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    アリストテレス
 『形而上学』 ・・・実体と質料に注目・・・



 
 『形而上学』 第5巻第3章 ストイケイオン
stoicheion : 構成要素、元素


→ ウーシア οὐσία ウィキペディア参照

→ アリストテレスからヘーゲルの「実体 



 
  

   A. 『形而上学』 5巻8章   〔 実体 ・ ウーシア 〕



 ウーシア〔実体〕と言われるのは、(1)単純物体、たとえば土や火や水やその他このような物体、また一般に物体やこれら諸物体から構成されたものども、すなわち生物や神的なものども、およびこれらの諸部分のことである。これらすべてが実体と言われるが、そのわけは、これらが他のいかなる基体〔主語〕の述語〔属性〕でもなくかえって他の物事がこれらの述語であるところのものどもであるからである。

 
しかし他の意味では、
(2)このように他の基体の述語となることのない諸実体のうちに内在していて、これらの各々のそのように存在するゆえんの原因たるものをも実体と呼ぶ。 たとえば生物では、それに内在する霊魂〔生命原理〕がそうである。さらにまた、(3)あのような諸実体の部分としてこれらのうちに内在し、これらの各々をこのように限定してこれとして指し示すところのものをも実体と呼ぶ。そしてこれは、これがなくなればその全体もなくなるに至るような部分である。
 
たとえば、或る人々の言っているように、面がなくなれば物体がなくなり、 線がなくなれば面がなくなるがごときである。また一般に、かれらの考えでは、数もそのような実体である、というのは、数がなくなればなにものも存在しなくなり、数がすべてを限定しているというのだから。

 
さらに、
(4)もののなにであるか〔本質〕― このなにであるかを言い表わす説明方式〔ロゴス〕が
そのものの定義であるが、― これがまたその
各々のものの実体と言われる。

 
これを要するに、
実体というのには二つの意味があることになる。すなわち、その一つは、(1)もはや他のいかなる基体〔主語〕の述語ともなりえない最後の基体〔個物〕であり、他の一つは、これと指し示されうる存在であり且つ離れて存しうるものである、― すなわち各々のものの型式または形相がこのようなものである。


 B. 『形而上学』  7巻3章  〔 質料の抽象化についての注意点 〕

 
実体という語は、それより多くの意味においてではないにしても、すくなくとも主としてつぎの四つの意味で用いられている。
 
すなわち、
(1)もののなにであるか〔本質〕と、(2)普遍的なもの〔普遍概念〕と、(3)類とが、
それぞれの事物の実体であるとかんがえられており、さらに第四には(4)それぞれの事物の基体がそれの実体であると考えられている。
ところで、基体というのは、他の事物はそれの述語とされるがそれ自らは決して他のなにものの述語
ともされないそれのことである。それゆえに、まず第一にこれの意味を規定しておかねばならない。なぜなら、事物の第一の基体が最も真にそれの実体であると考えられているから。

 ところで、
(1)或る意味では、質料がそうした基体と言われ、(2)他の意味では型式が、また(3)或る他の意味では、これら両者から成るものがそれである。―
 
ここに私が質料と言っているのは、たとえば銅像について言えば、青銅がそれであり、型式というのはその形像の型であり、両者から成るものというのはこれらの結合体なる銅像のことである。― したがって、もしも形相が質料よりもより先であり、より多く真に存在するもので同じ理由によって、形相もまた、形相と質料との結合体よりもより先のものであろう。
 
 
さて、いまここに、実体とはそもそもなにかということの概略だけは述べられた、すなわちそれによると、実体というのは他のいかなる基体の属性でもなくてそれ自らが他の述語の主語であるところのそれであった。しかし、ただこのように定義しただけではいけない、これだけでは十分でない。なぜなら、この定義はそれ自体不明瞭であるだけでなく、これでは質料こそ実体であるということになるから。というのは、もし質料が実体でないとすれば、そのほかにはなんらの実体の存するをも認めえないことになろうからである。なぜなら、他のすべての抽き去られたあとには、明らかになにものも残らないと考えられるからである。

 
けだし、他のすべては、物体の受態であるか所産であるか能力であるかであり、あるいは長さや広さや深さのごときでさえも或る量であって実体ではなく、かえってこれらがそれの述語であるところの第一のそれこそ実体なのであるから。しかし、あたかもそれゆえに、長さや広さや深さの抽き去られたとき、
われわれはそこに他のなにものの残り存するをも認めないであろう、ただそこにこれらによって規定される或るものの存するであろうことより以外には。こうしてそれゆえに、質料が、ただ質料のみが、このように考察しようとする人々には唯一の実体と見えるであろうこと必然である。

 ところで、ここに「質料」と私の言っているのは、それ自体はとくになにであるとも言われず、どれほどの量であるとも言われず、その他、もののあり方がよってもって規定されるものどものいずれによっても言い表わされない或るもののことである。けだし、これらの述語の各々がそれの述語とされはするが、それ自体はこれらのいずれともその存在の仕方を異にする或るものがあるからである。というのは、実体以外の述語は実体の述語となり、これはさらに質料の述語となるからである。 こうしてそれゆえに、この終局的なものそれ自体は、特定のなにものでもなく、どれだけの大きさのあるものでもなく、その他いかなるものでもない、のみならず、これにはいかなる否定的規定もありえない、なぜなら否定的な規定もただこれに付帯的に属しうるのみであろうから。
 
 
さて、このように考察すると、質料がすなわち実体であるという結論になる、しかしこれは不可能である。
なぜなら、離れて存するものであることとこれと指し示しうるものであることとが最も主として実体に属する
と認められているからであり、またそれゆえに形相と両者から成るものとの方が、ただの質料よりもより多く真に実体であると思われがちなのである。ところで、両者から成る実体、というのは質料と型式とから成る結合体のことであるが、この方はいまここではほっておいてよい。なぜなら、これは、〔型式や質料よりも〕より後のものであり、また明らかであるから。だが、質料も、或る意味では明らかなものである。しかし、第三の実体〔型式・形相としての実体〕については、これを研究吟味する必要がある、― これは最も多くの難問を含んでいるから。    
 
・・・以下、省略・・・



   形而上学  実体


  
C. 『形而上学』 7巻17章  〔 原理、原因としての実体 〕 

 
実体と言わるべきはなにであるか、それはどのようなものであるか、これをわれわれは、ふたたび、あるいはむしろ別の出発点から新たに出直して、説くことにしよう。そうすれば、これによって、おそらく感覚的諸実体についてのみでなくこれらとは離れて別に存在するあの実体についても明らかになるであろうから。さて、実体は一種の原理であり原因であるから、ここから研究を始めよう。さて、物事の「なにゆえに」そうあるかは、常に「なにゆえに或るものは他のものに属するか?」という形で問い求められる。

 
・・・・ここでわれわれの問い求めているのは、「
なにゆえに或るものが他の或るものに属するか」である。そこで、たとえば「なにゆえに雷鳴するか?」という問いについて言えば、これは「なにゆえに音響が雲のなかに生じるか?」と問うのと同じであるが、この場合に「なにゆえに」と問われているのは、或るものが他の或るものに属する関係いかんである。あるいはまた、「なにゆえにこれら ―たとえば煉瓦や石― が一つの家であるか?」と問う場合も同様である。さて、それゆえに、明らかにこの問いでわれわれは、その物事の原因を求めているのである。そして原因は、これをその説明方式〔ロゴス〕から言えば本質であるが、この本質というは、或る物事の場合には目的因である、たとえば家や寝台などの場合にはそうであろう。しかし他の或る物事の場合にはそれを動かした第一のものである。そしてこの種の原因は物事の生成しまたは消滅する場合にその原因として問い求められるが、前者はその物事の存在する理由としても問い求められる。


 
しかし、「或るものが他の或るものに」というようにはっきり言い表されない問いの場合には、最もしばしばその問い求められているものそのものが見おとされがちである。たとえば、「人間はなにであるか?」と問われるような場合、それは、この問いがあまりに単純に言い表わされていて、いまだこれらがこれであるというふうに区別されていないがためである。だからわれわれは、まず
問いの意味を分析してのちに、問い求むべきである。そうでないと、なにものかを求めながらなにものをも求めていないという中ぶらりになる。
 
ところで、この問い求められる物事がそうあるというその存在の事実は、すでに問うわれわれの手元にあり、われわれに与えられているのでなくてはならないからして、明らかにわれわれの問いは、「この質料はなにゆえにこの或るものであるか?」と問うにある。たとえば、「これらのもの〔この煉瓦や石など〕がこの家であるが、それはなにゆえか?」と問う、そしてこれに対して「それは、家の家たるゆえんのもの〔家の本質・形相〕がこれらのもののうちに内在しているがゆえにである」と答えられる。あるいはまた、これこれの個物が、言いかえればこれこれの形をもつこの肉体が、こうした人間であるのはなにゆえにであるか、と問う。だからして、ここに「なにゆえに」という問いでもとめられているのは、
これらの質料がこれこれのものであるゆえの原因、すなわち形相である。そして、これがまさにそのものの実体〔本質〕である。それゆえに、端的にしか言い表せないものどもの場合には、明らかにそこには問い求めることも教えることもありえず、これらを知るにはこのような問い求めの仕方とは異なる仕方によるほかない。
 
 
しかし、或るものから複合されて、その結果、全体として一つであるような複合体は、すなわち、穀粒の集積のようにでなしに語節がそうであるように結合されたものは、― というのは、語節はたんなる字母どもではなく、βαはβとαとではなく、肉は火と土とではないからである、なぜなら、複合体、たとえば肉または語節は、それぞれの要素に分解されると、もはや存在しないが、字母どもはそのまま存在し、火や土もまたそうだからである。

 そうだとすれば、たしかに語節は或るなにものかである、すなわちそれはたんに字母ども(或る子音と母音と)であるのではなくて、さらにこれらと異なる或るなにものかである。そのように肉もまた、たんに火と土とであるのでもなく、熱と寒とであるのでもなく、さらにこれらとは異なる或るなにものかであるが、― もしこの或るなにものかが、(1)それ自ら或る一つの構成要素〔エレメント〕であるか、あるいは(2)さらに幾つかの要素から成る或るものであらねばならないとすれば、まず、(1)それが或る一つの要素である場合には、ここでもふたたび、いまわれわれの述べたのと同じ論があてはまる、すなわち、たとえば肉は、この或るなにものかとあの火と土とから成るということになるが、それのみでなくさらにこれら三つと或る他のなにものかとから成るということになり、こうして無限にさかのぼるであろう。しかしまた、(2)その或るなにものかが或る要素から成るものだとすれば、それは明らかにただ一つの要素からではなくて一つより多くの要素から成っているはずである。こうして、この場合にもまたふたたび、さきの肉や語節の場合に述べたのと同じ論があてはまる、しかし、これは、構成要素〔エレメント〕ではない或るなにものかであって、これこそは、これこれを肉であらしめこれこれを語節であらしめるゆえんの原因である、と解されるべきであろう。その他の事物そのようにあるゆえんの第一の原因なのである。ところで、いろいろの事物のうち、或るものは実体ではないが、しかし、およそ実体は、実体であるかぎり、自然に従いまた自然の過程によって形成されたものであるから、この自然こそ実体であり、構成要素〔エレメント〕ではなくて原理であるようにみえる。そして、構成要素〔エレメント〕というのは、これらから成る事物のうちにその質料として内在し、その事物は分解されればこれらに帰するところのものどもである。たとえばαやβが語節〔βα〕の字母であるように。

  ・・・・以上で、終わり・・・