『資本論』 向坂逸郎訳、岩波書店
第1編 商品と貨幣 第1章 商品
第1節 商品の2要素 使用価値と価値(価値実体、価値の大いさ)
1-1 資本主義的生産様式の支配的である社会の富は、「巨大なる商品集積(注1)」として現われ、個々の商品はこの富の成素形態として現われる。したがって、われわれの研究は商品の分析をもって始まる。
(注1) カール・マルクス『経済学批判』
「市民社会の富は、一見して、巨大な商品集積であり、個々の商品はこの富の成素的存在であることを示している。しかして、商品は、おのおの、使用価値と交換価値という二重の観点で現われる。」
*アリストテレスの注:「何故かというに、各財貨の使用は二重になされるからである。・・・その一つは物そのものに固有であり、他の一つはそうではない。例えていえば、サンダルの使用は、はきものとして用いられると共に交換されるところにある。両者共にサンダルの使用価値である。何故かというにサンダルを自分のもっていないもの、例えば食物と交換する人も、サンダルを利用しているからである。しかし、これはサンダルの自然的な使用法ではない。何故かいうに、サンダルは交換されるためにあるのではないからである。他の諸財貨についても、事情はこれと同じである。」
1-2 商品はまず第一に外的対象である。
すなわち、その属性によって人間のなんらかの種類の欲望を充足させる一つの物である。これらの欲望の性質は、それが例えば胃の腑から出てこようと想像によるものであろうと、ことの本質を少しも変化させない(注2)。ここではまた、事物が、直接に生活手段として、すなわち、享受の対象としてであれ、あるいは迂路をへて生活手段としてであれ、いかに人間の欲望を充足させるかも、問題となるのではない。
1-3 鉄・紙等々のような一切の有用なる物は、質と量にしたがって二重の観点から考察されるべきものである。このようなすべての物は、多くの属性の全体をなすのであって、したがって、いろいろな方面に役に立つことができる。
物のこのようないろいろの側面と、したがってその多様な使用方法を発見することは、歴史的行動(注3)である。有用なる物の量をはかる社会的尺度を見出すこともまたそうである。商品尺度の相違は、あるばあいには測定さるべき対象の性質の相違から、あるばあいには伝習から生ずる。
1-4 一つの物の有用性は、この物を使用価値にする(注4)。しかしながら、この有用性は空中に浮かんでいるものではない。それは、商品体の属性によって限定されていて、商品体なくしては存在するものではない。だから、商品体自身が、鉄・小麦・ダイヤモンド等々というように、一つの使用価値または財貨である。
このような商品体の性格は、その有効属性を取得することが、人間にとって多くの労働を要するものか、少ない労働を要するものか、ということによってきまるものではない。使用価値を考察するに際しては、つねに、1ダースの時計、1エレの亜麻布、1トンの鉄等々というように、それらの確定した量が前提とされる。商品の使用価値は特別の学科である商品学(注5)の材料となる。使用価値は使用または消費されることによってのみ実現される。使用価値は、富の社会的形態の如何にかかわらず、富の素材的内容をなしている。われわれがこれから考察しようとしている社会形態においては、使用価値は同時に-交換価値の素材的な担い手をなしている。
1-5 交換価値は、まず第一に量的な関係として、すなわち、ある種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される比率として、すなわち、時とところとにしたがって、絶えず変化する関係として、現われる(注6)。したがって、交換価値は、何か偶然的なるもの、純粋に
相対的なるものであって、商品に内在的な、固有の交換価値(valeur intrinseque)というようなものは、一つの背理(注7)(contradictio
in adjecto)のように思われる。われわれはこのことをもっと詳細に考察しよう。
1-6 一定の商品、1クォーターの小麦は、例えば、x量靴墨、またはy量絹、またはz量金等々と、簡単にいえば他の商品と、きわめて雑多な割合で交換される。このようにして、小麦は、唯一の交換価値のかわりに多様な交換価値をもっている。しかしながら、x
量靴墨、同じく y 量絹、z 量金等々は、1クォーター小麦の交換価値であるのであるから、x 量靴墨、y 量絹、z 量金等々は、相互に置き換えることのできる交換価値、あるいは相互に等しい大いさの交換価値であるに相違ない。したがって、第一に、同一商品の妥当なる交換価値は、一つの同一物を言い表している。だが、第二に、交換価値はそもそもただそれと区別さるべき内在物の表現方式、すなわち、その「現象形態」でありうるにすぎない。
1-7 さらにわれわれは二つの商品、例えば小麦と鉄をとろう。その交換価値がどうであれ、この関係はつねに一つの方程式に表わすことができる。そこでは与えられた小麦量は、なんらかの量の鉄に等置される。例えば、1クォーター小麦=aツェントネル鉄というふうに。この方程式は何を物語るか?
二つのことなった物に、すなわち、1クォーター小麦にも、同様にaツェントネル鉄にも、同一大いさのある共通なものがあるということである。したがって、両つのものは一つの第三のものに等しい。この第三のものは、また、それ自身としては、前の二つのもののいずれでもない。両者のおのおのは、交換価値である限り、こうして、この第三のものに整約しうるのでなければならない。
1-8 一つの簡単な幾何学上の例がこのことを明らかにする。
一切の直線形の面積を決定し、それを比較するためには、人はこれらを三角形に解いていく。三角形自身は、その目に見える形と全くちがった表現-その底辺と高さとの積の2分の1―に整約される。これと同様に、商品の交換価値も、共通なあるものに整約されなければならない。それによって、含まれるこの共通なあるものの大小が示される。
1-9 この共通なものは、商品の幾何学的・物理的・化学的またはその他の自然的属性であることはできない。商品の形体的属性は、ほんらいそれ自身を有用にするかぎりにおいて、したがって使用価値にするかぎりにおいてのみ、問題になるのである。しかし、他方において、商品の交換価値をはっきりと特徴づけているものは、まさに商品の使用価値からの抽象である。この交換価値の内部においては、一つの使用価値は、他の使用価値と、それが適当の割合にありさえすれば、ちょうど同じだけのものとなる。あるいはかの老バーボンが言っているように、「一つの商品種は、その交換価値が同一の大いさであるならば、他の商品と同じだけのものである。このばあい同一の大いさの交換価値を有する物の間には、少しの相違または差別がない(注8)。」
1-10 使用価値としては、商品は、なによりもまずことなれる質のものである。交換価値としては、商品はただ量をことにするだけのものであって、したがって、一原子の使用価値をも含んでいない。
1-11 いまもし商品体の使用価値を無視するとすれば、商品体に残る属性は、ただ一つ、労働生産物という属性だけである。だが、われわれにとっては、この労働生産物も、すでにわれわれの手中で変化している。われわれがその使用価値から抽象するならば、われわれは労働生産物を使用価値たらしめる物体的な組成部分や形態からも抽象することとなる。それはもは指物労働の生産物でも、建築労働や紡績労働やその他なにか一定の生産的労働の生産物でもない。労働生産物の有用なる性質とともに、その中に表わされている労働の有用なる性質は消失する。したがって、これらの労働のことなった具体的な形態も消失する。それらはもはや相互に区別されることなく、ことごとく同じ人間労働、抽象的に人間的な労働に整約される。
1-12 われわれはいま労働生産物の残りをしらべて見よう。もはや、妖怪のような同一の対象性いがいに、すなわち、無差別な人間労働に、いいかえればその支出形態を考慮することのない、人間労働力支出の、単なる膠状物というもの意外に、労働生産物から何物も残っていない。これらの物は、ただ、なおその生産に人間労働力が支出されており、人間労働が累積されているということを表わしているだけである。これらの物は、おたがいに共通な、こ
の社会的実体の結晶として、価値―商品価値である。
1-13 商品の交換関係そのものにおいては、その交換価値は、その使用価値から全く独立してあるものとして、現れた。 ・・・続く・・・