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ヘーゲル哲学用語事典 未来社

                

 <『資本論』と弁証法について ①>


                        >>同一性>   >>形式>>クリック


  
反 省  Reflexion    島崎 隆
   ( 自己への関係 仮象 措定的反省 外的反省 規定的反省 )

 
反省の一般的説明  Reflexionは通例「反省」ないし「反照」と訳される。「反省」は本質論を特徴づける基本論理である。一般に、意識が対象の内面的なものを意図的に捉える働きをまず「反省」という。また、ヘーゲル自身がいうように、光のような事物の運動が「反省」(反射)とよばれる。光が鏡などに当たり、折れ曲がることがReflexionなのである。ヘーゲルの反省概念もまた、対象の本質を意識的に捉える認識作用という面と、事物自身が折れ曲がり、もとに戻る運動(円環運動)という両面を強度に一体化して含んでいる。反射とは、以前の自分に帰ってくることであるから、それは自分を反省することと解釈できる。


  ・・・ <反省規定>からの挿入・・・資本論ワールド編集部・・・


同一性
 有論の論理が或るものから他のものへの絶えざる変化・移行の論理だとするば、本質論の論理はそうした表面的な変化の奥にある、事物の安定した<同一性(Identität)>を捉えようとする。同一性(同じということ)は、事物が多様に変化するにもかかわらず、そこに貫く不変のもの(同じであり続ける主体性)を意味する。この意味で、同一性は端的に本質の論理そのものであり、またそれは、基本的に、自己との同一性、自己との関係を意味する。


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 哲学史的にいうと、反省は近代の科学や形而上学によって用いられた悟性的思考を意味する。イェーナ期のヘーゲルは『差違』、『信と知』などで、近代のカント、フィヒテなどの「反省哲学」を鋭く批判した。近代で盛んになった、この反省的思考は、人間の認識能力などを意識的に検討することを大きなテーマとしたが、そこからは、主観的な人間の反省が向こう側にある事物の奥深い本質を捉えられないのではないかという懐疑が生じた。
意識主体と対象をまず明確に分ける近代の反省的思考は、こうして、限界のある思考法であった。


とくに、悟性的な論理をもつ反省的思考は、生きいきした、真の事物(生命的有機体、人間の自由、世界の全体性、さらに宗教上の神など)を十分に捉えられないものであるが、ヘーゲルはこの人間の思考の営みのなかにある弁証法的なものを抉り出そうとする。


 有論から本質論へという展開を総括すると、反省的思考は直接的所与である現象(じつは有論の「有」のこと)の認識から、本質の認識へと到達した。弁証法的にいうと、ここで反省は、事物がみずからを被措定有ないし多様な現象として産出しながら、そのなかで同時に統一を回復し、自己関係を見いだすダイナミックな論理として把握し直される。
この<自己への関係(Beziehung auf sich)〉とは、他のものと積極的にかかわりながらも、(自己)統一性を保持している状態である。自己関係(=統一性)を失った状態とは、その事物が他のものの影響下にあって自分を保持できず、崩壊することを意味する(→否定、理性)。反省の論理は『大論理学』本質論の冒頭で展開されるが、『小論理学』では、反省論のまとまった叙述はない。だが近年、へーゲル弁証法を理解するうえで、反省論が注目されている。


 
有論から本質論へ  

 論理学で有論から本質論へと展開されたとき、有論の対象であった質・量をもった具体的なものは、その自立性を失い、<仮象(映現Schein)>、いわば見せかけ、外観とみなされる。つまり、質的・量的な存在は、有限的なものとしていまや全面的に否定されたのである(→有限者)。こうして、これらのものは本質によって捉え返されたもの(被措定有)とみなされることができる。「被措定有」とは、直接的な所与(データ)が本質レベルから再把握され、あらたな意味づけを与えられたものである。こうして、有(論)→本質(論)へという論理学上の歩みは、この段階で、事物を本質→有(=被措定有)という運動をもつものとして理解することになる。ここに折れ曲がりの円環運動がある。


 
無から無への運動  

以上の、有→本質の進展を逆転させ、本質→有とする反省の運動は、論理的に「自己関係的否定」、「無から無への運動」(『大論理学』)などと表現される。このさい、「否定」と「無」はほぼ同義である。つまり、有(論)→本質(論)の運動の結果到達したこの段階では、質と量の有的自立性をもったもの、感性的に目に見えるものはすべて否定され、無と化している。本質論の冒頭では、「無から無への運動」という流動状態があるだけで、いまや確固とした規定は与えられていない。
ヘーゲルの意図は、これ以後始まる本質論の展開においてすべての直接的所与を徹底的に本質によって媒介されたものとして批判的に捉え返すことである。こうして、
有論の世界を本質レベルから再構築することが本質論の課題である。


 ヘーゲルはこの反省の論理に、無から有を産み出すという意味で、神による世界創造の原理を対応させていると考えられる。だが、その合理的な意味は、いま述べたように、反省の論理によって、眼前の事物を批判し、それを本質レベルから派生した現象形態として、余すことなく、徹底的に捉え返すことである。つまり、事物を根本から産出する構造を捉えることは、宗教では、世界創造の認識となる。有論→本質論の進展は一種の下向法的認識であり、本質論での展開は上向法的な性質をもつとみられる。


 反省論の構造  


 さて、反省論は、①<措定的反省(setzende Reflexion)>、②<外的反省(ӓuẞere Reflexion)>、③<規定的反省(bestimmende Reflexion)>に区分される。 措定的反省は「本質の絶対的反省」ともいわれ、反省の原型をなす。反省とは、事物がみずからを被措定有として産みだす運動、つまり「自己措定の運動」(『精神現象学』)であり、同時にそうした事物を本質レベルから捉え返す認識上の運動でもあった。いままで示された反省の説明はこの「措定的反省」にあてはまる。

こうして
反省はまず、事物を(批判的に)措定する運動である。ところが、措定するためには、そこになにか前提されるものが必要であろう。反省とはなにか或るものについての反省なのであるから。そして、上述のように、反省が「無から無への運動」である以上、それは「無」を前提にすることになる。こうしてある意味で、反省は前提から出発する作用(前提作用Voraussetzen)となる。ところが、前提が「無」である限り、この反省作用は無前提で、もっぱら措定するだけのものとなる。つまり、前提作用は内容上、措定作用に等しい。


こうして、措定的反省では、まだ前提作用が措定作用(Setzen)から十分に独立していない(→措定)。 つぎの「外的反省」は認識主体と対象が外的に分離しているものとみなし、主体が外部から前提された対象(直接的存在)に働きかける段階である。外的反省は「実在的反省」ともいわれ、要するにこれは、さきほど述べた常識や近代の悟性的な反省的思考を意味する。
近代とは、人間と自然が、また人間相互が分裂する時代である。そこではまた、措定的反省の段階と異なり、事物を前提とすることと措定することとが分離する。ところが、認識主体と客体があらかじめ分離されている場合、主体が対象の本質を捉えられる保証はない。ここに、カント的な不可知論(事物の本質はけっして認識できないという考え)が生じる根拠がある。最後の「規定的反省」は外的反省の分裂を克服して措定的反省の統一へと帰った状態である。
ここに弁証法の三段階的発展が明示される(→弁証法、即自-対自-即かつ対自)。反省の論理は抽象的で難解であるが、ヘーゲル弁証法を理解するための大きな鍵をなすものと思われる。

(島崎 隆)