5. ヘーゲルとマルクス


ヘーゲル論理学入門


 1. 同一性差別-相等性Gleichheit



精神現象学、感覚的確信

資本論とヘーゲルの対比表

ヘーゲル動物的な有機体

ヘーゲル法哲学2018

ヘーゲル哲学入門第1回2018


 ヘーゲル『小論理学』第2部本質論20180223

 A 現存在の根拠としての本質
(Das Wesen als Grund der Existenz) 
     
a 純粋な反省規定(Die reinen Reflexionsbestimmungen)
  イ 同一性(Identitat)
 115

 本質は自己のうちで反照する。すなわち純粋な反省である。かくしてそれは単に自己関係にすぎないが、しかし直接的な自己関係ではなく、反省した自己関係、自己との同一性(Identitat mit sich)である。
  この同一性は、人々がこれに固執して区別を捨象するかぎり、形式的あるいは悟性的同一性である。あるいはむしろ、抽象とはこうした形式的同一性の定立であり、自己内で具体的なものをこうした単純性の形式に変えることである。これは二つの仕方で行われうる。その一つは具体的なものに見出される多様なものの一部を(いわゆる分析によって)捨象し、そのうちの一つだけを取り出す仕方であり、もう一つは、さまざまな規定性の差別を捨象して、それらを一つの規定性へ集約してしまう仕方である。


 同一性を、命題の主語としての絶対者と結合すると、絶対者は自己同一なものであるという命題がえられる。―この命題はきわめて真実ではあるが、しかしそれがその真理において言われているかどうかは疑問であり、したがってそれは、少くとも表現において不完全である。なぜなら、ここで意味されているのが抽象的な悟性的同一性、すなわち本質のその他の諸規定と対立しているような同一性であるか、それとも自己内で具体的な同一性であるか、はっきりしないからである。後者の場合には、後でわかるように、それはまず根拠であり、より高い真理においては概念である。―絶対的という言葉さえ、抽象的という意味しか持たないことが多い。絶対的空間、絶対的時間というような言葉は、抽象的な空間、抽象的な時間を意味するにすぎない。


 本質の諸規定を本質的な諸規定ととれば、それらは前提された主語の述語となる。そしてこの主語は、諸規定が本質的なのであるから、すべてのものである。このようにして生じる諸命題は、普遍的な思惟法則として言いあらわされている。かくして同一の法則は、すべてのものは自己と同一である、AはAである、と言われており、否定的には、AはAであると同時に非Aであることはできない、と言われている。―この法則は真の思惟法則ではなく、抽象的悟性の法則にすぎない。すでにこの命題の形式そのものがこの命題を否定している。およそ命題というものは、主語と述語との間に、同一のみならず区別をも持たなければならないのに、この命題は命題の形式が要求するところを果していないからである。しかし特にこの法則を否定しているのは、この法則に続く他のいわゆる思惟法則であって、それらはこの法則と反対のものを法則としているのである。― よく人々は、この命題は証明こそできないが、あらゆる意識はそれにしたがって動いており、そして経験は、すべての人が、この命題を聞くやいなや、すぐにそれに賛成することを示している、と主張している。しかしわれわれは、そんないいかげんな学校経験にたいして、いたるところにみられる経験を対立させることができる。それによれば、いかなる意識もこうした法則にしたがって思惟したり、表象したり、語ったりしはしないし、いかなる存在も、こうした法則にしたがって存在してはいない。このような自称真理法則にしたがって語るのは(遊星は遊星である、磁気は磁気である、精神は精神である、等々)、馬鹿らしいと思われている。これがいたるところにみられる経験である。こんな法則を信じているのは、先生がただけであって、そんな先生がたは、かれらが大真面目に講義している論理学とともに、とっくに常識にも理性にも信用を失っているのである。

 
補遺 同一性はまず、われわれが先に有として持っていたものと同じものであるが、しかしそれは直接的な規定性の揚棄によって生成したものであるから、観念性としての有である。― 同一性の本当の意味を正しく理解することは、非常に重要である。そのためにはまず第一に、それを単に抽象的な同一性として、すなわち、区別を排除した同一性として解さないことが必要である。これが、あらゆるつまらない哲学と本当に哲学の名に値する哲学とが分れる点てある。本当の意味における同一性は、直接的に存在するものの観念性として、宗教的意識にたいしても、その他すべての思惟および意識にたいしても、高い意義を持つカテゴリーである。神にかんする真の知識は、神を同一性、絶対の同一性として知ることからはじまる、と言うことができる。そしてこのことは同時に、世界のあらゆる力と光栄とは神の前に崩れ去り、ただ神の力および光栄の映現としてのみ存在しうることを意味する。― 人間を自然一般および動物から区別するものも、自己意識という同一性である。動物は、自分が自我であること、すなわち自己のうちにおける純粋な統一であることを理解する点まで達していないのである。― 思惟にたいして同一性が持っている意義について言えば、何よりも大切なことは、有およびその諸規定を揚棄されたものとして内に含んでいる本当の同一性と、抽象的な、単に形式的な同一性とを混同しないことである。思惟は一面的であるとか、融通がきかないとか、内容がないとかというような、特に感情および直観の立場から非常にしばしば思惟に加えられる非難は、思惟の働きがただ抽象的な同一性の定
立にのみあるとする、誤った前提にもとづいているのである。そして本節で述べたような、いわゆる最高思惟法則を掲げることによって、こうした誤った前提を確認するものは、ほかならぬ形式論理学である。もし思惟が抽象的同一性を出ないとすれば、われわれはそれをこの上もなく無用で退屈な仕事と言わなければならないであろう。概念、より進んでは、理念は、確かに自己同一なものではある。しかしそれらは、同時に自己のうちに区別を含んでいるかぎりにおいてのみ、そうなのである。

     ロ 区別 (Der Unterschied)
 116

 本質は、それが自己に関係する否定性、したがって自己から自己を反撥するものであるときのみ、純粋な同一性であり、自分自身のうちにおける反照である。したがって本質は、本質的に区別(Unterschied)の規定を含んでいる。
  ここでは他在はもはや質的なもの、規定性、限界ではない。今や否定は、自己へ関係するものである本質のうちにあるのであるから、同時に関係として存在する。すなわちそれは区別であり、定立されて有るもの(Gesetztsein)であり、媒介されて有るもの(Vermitteltsein)である。

 
補遺 同一はいかにして区別となるかというような質問をする人があるとすれば、こうした質問のうちには、同一性は、単なる同一性すなわち抽象的な同一性として、単独に存在するものであり、区別も同様に単独に存在する或る別なものである、という前提が含まれている。このような前提をしていては、呈出された質問にたいする答は不可能である。同一を区別と別なものとみれば、そこにわれわれが持つのは区別だけである。進展の径路を問う者にとって、進展の出発点が全く存在しないのであるから、区別への進展を示そうにも、示しようがないわけである。したがってこうした質問は、よく考えてみると、全く無意味である。こんな質問をする人があったら、われわれはまず、かれは同一性という言葉のもとに何を考えているのかときいてみるといい。すると、その人が何も考えていないこと、その人にとって同一性とは空虚な名称にすぎないことがわかるであろう。なお、すでに考察したように、同一性は否定的なものではあるが、しかし抽象的な、空虚な無ではなく、有およびその諸規定の否定である。したがって同一性は同時に関係であり、しかも否定的な自己関係、言いかえれば、自分自身から自己を区別するものである。



  
117  差別、相等性


 (1) 区別は、第一に、直接的な区別、すなわち
差別(Verschiedenheit)である。差別のうちにあるとき、区別されたものは各々それ自身だけでそうしたものであり、それと他のものとの関係には無関心である。したがってその関係はそれにたいして外的な関係である。差別のうちにあるものは、区別にたいして無関心であるから、区別は差別されたもの以外の第三者、比較するもののうちにおかれることになる。こうした外的な区別は、関係させられるものの同一性としては、相等性(Gleichheit)であり、それらの不同一性としては、不等性(Ungleichheit)である。
 比較というものは、相等性および不等性にたいして同一の基体を持ち、それらは同じ基体の異った側面および見地でなければならない。にもかかわらず悟性は、これら二つの規定を全く切りはなし、相等性はそれ自身ひたすら同一性であり、不等性はそれ自身ひたすら区別であると考えている。

 差別も同じく一つの命題に変えられている。「すべてのものは異っている」とか、「互に全く等しい二つのものは存在しない」という命題がそれである。ここではすべてという主語に、最初の命題において与えられていた同一性という述語とは反対の述語が与えられている。したがって、最初の命題に矛盾する法則が与えられているわけである。しかし差別は外的な比較に属するにすぎないから、或るものは、それ自身としては、ひたすら自己と同一であり、この第二の命題は第一の命題と矛盾しない、という弁解も成立する。そうするとしかし、差別は、或るものすなわちすべてのものに属さず、このような主語の本質的な規定をなさないことになり、第二の命題は全く語ることのできないものとなる。― 或るもの自身が、第二の命題に言われているように、異っているとすれば、それは或るもの自身の規定性によってそうなのである。しかしこの場合考えられているのは、もはや差別性そのものではなくて、特定の区別である。―これがライプニッツの命題の意味でもある。

 
補遺 悟性が同一性を考察しはじめるとき、それは実際はすでに同一性を越えているのであって、それが目前に持っているのは、単なる差別の姿のうちにある区別である。例えば、われわれが同一の原理といういわゆる思惟法則にしたがって、海は海である、空気は空気である、月は月である、等々と言う場合、われわれはこれらの対象を相互に無関係なものと考えているのであり、したがってわれわれがみているのは、同一性ではなくて区別である。しかし、われわれは諸事物を単に異ったものとみるにとどまらず、さらにそれらを相互に比較し、そして比較によって相等性および不等性という規定を持つようになる。有限な学問の仕事は、大部分これらの規定を適用することからなっており、今日では学問的な取扱いという言葉は、主として、研究対象を相互に比較することがすべてだとする方法と考えられている。もちろん、こうした方法によって多くの非常に重要な成果があげられたことを否定してはならないし、この点から言って特に比較解剖学および比較言語学の領域における近代の大きな業蹟を忘れてはならない。しかし注意すべきことは、こうした比較の方法というものが知識のあらゆる領域で同様の成果をもって適用されうると考えるのは、いきすぎだということである。のみならず、この点は特に強調しておかなければならないが、単なる比較というものは、まだ学問の要求を究極的に満足させうるものではなく、真の概念的認識の(欠くことのできないものではあるが)準備にすぎない。― 比較においては、現存している区別を同一へ還元することが重要であるのだから、数学こそこの目的を最も完全に遂行する学問と言わなければならない。なぜ数学がこの目的を最も完全に遂行するかと言えば、量的な区別というものは全く外的な区別にすぎないからである。例えば、幾何学においてわれわれは、質的に異っている三角形と四角形とを、質的な区別を捨象することによって、大きさの点で互に等しいとする。数学のこうした長所を経験科学も哲学もうらやむべきではない。そのことについて私はすでに99節の補遺で述べておいたが、なおこのことは単なる悟性的同一について先に注意したことからも明白である。―ライプニッツが或る時宮廷で差別の原理を述べたとき、廷臣や女官たちは庭を逍遥しながら、互に区別できないような二枚の木の葉をみつけ出してかれの思惟法則を反駁しようとした、という話がある。これは明かに形而上学を研究する安易な方法であって、今日なお人々はこうしたやり方を好んでいる。しかし、ライプニッツの命題について注意すべきことは、そこで言われている区別とは単に外的で無関心な差別ではなく、本質的な区別と解されねばならず、したがって区別されているということが本性的に事物に属する、ということである。
         
  118
 
相等性とは、同じでないもの、互に同一でないものの同一性であり、不等性とは、等しくないものの関係である。したがってこの二つのものは、無関係で別々の側面あるいは見地ではなく、互に反照しあうものである。かくして差別は反省の区別、あるいは、それ自身に即した区別、特定の区別となる。

 
補遺 単に差別されたものは互に無関係であるが、相等性と不等性とは、これに反して、あくまで関係しあい、一方は他方なしには考えられないような一対の規定である。単なる差別から対立へのこうした進展は、すでに普通の意識のうちにも見出される。というのは、相等を見出すということは、区別の現存を前提してのみ意味を持ち、逆に、区別するということは、相等性の現存を前提してのみ意味を持つ、ということをわれわれは認めているからである。区別を指摘するという課題が与えられている場合、その区別が一見して明かなような対象(例えばペンと駱駝のように)しか区別しえないような人に、われわれは大した慧眼を認めないし、他方、よく似ているもの(例えば「ぶな」と「かし」、寺院と教会)にしか相等性を見出しえないような人を、われわれは相等性を見出す勝れた能力を持っている人とは言わない。つまりわれわれは、区別の際には同一性を、同一性の際には区別を要求するものである。にもかかわらず、経験科学の領域では、人々はこれら二つの規定の一方のために他方を忘れることが非常に多く、或るときは学問的関心がひたすら現存する区別を同一性へ還元することに向けられ、また或るときは、同じく一面的に、ひたすら新しい区別の発見に向けられている。こうしたことは特に自然科学において行われている。人々はそこで、一方では新しい、ますます多くの新しい物質、力、類、種、等々を発見しようとしており、これまでは単純と考えられていた物体が複合物であることを示そうとしている。そして近代の物理学者や化学者は、たった四つの、しかも単純でさえない元素で満足していた古代人をわらっている。他方ではしかしかれらは、今度はまた単なる同一性をのみ眼中におき、例えば電気と化学的過程とを本質において同じものとみるにとどまらず、消化や同化作用のような有機的過程をも単なる化学的過程とみるのである。すでに103節の補遺で述べたように、人々はしばしば現代の哲学を嘲笑的に同一哲学と呼んでいるが、哲学特に思弁的論理学こそまさに、もちろん単なる差別には満足せず、現存するすべてのものの内的同一性の認識を要求しはするけれども、区別を看過する単なる悟性的同一性の無価値を示すものなのである。


        
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 (2)
 自己に即した区別は本質的な区別、肯定的なものと否定的なものである。肯定的なものは、否定的なものでないという仕方で自己との同一関係であり、否定的なものは、肯定的なものでないという仕方でそれ自身区別されたものである。両者の各々は、それが他者でない程度に応じて独立的なものであるから、各々は他者のうちに反照し、他者があるかぎりにおいてのみ存在する。したがって本質の区別は対立(Entgegensetzung)であり、区別されたものは自己にたいして他者一般をではなく、自己に固有の他者(sein Anderes)を持っている。言いかえれば、一方は他方との関係のうちにのみ自己の規定を持ち、他方へ反省しているかぎりにおいてのみ自己へ反省しているのであって、他方もまたそうである。つまり、各々は他者に固有の他者である。
  本質的な区別は、「すべてのものは本質的に区別されたものである」、あるいは別な言い方によれば、「二つの対立した述語のうち、一方のみが或るものに属し、第三のものは存在しない」という命題を与える。―この対立の命題は、きわめて明白に同一の命題に矛盾している。いうのは、後者によれば或るものは自己関係にすぎないのに、前者によればそれは対立したもの、自己に固有の他者へ関係するものと考えられているからである。このような矛盾した二つの命題を、くらべることさえしないで、法則として並べておくということは、抽象に固有な無思想である。― 排中の原理は、矛盾を避けようとし、しかもそうすることによって矛盾を犯す、有限な悟性の命題である。Aは(+A)か(-A)かでなければならない、とそれは言う。しかしこれによってすでに、+でも-でもなくしかも(+A)としても(-A)としても定立されている第三のもの、Aそのものが言いあらわされている。(+W)が西へ向っての6マイルを、(-W)が東への6マイルを意味し、そして+と-とが相殺するとすれば、そこには対立なしにも対立をともなっても存在していた6マイルの道あるいは空間が残る。数や抽象的な方向につけられる単なるプラスとマイナスでさえ、ゼロを第三のものとして持っている、と言うことができる。しかし、+と-のような空虚な悟性的対立でも、まさに数や方向などのような抽象物においては、その場所を持っているということは否定できない。
 矛盾概念の説においては、一方の概念は例えば青であり(このような説においては、色のような感覚的表象さえ概念と呼ばれているのである)、もう一つの概念は非青である。したがってこのもう一つの概念は、例えば黄色というような肯定的なものではなくて、あくまで抽象的に否定的なものにすぎない。― 否定的なものはそれ自身のうちにおいてまた肯定的なものでもあるということ(次節をみよ)、このことはすでに、他者に対立しているものは、他者の他者であるという規定のうちにも含まれている。―いわゆる矛盾概念の対立の空虚は、あらゆる事物には、右に述べたような対立したすべての述語のうち一方のみが属して他方は属さない、したがって精神は白であるか白でないか、黄色であるか黄色でないかである、等々、というような、普遍的法則の言わば大げさな表現のうちにはっきりあらわれている。
 人々は同一と対立とがそれ自身対立したものだということを忘れ、そのために、対立の原理をも、矛盾の原理の形で言いあらわされた同一の原理と考えている。そして二つの互に矛盾した表徴のいずれも属さないような概念(前段を見よ)、あるいはいずれも属するような概念(例えば四角の円)は論理的に誤っていると言う。しかし四角の円や直線的な円弧は同じようにこの命題に矛盾しているが、幾何学者は少しもためらうことなく、円を直線的な辺からなる多角形とみ、またそうしたものとして取扱う。もっとも、円のようなもの(その単なる規定性)は、まだ概念ではない。円の概念においては中心点と周辺とが同様に本質的であって、円はこの二つの表徴を持っている。しかも周辺と中心点とは互に対立し矛盾したものである。
 物理学で大きな意義を持っている分極性(Polaritat)という表象は、対立にかんするより正しい規定を含んでいる。にもかかわらず物理学は、思想にかんしては、普通の論理学に頼っている。もし分極性という表象を発展させて、そのうちに含まれている思想に達したら、物理学はおどろくであろう。

 
補遺1 肯定的なものは再び同一性であるが、しかしより高い真理における同一性であって、それは自分自身への同一関係であると同時に、否定的なものでないものである。否定的なものは、それ自身としては、区別そのものにほかならない。同一そのものは、まず無規定のものである。これに反して肯定的なものは、自己同一なものではあるが、他のものにたいするものとして規定されているものであり、否定的なものは、同一性でないという規定のうちにある区別そのものである。すなわち、否定的なものは自分自身のうちにおける区別の区別である。― 人々は肯定的なものと否定的なものとを絶対の区別と考えている。しかし両者は本来同じものであり、したがってわれわれは、肯定的なものをまた否定的なものと呼ぶこともできるし、逆に否定的なものを肯定的なものと呼ぶこともできる。例えば、財産と負債とは、特殊の、独立に存在する二種の財産ではない。一方の人、すなわち債務者にとって否定的なものは、他方の人、すなわち債権者にとっては肯定的なものである。東への道程の場合でも同じことであって、それは同時に西への道程である。肯定的なものと否定的なものとは、したがって、本質的に制約しあっているもの、相互関係においてのみ存在するものである。磁石の北極は南極なしには存在しえず、南極は北極なしには存在しえない。磁石を切断すれば、一片には北極が、他方には南極があるというようなことはない。同様に電気においても、陽電気と陰電気とは独立に存立する別々の流動体ではない。一般に対立においては、区別されたものは自己にたいして単に或る他物を持つのでなく、自己に固有の他者を持つのである。普通の意識は、区別されたものは相互に無関係であると考えている。例えば、われわれは、私は人間であり、私の周囲には空気、水、動物、および他者一般がある、と言う。ここではすべてのものが別々になっている。哲学の目的は、これに反して、このような無関係を排して諸事物の必然性を認識することにあり、他者をそれに固有の他者に対立するものとみることにある。例えば、われわれは無機的自然を単に有機的なものとは別なものとのみみるべきではなく、有機的なものに必然な他者とみなければならない。両者は本質的な相互関係のうちにあり、その一方は、それが他方を自分から排除し、しかもまさにそのことによって他方に関係するかぎりにおいてのみ、存在するのである。同様に自然もまた精神なしには存在せず、精神は自然なしには存在しない。物を考える場合、「なお別なことも可能だ」と言う段階を脱するのは、一般に重要な一歩前進である。こういう言い方をする場合、われわれはまだ偶然的なものから脱していないのであって、これに反して、先に述べたように、真の思惟は必然的なものの思惟である。― 現代の自然科学は、まず磁気において極(Polaritat)として知られた対立を、全自然をつらぬいているもの、普遍的な自然法則と認めるにいたっているが、これは疑もなく学問上本質的な進歩である。ただこの場合大切なことは、折角それまで進みながら、またしても無造作に単なる差別を対立と同等なものと認めないことである。しかし人々は、よくそうしたことを行っている。例えば、人々は一方では正当にも色を二つの極のように対立するもの(いわゆる補色)とみな
がら、他方ではまた、赤、黄、緑、等々を、互に無関係な、また単に量的な区別とみている。

 補遺2 われわれは、抽象的悟性の命題である排中の原理にしたがって語るかわりに、むしろ   「すべてのものは対立している」と言うべきであろう。悟性が主張するような抽象的な「あれか、これか」は実際どこにも、天にも地にも、精神界にも自然界にも存在しない。あるものはすべて具体的なもの、したがって自分自身のうちに区別および対立を含むものである。事物の有限性は、その直接的定有が、それが即自的にあるところのものに適合していないことにある。例えば無機的自然において酸は即自的には同時に塩基である。すなわち、それに固有の他者に関係しているということのみが、その有をなしているのである。だから酸はまた対立のうちに静かにとどまっているものではなく、常に自己の即自を実現しようと努めているものである。一般に、世界を動かすものは矛盾である。矛盾というものは考えられないと言うのは、わらうべきことである。このような主張において正しい点はただ、矛盾は最後のものではなく、自分自身によって自己を揚棄するということである。揚棄された矛盾は、しかし、抽象的な同一性ではない。同一性はそれ自身対立の一項にすぎないからである。矛盾として定立された対立の最初の結果は根拠(Grund)であって、それはそのうちに同一性ならびに区別を、揚棄され単なる観念的モメントヘおとされたものとして、含んでいるものである。

        120

 肯定的なものとは、向自的であると同時に自己の他者へ無関係であってはならないような、差別されたものである。否定的なものも同様に独立的で、否定的とはいえ自己へ関係し、向自的でなければならない。しかしそれは同時に、否定的なものとして、こうした自己関係、すなわち自己の肯定的なものを、他のもののうちにのみ持たなげればならない。両者はしたがって定立された矛盾であり、両者は潜在的に同じものである。また、両者はそれぞれ他方の否定であるとともに自分自身の否定であるから、両者は顕在的にも同じものである。両者はかくして根拠へ帰っていく。― あるいは、直接的に言えば、本質的な区別は即自かつ対自的な区別であるから、それはただ自分自身から自己を区別するのであり、したがって同一的なものを含んでいる。したがって、区別の全体、即自かつ対立的にある区別には、区別自身のみならず同一性も属するのである。― 自分自身へ関係する区別と言えば、それはすでに、この区別が自己同一的なものであることを言いあらわしているのであり、対立したものは一般に、或るものとその他者、自己と自己に対立したものとを自己のうちに含んでいるものである。本質の内在性がこのように規定されるとき、それは根拠である。

 ハ 根拠(Der Grund)

      121

 根拠(理由)は同一と区別との統一、区別および同一の成果の真理、自己へ反省すると同じ程度に他者へ反省し、他者へ反省すると同じ程度に自己へ反省するものである。それは統体性として定立された本質である。
 すべてのものはその十分な根拠を持っているというのが、根拠の原理である。これはすなわち、次のことを意味する。或るものの真の本質は、或るものを自己同一なものとして規定することによっても、異ったものとして規定することによっても、これをつかむことができず、また或るものを単に肯定的なものと規定しても、単に否定的なものとして規定することによっても、つかむことができない。或るものは、他のもののうちに自己の存在を持っているが、この他のものは、或るものの自己同一性をなすものとして、或るものの本質であるようなものである。そしてこの場合、この他者もまた同じく、単に自己のうちへ反省するものではなく、他者のうちへ反省する。根拠とは、自己のうちにある本質であり、そしてこのような本質は、本質的に根拠である。そして根拠は、それが或るものの根拠、すなわち或る他のものの根拠であるかぎりにおいてのみ、根拠である。

 ・・・以下、省略・・・