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 2018資本論入門9月号


 価値形態
Wertform形式 Form の二重性 (3)   2018.09.08 一部追加作業中



 
第2回 第2章 商品の価値対象性について

 
  『資本論』を読みながら「商品の価値対象性」を考える

 


小川司会者

 皆さんそろそろ始まりますが、ゆっくり休憩は取れましたでしょうか。これからがいよいよ本チャンですので、すっきりと眠気を払っていきましょう。

さて前回 第1章 『資本論』のヘーゲル論理学について の終わりの宿題として、近藤レポーターから以下のコメントがありました。
 「ここでの「内容と形式」は、エンチュクロペディの第1篇「論理学」の世界ですが、当然第2篇の「自然哲学」へとつながり、「
形態Gestaltと形式Form」の議論となります。問題となるのは、①『資本論』の「形態Formと態容Gestaltを『資本論』の文脈にそって探求し、ヘーゲル論理学とこれを継承した『資本論』の解明が課題となります。②これから第2章で議論する「商品の価値対象性」では、これらの観点―「価値形態Wertform価値の形式Form」―に留意しながら探索してゆきたい」。
 
さて、その「価値対象性」ですが、近藤さんから『資本論』の本文抜粋抄録集が用意されました。これに付け加え議論の見通しを良くするために、以下の「目次」を用意しました。
 また、参考資料のリンクも作成しましたので併せて参照してください。それでは、近藤さんに引き続きレポートをお願いします。



  
第2章 商品の価値対象性について ・・・近藤レポート



   
第1部  『資本論』抜粋抄録と関連資料について


 ◆目次

 
第1節 使用価値の特別な形態に無関心ということ

 (1) 諸商品の価値対象性と社会的等一性
 (2) 凝結した状態、すなわち対象的な形態で価値となる
 (3) 亜麻布の価値対象性
 (4) 亜麻布の価値表現
 (5) 支出された労働を、「対象的」属性とし、その価値として表わす
 (6) 商品価値は、
使用価値の特別な形態にたいして、無関心である

       
『資本論』のヘーゲル論理学研究(1)
    → 
ヘーゲル論理学用語「無関心」参照
    → 
大内兵衛著『経済学』「使用価値」参照

 
第2節 感覚的にして超感覚的な、または社会的な物

 (7)  諸商品の価値対象性も、諸物の単なる「社会的存在」である
 (8)  亜麻布に等しいものの形態のあらゆる商品は、質的に等しいもの
 (9)  人間労働の等一性は、労働生産物の同一なる価値対象性の物的形態
 (10) 感覚的にして
超感覚的な、または社会的な物
    
       『資本論』のヘーゲル論理学研究(2)
    → 
ヘーゲル超感覚的世界について

 
第3節 物の関係の幻影的形態と対象的外観

 (11) 人間にたいして物の関係の幻影的形態をとる

  → 
コリン・レンフルー「物質的象徴、物質的関与、制度的事実」参照

 (12) 人々の物的な諸関係として、物の社会的な諸関係として現われる
 (13) 社会的分業の自然発生的体制の構成分子-すべての他の有用な私的労働種と交換される
 (14) 交易-生産物交換で、私的労働の二重な社会的性格は反映される
 (15) 商品世界-労働の社会的性格は
対象的外観として現象する

         『資本論』のヘーゲル論理学研究(3)
      → 
ヘーゲル『大論理学』第2巻本質論第1章 仮象 参照



  
*注:「第2部の 『資本論』抄録-ドイツ語キーワド並列と解説」は、こちらにリンク



 
 近藤レポーター

 標題を以下のようにしました。
第2章 『資本論』を読みながら「商品の価値対象性」を考える

 前回からの続きですが、 『資本論』からヘーゲル論理学を発見してゆくことは、実際、至難の業です。その理由としては、
第一には、『資本論』の翻訳者とヘーゲル翻訳者との連携が全くといってよいほどありません。
第二に、『資本論』の出版事情が特異なのか、経済学関連図書の業界が特異なのか、不思議なのですが翻訳された用語に対する説明や解説がありません。これは岩波『資本論』や大月、その他も同じ扱いでして、どこからも改善の要望が強く出されずに(?!)、バラバラのまま今日まで続いています。
 明治時代以来、数多くの西洋古典文献が翻訳されてきましたが、昨今では出版社の経費節約と価格を抑えるためでしょうか、説明抜きの出版傾向が広がっています。50年ぐらい前までの古典文献書や岩波文庫本などでは、翻訳者の責任による親切丁寧、訳語に対する原語と日本語の対応関係が解説され、読者が理解しやすいように便宜を図っていました。現在は随分と変わってしまった状況です。これからの若い人たちには今が便利な時代のように思われがちですが、学問的にはより困難さが増してきているように感じられますね。
 さて、『資本論』の出版状況を嘆いてばかりもいられませんので、思い切った対策を講じました。第1部は、「商品の価値対象性」の『資本論』本文抜粋抄録ですが、
ヘーゲル関連個所に*印をつけておきました。ヘーゲルが隠されていますので、探り出しながらまず読んでみてください。その次の第2部では、同じ本文抄録の中に、ドイツ語のキーワードを挿入して、隠されていたヘーゲルが浮上するように工夫してありますが、どうでしょうか?また、参考資料のリンクの件ですが、一部手直し中のものがあります。
  『資本論』抄録個所は、第2部抄録・ドイツ語キーワード並列文ともに、第1部のものと同じ文章です。この目的は、翻訳された日本語の文章だけではヘーゲル論理学を読みとることがほぼ不可能に近いと思われます。ヘーゲルを参照することによって、『資本論』
第1章全体の継続性が明確となりますので、探索してみてください。初めてこのようなやり方をしましたが皆さんの読みやすさはいかがでしょうか。感想をお聞かせください。
 それでは、本文に入りますが、中見出しの1.から15.はこちらで作成してあります。



 ◆ 
第1部  『資本論』抜粋抄録と関連資料について



 第2章 『資本論』を読みながら「商品の価値対象性」を考える



   
第1節 「価値対象性」は、商品と商品の社会的関係で現われ、使用価値の特別な形態に 無関心ということ

 『資本論』第3節価値形態または交換価値から始めてゆきます。商品を手に取って見てもそれが「価値物」として摑むことはできません。しかし、私たちは、(1)「価値対象性」は、商品と商品の社会的関係で現われるが、―では、(2)交換される商品同士の“等しい”とされる実体としての「価値」とは何でしょうか?
 (3)交換される商品・亜麻布が「価値として等しい」とされる商品・上衣との価値関係の内容と(4)労働生産物である亜麻布商品の価値形成実体である“労働”はどのように評価されるのでしょうか?
 また、(5)商品に支出された“労働”とその「価値」はどのような関係にありますか? さらに商品は他の多くの諸商品との交換関係で商品世界の構成員ですが、(6)亜麻布自身の使用価値がそのままの自然形態でありながらどうして他の諸商品と交換が可能となるのでしょうか?
これらについて、考えてゆきましょう。



 (1) 
諸商品の価値対象性と社会的等一性

1. 諸商品の価値対象性は、かのマダム・クィクリとちがって、一体どこを摑まえたらいいか、誰にもわからない。商品体の感覚的に手触りの荒い対象性と正反対に、
諸商品の価値対象性には、1分子の自然素材もはいっていないのである。したがって、一々の商品をどうひねりまわして見ても、それを価値物として摑むことはできない。だが、もし諸商品が同一の社会的等一性 〔 同一の社会的単位-実体のこと 〕 である人間労働の表現であるということを想い起こして見るならば、おのずから価値対象性が、ただ商品と商品との社会的関係においてのみ現われうるものであるということも明らかとなる。(岩波文庫第1章第3節p89)


 (2) 
価値対象性 1 ー 凝結した状態、すなわち対象的な形態で価値となる

2. だが、亜麻布の価値をなしている労働の特殊な性質を表現するだけでは、充分でない。流動状態にある人間労働力、すなわち人間労働は、価値を形成するのではあるが、価値ではない。それは
凝結した状態〔ゲル化した状態〕で、すなわち、対象的な形態で価値となる。 人間労働の凝結物としての亜麻布価値を表現するためには、それは、亜麻布自身とは物的に相違しているが、同時に他の商品と共通に亜麻布にも存する「* 対象性」として表現されなければならぬ。(同第3節p95)



 (3) 3-1 
亜麻布の価値対象性 : 亜麻布は上衣が亜麻布に等しい→価値であるかぎりにおいて、亜麻布と同一の労働から成っている。〔「価値の実体は労働である」ということ〕

 3-2 
亜麻布の価値対象性 : 亜麻布は価値が上衣に見える→亜麻布自身が価値物として、上衣に等しい→〔価値鏡に映しだされること〕

3.  商品価値の分析が以前に告げたような一切のことを、亜麻布は他の商品、上衣と交わるようになるやいなや、自身で、申し述べることがわかる。ただ、亜麻布は、その思いを自分だけに通ずる言葉、すなわち商品の言葉でもらすだけである。人間労働の抽象的な属性で労働が亜麻布自身の価値を形成することをいうために、亜麻布は、上衣が、亜麻布に等しいとされ、したがって
価値であるかぎり〔「価値の実体は労働であるということ〕において、亜麻布と同一の労働から成っているという風に言うのである。亜麻布の森厳なる価値対象性が、そのゴワゴワした布の肉体とちがっているというために、亜麻布は、価値が上衣に見え、したがって、亜麻布自身が価値物としては、卵が他の卵に等しいと同じように、上衣に等しいという風に言うのである。(同第3節p97)



  (4) 
亜麻布の価値表現 : 一つの物体をつくる 労働の凝結物 一つの価値鏡を作る

4.-1 
* 等価のつとめをしている商品の物体は、つねに抽象的に人間的な労働の体現として働いており、しかもつねに一定の有用な具体的労働の生産物である。したがって、この具体的労働は、抽象的に人間的な労働の表現となる。例えば、上衣が、抽象的に人間的な労働の単なる実現となっているとすれば、実際に上衣に実現されている裁縫が、抽象的に人間的な労働の単なる実現形態として働いているわけになる。
亜麻布の価値表現においては、裁縫の有用性は、裁縫が衣服をつくり、したがってまた人をもつくるということにあるのではなく、次のような * 一つの物体をつくるところにあるのである。すなわちこの物体にたいして、人は、それが価値であるという風に、したがって、亜麻布価値に対象化されている労働から少しも区別されない、労働の *凝結物であるというように、みなされてしまうのである。このような一つの価値鏡を作るために、裁縫自身は、人間労働であるというその抽象的な属性以外には、何ものをも反映してはならない。(同第3節p107)


  
*注4-2   * 等価のつとめをしている商品の物体(上衣)と亜麻布の価値表現によって創り出される *一つの物体との関連がここだけの抄録では不完全です。「第3節・3等価形態」を参照してください。

 (5) 価値対象性 2 ―支出された労働を、「対象的」属性とし、その価値として表わす

5. 労働生産物は、どんな社会状態においても使用対象である。しかし、ただある歴史的に規定された発展段階のみが、一つの使用物の生産に支出された労働を、そのものの「対象的」属性として、すなわち、その価値として表わすのであって、この発展段階が、
労働生産物を商品に転化する 姿を変えること 〕 のである。したがって、このことから、商品の単純なる価値形態は、同時に労働生産物の単純なる商品形態であり、したがってまた、商品形態の発展も価値形態の発展と一致するという結果になる。(同第3節p113)



 (6) 
価値対象性 3 ― 商品価値は、使用価値の特別な形態にたいして、無関心である

6. 一商品、例えば、亜麻布の価値は、いまでは商品世界の無数の他の
成素 社会的単位-実体のこと 〕 に表現される。すべての他の商品体は亜麻布価値の反射鏡となる。こうしてこの価値自身は、はじめて真実に無差別な人間労働の凝結物として現われる。なぜかというに、価値を形成する労働は、いまや明瞭に、一切の他の人間労働がそれに等しいと置かれる労働として、表されており、その労働がどんな自然形態をもっていようと、したがって、それが上衣に対象化せられようと、小麦や鉄または金等々に対象化せられようと、これを問わないからである。したがって、いまや亜麻布は、その価値形態によって、もはやただ一つの個々の他の商品と社会関係にあるだけでなく、商品世界と社会関係に立っているのである。それは、商品としてこの世界の市民なのである。同時に、この市民たる表現の無限の序列の中にあるから、商品価値は、* 使用価値が、どんな形態であろうと、その特別な形態にたいして、 無関心で*注1)あることにもなるわけである。(同第3p115)

      『資本論』のヘーゲル論理学研究(1)
   → 
ヘーゲル論理学用語「無関心」参照 (注1)
   *注1無関心で:gleichgültig は、ヘーゲル論理学用語のため、別紙参照ください。

   → 
大内兵衛著 『経済学』 「使用価値」 参照
 




 
第2節 労働生産物は商品となり、感覚的にして超感覚的な、または社会的な物となる



  (7) 
諸商品の価値対象性は、諸物の単なる「社会的存在」である

7. 一般的価値形態は、商品世界の共通の仕事としてのみ成立するのである。一商品が一般的価値表現を得るのはただ、同時に他のすべての商品がその価値を
同一等価で社会的単位-実体として、同等のもので 〕 表現するからである。そして新たに現われるあらゆる商品は、これを真似なければならない。このことによって、こういうことがはっきりとしてくる、すなわち、諸商品の価値対象性も、それがこれら諸物の単なる「社会的存在」であるのであるから、その全面的な社会的関係によってのみ表現されうるのであり、したがって、その価値形態は、社会的に妥当する形態 〔 形式のこと 〕 でなければならないということである。(同第3節p121)

    (8) 
亜麻布に等しいものの形態のあらゆる商品は、質的に等しいもの

8. 亜麻布に等しいものの形態において、いまではあらゆる商品が、ただに
質的に等しいもの、すなわち価値一般としてだけでなく、どうじに量的に比較しうる価値の大いさとしても現われる 〔 質と量の形式を獲得すること 〕 。すべての商品が、その価値の大いさを同一材料で、亜麻布で映し出すのであるから、これらの価値の大いさは、* 交互に反映し合うのである。例えば 茶10ポンド = 亜麻布20エレ、さらにコーヒー40ポンド = 亜麻布20エレ。したがって、茶10ポンド = コーヒー40ポンドというようにである。あるいは1ポンドのコーヒーには、ただ1ポンドの茶におけるものの1/4だけの価値実体、すなわち労働が含まれているというようにである。(同第3節p122)

(9) 
商品形態〔商品形式〕 : 人間労働の等一性は、労働生産物の同一なる価値対象性の物的形態

9. それで、労働生産物が、商品形態をとるや否や生ずる、その謎にみちた性質はどこから発生するのか?明らかにこの
形態 〔形式〕 自身からである。人間労働の等一性は、労働生産物の同一なる価値対象性の物的形態をとる。人間労働力支出のその継続時間によって示される大小は、労働生産物の価値の大いさの形態 〔Form:形式〕 をとり、最後に生産者たちの労働のかの社会的諸規定が確認される、彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態Form:形式〕 をとるのである。(同第4節p131)、(*注2、注3)

  ( * 注2)
資本論ワールドHP参照. 2018資本論入門8月号 価値形態 Wertform と形式 Form の二重性 
  ( * 注3).
HP参照. 価値の「形式Form」と「機能Funktion」について -対象的性格として反映する-   http://www.marx2016.com/sn_2018-08_wertform-form.html#3.



   (10) 
感覚的にして超感覚的な、または社会的な物

10. それゆえに、商品形態の神秘に充ちたものは、単純に次のことの中にあるのである、すなわち、商品形態 〔商品
形式〕 は、人間にたいして彼ら自身の労働の社会的性格を労働生産物の対象的性格として、これらの物の社会的自然属性として、反映する 形式機能を伴うこと 〕 ということ、したがってまた、総労働にたいする生産者の社会的関係をも、彼らのほかに存する対象の社会的関係として、反映するということである。
この
quid pro quo とりちがえ 〔 等価形態の quid pro quo 参照(*注4)〕 によって、労働生産物は商品となり、感覚的にして超感覚的な、または社会的な物となるのである(*注5)。
〔Durch dies
Quidproquo werden die Arbeitsprodukte Waren, sinnlich übersinnliche oder gesellschaftliche Dinge.〕

このようにして、ある物の視神経にたいする光印象は、視神経自身の主観的刺激としてでなく、眼の外にある物の対象的形態として示される。しかしながら、視るということにおいては、実際に光がある物から、すなわち外的対象から、他のある物、すなわち眼にたいして投ぜられる。それは物理的な物の間における物理的な関係である。(同第4節p131)


   (*注4)等価形態の quid pro quo 参照:第3節の「3 等価形態」 にも 「商品の自然形態が価値形態となる」とりちがいがありますので、参照ください。


        『資本論』のヘーゲル論理学研究(2)
    (
*注5) → ヘーゲル 「超感覚的世界」について 参照




  
第3節 物の関係の幻影的形態と 対象的外観について



  (11) 
人間にたいして物の関係の幻影的形態をとる

11. これに反して、商品形態とそれが表われる労働諸生産物の価値関係とは、それらの物理的性質やこれから発出する物的関係をもっては、絶対にどうすることも出来ないものである。このばあい、人間にたいして物の関係の幻影的形態をとるのは、人間自身の
特定の社会関係であるにすぎない*注4)。したがって、類似性を見出すためには、われわれは宗教的世界の夢幻境 〔 この概念内容は、コリン・レンフルー参照 〕 にのがれなければならない。ここでは人間の頭脳の諸生産物が、それ自身の生命を与えられて、相互の間でまた人間との間で相関係する独立の姿に見えるのである。商品世界においても、人間の手の生産物がそのとおりに見えるのである。私は、これを物神礼拝と名づける。それは、労働生産物が商品として生産されるようになるとただちに、労働生産物に付着する 〔 ド・ブロスとフェティシズムを参照 〕 ものであって、したがって、商品生産から分離しえないものである。 〔*後出の「15.」―労働の社会的性格の対象的外観をおい払うものではない―に継続する 〕 (同第4節p132)

*注4) 
コリン・レンフルー 『先史時代と心の進化』 心の先史学 抄録心の先史学 要約 貨幣制度の「物質的象徴、制度的事実、物質的関与」参照 


  (12) 
人々の物的な諸関係として、物の社会的な諸関係として現われる

12. 使用対象が一般に商品となるのは、もっぱらそれが相互に相独立して営まれる私的労働の生産物であるからである。これらの私的労働の複合が社会的総労働をなす。生産者たちは、彼らの労働生産物の交換によって、はじめて社会的接触にはいるのであるから、
彼らの私的労働の特殊的に社会的なる性格も、この交換の内部においてはじめて現われる。いい換えると、私的労働は、事実上、交換のために労働生産物が、そしてこれを通じて生産者たちが置かれる諸関係によって、はじめて社会的総労働の構成分子たることを実証する。したがって、生産者たちにとっては、彼らの私的労働の社会的連結は、あるがままのものとして現われる。すなわち、彼らの労働自身における人々の直接に社会的な諸関係としてでなく、むしろ人々の物的な諸関係として、また * 物の社会的な諸関係として現われるのである。(同p.132)



 (13) 
社会的分業の自然発生的体制の構成分子-すべての他の有用な私的労働と交換される

13. 労働生産物はその交換の内部においてはじめて、その感覚的にちがった使用対象性から分離された、社会的に統一なる
価値対象性を得るのである。
労働生産物の有用物と価値物とへのこのような分裂は、交換がすでに充分な広さと重要さを得、それによって有用物が交換のために生産され、したがって事物の価値性格が、すでにその生産そのもののうちで考察されるようになるまでは、まだ実際に存在を目だたせるようにはならない。この瞬間から、生産者たちの私的労働は、事実上、二重の社会的性格を得るのである。
これらの私的労働は、一方においては特定の有用労働として一定の社会的欲望を充足させ、そしてこのようにして総労働の、すなわち社会的分業の自然発生的体制の構成分子であることを証明しなければならぬ。これらの私的労働は、他方において、生産者たち自身の多様な欲望を、すべてのそれぞれ特別に有用な私的労働がすべての他の有用な私的労働
と交換されうるかぎりにおいて、したがって、これと等一なるものとなるかぎりにおいてのみ、充足するのである。toto coelo (全く)ちがった労働が等しくなるということは、それが現実に不等一であることから抽象されるばあいにのみ、それらの労働が、人間労働力の支出として、抽象的に人間的な労働としてもっている共通な性格に約元されることによってのみ、ありうるのである。(同p.133)



  (14) 
交易-生産物交換-で、私的労働の二重な社会的性格は反映される

14. 私的生産者の脳髄は、彼らの私的労働のこの二重な社会的性格を、ただ
実際の交易の上で、生産物交換の中で現われ形態で、反映するのである。すなわち―したがって、彼らの私的労働の社会的に有用なる性格を、労働生産物が有用でなければならず、しかも他人 〔 他の人々 〕にたいしてそうでなければならぬという形態 〔 相互的な社会関係としての形式をもつこと 〕 で―異種の労働の等一性の社会的性格を、これらの物質的にちがった物、すなわち労働生産物の共通な価値性格の形態で、反映するのである。(同第4節p134)

 
(15) 
商品世界-労働の社会的性格は対象的外観として現象する

15. したがって、人間がその労働生産物を相互に価値として関係させるのは、これらの事物が、彼らにとって同種的な人間労働の、単に物的な外被であると考えられるからではない。逆である。彼らは、その各種の生産物を、相互に交換において価値として等しいと置くことによって、そのちがった労働を、相互に人間労働として等しいと置くのである。
彼らはこのことを知らない。しかし、彼らはこれをなすのである。したがって、価値のひたいの上には、それが何であるかということは書かれていない。価値は、むしろあらゆる労働生産物を、社会的の象形文字に転化するのである。後になって、人間は、彼ら自身の社会的生産物の秘密を探るために、この象形文字の意味を解こうと試みる。なぜかというに、使用対象の価値としての規定は、言語と同様に彼らの社会的な生産物である コリン・レンフルー「象徴と価値参照 からである。労働生産物が、価値であるかぎり、その生産に支出された人間労働の、単に物的な表現であるという、後の科学的発見は、人類史上に時期を画するものである。しかし、決して労働の社会的性格の対象的外観*注5) をおい払うものではない。この特別なる生産形態、すなわち、商品生産にたいしてのみ行われているもの、すなわち、相互に独立せる私的労働の特殊的に社会的な性格が、人間労働としてのその等一性にあり、そして労働生産物の価値性格の形態をとるということは、かの発見以前においても以後においても、商品生産の諸関係の中に囚われているものにとっては、あたかも空気をその成素に科学的に分解するということが、物理学的物体形態としての空気形態を存続せしめるのを妨げぬと同じように、終局的なものに見えるのである。(同第4節p134)

 (
*注5)  
コラム22> 『資本論』のヘーゲル論理学研究(3)
労働の社会的性格の対象的外観」の探究と ヘーゲル『大論理学』 第2巻 本質論 第1章 仮象 について参照



    →
第2部 『資本論』抄録-ドイツ語キーワド並列と解説



   ・・・資本論入門9月号終わり・・・