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用語資料 ヘーゲル用語

  
「物 Ding 」の相関関係


 「現実性とその条件」同一性と必然性
事柄 Sache と 事物 Ding

 物の性質の集合 Sammlung (『精神現象学』)


 ■ 目次 .....  ......
 0. 資本論ワールド編集部

   ヘーゲル「小論理学」
 1.
 現存在 Existenz (実在) §123-§124
 2. 
Ding §125~§130
   .....  ......

 0. 資本論ワールド編集部
  現存在Die Existenzと物Ding


・・・・・・・・・
  「小論理学」第2部本質論
 A 現存在の根拠とっしての本質 (115-122)
  a 純粋な反省規定 (115-122)
  b 現 存 在 (Die Existenz §123-124)
  c 物 (Das Ding §125-130)
・・・・・・・
■ ヘーゲル「小論理学」

 1.
 現存在 Existenz (実在) 
 b 現存在 ( Die Existenz:実在 §123-124 )

§123 現存在は、自己のうちへの反省と他者のうちへの反省との直接的な統一である。したがってそれは、自己のうちへ反省すると同時に他者のうちへ反照し、相関的であり、根拠と根拠づけられたものとの相互依存および無限の連関からなる世界を形成する、無数の現存在である。ここでは根拠はそれ自身現存在であり、現存在も同じく、多くの方面に向って、根拠でもあれば根拠づけられたものでもある。

  §123 ▼補遺
 Existenz〔現存在〕という言葉は、ラテン語のexistere〔出現する〕という動詞から作られたものであって、出現している有(Hervorgegangensein)を示す。すなわち現存在とは、根拠から出現し、媒介を揚棄することによって回復された有である。本質は揚棄された有であるから、まず自己のうちにおける反照であり、そしてこの反照の諸規定は同一、区別、および根拠であった。根拠は同一と区別との統一であり、したがって同時に自己を自分自身から区別するものである。

ところで、根拠から区別されたものは、根拠そのものが単なる同一性でないように、単なる区別ではない。根拠は自己を揚棄するものである。そして根拠が自己を揚棄して移っていくもの、すなわち根拠の否定の結果が、現存在である。これは根拠から出現したものであるから、根拠をその内に含んでおり、そして根拠は現存在の背後にとどまっているものではなく、自己を揚棄して現存在へ移っていくものである。こうした関係は、普通の意識のうちにも見出される。われわれが或るものの根拠を考察する場合、この根拠は単に内面的なものではなく、それ自身再び一つの現存在である。例えば、われわれは火事の根拠として或る建物に点火した電光を考え、同様にまた或る民族の政体の根拠としてその民族の風習および生活関係を考える。これが一般に、現存在する世界が最初にわれわれの反省の前にあらわれる姿である。それは、自己へ反省すると同時に他者へ反省し、互に根拠および根拠づけられたものとして関係しあっている無数の現存在である。現存在するものの総括としての世界のうちに行われている、このような種々様々の関係のうちには、まずどこにも確かな拠りどころが見出されない。すべては、他のものに制約されるとともに、他のものを制約する相対的なものとしてのみあらわれている。反省的悟性はこれらの全面的関係を探り追求することを仕事としているのであるが、それでは、究極目的は何かという問題は解決されないままに残る。したがって概念をとらえようとする理性は、論理的理念の一層の発展とともに、このような単なる相対性の立場を越えて進んで行くのである。

§124  しかし、現存在するものの他者への反省は、自己への反省と不可分である。なぜなら、根拠は両者の統一であって、現存在はこの統一からあらわれ出たものだからである。したがって、現存在するものは、相関性、すなわち諸他の現存在と自分とのさまざまな連関を、自分自身のうちに含み、根拠としての自己のうちへ反省している。かくして、現存在するものは物(Ding)である。
  カント哲学においてあんなに有名になった物自体(Ding-an-sich)は、ここでその発生において示される。すなわちそれは、他者への反省および一般に異った諸規定が排除されて、そうした諸規定の空虚な基礎である抽象的な自己内反省が固執されているものである。


§124 ▼補遺 物自体は認識できないものであるという主張は、次のような意味でのみ正しい。すなわち、認識するとは、対象を具体的な規定性においてとらえることを意味するのに、物自体は、全く抽象的で無規定の物一般にすぎないのである。のみならず、もし物自体というようなことが言えるとすれば、同じ権利をもってわれわれは、質自体とか量自体とか言うこともできるであろうし、さらにその他のすべてのカテゴリーについても同様のことが言えるであろう。そしてわれわれはこうした言葉のもとに、単なる直接性における、言いかえれば、展開および内的規定性が捨象されているこれらのカテゴリーを理解するであろう。したがって、ただ物だけを特に自体のうちに固定するのは、悟性の気まぐれの一つと言わなければならない。さらに人々は、自体という言葉を自然および精神の世界の内容にも適用して、例えば電気自体とか植物自体とか、また人間自体とか国家自体とかいうような言葉を用い、自体という言葉によってこれらの対象の正しい本来の姿を意味させている。こうした言葉についても、物自体一般についてと全く同じことが言える。すなわち、われわれが対象の単なる自体にとどまっているならば、われわれはこれらの対象をその真の姿においてではなく、単なる抽象という一面的な姿においてとらえるのである。例えば、人間自体は子供であるが、子供はその抽象的で未発展の自体にとどまっているべきものではなく、それがまず即自的にのみあるもの、すなわち自由で理性的な存在に、対自的にもならなければならない。同様に、国家自体とはまだ発達しない族長的国家であって、そこではまだ国家の概念のうちに含まれているさまざまな政治的機能が、概念に適合した構成にまで達していない。同じ意味でまた、胚を植物自体と言うことができる。これらの例からわかるように、物の自体あるいは物自体がわれわれの認識の達しがたいものと考えるのは、甚しい誤りである。すべての事物は最初は即自的にある。しかしそれはそこにとどまっているものではなく、あたかも植物自体である胚が本質的に発展するものであるように、物一般もまた抽象的な自己内反省である単なる自体を越えて進み、更に他者への反省として自己を示すにいたる。かく考えられるとき、物は諸性質を持つのである。



 2.  
Ding  ヘーゲル「小論理学」 §125~§130

§125 
物 Ding は根拠 Grund と現存在 Existenz という二つの規定が発展 Entwicklung して一つのもののうちで定立されているものとして、統体〔Totalität; 全体性、総体性〕である。それは、そのモメントの一つである他者内反省〔Reflexion-in-Anderes; 他者への反照〕からすれば、それに即してさまざまの区別を持ち、これによってそれは規定された、具体的な物 konkretes Dingである。 

(イ) これらの諸規定は相互に異っており、それら自身のうちにではなく、物のうちにその自己内反省を持っている。それらは
物の諸性質(Eigenschaften)であり、それらと物との関係は、持つという関係である。
  今や“ある”の代りに、持つという関係があらわれる。“或るもの”も自己に即してさまざまの質Qualitäten を持ってはいるが、このように持つという言葉を有的なものへ転用するのは正確ではない。なぜなら、質としての規定性 Bestimmtheit als Qualität は、或るものと直接に一体であって、或るものがその質を失うとき、或るものは存在しなくなるからである。しかし
物は自己内反省であり、区別から、すなわち自己の諸規定から区別されてもいるところの同一性である。―Haben 〔持つ〕 という言葉は、多くの言語において過去をあらわすに用いられているが、これは当然である。というのは、過去とは揚棄された有であるからである。精神は過去の自己内反省であって、過去は精神のうちでのみなお存立を持っているが、しかし精神はまたこの自己のうちで揚棄された有を自己から区別してもいる。


§125 ▼補遺   〔性質 Eigenschaft と
Qualität の区別
 物において、すべての反省規定が、現存在するものとして再びあらわれてくる。かくして物は、まず物自体としては、自己同一なものである。しかし、すでに述べたように、同一は区別なしには存在しない。そして
物が持っている諸性質は、現存在している区別-差別のかたちにおける―である。以前は、差別されたものは相互に無関係であって、外的な比較がそれらの相互関係を作り出したのであるが、今やわれわれは物において、さまざまの性質を相互に結合する紐帯を持っている

なお、われわれは
性質 Eigenschaft と 質 Qualität とを混同してはならない。われわれは、或るものが質を持っているというような言い方をしないでもない。しかし、持つという言葉は、その質と直接に同一である或るものにはまだ属しないような独立性を示すから、こうした言い方は適当でないのである。或るものは、その質によってのみ或るものである。これに反して物は、諸性質を持つかぎりにおいてのみ現存在するものではあるが、しかしあれこれの特定の性質に結びつけられているものではなく、したがってそれらを失っても、その物でなくなるということはない。

§126   〔
諸性質Eigenschaften -抽象的な規定性として、質料 Materie
 (ロ) しかし根拠においてさえ、他者への反省はそれ自身直接に自己への反省である。したがって諸性質はまた自己同一であり、独立的でもあって、物に結びつけられていることから解放されてもいる。しかしそれらは、物の相互に区別された諸規定性が自己のうちへ反省したものであるから、それら自身具体的な物ではなく、抽象的な規定性として自己へ反省した現存在、質料(Materie)である。
  さまざまの質料、例えば磁気的、電気的質料は、実際また物とは呼ばれない。―それらは本来の意味における質、すなわちそれらの有と一つのものであり、直接態に達した規定性である。もっともこの直接態は、反省した有としての、したがって現存在であるところの有としての直接態であるけれども。


§126 補遺   〔
物の諸性質と質料の分解
 物が持つ諸性質が独立して、それらから物が成立する質料となるということは、物の概念にもとづいており、したがって経験のうちにも見出される。 しかし、例えば、色とか匂とかのような物の諸性質を特殊の色素や臭素として示しうるということから、これですべては終ったのであって、物の本質をさぐるには物をその質料へ分解しさえすればよいと結論するのは、論理にも経験にも反している。独立的な諸質料への分解ということは、ただ無機的自然においてのみ本来の場所を持っている。したがって化学者が、例えば食塩や石膏をその質料に分解して、前者は塩酸とソーダ、後者は硫酸と石灰とから成ると言うとき、かれは正当である。また地質学が花崗岩を石英と長石と雲母とから合成されているとみるのも、同様に正当である。そして
物を構成しているこれらの質料は、一部はそれ自身また物であり、したがってより抽象的な素材に分解されうる。例えば、硫酸は硫黄と酸素とから成っている。このような質料あるいは素材は、実際独立に存在するものとしてあらわされうるものであるが、このような独立を持たない諸性質が特殊の質料とみられることもしばしばある。例えば、熱や電気や磁気の質料とかいうようなことが言われているが、このような質料や素材は悟性の虚構にすぎない。一体に、理念の特定の発展段階としてのみ妥当する個々のカテゴリーを勝手にとらえてきて、すなおな直観と経験とに反するにもかかわらず、説明のためと称して、あらゆる考察の対象をそれに還元してしまうのが、抽象的な悟性的反省のやり方である。かくして、物が独立の諸質料からなるという思想は、それがもはや全く妥当しない領域にもしばしば適用されている。すでに自然の範囲内でも、有機的生命においてはこのカテゴリーは不十分である。われわれはこの動物は骨、筋肉、神経、等々から成ると言いはする。しかしこの場合、花崗岩の一片が上述のような諸質料から成るのとは、わけがちがうということはきわめて明白である。花崗岩を構成している諸質料は、その結合にたいして全く無関心であり、結合されていなくても存立することができる。これに反して有機的な肉体のさまざまの部分は、それらの結合のうちにのみ存立を持ち、はなればなれになると、そうしたものでなくなってしまう。


§127   〔
物と質料の関係
 かくして質料は抽象的な、すなわち未規定の他者内反省であり、あるいは、同時に規定されたものとしての自己内反省である。質料はしたがって定有的な物性であり、物を存立させるものである。かくして
物はその自己への反省を諸質料のうちに持ち(125節の反対)、自己に即して存立するものではなくて、諸質料からなるものであり、諸質料の表面的な連関、外面的な結合にすぎない。


§128   〔
質料-形式-区別
 (ハ) 質料は、現存在の自己との直接的統一であるから、規定性にたいして無関心でもある。したがって、
さまざまの質料は合して一つの質料、すなわち、同一性という反省規定のうちにある現存在となる。他方、これらさまざまの規定性、およびそれらが物のうちで相互に持っている外面的な関係は、形式(Form)である。これは区別という反省規定であるが、しかし現存在しかつ統体性であるところの区別である。
  この無規定的な一つの質料もまた物自体と同じものである。ただ異るところは、物自体が全く抽象的な存在であるに反し、
前者〔質料〕は即自的に他者との関係、まず第一に形式との関係を含んでいる点にある。

§128 補遺   〔
物は同一の質料を持つ
 物を構成しているさまざまの質料は本来同じものである。これによってわれわれは、区別がそれにたいして外的なものとして、すなわち単なる形式として定立されているような一つの質料一般を持つことになる。物はすべて同一の質料をその基礎に持ち、それらの相違はただ外的にのみ、すなわち形式においてのみあるにすぎないという考え方は、反省的意識にはきわめてよく知られたものである。この場合質料は、それ自身は全く無規定的でありながら、しかもどんな規定でも受け入れることができるものであり、また絶対に永久不変で、あらゆる変転、変化のうちで自己同一にとどまるものである、と考えられている。
特定の形式にたいする質料のこうした無関心は、確かに有限な事物のうちには見出される。例えば、大理石の一片にとっては、どんな立像の形が与えられようと、あるいはまた円柱の形が与えられようと、どうでもいいことである。

しかし、この場合見のがしてならないのは、大理石の一片のような質料でも、ただ相対的にのみ(彫刻家にたいしてのみ)形式に無関心なのであって、けっして、一般に無形式ではない、ということである。鉱物学者は、相対的にのみ無形式の大理石を特定の組成をもつ岩石とみ、同じく特定の組成をもつ他の岩石、例えば、砂石、斑岩などから区別している。したがって、質料をそれだけで独立させ、それ自身あくまで無形式のものと考えるのは、抽象を事とする悟性にほかならない。事実はこれに反して、質料という概念は、あくまで形式の原理を自己のうちに含んでいるのであり、だからこそ経験においても、形式のない質料はどこにも現存しないのである。なお、質料は本源的な存在であり、かつそれ自身無形式のものであるという考え方は、きわめて古く、すでにギリシャに見出される。その最初の姿はギリシャ神話のカオスであって、それは現存在の世界の没形式の基礎と考えられている。こうした考え方にしたがえば、神は世界の創造者ではなく、世界の単なる形成者、デミウルゴスと考えられなければならない。しかし一層深い見方は、神は世界を無から創造したという見方である。これは二つのことを含んでいる。一つには、質料そのものはけっして独立を持たないということであり、もう一つには、形式は外から質料に達するのではなく、統体性として質料の原理を自己のうちに持っているということである。このような自由で無限な形式は、後に示されるように、概念である。


§129  〔物-質料と形式
 かくして物は質料と形式とにわかれる。この両者はいずれも物性(Dingheit)の全体であり、おのおの独立的に存立している。しかし肯定的で無規定の現存在たるべき質料も、それが現存在である以上、自己内有とともにまた他者への反省を含んでいる。こうした二つの規定の統一として、質料はそれ自身形式の全体である。しかし形式は、諸規定の総括であるという点だけから言ってもすでに、自己への反省を含んでいる。言いかえれば、それは自分自身へ関係する形式として質料の規定をなすべきものを持っている。両者は即自的に同じものである。両者のこうした同一の定立されたものが、同時に異ったものでもあるところの質料と形式との関係である。


§130
  物はこのような統体性として矛盾である。すなわち、物は、否定的統一からすれば形式であり、質料はそのうちで規定されて諸性質にひきさげられているが(125節)、同時に物はもろもろの質料からなっており、これらは物の自己への反省のうちで、否定されたものであると同時に独立的なものでもある。かくして物は、自分自身のうちで自己を揚棄する現存在としての本質的な現存在、すなわち現象(Exscheinung)である。
  物においては、もろもろの質料の独立性と同時にそれらの否定が定立されているが、この否定は物理学では多孔性(Porosität)という姿をとってあらわれている。多くの質料(色素、嗅素、およびその他の諸質料。音素、熱素、電素等々というようなものなどまで考えている人もある)の各―は否定されてもいる。そしてこれらのこうした否定性、すなわち、これらが持っている多くの孔のうちに、他の多くの独立な質料が存在し、それらも同じく孔を持ち、かくして互に自分のうちに他のものを存在させるようになっている。この孔なるものはけっして経験的に見出されるものではなく、悟性の作りものである。悟性は、独立的な諸質料が持っている否定のモメントをこのような仕方で考え、そして矛盾のそれ以上の進展を、そのうちではすべてが独立的であるとともに、またすべてが互のうちで否定されているところの混沌をもっておおいかくすのである。―同じような仕方で精神の諸能力や諸作用が実体化される場合、それらの生きた統一は、それらが互に作用しあうという混乱となってしまう。
 孔が観察によって確証されうるものでないと同じように(ここで孔というのは、例えば木材や皮膚の孔のような有機体の孔をさすのではなく、色素とか熱素とか、あるいは金属や結晶などのような、いわゆる質料のうちにある孔である)、質料そのものとか、質料から切りはなされた形式というようなもの(その最も手近な例は、物が質料から成立しているという考え、および物はそれ自身存立していて諸性質を持つにすぎないという考えである)もまた反省的な悟性の産物である。この悟性は、観察しそして観察するものを記述すると称しながら、かえって一種の形而上学を作り出しているのであり、そしてこの形而上学は、あらゆる方面で矛盾にみちているのに、悟性はそれに気づかないのである。



  * * *