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 2018資本論入門8月号

 価値形態 Wertform と形式 Form の二重性 (2)

  ~ 
商品の価値対象性 序論 ~ 2018.08.20

  第1回 
第1章 『資本論』のヘーゲル論理学につい
        ― 翻訳問題の検討 ―



 残暑お見舞い申し上げます。
異常な暑さが続いていますが、お変わりなくお過ごしでしょうか。今回、進行役を務めます小川と申します。よろしくお願いいたします。
この度編集部では、9月合宿に向けた準備を以下の要領で進めています。
今年は、1818年‐マルクス生誕200年にあたりますが、合宿テーマに記念事業の企画を募集しますので、奮ってご参加ください。

マルクス生誕200年、マルクスとその時代」として、19世紀を代表するのは、第一に1859年ダーウィン進化論の出現ではないでしょうか。人類史に巨大な足跡を残したダーウィンの時代は、産業革命を経た大英帝国が地球規模で全世界を覆っています。この「資本の時代」は、また労働者が歴史の主人公として初めて登場した時代でもあります。 『資本論』は、こうして、ダーウィン進化論と大英帝国と第1インターナショナルを背景として誕生した作品と言えるでしょう。

 さて、本日の議題の中身ですが、
 資本論入門7月号では、「価値形態 Wertform と、形式 Form の二重性 (1)」を探求しました。対象とした「a相対的価値形態の内実」では、主に、「翻訳語を分かり易くする」ことに主眼を置いています。今回の<資本論入門8月号>では、「
形態・形式Form」を取り上げて、『資本論』とヘーゲル論理学の関連を探っていきます。「価値形態Wertform」の多重構造を探索することで、Form(形式と形態、さらに形相)の伝統的構造をつかみ取ることができます。

 本日参加いただいた皆さんと『資本論』第1章第3、第4節の価値形態論―すなわち「商品の価値対象性」の討論を中心にお願いします。「価値概念」を解説する文脈では、ヘーゲル論理学が活用されています。抽象的で観念論風だったヘーゲルの哲学-弁証法-に対して、『資本論』に適用されたマルクスの弁証法を学ぶことによって、全く新しい“唯物論”を体験できるものと企画しています。「価値論」は決して易しいものではありませんが、峠の先の山脈が見通せる展望台に辿り着ければあと一歩です。
 本日は、酷暑のなかお集まりいただきましたが、実りある一日となりますようご協力をお願いします。では、検討課題のテーマを参考までにご紹介します。順不同ですが、以上の報告で進行役のご挨拶といたします。
 議論の素材として、
 1) 『資本論』のヘーゲル論理学-第2部本質論入門ー
 2) 物の「社会的自然属性」と抽象的な属性について
 3) 価値関係と価値表現に現われる「価値」の説明
 4) 「価値対象性」を本文から読解してみましょう
 5) 対象的外観とは何か(『資本論』第4節 岩波文庫p131)

 
★参考資料
 1. 大内兵衛著 『経済学』 の「使用価値」について
 2. 商品の物神的性格とコリン・レンフルー「物資的象徴」
 3. ヘーゲル 『大論理学』 第2巻本質論第1章
仮象Der Scheinと『資本論』の「対象的外観gegenständliche Schein」について
 4. 『資本論』 第1章「商品の価値対象性」当該抄録、(岩波文庫、Das Kapital)
 5. 資本論ワールドHP参照(1):『資本論』の実体と形式について
 6. 資本論ワールドHP参照(2):価値形態と形式の二重性(1)



  価値形態 Wertform と形式 Form の二重性 (2

 

 
◆ 目次

 
1. 第1回 第1章 『資本論』のヘーゲル論理学について (1)
 
2. 『資本論』はヘーゲル論理学にそって展開している
 
3. 価値の「形式Form」と「機能Funktion」について-対象的性格として反映する
 
4. 物 (Ding:複数形Dingeで、事柄)-労働生産物-の「社会的自然属性」
     物・事柄が「社会的な物」とは何か?
 
5. 「A. (1)形態 と (2)形式」 の区別と移行について
      ー
形態・形式Form の二重性の根源
 
6. 『エンチュクロペディ』 第2部 物理学 B 特殊な個体性の物理学
 
7. C 統合された個体性の物理学 (エンチュクロペディ『自然哲学』)



 ヘーゲルの報告を担当します近藤です。司会者から主なテーマが紹介されましたので、これらをもとにしながら、議論の切り口となるように始めていきたい。ただ、難しい議論となるような感じですね。『資本論』が難解で、さらにヘーゲル論理学を併せて報告するのですから、大変厳しい注文です。後日じっくり検討いただけるように、司会者が録音など準備しているようです。肩の力を抜いてゆっくり進めてゆきたいと考えています。
それではお手元に配布したメモに従って進めていきますので、よろしくお願いします。

 
メモ―商品の価値対象性とヘーゲル論理学の関係について 2018.08.10
1. 『資本論』に応用されている-翻訳で隠されている-ヘーゲルの論理学について
2. 価値形態論の「普遍・特殊・個別」ヘーゲル論理学について
2. 物の「社会的自然属性」を考える・・・物が「社会的」・「自然属性」とは何か?
3. 外国の書物を読み、学ぶということ-異質な外国文化と『資本論』の翻訳問題など




 
第1回 第1章 『資本論』のヘーゲル論理学について  2018.08.20

 「商品の価値対象性」の前提となるヘーゲル論理学の概要を最初に述べてゆきます。細かいところは気にしないで、ざっと話しを聴いてもらえれば結構です。



 
1. 『資本論』はヘーゲル論理学にそって展開している

 最初にヘーゲル論理学と『資本論』第1章の関連について、簡単に説明してゆきます。まず現行『資本論』の第2版の注意点から言いますと、
 
『資本論』第1版の第1章は、第2版と違って4つの節に分割されていないのです。『経済学批判』とほぼ同じ展開で、第1章商品と貨幣、(1)商品、(2)諸商品の交換過程、(3)貨幣または商品流通となっています。―ちなみに『経済学批判』は第1章商品、第2章貨幣または単純なる流通で、『資本論』第2版は、第1章商品(第1節から第4節まで4区分)、第2章交換過程、第3章貨幣または商品流通となっています。―マルクス自身、第1版序文で、「 『経済学批判』の内容は、この第1巻の第1章に要約されている 」と述べていますが、これまでの『資本論』解説の大半は、現行第2版の解題から始めています。第1版や『経済学批判』との関連性が言及されていませんので、第1章「商品」論について『経済学批判』と第1版、第2版を比較検討した議論がこの半世紀にわたって行われていません。最近の「資本論入門」の解説も慎重に避けていますから、多くの『資本論』読者に問題意識が喚起されずに今日に至っています。
すなわち、第2版の第1節と第2、第3、第4節が、同じ「第1章商品」のテーマの対象でありながら、各節が独立した論文として、文章の解説が行われているのが実情です。どういう弊害が生じてくるかと言えば、
「第1章商品」論を全体として論理学の体系として理解する観点が欠落してしまいます。第1節から第4節まで一貫して読み進めてゆく陣立てが不十分なために、第4節の「商品の物神的性格」が、第1節からの「見通し」のもとに読まれずに、第1章を全体として捉える「商品」論が極めて薄弱となっています。

 ヘーゲルの『小論理学』を読んだ経験のある方は、お気づきのことと思いますが、第1部有論(Sein:存在)は、第2部本質論、第3部概念論を通して、
Seinと実体論の展開となっているのです。ちょうど『資本論』第1章商品の成素形態 Elementarform と「人間労働の実体」が展開してゆく構図であり、論理構造となっています。したがって第1章「商品」論(価値論)が、「労働生産物の商品形態または商品の価値形態は、経済の細胞形態である」(『資本論』第1版序文)順序建てとして理解してゆくことになります。


 
マルクスは、『資本論』第2版序文でヘーゲルとの関係をつぎのように述べています。
 「私の弁証法的方法は、その根本において、ヘーゲルの方法とちがっているのみならず、その正反対である。・・・しかし、ちょうど私が『資本論』第1巻の述作をつづけていた時には、いま教養あるドイツで大言壮語しているあの厭わしい不遜な凡庸の亜流が、誇り顔に、レッシングの時代に勇ましいモーゼス・メンデルスゾーンがかのスピノザを取り扱ったようにすなわち、「死せる犬」として、ヘーゲルを取り扱っていた。したがって私は、公然と、かの偉大な思想家の弟子であることを告白した。そして
価値理論にかんする章の諸所で、ヘーゲルに特有の表現法を取ってみたりした。 弁証法は、ヘーゲルの手で神秘化されはしたが、しかし、そのことは、決して、彼がその一般的な運動諸形態を、まず包括的に意識的な仕方で証明したのだということを妨げるものではない。弁証法は彼において頭で立っている。神秘的な殻につつまれている合理的な中核を見出すためには、これをひっくり返さなければならない。」
 このように、 「私の弁証法的方法は、その根本において、ヘーゲルの方法とちがっているのみならず、その正反対である。価値理論にかんする章の諸所で、ヘーゲルに特有の表現方法を取ってみたりした」と述べています。したがって、マルクスの弁証法を復元するためには、ヘーゲルに特有の表現方法-弁証法を参照することから始めることにならざるをえません。

 編集部では、『資本論』第1章は文章が複雑で、読解が難しいと思われる個所を重点に、ドイツ語原本と比較対照して分かったことがありました。それは明らかに
ヘーゲルの論理学用語を援用して、マルクスが『資本論』の叙述を展開しているにもかかわらず、それが日本語の翻訳上では全く活かされていないことでした。確かに、ヘーゲルは難解でしかも日本ではほとんど馴染みがありません。そのためか、翻訳者の“親心”と“親切心”のあまり、日本人向けの「独特な訳本」を制作したものと疑われる箇所が多々あります。
 同じ用語・概念が表現されている
ドイツ語の『資本論』キーワードが、日本語訳では“違った言葉”になり替わってしまい、前後の文脈を推理し、予測しながら読み進むことができないところがあります。例えば、ヘーゲル『小論理学』第2部本質論117節のGleichheit は、岩波文庫版と河出書房新社で「相等性」、『大論理学』(岩波書店p.48)では「同等性」とありますが、『資本論』(岩波文庫)では「同一性」(p.97)、あるいは「等一性」(p.109、110)となっています。「同一性」と「等一性」が違った概念を表示しているかのように読まれてしまいます。
また、
『小論理学』第3部概念論では、概念そのものの3つのモメント(163節)-普遍Allgemeinheit、特殊 Besonderheit、個(個別) Einzelnheitとして、相互に相関関係を形成し、構造づけられています。しかしながら、『資本論』の価値形態論(第3節)ではそれぞれ「一般的等価形態allgemeine Äquivalentform p.124」「besonderer特別な等価besonderer Äquivalente p.124」「einzelne個々の p.114、einzelne個別的な等価einzelnen Äquivalent p.123」と翻訳されています。このように「allgemeine」を「一般的」と訳してしまうと、ヘーゲル論理学との弁証法的関連-普遍・特殊・個別の整合性と同義性(同じ意義)-が断ち切られてしまう恐れがあります。

 以下の文脈は、第3節価値形態の最後、貨幣形態のしめくくりの文章ですが、
貨幣形態という概念の困難は、一般的普遍的〕等価形態の、したがって一般的〔普遍的〕価値形態なるものの、すなわち第3形態の理解に限られている。第3形態は、関係を逆にして第2形態に、すなわち、「拡大された」価値形態(*注1)に解消する。そしてその構成的要素〔konstituierendes Element〕は第1形態である。すなわち、亜麻布20エレ=上衣1着 または A商品x量=B商品y量 である。したがって、単純なる商品形態〔Die einfache Warenform→Einfache, einzelne oder zufällige Wertform :A 単純な、個別的なまたは偶然的な価値形態〕は貨幣形態の萌芽である。」(同p.129)
 このように、「
貨幣形態の概念」は、「単純なる商品形態(個別的なeinzelne)」を萌芽(Keim:胚芽)として、胚芽が成長してゆく(「普遍性として生態系(普遍・特殊・個別)」)概念として理解されることになります。
 『資本論』価値形態論の白眉とも言うべき貨幣形態の萌芽Keim-単純なる商品形態なる文脈が、曲解され矮小化されることになりかねません。ヘーゲル論理学を継承して「価値理論にかんする章の諸所で、ヘーゲルに特有の表現法を取ってみたりした」マルクス自身の弁証法が、正確に理解されることから始まると言えます。(
*注2、*注3


 (
*注1) 「拡大された」価値形態については、「C一般的価値形態、2相対的価値形態と等価形態の発展関係」(岩波文庫p.123)に次のような文章があり、普遍・特殊・個別の相関関係がはっきり示されています。
 「ある商品の単純な、または個別的な相対的価値形態は、他の一商品を
個別的な等価einzelnen Äquivalentにする。相対的価値の拡大された形態、一商品の価値の他のすべての商品におけるこのような表現は、これらの商品に各種の特別な等価besonderer Äquivalenteの形態を刻印する。最後に、ある特別な商品種besondre Warenartが一般的普遍的〕等価形態allgemeine Äquivalentformを得る。というのは、他のすべての商品が、これを自分たちの統一的一般的な普遍的な〕価値形態einheitlichen, allgemeinen Wertformの材料にするからである。」(岩波文庫p.123)

 (
*注2)「価値理論にかんする章の諸所で、ヘーゲルに特有の表現法を取ってみたりした」マルクスの当該箇所は、『資本論』第2版後書。(岩波文庫p.31)

 (
*注3)『小論理学』第3部概念論、概念そのものの3つのモメント(163節)の「普遍・特殊・個別」関連は、別紙こちらを参照してください。(岩波文庫下巻p.127)


 今回のレポートにあたっては、これらの難点を和らげる方策をいろいろと探究してきました。そして、一定の判断のもとに、以下のような対応策の提案となりました。

 ヘーゲル論理学に対応する『資本論』の文脈では、ヘーゲルの「用語としてのドイツ語(語意)」をくみ取りながら、文脈の見通しを付けてゆく方法がかえって理解しやすいのではないか、という提案です。ドイツ語の単語がたくさん並んできますが、
キーワードとして共通する同じ語意の単語がほとんどです。提案の理由は、日本語で読みやすく翻訳する必要からドイツ語の同じ単語をわざわざ違う日本語に翻訳し直した結果、前後の文脈の繫がりがかえって見えにくくなっています。一連の論理性をもった言語体系とは思えない障害が生じてしまったのです。こうした難点が改善され、これらに慣れることで風通しがぐっと良くなり、展望台からの風景もクリアになってゆきます。

 それでは、まずは本題に入ってゆきましょう。


 有名な本文冒頭は―「
資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、「巨大なる商品集積」として現われ、個々の商品はこの富の成素形態Elementarformとして現れる-erscheint。したがってわれわれの研究は商品の分析をもって始まる。」―とあるように、「個々の商品はこの富の成素形態としてerscheint現れる」ものですから、「商品は成素形態」として富の基本要素(Element : 成素)として定義づけを行ない、『資本論』の出発点としています。
 岩波・向坂訳で
Elementを「成素」(通常は構成要素、元素、基本などと訳されています)としてあります。これがまた、厄介な翻訳語でして、国語辞書には出てきませんが、ヘーゲル哲学の翻訳語として登場してきます。


 ここで、皆さんに思い出してほしいのは、第1章の最後第4節です。-「
労働生産物が、商品形態Warenformをとるや否や生ずる、その謎にみちた性質はどこから発生するのか?明らかにこの形態Form自身からである。人間労働の等一性(Die Gleichheit der menschlichen Arbeiten)は、労働生産物の同一なる価値対象性の物的形態sachliche Formをとる。人間労働力支出のその継続時間によって示される大小は、労働生産物の価値の大いさの形態をとり、最後に生産者たちの労働のかの社会的諸規定が確認される、彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態(形式)―この個所では形態ではなく、形式が日本語らしいのですが、とりあえず形態としておきます。―をとるのである。」(岩波文庫p131)
商品形態Warenformは、ブルジョア的生産のもっとも一般的〔普遍的〕でもっとも未発達の形態die allgemeinste und unentwickeltste Formであり、そのために商品形態は今日と同じように、支配的で、したがって特徴的な仕方ではないが、すでに早く出現しているのであるから、その物神的性格は、比較的にはもっと容易に見破られていいように思われる。」

以上のように、本文冒頭第1章第1節の
①と②は、第4節の③と④を一連の連続的文脈として読まれるように構成されています。したがって「第1章商品」を全体として研究し、論理構成を把握しながら整理していかなければなりませんが、このように解説されているものはほとんど見当たりません。ヘーゲルとの関連性や隠されている論理学を読み進んでいくことは至難の業といえますが、本日のレポートは、現状から一歩抜け出し、なんとか『資本論』とヘーゲル論理学の正体Daseinを明るみに出そうという目的があります。

 
2. 価値の「形式Form」と「機能Funktion」について -対象的性格として反映する

 次に、第4節商品の物神的性格とその秘密
――商品形態の神秘に充ちたものは、単純につぎのことの中にあるのである、すなわち、商品形態は、人間にたいして彼ら自身の労働の社会的性格を労働生産物自身の対象的性格として、これらの物の社会的自然属性gesellschaftliche Natureigenschaften dieser Dingeとして、反映するということ、したがってまた、総労働にたいする生産者の社会的関係をも、彼らのほかに存する対象の社会的関係として、反映するzurückspiegeltということである。」
このquid pro quo とりちがえによって、労働生産物は商品となり、感覚的にして超感覚的な、または社会的な物 sinnlich übersinnliche oder gesellschaftliche Dinge となるのである。」――を検討する場合にも、冒頭商品に立ち返ってみましょう。

―「
個々の商品はこの富の成素形態として現れるerscheint」―「商品はerscheint 現象する」と言うのです。しかも「資本主義的生産による富」の「成素形態Elementarform」として現象するのです。
この冒頭本文
は、独特な叙述スタイルで特徴的に表現しています。“現象する”わけですから、現象している事柄とは別に、なにか違ったものー事態が想定されているわけです。この「なにか違ったもの」が、第1節から順次展開しながら―労働の二重性と価値形態の分析過程を経て―第4節の「商品の物神的性格」に辿り着き、結びついていくことになります。この連結環となるキーワードが、「成素形態(形式)Elementarform」として「成素機能をもった形式活動」だ、ということを宣言していることになります。哲学の業界では、「形式と機能」は不離一体の関係で取り扱われることが一般的に行われます。「形式Form」は「機能・はたらきFunktion」を内包し、機能は形式を身につけた現実的な姿・形態をもっています(*注4)。ですからFormの語源には「形づくること・機能、つまり形相」が含まれています。
((
*注4)後出の、「価値形態論の「形式Formと機能Funktion」について」参照。)


 
3.  物(Ding:複数形Dingeで、事柄)労働生産物の「社会的自然属性」とは何か。物・事柄が「社会的な物」とは何か?


 
3-1.
 そこで第3に、「
商品形態は、人間にたいして彼ら自身の労働の社会的性格を労働生産物自身の対象的性格として、これらの物(労働生産物)の社会的自然属性 gesellschaftliche Natureigenschaften dieser Dinge として、反映する」、「労働生産物は商品となり、感覚的にして超感覚的な、または社会的な物 sinnlich übersinnliche oder gesellschaftliche Dinge となる」―

 
この事態を具体的にどのように理解できるのでしょうか?

 まず、日本語に翻訳された
物 Ding 「複数形 Dinge」から検討してみましょう。
ドイツ語辞書によれば、Dingは、物、物品とありますが、複数形のDingeは、事柄・ことがら、できごと、事態などとなります。したがって、日本語の「物」であっても、複数形のDingeの意味合いが込められている場合もあり得るわけです。一般的に使われる場合は「物」と書かずに、「もの」、あるいは「モノ」などと書かれることが多くあります。
 ここで、
私たちは厄介な事態に遭遇します。ヘーゲル論理学の「第2部本質論」では、現象している「物」は「事柄、もの」を“反照するscheinen”と言います。反照されている「物」は、本質が現象する事態-“もの”や事柄―と重なり合うことになるのです。ですから、一概に「物」は単数形のDingであり、「もの、事柄・ことがら」が複数形のDingeと決めつけるわけにはいかないことになります。ただ、「人間の労働の社会的性格を労働生産物自身の対象的性格が反映」された「物」とすれば、この「物」の二重性が表現されていることになります。実にややこしい話となってゆきます。

 このような二重性が内包されている「商品体の形態と形式」に対して、『資本論』では次のように解説が行われています。「
感覚的にして超感覚的な、社会的な物」として実存しているのは、商品の「形態自身」労働生産物が、商品形態をとるや否や生ずる、その謎にみちた性質はどこから発生するのか?明らかにこの形態Form自身からである」からだと説明します。しかし、この説明が極めて理解しにくい。「形態自身」が含んでいる・・・この内容が実に分かりにくいのです。日本文化には歴史上存在していないような、「意味合い」、「意味内容」が、西洋文化の語源と絡み合って進んでいる予感を感じさせています。ここら辺りに読解不明/不能の原因があるように思われます。
 謎にみちた商品の性質が「形態自身」から発生する―この事態について、もう少し分析を継続してゆきましょう。

 
3-2.
労働生産物が、商品形態をとるや否や生ずる、その謎にみちた性質はどこから発生するのか?明らかにこの形態Form自身からである。」
 日本語の「形態」は、広辞苑によれば、①ありさま、
かたちに現われた姿形式。②ゲシュタルトに同じ。と出てきます。一般的には①のように言われています。(②ゲシュタルト【Gestalt ドイツ】〔心〕部分の寄せ集めではなく、それらの総和以上の体制化された構造のこと。形態。)
したがって、謎にみちた性質が発生する商品の「形態自身 Form selbst」が「
かたちに現われた姿形式」との二重性を内包していることになります。では、もう一度、この「形態自身」の内容に戻ってみましょう。
Form」:英語のform。「形、外形、外観、姿、容姿、型、形式、形態、方式、(哲学で)形相」、などと辞書に出てきます。大別して(1)形、姿、形態、(2)形式、方式、(3)形相の3つで考えてみます。ここでは、「A.(1)形態(2)形式」の区別を検証してみましょう。
なお、B.(3)形相については、後述のヘーゲル『小論理学』§150 a 実体性の相関 「形式活動Formtätigkeit 」などと一緒に報告します。



 
4. 「A.(1)形態(2)形式」の区別と移行について―形態・形式Formの2重性の根源

 ヘーゲル論理学では、形態をGestalt(岩波『資本論』では態容と訳す), 形式をForm, として別の用語で扱って、区別します。―ゲーテ形態学のGestalt形態とも違ってきますが、ダーウィン進化論の形態学Morphologyとの中間段階に位置づけされている、と想定すれば、科学的論理の進展・推移が展望されてゆきます―
 形式と形態について、『小論理学』(エンチュクロペディ第1篇「論理学」)ではなく、エンチュクロペディ第2篇『自然哲学』にこの差異が登場してきます。第2部物理学のC統体的な個体性の物理学a 形態と第3部有機的な自然学C動物的な有機体 a 形態の2ヵ所で形態Gestaltが直接のテーマとなっていますが、
FormとGestaltの関連性については、以下の文脈から現れてきます



  
5. 『エンチュクロペディ』 第2部物理学B特殊な個体性の物理学 §290~291

§290 さまざまの元素的だった諸規定性 elementarischen Bestimmtheiten が個体的統一individuellen Einheit のもとに置かれると、この個体的統一は、それだけ単独で物質をその重さに抗して規定する内在的形式 immanente Form である。・・・物質は、物質的な空間性を、重さによってそして重さの方向からみて規定するはたらきとは違って、物質的な空間性を内在的に規定するはたらきである。・・・


§291 個体化するこの形式規定 Formbestimmung は、さしあたり、自体的すなわち直接的である。したがって統合性としてはまだ措定されていない。形式の特殊な諸契機は、だから互いに没交渉でばらばら状態としてあらわれ、形式関係 Formbeziehung はさまざまなものの割合(=比例関係Verhältnis)として存在する。・・・だから区別は、一方ではさまざまな物体相互の比較の中に、他方では物体のより実在的ではあるがしかしまだ機械的であるような関係の中にあらわれる。どのような比較も、刺激もすこしも必要としない、形式のそのような自立定な顕在化は、かろうじて形態(Gestalt)に帰せられる

 
こうして、物質と個体性が他者にたいする関係を含みながら、個体性は、物質の単独の在り方の実存する統合性となり、概念上は生命〔有機体〕へ移行してゆくプロセスが展望されてゆくことになります。しかしながら、有機体の自然学(物理学)は、第3部で展開されます。
 そこで、有機体の前に私たちは
物質と質料形式と形態の進展をみてゆくことになります。



  
6.  C 統合された個体性の物理学 (エンチュクロペディ『自然哲学』)

§308
 まず物質Materieは、もともと自体的に、重いという形での概念の統合性である。だから物質はそれ自身の身についた形では形式化されてformiert(formieren)いない。・・・いま概念の統合性が措定された以上は、重さの中心は、もはや物質によって求められている主体性としてではなく、まず最初は直接的で制約されていた形式規定(形相)の観念性として物質に内在している。いまやこれらの形式規定は、規定のうちから[内発的に]展開された契機である。・・・

 補論
  抽象的な全体としての形式(形相)[生物の形相(翻訳者)]とそれに対立する規定可能な物質(質料)とは、実在的な物理的物体の二つの契機であって、もともと自体(即自)的には同じものであり、概念上はその点にそれら[形相と素材の(翻訳者)]相互の移行がひそんでいる。形式(形相)というのは、現存在をもたない、純粋に物理的な、自己自身に関係する自己との同一であるので、物質(質料)の方も流動的なものとして、抵抗なく現存するこの普遍的同一者である。
物質(質料)も、形式(形相)と同じように、内的に区別のないものであり、ゆえにそれ自身が形式(形相)である。普遍者として物質(質料)は、自己内で規定されたものとなるように定められている。これがまさに形式(形相)の「……すべし」である。形式(形相)のもともとの自体的な在り方が物質(質料)である
 
  〔
編集部注ヘーゲルが、限りなく唯物論に接近していることが伺える箇所である

 われわれは最初に個体性一般を「議論の対象として」もった。第二のものは、この個体性が重さへの差異の中へ、有限の制約された規定性のなかに措定されるということである。第三のものは、個体性が差異から自己内に還帰するということである。今やこの第三のものが自ら再び三つの形態もしくは規定(§309)をもつ。

§309 統合された個体性は、
 
a) 直接的には形態そのものとして現象し、その抽象的な原理が自由な現存に現象する。―これが磁気である。
 
b) この統合された個体性は、規定されて区別となる。すなわち、物体的な統合性の特殊的な形式となる。この個体的な特殊化が再極端にまで達すると電気である。
 
c)  このような特殊化の実在性は、化学的な差異をもった物体、およびこのような物体の関係である。すなわち、物体を自分の契機としてもつ個体性が、自己を統合性として実現しつつあるとき、それが化学的過程である。

 〔
『資本論』第1章第3節 「酪酸と蟻酸プロピルとはちがった物体である。しかし、この両者は同一の化学的実体-炭素(C)、水素(H)および酸素(O)―から、しかも同一割合の組成、すなわち、C482から成り立っている。・・・その化学的実体は、その物体の形態と区別して表現されるであろう。(岩波文庫p93)〕

 
補論
 
形態においては無限の形式は、今やたんに空間へのどうでもいい関係をもつだけではなくなった質料的な部分への規定的な原理である。しかし形態はこの概念にとどまるわけではない。というのは概念そのものが静的な存立ではないからである。自己を差異化しつつ、自己を本質的に展開して実在的な性質にまで達する。その性質というのが、観念的なものとして統一を保たれているだけでなく、特殊な実存をも保持する。この質的な個体性で規定された差異が元素 Element であるが、しかし個体性の領域に帰属するものとして、つまり、特殊化されたものとして、個体的な物体性と合一し、というよりはむしろそれに転化している。もともと自体的に、つまり概念において、このような仕方で、形式のまだ欠陥のあるものが補完される。しかし、必然性の関心は今や再び、この即自が措定されることであり、形態のようにして生み出されることである。すなわち移行は実存においてもなされなくてはならない。結果は形態が産出されるということである。・・・このようにして化学的な過程には、その概念の内に、有機的な領域への移行が含まれている。われわれは最初この過程を力学の中の運動として考察した。次には元素的な過程として考察し、今では「個体化された質料Materieの過程」Prozeß der individualisierten Materieを論じている。


 以上、『自然哲学』から「物質と質料」、「形式と形態」の進展をみてきました。
 
★ このようにして、ヘーゲル論理学では、無規定の物質Materie 個体性の形態Gestaltが現象しその物体性の特殊な形式Formを分析してゆきます。すなわち、抽象的な全体としての形式Form(形相)からそれに対立する規定可能な物質(質料)とは、実在的な物理的物体の二つの契機であり、相互の移行が前提しあっていることになります。個体性 Individualität とは、形式と質料の二つを契機として生成した「形態Gestalt」として、 形式規定 Formbestimmung されたものが現象したのです。

 
 『小論理学』第2部本質論では、B 現象 「b 内容と形式」において
「現象の世界を作っている個々別々の現象は、全体として一つの統体をなしていて、現象の世界の自己関係のうちに全く包含されている。かくして現象の自己関係は完全に規定されており、それは自分自身のうちに
形式を持っている。しかも、それは自己関係という同一性のうちにあるのであるから、それは形式を本質的な存立性として持っている。かくして形式は内容(Inhalt)であり、その発展した規定性は現象の法則(Gesetz)である。」(§133)
 『小論理学』の「内容と形式」では、すなわち「内容」が発展した「形式」として、外的で対立した独立の現存在としてあるのですが、同時に「同一的な関係」としても存在しあうことになります。こうして、「内容と形式の異なった二つのもの」は、異なってはいても同一関係のうちでだけ存在しあう相関関係を形成することになります。(§134)

 以上でヘーゲル論理学の「形態と形式」に関して、「物質と質料」そして「内容と形式」を簡単に探索してきましたが、概要だけでも記憶していただければ幸いです。休憩後に、『資本論』「商品の価値対象性」を分析してゆくときに、ヘーゲルの「形態と形式」が役だってきますのでよろしくお願いします。長い時間お付き合いをいただきました。とりあえず、第1回 第1章
『資本論』のヘーゲル論理学について (1)を終了します。



 
小川司会者

 第1章の長い報告で、ありがとうございました。少し休憩時間を取りたいと思います。次に「商品の価値対象性」の本題に入るわけですが、近藤さんから特に注目していただきたい事柄等ありましたら、最後に発言をお願いしたいのですが。

 
近藤レポーター
 第1章では、ヘーゲル「自然哲学」の
形態Gestaltを中心に見てきましたが、実は『小論理学』でも同じような論理が構成されています。それは、第2部本質論B現象です。b 内容と形式 §133で次のように説明があります。

 「現象の世界を作っている個々別々の現象は、ぜんたいとして一つの統体をなしていて、現象の世界の自己関係のうちに全く包含されている。かくして現象の自己関係は完全に規定されており、それは自分自身のうちに
形式を持っている。しかも、それは自己関係という同一性のうちにあるのであるから、それは形式を本質的な存立性として持っている。かくして形式は内容(Inhalt)であり、その発展した規定性は現象の法則(Gesetz)である。」
 また、§134では、 「直接的な現存在は、形式の規定性でもあれば、存立性そのものの規定性でもある。・・・このようなものとして定立された
現象が相関(Verhältnis)であって、ここでは同一のもの、すなわち内容が、発展した形式として、外的で対立した独立の現存在としてあると同時に、また同一的な関係としても存在し、異なった二つのものは、こうした同一関係のうちでのみそれらがあるところのものである。」
 そして報告の最後になりますが、
c 相関(Verhältnis)の§135の補遺では、
本質的な相関ということは、規定された、全く普遍的な現象の仕方である。現存在するものは、すべて相関をなしており、この相関があらゆる現存在の真理である。したがって現存在するものは、単に独立的に存在するものではなく、他のもののうちにのみあるものである。しかしそれは他のもののうちで自己へ関係するから、相関は自己への関係と他者への関係との統一である。」

 すなわち、「商品の価値対象性」は、「価値の本質的な相関関係」を形成していること―への序論となります。

 ここでの「内容と形式」は、
エンチュクロペディの第1篇「論理学」の世界ですが、当然第2篇の「自然哲学」へとつながり、「形式Formと形態Gestalt」の議論となります。したがって、問題となるのは、『資本論』の「形態Formと態容Gestalt(岩波『資本論』のGestaltの翻訳語)」を『資本論』の文脈にそって探求することが残された宿題となります。次の第2章で議論する「商品の価値対象性」では、これらの観点ー価値形態と価値の形式ーにも留意しながら探索してゆきたいと考えています。



 
小川司会者
 それでは、休憩としますが、休憩時間の間にはじめに紹介しました★参考資料などに、ざっと目を通しておいてください。
 1) 商品の物神的性格(価値対象性)とコリン・レンフルー
 2) 大内兵衛著 『経済学』の使用価値の内容
 3) ヘーゲル『大論理学』第2巻本質論第1章
仮象Der Scheinと『資本論』の「対象的外観gegenständliche Schein
 4) 資本論ワールドHP参照(1):『資本論』の実体と形式について
5) 資本論ワールドHP参照(2):価値形態と形式の二重性(1)


  ・・・ 以上、資本論入門8月号 終わり ・・・