資本論の三位一体
『資本論』の伝統文化 第1回
・・・キリスト教神学の伝統・・・
『資本論』の三位一体 Die trinitasche Formel 第3巻 第48章
第3巻 第48章 三位一体の定式では、
キリスト教の基本教義の「三位一体」と「ペルソナ」の概念を使いながら、資本主義社会を構成している三大階級―資本家、労働者、土地所有者―の関係を次のように説明し、資本制生産の特徴づけを行っています。
■ 資本において人格化される〔 im Kapital personifiziert werden 〕
資本、土地、労働!しかし資本は物ではなく、一定の、社会的は、一定の歴史的社会構造に属する生産関係であって、それが一つの物において表示され、そしてこの物に一つの特殊な社会的性格を与えるのである。資本は、物資的な生産された生産手段の総和ではない。資本、それは資本に転化された生産手段で、生産手段それ自体が資本でないことは、金または銀それ自体が、貨幣でないのと同様である。資本は、社会の一定部分によって独占された生産手段であり、生きた労働力の対立して独立化された、この同じ労働力の生産物および活動諸条件であって、これらのものが、この対立によって資本において人格化されるのである。・・・p.1018
■資本家は人格化された資本
資本主義的生産過程は特定の物質的諸条件のもとで行なわれるのであるが、この諸条件は同時にまた、諸個人が彼らの生活再生産の過程において入りこむ、特定の社会的諸関係の担い手でもある。かの諸条件も、この諸関係も、一面では資本主義的生産過程の前提であり、他面ではその結果であり所産である。それらはこの生産過程によって生産され、再生産される。さらにわれわれは次のことを見た。資本は―
そして資本家は人格化された資本であるにすぎず、生産過程においてはただ資本の担い手として機能する―、かくして資本は、それに対応する社会的生産過程において、一定量の剰余労働を直接生産者または労働者から汲み出す。P.1023
■土地所有者が本質的な生産諸条件の人格化として現われる
所有者は資本主義的生産過程において一つの役割を演ずる、というのは、それが資本の上に加える圧力によってのみではなく、また大きな土地所有は、労働者からの労働諸条件の収奪の一前提であり、一条件であるから、資本主義的生産のそれでもあるということによってのみでもなく、とくに、彼がもっとも本質的な生産諸条件の人格化として現われるということによって、その役割を演ずるのである。P.1026
■この物の人格化と生産諸関係の物化
資本-利潤、またはより適切には資本-利子、土地-地代、労働-労働賃金、この、価値および富一般の諸構成部分とその諸源泉との関連としての経済的三位一体において、資本主義的生産様式の神秘化、社会的諸関係の物化、素材的生産諸関係とその歴史的社会的規定性との直接的合生は完成している。魔法にかけられた、逆倒された、逆立させられた世界、そこではムッシュー・カピタルとマダム・ル・テル(資本氏と土地夫人)が社会的諸人物として、また同時に直接に単なる物として、彼らの魔術を行う。この虚偽な外観と欺瞞、富の種々の社会的要素相互のこの独立化と骨化、この物の人格化と生産諸関係の物化、この日常生活の宗教、これらのものを分解したことは、古典経済学の大きな功績である。P.1037