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近世日本の市場経済大阪米市場分析
商品の交換過程の形態変化
-商品の変態- 


 『文明としての江戸システム』日本の歴史19 

  鬼頭 宏著 講談社 2002年発行


 
江戸社会の経済循環構造

 ■近世後期の 江戸-大阪 と地域間経済
 

  1. 図 江戸後期の経済循環経済
  2. 図 江戸後期の地域間経済循環経済
  3. 図 近世の主要航路



  資本論ワールド編集部

 鬼頭 宏上智大学教授(1947年生まれ)により2002年に刊行された『文明としての江戸システム』(「日本の歴史 19」)は、前資本主義社会の近世日本-江戸時代-の経済を「一つのシステム」と分析しています。
 戦前・戦後のある時期まで、「江戸時代は封建社会の成熟期」として理解されていましたが、日本経済史研究の進展によって、江戸「封建社会(?)」の具体的な様相はガラリと変貌しました。近世日本を「市場経済」の成立条件の観点から見直されてきたのです。

 「市場経済」の経済分析では、商品の交換過程ー『資本論』の商品流通 W―G―W -との比較検討が不可欠 ー明治維新以後のG―W―G´過程分析の基礎概念ー ですが、近世日本の江戸時代を「江戸社会の経済循環構造」として分析した『文明としての江戸システム』は、実証的に具体性を持って「歴史的に、論理的に」叙述した有意義な作品です。
 今回の報告は、第6章「生活を支えた経済システム」のほんの一部分の抄録と要約です。是非、原本の研究と 宮本又郎著『近世日本の市場経済』「本書の課題」(1988年発行) とを併せて検討ください。
 また、近世日本が誕生した歴史的条件についての理解も必須ですが、参考までに脇田晴子論文「統一政権誕生の条件」も引用しました。参照してください。




 『文明としての江戸システム

   第1章 日本文明史における近世

  3 人口波動と文明システム(文明系)

   〔文明システム(文明系)-生活を営む上で、道具・機械・建築物・習慣・制度・法律など、さまざまな種類の「装置」を人間にとっての「環境」といえる。生物と環境との関係を、生態系とか生態システムと呼ぶように、人間とそれを取り巻く装置群との関係を、文明システムと呼ぶことにする〕

  分岐点としての市場経済化

 筆者は農業社会を、室町時代あるいは南北朝の頃を境にして、大きく二つに分けた。先の表にも示したように、それ以前と以後では、土地に基礎を置く農業社会である点では変わらない。主要エネルギー源も、物理的エネルギーとしては風水などの自然力・人力・畜力が中心であり、燃料にはおもに薪炭が用いられ、化学的エネルギー(食料)資源としては、鳥獣魚介の動物と栽培および野生の植物が利用される社会である。二つの時代を分けるのは、経済システムの違いである。13世紀後半から14世紀前半にかけて、年貢を貨幣で納入させる代銭納荘園が急速に数を増加させている。また同じ時期に、荘園内市場が各地に成立している。市場経済化の歩みは一直線とはいいがたく、行きつ戻りつしながら数世紀かけてゆっくりと進んだが、市場の役割は江戸時代には罹実に大きくなっていた。

 市場経済の発展は、二つの側面で重要である。ひとつは市場の存在が農民の生産目的に、「販売」という要素を持ち込んだことである。これにより効率的な生産が要求されるようになり、土地の有効な利用が進み、農業生産力は上昇させられた。こうして停滞的な荘園制下の経済が変質し、成長が始まる。それは現実の社会変化としては、市場経済に適合的な合理的な生産形態(小農経営の成立)、それにともなう世帯構造の変化(直系制的な小農民家族)、農村の変化(近世的村落共同体の成立)、人口増加、都市の発展となって実現した。
 第二に、市場経済化は封建領主の支配領域を越えるモノ・ヒト・情報の交流を促して、地域統合を推進する役割を果たした。日本の工業化を西ヨーロッパと共通して並行深化したとみなす梅棹氏の文明の生態史観においても、それを敷行して工業化への道を市場経済によるものと計画経済によるものに分けて比較する速水融氏の二系列説においても、封建社会の中に市場経済が芽生えてくることが重視されている。

 近世の統治制度を特徴づける幕藩体制は、大名の領国統治の上に成り立っているという点から見れば、確かに封建制度の一種であった。しかしそれがいわゆる中世の封建制と区別されるのは、幕府の群を抜いた権力の大きさにもあったが、全国的な市場経済のネットワークの存在を前提にして成り立つ制度でもあったからである。年貢は、荘園領主が日々の生活と年中行事に要する品々を必要に応じて徴収したのとは異なり、基本的には米の石高によって領地の生産力ないしは課税標準を把握し、種々の年貢物や労役、そして貨幣の中でも、米に最も大きな比重を置く米納年貢制が一般的であった。このことは、米の販売・購入がおこなわれる市場の全国的な展開と、年貢米販売の対価として獲得した貨幣によって、領主財政と領主家計が必要とする物資とサービスを入手できることを保証する市場の存在が前提としてなければならなかった。

 中央都市である京都の「ミヤコ」から「イチ」へ、すなわち政治的な都市から経済的都市への変貌、町人のまちの形成は、近世になって突如起きたのではなかった。変化はまず、荘園年貢を貨幣で納めさせる代銭納と、荘園の年貢物を貨幣に交換する地方の荘園内市場の増加となって、鎌倉時代からみられるようになる。代銭納が現れたのは13世紀初頭であるが、14世紀前半がそのピークになった。代銭納荘園の分布も、近畿とその周辺地域で早く始まったものではあるが、陸奥から九州まで分布は広い。荘園市場についても同様の傾向を認めることができるのである。
 さらに、遠隔地間の取引が為替によっておこなわれたこと、年貢物や商品の輸送・保管に携わる業者、高利貸をおこなう金融業者が活躍し、港湾都市が全国に成長するのも、この時代であった。自前の貨幣を鋳造することなく、もっぱら渡来銭が用いられていたとはいえ、徐々に一般の農民においても市場と接触することが多くなっていった。このように14世紀前後から徐々に、全国諸地域が市場経済のネットワークで結ばれていく端緒の時代となったのであるとするならば、江戸時代に先立つ数世紀の変化を、文明史の上で見逃すことのできないエポックであったとみるべきであろう。

 徳川文明、あるいは文明としての江戸システムは、湿潤な温帯の緑豊かな列島に展開した、土地に依存した物質文明であることを第一の特徴とする。国内では幕藩体制と呼ばれる政治経済体制を敷いたが、各領国は孤立していたのではなく、拡大する市場経済によって結合されていた。国際関係においては15~16世紀における西ヨーロッパ文明との衝突が日本の対応を決定づけた。西欧が主導する〈近代世界システム>と中国の〈冊封体制〉に対抗して、独自の〈日本型華夷秩序〉〈大君外交体制〉を作り上げた。それはのちに「鎖国」と呼ばれたが、周知のとおり海外との物品の交易、情報の流入に全く窓を閉ざしたのではなかった。しかしこと資源・食料・エネルギーについてみれば、ほとんど「鎖国」状態にあったといわなければならない。国内は市場経済によって結合された「拡大されたクローズド・システム」(内田星美「江戸時代の資源自給システム試論」)であった。そして市場経済のもとで生物的エネルギー資源に依存する高度な土地利用をおこなった「高度有機エネルギー経済」のみごとなまでに展開した例であった。
 江戸システムを、発展段階説が考えるような必然的な歴史の発展段階としてみるべきではない。それは16世紀から17世紀にかけて存在した技術水準・産物・国際関係・政治思想・生活慣習・嗜好・自然環境のもとで選択され、創造された文明システムであった。本書では江戸時代を、歴史の発展過程で通過すべき一段階として解釈して、歴史的な断絶を指摘したり、あるいは反対に連続性を強調する立場を取らない。近代日本の土壌であり母体となった、しかしひとつの独立した文明が支配した時空として江戸時代を見直してみようとおもう。



   第6章 生活を支えた経済システム

  第6章 目次 (参考までに列記しました)
 1 拡大する市場と流通
   ・拡大されたクローズド・システム
   ・江戸社会の経済循環経済
   ・大坂と江戸 ― 西高東低から地方分散へ
   ・流通ネットワーク ― 海運の発展
 2 連動する貨幣と物価
   ・三貨制度の確立
   ・藩札と為替取引
   ・改鋳のもった意味
   ・物価の地域間運動
   ・米価変動と貨幣政策 ― 初期の高騰期
   ・白石と吉宗の貨幣改鋳 ― 米価の長期低迷期
   ・幕末のインフレーション
 3 江戸時代の経済的達成
   ・商品経済化がもたらした一揆の多発
   ・地方の時代 ― 都市の衰退
   ・幕末の経済発展
   ・領主財政の悪化をもたらしたもの
   ・新システムへの模索 ― 財政改革と経済思想
     ー以下、省略ー



  第6章 生活を支えた経済システム
  1 拡大する市場と流通

 拡大されたクローズド・システム
 江戸システムをそれ以前の社会システムと比べたときに最も重要な相違は、市場の役割が格段に大きくなって、社会の各層の日常生活に浸透していったことである。内田星美氏はこれを「拡大されたクローズド・システム」と名付けた。
 もともと農民の生活は、屋敷地・水田・畑・山林・原野をセッ卜とする装置のもとで、自給的に営まれることを原則とした。これを物質とエネルギーの循環の観点からみると、次のようになる。
 日光と雨水によって、森林の樹木、原野の草木、畑の作物が生育し、濯漑用水によって水田には稲が生育する。人々は耕地が生み出す生産物を食料や原料や燃料として利用する。食用作物も食べられるだけではない。藁は建材になり、わらじ・蓑・笠になり、むしろや俵として梱包材にもなった。また、ぬか・雑穀・豆とともに、家畜の飼料になった。地力を維持する肥料も、農村の生活空間から自給するのが理想であった。燃料の残滓物である灰、下草・雑草・落葉、藁とぬか、家畜や人の排泄物と、あらゆる副産物と廃棄物は、肥料として大地に戻された。一方、外部世界との物資の移動は、年貢として運び出される米と、その逆に外部から持ち込まれる、農村内部では生産されない塩や、農具となる鉄、および繊維類などに限られた。このように江戸時代の農村は基本的に、日常生活を営む上で外部との物の移動が限定された、封鎖的な世界であった。
 江戸社会は、このような6万以上の村落世界と、大小の都市から成り立っていた。しかしそれらは孤立していたのではなく、相互に物産を交換することによって結びついていた。山方(山村)では木材・製紙原料・漆・蝋・薪炭・鉱物を移出し、浜方(海村)は魚介類・海草・塩を移出し、都市は繊維などの工業製品を移出するほか、行政サービス・情報・文化・物資を集散する大小のセンターとして機能した。幕藩制そのものが、初めから地域間の経済機能の相違に基づいて、商品と貨幣の流通、すなわち一定の市場経済の展開を前提としていた。そこでは次のように、江戸時代当初から全国的な経済循環構造が作られていたのである。
 第一に、課税の中心は土地にあったが、土地への課税額は検地によって決定され、米の容積である石高で示された。そして年貢は、一部は貨幣や特産物で納められたが、米納年貢が原則であり、米の比重は大きかった。この米納年貢は、販売する市場の存在を前提として初めて可能なシステムであった。
 第二に、武士とその他の身分が明確に区別されて、武士は城下に集住させられるのが一般的であった。農民は商人・手工業者とも区別され、工商身分の者は一部を除いて武士と同様に都市に居住させられた。そして、村落と都市に分住するこれらの諸社会集団の間で、恒常的な商品と貨幣の交換が必要とされた。
 第三に、大名は領国を自立的に統治することができたが、大名の妻子は江戸に居住することが義務づけられ、大名は参勤交代制によって隔年に江戸に居住し、領国との間を往復しなければならなかった。これによって江戸は巨大な武士人口を抱えて、その需要をみたす必要から巨大な消費市場となった。
 第四に、江戸に対して、大坂・京都・奈良などの畿内諸都市は、伝統的な高度な生産技術と全国の物資を集散する中央市場の機能を備えていた。全国に流通する正貨の発行は幕府によって独占されていたから、諸藩は正貨を獲得するために領国外の市場、とくに大坂の米市場で年貢米を販売しなければならなった。


  江戸社会の経済循環構造

 そうした江戸時代前期の経済循環構造は、図(-省略-)のように描くことができる。
 民間経済の商工業者と農民の間では、市場経済による取引が中心であった。ただしこのモデルでは、農家も商工業者も家計と企業が未分離の家族経営であることを想定していて、生産要素である土地・労働・資本と、これに対応する地代・賃金・利子の、両者間の流れは示されていない。
 領主経済についてはまず、この時代の年貢は荘園年貢とはちがって、米を基本としていたが、それはすべて食料として消費されてしまうのではなく、市場でいったん換金された上で、領主階級が必要とするさまざまな物資の購入に当てられた。さらに注目しなければならないのは、幕府・藩から「公共財・サービス」として民間経済に環流されている部分である。幕府にしても諸藩にしても、近代国家とは異なって、収入の大部分は大名とその家臣団の生活費用にあてられ、財政支出のうちで民間に再分配される部分はわずかであった。それでもなお、一定部分は道路建設・治水工事・治安維持・貧民救済などに支出されて、社会的間接資本への投資となっていた点で、荘園年貢とは大きく異なるのである。
 荘園年貢は代銭納に移行するまでは、地子および茫園領主が必要とするさまざまな物資を公事として収取し、ときに労働力も加わった。荘園領主はこうした収取物で生活を成り立たせるのを原則としていたのである。灌漑設備の維持に必要な井料が、夫食料として百姓に支給されることもあったが、これらの費用は例外的なものであったと考えられる。オランダの農業経済学者スリッヘル・ファン・バート氏の概念を用いるならば、荘園年貢が領主のもとで直接消費されるという意味で「直接農産消費」であるのに対して、近世の年貢はそれを市場に放出して獲得した貨幣で領主階級の生活が成り立っているという意味で、「間接農産消費」の経済であるといえる。

 18世紀半ば頃になると、経済循環のなかで市場経済に依存する部分が拡大し、相互の間の関係も複雑になる図参照江戸後期の経済循環構造。領主経済においては、耕地面積と石高の伸びが18世紀に入ると小さくなったから、年貢として米を増加させることは困難になった。代わって、成長しつつあった非農業分野の経済活動に目をつけることになる。商工業者に営業を認可して冥加金を徴収したり、営業許可税として市場・問屋・仲間に一定の基準で運上金を課すことが拡がった。財政難を回避するために、富裕な商工業者から御用金を取り立てたり、貨幣を借り入れることも頻繁におこなわれるようになった。また前章でもみたように、地域の特産物を専売品に指定して、藩が国産会所や蔵屋敷を通じて領外に販売する、藩専売制が拡がった。

 民間経済においては、各経済主体間の関係はさらに複雑になった。たとえば繊維製品についてみれば、糸から染色・織布・捺染・仕立の段階を経て最終的な製品に仕上がるまでの工程の分業や、地域間の分業が進んで、それだけ部門内部、あるいは部門間の取引は活発になった。また、図で商工業者に加えて金融業者が付け加わっているのは、経済循環の中で資金調達手段としての金融業者の役割が重要になったことを意味している。出稼ぎや奉公による農村から都市への労働供給、地主と小作とのあいだの耕地の貸借、地主・商工業者・金融業者による農民・手工業者・商人への資金提供など、さまざまな局面で生産要素の取引が拡大して、生産要素市場が成立したことは注目に価する。


  大坂と江戸――西高東低から地方分散へ

 各経済主体間の循環構造が複雑化したのと同様に、地域間の経済循環も複雑化した。江戸時代前期における経済構造は、おおむね寛文・延宝期(1661~81)頃までに確立したと考えられている。すでに述べてきたように、大消費地の江戸と、先進地帯の畿内にあって全国から物資を集散する機能を担った大坂。このふたつの全国的な規模の市場を中心として、諸大名の領国が結びついていた。(図-省略-)。

 17世紀、米に対する需蓼は、武士・商人・手工業者など都市居住者の飯米、浜方・山方の居住者の飯米、農民の不足分、酒造などの原料米があった。しかし年貢米を販売して地方領国内で換金するには、市場規模が十分とはいえなかった。そこで多くの藩が大坂または江戸に蔵屋敷をおいて、自国内産米の販売に力を注いだのである。
 江戸へはおもに東海地方以東の東日本の諸藩から、大坂へは西日本全域と北陸から年貢米が廻漕された。17世紀末期、大坂へは65の藩から年間100万~140万石の蔵米が到着していた。さらにこの4分の1に相当する民間来である納屋米があったから、合計で130万~180万石になった。このほかにも近江の大津、摂津の兵庫からも米が廻着しているから、畿内への廻米は200万石を下まわることはなかったと推定される(宮本又郎氏による)。これらの大量の米は、畿内の都市で消費されただけではない。この時代、畿内の都市人口は100万人程度であったから、酒造原料(およそ20万石)や再移出を差し引いても、数十万石の米が、畿内の農村で消費されたものと考えられる。摂津・河内・和泉の農村部には、菜種や綿花のような商品作物に特化して、自らは食料を生産しなくなった農民が多数、存在していたのである。

 西国の諸藩が、領内の港湾や輸送ルートを整備し、米の品質を管理し、大坂に蔵屋敷を設置し、米の販売を担当する専門の役人を置き、輸送・販売・金融の専門業者を登用して、藩による大量一括輸送と取引を実行するのは、17世紀中頃からである。大坂は中央市場として定着するのである。 
 こうして物流センターとして整備された大坂は、全国各地から物産が集まっていたため、ここで領内では生産できないものを調達することができた。18世紀初期の正徳年間には、大坂の蔵屋敷に専属して各国からの商品を荷受けし、荷主の依頼を受けて商品を保管し、販売の仲介にあたる問屋が45かヵ国・1,851軒あった。このほかに取扱い商品を絞り込んで産地に出張所をもったり、買継商を指定して特定商品の仕入をおこなう、仕込み問屋の性格をもつ諸国専業問屋が44種・2,355軒、国別専業問屋その他が、大坂菱垣廻船問屋・江戸樽廻船問屋・酒造類株を含めて、32種・1,031軒もあった。

 正徳4年(1714)の大坂には、銀にして29万貫の移入品と10万貫の移出品があった。移入品は、全体の14パーセントを占める米が最も多く、以下、菜種・材木・干鰯・白木綿・紙・鉄・掛木・銅・木綿・煙草・砂糖・大豆・塩・小麦などであった。移出品は全体の27パーセントを占める菜種油が最も多く、次いで縞木綿・長崎下り銅・白木綿・綿実油・古着・繰綿・醤油・万鉄道具・油粕・万塗物道具・小間物・胡麻油・焼物・酒の順であった。原料・食料を移入し、加工品を移出する、加工貿易の基地が大坂であったことがわかる。

 もう一方の大市場である江戸は、関東周辺の生産力が低く供給力が十分でなく、技術水準もまだ畿内とくらべて見劣りしたから、日用品を含めて多くの商品を上方に依存しなければならなかった。上方から江戸へ移出される荷物は下り荷物と呼ばれたが、幕府は享保9~15年(1724~30)に、米・味噌・炭・薪・酒・醤油・油・魚油・塩・木綿(綿織物)・繰綿の11種の江戸積込商品量を調査している。価額が多い商品は、繰綿・酒・木綿・油・醤油の順であった。繰綿以外は最終消費財であったから、江戸がいかに多くの日常生活物資を大坂に依存していたかを知ることができる。しかし同時に、最も金額が多いのが繰綿であることにも注意しておく必要がある。江戸では原料の繰綿を移入したが、それは周辺部で綿製品に加工されたのである。

 しかし江戸時代後期になると、地域間の経済循環構造は大きく変貌する(図参照-江戸後期の地域間経済循環構造。モデルが示しているのは次のようなことである。第一に江戸は、周辺地域のいわゆる江戸地廻り経済圏の発展によって、中央市場としての機能が高まった。第二に、地方領国でも畿内から先進技術が分散した結果、プロト工業化が進み、大坂に依存しない地方領国間の直接取引が活発になった。この地方的な中核市場として、赤間関(下関)・兵庫・名古屋・酒田などが成長した。第三に、以上の結果として、大坂と畿内の地位が相対的に低下した。
 大坂と江戸の関係変化を端的に示す資料がある。享保11年(1726)に江戸に入荷した11品を、安政3年(1856)のものと比較してみると、両都市の関係の変化がよくわかるのである。享保期に江戸へ入津した生活必需品で、大坂への依存度が高いものは、繰綿・油・醤油であった。これらは江戸に入荷した商品の4分の3以上が、大坂から入津していた。木綿と酒がこれに次ぐが、さほど高くない。木綿は東海地方からの入荷が多かったと考えられる。酒については、当時の産地として畿内が重要な地位を占めていたから、80万樽に近い商品の多くが、上方に依存しないわけにはいかない。大坂を経由していなくとも、畿内産地からの直送があったのではないかとみられる。

 幕末の安政期になると、江戸の大坂への依存度は縮小した。とはいえ、酒に関しては90パーセント近くが大坂(上方)から入津している。油も依然として大坂への依存度が高い。しかし繰綿・木綿は上方への依存度を大きく減退させている。そして、とくに減少が目立つのが醤油である。安政期には、江戸への入荷高は157万樽に及んでいるが、そのうち上方からは9万樽に過ぎない。木綿にも共通することであるが、江戸時代中期以後1世紀余の間に、江戸を中心とする地域の需要が高まったことと、関東地方に木綿や醤油の産地が生まれたことの結果であった。木綿であれば三河・尾張・伊勢のほかに、関東にも武蔵の青梅・川越・埴生(現、羽生)・八王子、下総の結城・真岡・八日市場、上州の桐生などが新しい産地として成長したことを反映している。また、京都で生まれた醤油が商品として普及したのは紀州の湯浅からであったが、それが銚子へ伝えられて、18世紀後半からは利根川流域の銚子・野田で醤油醸造業が発展していたのである。


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 江戸後期の経済循環経済

  宮本又郎近世日本の市場経済
 図0-1
 図0-2 を併せて参照してさい。






  江戸後期の地域間経済循環経済



近世の主要航路



  流通ネットワーク ― 海運の発展
    〔編集部作成〕
 1. 全国の諸領国が畿内の中央市場と結びつき、全国的な流通ネットワークが実現するには、廻船や河川舟運の機構の整備が必要であった。
 2. 東北と北陸の諸藩では下関を経由し瀬戸内海を航行して大坂(大坂米市場)に到る西廻海運の航路が開かれ、東北の幕領米を江戸に廻漕する東廻海運のルートが河村瑞賢により整備された。
 3. 当時の幹線ルートの大坂ー江戸の間には、定期貨物便船の菱垣廻船と樽廻船が就航している。また、米がとれない松前藩では鰊漁の肥料(金肥の干鰯)を西回り・北前船で運び、帰り荷を米や衣料品を大坂・畿内から運送した。
 4. 主な海運ネットワーク
  ① 西廻海運 幕領米、大坂への上り荷(松前藩の海産物、出羽・北陸の米・木材など)、松前や東北への下り荷(木綿・古着・塩・米・砂糖・酒・紙など)
  ② 東廻海運 日本海沿岸・山形県酒田から津軽海峡を経て幕府直轄の貢米、津軽藩、仙台藩の蔵米(江戸廻米)
  ③ 大坂-江戸幹線 大坂は江戸の物資供給基地で商品流通が活発化し、1616年伊豆下田に船番所を設置。大坂から江戸への下り物の管理が整備され、木綿・油・綿・酒・酢・醤油など生活必需品を廻送。上方からの下り物を扱う江戸十組問屋が結成され、地方市場が発展する18~19世紀には、江戸地廻り経済圏が形成される。 


 江戸・大坂間の為替取引


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