資本主義社会においてだけです。たとえば奴隷制社会をとってみよう。そこでの直接生産者=奴隷は、契約の対象にはなるけれどもかれ自身契約の当事者になることはない。すなわち所有権の客体であって主体ではない。人格ではなくて物である。だが、資本主義社会の賃労働者は、まさに商品の所有者として契約の自由なる主体としてあらわれる。まさに両極端です。この点にだけ注目してみると、資本主義社会は他の階級社会とはちがって、すべての成員が自由な、他ならぬ市民の社会としてあらわれる。そして、この同じ観点から歴史を見ると、社会の発展は、多かれ少なかれ不自由な社会から、すべての人間が自由な主体たる資本主義社会をめざして行なわれる、ということになります。古典派は他ならぬこの観点で社会と歴史を見ました。売買の対象となるのは(人間たる労働力ではなくて)労働だという古典派の摑み方はそのあらわれです。労働者は―人間として見られるかぎり―、自由な主体として、資本家と同じ等質のホモ・エコノミクスとして摑まれています。「人々にとっては自分の労働の財産だ、……貧之人の親譲りの財産はかれの手腕の力と技巧とである。だからこの力と技巧とを、かれが隣人を害することなくして、自分の適当と思うように用いるのを妨げるということは、この最も聖なる財産に対する明らかなる冒涜である。それは職工とかれを傭いたいと思う人々の双方に対する正しき自由の歴然たる傷害である。」(『国富論』第1分冊、238頁〔(1)337-338頁〕

12. だが、たての半面を見よう。
 このように賃労働者は所有権の主体であり、その意味で自由な人格であるとしても、かれは生産手段を所有していないのだから、かれの商品というのはほかならぬかれ自身です。それに所有権者たるかれ自身によって資本家に売られてゆくところの、所有権の一客体にほかならない。人間が商品になっている。それが商品たる労働力です。むろん賃労働者は同時に商品(労働力)の所有者であるけれども、それ(労働力)は貨幣と引きかえに資本家に売られた。貨幣は労働者のもの、労働力は資本家のものです。資本家はそれをかれの所有物として、他の凡百の商品(生産手段)とともに消費する。それが生産過程です。そこは工場だから「無用のもの入るべからず」と書いてあるけれども、入って見ると資本の王国であって、資本家の専一的な支配が確立されている。のちに見るように、生産過程は人間と社会の歴史の上でもっとも重要な過程だが、その生産過程において人間が社会の主人公=主体ではなくものになっている。しかも、資本の専一支配は資本主義が確立され、純化されるにしたがってゆるぎのない強固なものになる。―マルクスはこの観点で社会と歴史をとらえます。売買されるのは(労働ではなくて)労働力すなわち商品たる人間だ、というのがその表現です。むろん、古典派の「労働」という表現に加えて、「労働力」という用語を用いるようになったのは、マルクスが経済学研究に従事してから相当後のことであるけれども、用語の正確さは別にして、摑み方それ自身について言うと、最初から古典派とは対立的な摑み方をしている。人間が商品になっているというのはどういう意味か、これが経済学研究の最初からマルクスのかかげている問題です。

 
というわけで、古典派は労働者を工場の外で、商品の所有者として摑み、マルクスは生産の現場において、まさに賃金奴隷として労働者を把握している。こういう摑み方のちがいがあるわけです
 さて、そういうものとしての『資本論』の研究に入ることにします。
 ・・・以下、省略・・・