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 『資本論』の細胞理論とは
・・・




 Gallert ガレルト: ゲル・ゲラチン質、膠状物、凝結物 ・・コロイド-20世紀用語・・


 19世紀、生命科学の土台を形成した「細胞理論」を探究します。

 マルクスの「経済の細胞形態」を、自分の眼で観察することにより、

 『資本論』の精髄が体感できます。


                                          >>生命科学史に解説 ★クリック


  細胞理論の歴史


  ★ 目 次

 
 1. シュライデン 「植物発生論」 科学の名著4 近代生物学集 朝日出版社

 2. シュヴァン        

   「動物および植物の構造と成長の一致に関する顕微鏡的研究」 
                                
                              科学の名著4 近代生物学集 朝日出版社 


 3. ウィルヒョウ    

   「生理・病理学的組織説に基づく細胞病理学」  

  ・・・・もう膠状腫瘍にたいしてコロイドなどという表現を用いるべきではない・・・

                      科学の名著第Ⅱ期2 朝日出版社


 4. 『資本論』の細胞理論 ・・・・『資本論』入門 4月号 





 シュライデン 「植物発生論」抄録  1838年


われわれが動物の場合と同義で固体について語りうるのは、ある種の藻類や菌類のように、

体が単一の細胞でできている、きわめて下等な植物の例に限られる。

いくらかでも高い水準に発達した植物は、完全に個体性をもって独立した

個別的存在であるところの細胞の集合体である。


各細胞は二重の生活をする
。一は独立の生活であり、それ自身の発生(Entwicklung)のみに関わるものである。

他は植物体全体の不可欠な一部分となっているという意味で、間接的な生活である。

しかし植物生理学についてみても、また比較生理学一般についてみても、第一義的な、

絶対不可欠の基礎をなさなければならないのは、
個々の細胞の生命過程である

植物では澱粉がほとんど動物の脂油に代わって現われる。

それは将来の利用のために蓄積された余剰の栄養物である。

澱粉のかわりに、しばしば半ば顆粒化した物質がみられることがある。

たとえば花粉、ある種の植物の胚乳の中に、またしばしば葉の細胞の中に、

クロロフィルの礎質としてそれが存在する。

それはおもに内部構造のない不規則な粒状を呈している点で判別される。

またヨードチンキによって黄褐色あるいは褐色に着色する点で判別される。

これを私は粘液質と呼びたいと思うが、この物質はチトプラストを作っている物質と、おそらく同一物である。

しかしこれは澱粉が新たに形成されるさいに溶けて、糖またゴム質となる。

これがどのようにしておこるかは化学ではまだまったく知られていないものである。


さらに
体制化(Organisation)が進むとき、ゴム質がチトプラストに直接先行する最後の液体なのであるが、

その中にきわめて微細な顆粒が出現する。それは多くの場合、たんなる黒点としてしか認められないほど

微小で、その場合は、
この液体はヨードでやや暗い黄色に着色するようである。

しかし目にみえる程度の大きさの顆粒は暗い黄褐色に染まる。


体制化が起こるのはつねにこの物質の中においてである。そしてもっとも若い構造はもうひとつの、

完全に透明な物質でできている。この物質は圧を加えると均質な無色の塊となる。

乾燥状態にあるときには、水を吸わせると膨潤する。

ヨードチンキで何らの変化も受けず、それを吸着することもしない。圧を加えても全く無色のままで、完全に透明

であって、
周囲に着色物あるいは不透明な物体がないかぎり認めることはできない。

この物質はよく植物体の中に作られる(たとえばランの塊根の異常に大型の細胞中に少量の澱粉とともに

多量に作られている)。

便宜上、これを植物性ゲラチン質(Pflanzengallerteと呼ぶことにする。

なお従来の慣わしにごくわずかな訂正を加えて、トラガカントゴムの基質であるペクチン(Pectin)および

通常植物性粘液質の
名のもとに数えられている各種物質を、この呼称のもとに一括したいと考える。

 
後に化学変化によって細胞膜(Zellenmembran)またはそれで構成されて肥厚した構造に転化し

最終的に植物性繊維物質(Fasersfoff)に転ずるのは、このゲラチン質(Gallerteである。

普通これらの細胞は、当初は澱粉で満たされている。まれに粘液質またはゴム質で満たされていることもある。

この粘液質とゴム質は、発生の進行中つねに澱粉からできてくる。しかもこれらは、外側から内側へとしだいに

ゲラチン質に変わっていくようである。

――このゲラチン質の表面は螺旋の方向に従って変わり、最後に植物性繊維になる。

この螺旋の巻きは緻密なものも荒いものもある。――これらの構造を、異なった発生の段階で、

また異なった条件下で観察すると、螺旋形成は、細胞壁上で液体が細胞壁と

中央のゲラチン質の間を細胞壁に沿って螺旋状に流動する結果であると無意識のうちに考えてしまう。

ホルケルも一度、トチカガミで、作られつつある繊維のコイルの間を小型の顆粒が移動するのを

実際に観察したことがある。繊維が著しく多様な様相を呈するのは、

主としてその発生の時期と構成成分の化学変化の差に基づくものと思われる。

発生の時期に完全に依存しているのは次の二つの場合のいずれかである。

一つは螺旋繊維が形成されて細胞中に遊離してくるのが非常に遅い場合である。

他は、細胞がまだはなはだ柔軟なゲラチン状で、したがって同じくゲラチン質状である繊維に

密着できる時期に
螺旋繊維の発生が始まるので、それが細胞の膜から離れられない場合である

これはモクマオウ、クスノキ、トチカガミ、Trichochine、ランなどの場合である。

 しかしながら多くの場合は、細胞壁は形成が進みすぎており、繊維はそれと結合することができず、

細胞内に遊離した状態になっている。

――そのさい、ごく稀に素材がほとんど完全に繊維の形成に充当される場合がある(繊維が壁に覆われる時に

はかならずである)。

たとえば、Salvia Spielmanni, Momordica clateriumの場合がその例である。

とくに螺旋紋道管でこの徹底的消費がかならず起こり、
そのためにその後は空気だけを運ぶようになるものと

推測する根拠がある。――そのさいに、一本あるいはそれ以上の繊維が形成されることが多い。

しかしこの場合は
ゲラチン質の大部分がまだ消費しつくされないで残っている。


その
ゲラチン質は、細胞が水を吸うとふくれて繊維の上に広がり、繊維を被うように見えてくる。

これはアキギリ属とハナシノブ科のたいていのもの、Senecie flaccidus, Ocymum polystachyum

およびpolycladium (Lumnityera Jacq.)においてみられる例である。――これと前述の型との中間型がある。

それは、ゲラチン質自体が螺旋状に巻いた広い帯となり、

この帯の表面が無数の微細な繊維でできているようにみえる場合である。

これは、Perdicium taraxaciとZiziphoraで大変美しくみえる。――まだ形成があまり進んでいない段階では、

細胞の内部にはゲラチン質の円筒または円錐体が見られるにすぎないが、表面には微細な螺旋がみられる

――これはシソ科のある種、たとえばS. verticillataとLeptosiphon androsaceumで見られる。

最後に、最低の形成段階は次のような段階である。それは螺旋の帯模様を備えたゲラチン質の筒の中に

腔所があり、
その中にまだ分解されていない澱粉粒が含まれている段階である。

この意味深長な現象はDracocephalum moldovica, Ocymum basilieum

およびその近縁のいくつかの種でみいだされている。



 シュヴァン  1839年

「動物および植物の構造と成長の一致に関する顕微鏡的研究」 抄録               


自然科学の個別的な部門の間の結び付きが日増しに緊密になりつつある、
というのがわれわれの時代の有する本質的な強みであり、

<自然科学>[物理的諸科学]が最近なしとげた進歩の大部分は、まさに、

これらの諸部門が相互に浸透し合い、補い合ったために生じたものである。

だがこのことは、動植物の解剖学と生理学は、優れた人びとの多大な努力にもかかわらず、

[並行して進歩はしているものの]まだほとんど絶縁されたままであり、一方の領域から出される結論は、

他方の領域に対しては、
ごくわずかな、そしてきわめて用心深い適用の余地しかないという現状であるだけに、

いっそう目につくのである。
これら二つの科学は、かなり緊密な相互の連絡を最近やっと取り始めたばかりである。


――この論文の課題は、
動物と植物の要素的部分(Elementartneil)の発展法則が同一であるという点から、

有機的自然の二つの界(Reich)〔動物界と植物界〕の間のきわめて密接な関係を証明することにある。


すべての結晶が、それらの形が多様であるにもかかわらず、同じ法則によって生じるのとほぼ同様に、

あらゆる生物体の個々別々の要素的部分のどれを取ってみても、

その根底には
一つの共通する発展原理がある、というのが、この研究の主要な成果なのである。

私はこの論文の第三部の冒頭で、このような比較の意図をもっと詳しく説明しようと
努力したつもりであるが、

このイデーの形成に関連していちばん重要であった歴史的な契機を、ここではっきりとさせておきたい。

植物の構造の研究に顕微鏡が用いられるようになるとすぐに、


その構造が、動物のそれに比べて非常に単純であることが注意を引いたはずであった。

植物が完全に細胞(Zelle)で構成されていることが明らかになったのに対して、

動物の要素的部分はきわめて多様であり、
そのほとんどのものは、

細胞との共通点を全く有していないように思われた。
このことは、ずっと前から通用していた見解、
つまり、組織(Gewebe)に血管を備えている動物の成長は、
植物の成長とは本質的に違ったものである

という見解と、うまく調和した。血管がなくても成長する植物の要素的部分には独立した生命[力]があるとされ、

要素的部分は、ある程度までは個体(Individuum)とみなされた

――これが集まって初めて植物体全体が構成される、というのである。

ところがそれに対して動物の要素的部分では、決して同じ見方はされなかった。それ故に、

成長の仕方にもその原動力にも、本質的な違いがあると考えられたのである。

しかしながら、
動物には血管がなくても成長する組織もあることが、やがて明らかになった。

まず第一に、卵の形成の場合や、血液形成に先立つ、
胚(Embryo)の発展の初期段階の場合がそうであり、

第二に、成体のいくつかの組織、例えば表皮(Epidermis)の場合がそうであった。

実際に生きているという疑う余地もない証拠が現われた場である卵の場合、いわゆる植物類似の成長

がそこで行われるということには、すべての生理学者が同意した。


同年[1837年]、デユモルティエは、モノアラガイ(Schnecke)の卵の発生に関する研究報告を行った
(Annal. des sciences natur. 第8巻、129頁)。

これらの卵の中にある粘液球(Schleimkugel)から胚が形成されてくるのであるが、

この粘液球の中に細胞が生じ、その細胞の内部に第二次の細胞が生じ、等々であること、

またこうしてできた細胞の組織は肝臓(Leber)に変わるが、

そのほかの組織は、中に無数の点が見られる

ゼラチン状の(gallertartig)塊から生じてくることを彼は観察した。

シュライデンが行なった諸発見から、植物細胞の発展過程がもっと正確にわかるようになった

この過程は、同一の発展原理という点から動物細胞を比較することを可能にさせるだけの、

特色のあるデータを含んでいた。
私は軟骨と脊索の細胞を、この意味で植物細胞と比較し、

まったく完全な一致があることが明らかになった。

私の研究の土台となったこの発見の意義は、まさに、生理学的に異なる二つの要素的部分が

同一の方法で発展する
という命題に含まれる原理を認知することにあった。


やがて観察の結果わかったのは、血管の有無によって成長に本質的な違いが生じることは皆無であり、
血管は、栄養液のいっそうこまやかな分配、
またこのことや循環(Cirkulation)によって促進された

物質交代(Stoffwechsel)
さらには動物の物質がもつかなり大きな吸収膨潤能力(Imbibitionsf?higkeit)、

といったものの結果として説明してもよいような、
若干の差異を引き起こすだけである、という事実であった。


すべての生物体の要素的部分に共通するひとつの発展原理がある、

という命題が、こうして観察によっても確認されたのである。


例えば体長三ツオル半のブタの胎児の頸部(Hals)または眼窩(か)底から取った細胞組織を調べてみると、

それは眼の硝子体(Glask?rper)よりいくらか濃稠なゼラチン状の物質であり、

発展のごく初期の状態では同じように透明であるが、発展が進むにつれて次第に白っぽくなり、

そのゼラチン状の性質が失われていくのが認められる。顕微鏡で調べた場合は、

その中にいろいろな種類の小体が、程度の差はあるが数多くみられる。とはいうものの、

これらの小体は、前述の大きさの胎児では、ゼラチン状物質の全体を構成するほどには多くはなく、

当然のことながら、透明で無構造の、ゼラチン様の性質を持った原物質(Ursubstanz

――われわれがさしあたってチトブラステムと呼ぶことにしているもの――の中に存在しなければならない。

いくらか発生が進んだブタの胎児の、絨毛膜と羊膜の間にある
膠化体(Gallert)中には、

このチトブラステムがいちばん多く存在し、したがってもっとも明白に確認できる。

この部分では、プレパラートの縁をヨードで染色することによって、


チトブラステムをはっきりと目に見えるようにすることができる。

かなり初期のオタマジャクシの細胞組織中でも、チトブラステムは同様にはっきりしている。


以上




 ウィルヒョウ   1858年 20回の講演

「生理・病理学的組織説に基づく細胞病理学」



第1講 細胞および細胞説


生理的であれ病的であれ、成長し、増殖する部分にあっては、今まで調べられた数多くの組織において、

いずれも有核の細胞が変化の出発点になる、また最初現れる決定的な変化は必ず核自身のものであり、

私たちは核の態度によって細胞におこりうる変化をしばしば予測することができます。



細胞内容の多様性と組織の機能にたいするその意義

が必要不可欠であることがお判りと思います。

第一は[細胞]膜でありますが、丸いことも尖っていることもあり、星形のこともあります。

第二は核、これは細胞膜とはほんらい化学的組成を異にしております。しかし細胞にとって基本的なものは、

けっしてこれにつきるものではありません。細胞は、核を含む他に、多かれ少なかれ内容物質[細胞質]で充たされており、

一方、核もまたその内容で充たされているにせよ、それは細胞の内容とは違ったものであります。

例えば細胞の内部には色素を含んでいますが、核はそれに類するものを含みません。

平滑筋の内部には収縮物質が沈着し、
それが筋肉の収縮能を担っていると見られますが、核はただの核であります。

さらに、細胞は神経線維として発育することも可能ですが、
この場合も、核は髄Markのそとに、

本来の構造としてとどまるに過ぎません。明らかに、個々の細胞が、
特定の条件下で特定の位置において示す特定の性質、

これは一般に細胞内容の性状の差と結びついており、
今まで関心の対象であった成分、すなわち膜と核ではなく、
むしろ細胞の内容、もしくは細胞外に沈着した物質こそ、
組織の機能的(生理的)差違のもとになっているのであります。

しかもその上でもっとも本質的とみなされるべきこと、
それは組織がいかに多様であっても、

細胞をいわばその基本の形で作り上げている成分、すなわち核と細胞膜が、
例外なく姿を見せることであり、

この両者の組合せによって細胞がえられる――
すべての生ある植物、生ある動物を通じて

(その外形がいかにさまざまであり、またその内的構成がいかに変化しようと)

この細胞こそあらゆる生命現象の決定的な基礎になる、まったく特異な形態なのであります。



生命単位としての細胞・社会の体制をそなえた個体


 
私の見解によれば、このことこそ、あらゆる生物学説にとっての、ただ一つ可能な出発点であります。

あらゆる生物界を通じて、その基本形態の不動の一致[という原則]がゆきわたっています。

この生物界において、細胞が占めている位置に代るものを、細胞以外に求めようとしてもそれは

無駄な努力であり、植物であれ動物であれ、
あらゆる高次の形成物は、同種または異種の細胞、

細胞の数の多少は場合によりますが、その発展的な積み重ねであること、

これを認めることが何よりも必要であります。樹木をごらんなさい。

それは一定の様式で秩序つけられた集団Masseであり、
そのどの部分も、つまり葉であれ根であれ、
また幹であれ花であれ、その究極の要素は細胞であります。

まったく同じことが動物形態についてもいえます。いかなる動物も、生命単位[細胞]の総和に他ならず、

その単位はそれぞれが生命の完全な特質をそなえています。

生命の特質、生命の単位は、高次の体制におけるいずれかある場所、

例えば人間の脳にではなく、個々の要素、すなわち、体内の至るところに恒常的に出現する

一定の構造にのみ求められるべきものです。

これによって明らかなように、ある規模をもった体というものは、けっきょくのところ、

つねに一種の社会的体制、社会という性格を帯びた体制に帰するものであり、
個々の存在[要素]は互いに依存しあう――
しかも各要素はそれ自体として独自の働きをもち、

たとえその働きが他の要素に由来する刺激に触発されるときも、


なおかつその固有の機能は自発のものとして発揮されるのであります。




第20講 病的新生物の形態と本質



組織学的分類・結核結節、コロイド等々の見せかけの異型性


最近になり、あちこちで、正常構造を命名のよりどころとして用いようという試みが、大そうな意気込みで始まりました。
多くの人々はこれにかなりの価値をおいて、いままでカンクロイドCancroidとか上皮癌Epithelialkrebsとかいっていたものを、
上皮腫Epitheliomと呼ぶのがより科学的である、などと主張しています。
ご承知のようにフランスではこれを大いに重視して、肉腫を造繊維性腫瘍fibroplatische Geschwulsteと呼んだ、
それはシュヴァンにならって、有尾小体なるものを、結合組織における繊維形成の出発点とみなしたからですが、
その[シュヴァンの]説たるや、以前に見ましたように、誤ったものなのです。

しかしこれは誤りとしましても、組織学的観点を基本におくというのは必要なことである、――
ただしこの観点からの勇み足、つまりあらゆるものに新しい名前をつけたり、長く人々に知れわたっていることを、
ことさら新しい名前によって一般の認識から遠去けるようなことはおすすめできません。
特定の正常組織の型に、まったく一致するかのようにみえる新生物でも、多くはこの組織と多少なり違った特性をもつものであり、
少なくとも大多数の場合、新生物の全体を見るまでもなく、これが正常な、かつ正規に発達した組織ではなく、
たとえその型[の特徴]を失なってはいないにせよ、同型性発育の通常のコースとは何がしかずれたものであることが判るのです。
さらにこれと共に、今日でも、一部は該当する生理型が見つからないためですが、外見または臨床上の特徴が、
いまだに命名の基礎になっている新生物もいくつかあります。


結核[結節]Tuberkelという言葉は、ずっと使われてきましたが、フックスがそれにたいして工夫した名称、私の知る限り、
このための新しい工夫としてはただ一つのもの――それはフィーマPhymaでありますが、
これはきわめて漠然としており、またいかなる「増殖物」にもそのままあてはまる、といったもので、大方の賛同をえられなかったのであります。

ほかにも、近年いろいろの名前がますますさかんに用いられるようになりましたが、
いずれもせいぜい代用品以上のものではない
例えばコロイドColloidがそれです。

この言葉は、今世紀の始めにラエンネックが、ある形の腫瘍――かれがその硬度から、

半ば固まったニカワに近似と記載した腫瘍に用いたものですが、それは、十分に発達をとげた形では、
無色または淡黄色調の、半ば流動性を残した
ゼラチンであり、全体としてはほとんど無構造の性状を示します。
以前にはこの種の状態を、
膠状gallertartigとかゼラチン状gelatinisと呼んでなんの支障もなかった、
ところが近ごろの研究者、しかもその多くは、より高次の洞察を示すつもりなのか、
膠状腫瘍Gallertgeschwulstとか膠状質Gallertmasseに代えて、
コロイド腫瘍Colloidgeschwulstあるいはコロイド質Colloidmasseについて語るようになったのです。

しかし諸君は、この名称をもっともしばしば口にする人々が、そのことによって、
ほかの多くの人が平凡に膠状腫瘍あるいは単に膠状質と呼ぶものと、
なにか違ったものを云い表わしていると考えてはなりません。
ホメーロスの時代に、神々の言葉でモーリュと呼ばれた草が、人間の言葉では違って呼ばれたのと同じです。
しかしこのような、空疎な高調子を不必要にひろめてはなりませんし、
私たちは、言葉というものを、はっきりした意味を伝えるために使うように慣れるべきであり、したがって、

いったん組織学的分類に向って歩き出した以上、もう膠状腫瘍にたいしてコロイドなどという表現を用いるべきではない
このようは表現はなんら組織学的な価値をもたないのでありまして、たんなる外観、あらゆる種類の腫瘍が、
条件次第で呈しうる外観を云い表わしたに過ぎないのです。もとはといえばラエンネックですが、
かれが、胸膜の線維素性滲出物のコロイド状転化について語ったとき、後世に禍をのこしかねない道を開いたのです。




形態と本質における多様性――コロイド、上皮腫、乳頭腫瘍、結核結節

ここでの主要な困難は、たんなる形態とその本質との違いを認識しようとしないことに基づいています。
形態を、さまざまな新生物の基本的なクライテリアとして採用できるのは、
この形態が組織の構成を真に反映している限りにおいてのことで、部位や蓄積物にたまたま附加された特殊性は
よりどころにすべきではありません。たとえばコロイドの名称を用いるのに二通りのやりかたがあります。
その名を、[コロイドの物性、あるいはコロイド組織の形態的性格ではなく]たんにある種の外観を示すものとして用いるのであれば、
さまざまの腫瘍に「コロイド」を冠することによって同種の他の腫瘍から区別することができるでしょう。
コロイド癌、コロイド肉腫、コロイド結合織腫瘍などというわけです。

この場合、コロイドcolloidは、膠状gallertigとなんら変りません。



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