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 文献資料 単純と形式- 2020.04.25作業中・・・


   “単純な” 関係 (端緒) 形式研究 202004.25

  
単純なeinfache の用法分析 2020.04.23

  もののつくりや状態が単純で、初期の状態に近いこと
  端緒(始元Anfang)-始原・原初の > Keim 胚、萌芽、はじまり
―プリミティブな ・ 原始的な ・ 単純な

(*…プリミティブ・アートprimitive artの訳語。プリミティブという語には二つの意味があり,一つには初期,古風,始原を,二つには開化に対する未開や素朴をさす。…)




●■ (1)エンゲルス 『経済学批判』について 1859年

 〔 科学はどのように取り扱われるべきか 〕

 〔ヘーゲルからマルクスへ〕

 「マルクスは、ヘーゲルの論理学の皮をむいて、この領域におけるヘーゲルの真の諸発見を包有している核をとりだし、かつ弁証法的方法からその観念論的外被をはぎとって、それを思想の展開の唯一のただしい形態となる簡明は姿につくりあげる、という仕事をひきうけえた唯一の人であったし、また唯一の人である。マルクスの経済学批判の基礎によこたわる方法の完成を、われわれはその意義においてほとんど唯物論的根本見解におとらない成果であると考える。・・・

 この方法ではわれわれは、歴史的に、事実上われわれのまえにある最初の、そしてもっとも単純な関係から、したがっていまのばあいには、われわれのみいだす最初の経済的関係から出発する。この関係をわれわれは分析する。それが一つの関係であるということのうちに、すでに、それが相互に関係しあう二つの側面をもつということが含まれている。これらの側面のそれぞれは、それ自体として考察される。そこから、それらがたがいに関係しあう仕方、それらの交互作用があらわれる。解決を要求する諸矛盾が生じるであろう。だがわれわれがここで考察するのは、われわれの頭のなかだけで生じる抽象的な思考過程ではなくて、いつのときにか実際に生じた、あるいはいまなお生じつつある現実の事象であるから、これらの矛盾もまた実際に発展して、おそらくその解決を見出しているであろう。われわれはこの解決のしかたを追求しよう。そうすれば、それが一つのあたらしい関係の相対立する二つの側面を、いまやわれわれが説明しなければならないことなどが、わかるであろう。





●■(2)『資本論』
第2節-11-einfacher Arbeit>p.58*
・ Eine Ware mag das Produkt der kompliziertesten Arbeit sein, ihr Wert setzt sie dem Produkt einfacher Arbeit gleich und stellt daher selbst nur ein bestimmtes Quantum einfacher Arbeit dar.(15)

■第3節 価値形態または交換価値
3-3 人は、何はともあれ、これだけは知っている、すなわち、諸商品は、その使用価値の雑多な自然形態と極度に顕著な対照をなしているある共通の価値形態をもっているということである。―すなわち、貨幣形態である。だが、ここでは、いまだかつてブルジョア経済学によって試みられたことのない一事をなしとげようというのである。すなわち、この貨幣形態の発生を証明するということ、したがって、商品の価値関係に含まれている価値表現が、どうしてもっとも単純なもっとも目立たぬ態容から、そのきらきらした貨幣形態に発展していったかを追求するということである。これをもって、同時に貨幣の謎は消え失せる。

3-4 最も単純な価値関係は、明らかに、ある商品が、他のなんでもいいが、ただある一つの自分とちがった種類の商品に相対する価値関係である。したがって、二つの商品の価値関係は、一つの商品にたいして最も単純な価値表現を与えている。

3-5  A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態



■2 相対的価値形態
  a 相対的価値形態の内実
1.  どういう風に一商品の単純なる価値表現が、二つの商品の価値関係にふくされているかということを見つけ出してくるためには、価値関係を、まずその量的側面から全く独立して考察しなければならぬ。人は多くのばあい正反対のことをやっている。そして価値関係の中に、ただ二つの商品種の一定量が相互に等しいとされる割合だけを見ている。人は、異種の物の大いさが、同一単位に約元されてのちに、初めて量的に比較しうるものとなるということを忘れている。同一単位の表現としてのみ、これらの商品は、同分母の、したがって通約しうる大いさなのである(17)。

14. 商品の貨幣形態が、単純なる価値形態、すなわち、なんらか任意の他の商品における一商品の価値の表現のさらに発展した姿にすぎないということを、アリストテレスは最初に明言している。というのは彼はこう述べているからである。
    「しとね〔寝台〕5個=家1軒」〔ギリシャ語省略〕
 ということは
    「しとね〔寝台〕5個=貨幣一定額」〔ギリシャ語省略〕
 ということと「少しも区別はない」と。



■4 単純な価値形態の総体 
1. ある商品の単純な価値形態は、その商品の他の異種商品にたいする価値関係に、またはこの商品との交換関係に含まれている。商品Aの価値は、質的には商品Bの商品Aとの直接的な交換可能性によって表現されている。この価値は量的には、商品Bの一定量が商品Aの一定量と交換されうるということによって、表現されている。他の言葉でいえば、ある商品の価値は、「交換価値」として現示されることによって、独立的に表現されている。


■4 単純な価値形態の総体
3. 商品Bにたいする価値関係に含まれている商品Aの価値表現を、くわしく考察すると、その内部において、商品Aの自然形態は、ただ使用価値の姿としてのみ、商品Bの自然形態は、ただ価値形態または価値の姿としてのみはたらいていることが明らかになった。それゆえに、商品の中に包みこまれている使眉価値と価値の内的対立は、一つの外的対立によって、すなわち、二つの商品の関係によって示されている。この関係において、価値が表現されるべき一方の商品は、直接にただ使用価値としてのみ、これにたいして身をもって価値を表現する他方の商品は、直接にただ交換価値としてのみ、働いている。それゆえに、ある商品の単純な価値形態は、この商品に含まれている使用価値と価値との対立の単純な現象形態である。

4.  労働生産物は、どんな社会状態においても使用対象である。しかし、ただある歴史的に規定された発展段階のみが、一つの使用物の生産に支出された労働を、そのものの「対象的」属性として、すなわち、その価値として表わすのであって、この発展段階が、労働生産物を商品に転化するのである。したがって、このことから、商品の単純なる価値形態は、同時に労働生産物の単純なる商品形態であり、したがってまた、商品形態の発展も価値形態の発展と一致するという結果になる。

5. 一見すれば、すぐ単純な価値形態の不充分さがわかる。この形態は、一連の変態をへて、やっと価格形態に成熟してくる萌芽形態なのである。




●■相対的価値形態と等価形態の発展関係
2 Entwicklungsverhältnis von relativer Wertform und Äquivalentform
概念論§161概念の進展は、発展Entwicklung


●■(3)ヘーゲル小論理学ー第3部概念論

単純」 と形式関係
  §115 
 本質は自己のうちで反照する。すなわち純粋な反省である。かくしてそれは単に自己関係にすぎないが、しかし直接的な自己関係ではなく、反省した自己関係、自己との同一性(ldentität mit sich)である。
  この同一性は、人々がこれに固執して区別を捨象するかぎり、形式的あるいは悟性的同一性である。あるいはむしろ、抽象とはこうした形式的同一性の定立であり、自己内で具体的なものをこうした・・・単純性の形式・・・に変えることである。これは二つの仕方で行われうる。その一つは、具体的なものに見出される多様なものの一部を(いわゆる分析によって)捨象し、そのうちの一つだけを取り出す仕方であり、もう一つは、さまざまな規定性の差別を捨象して、それらを一つの規定性へ集約してしまう仕方である。
 同一性を、命題の主語としての絶対者と結合すると、絶対者は自己同一なものであるという命題がえられる。―この命題はきわめて真実ではあるが、しかしそれがその真理において言われているかどうかは疑問であり、したがってそれは、少くとも表現において不完全である。なぜなら、ここで意味されているのが抽象的な悟性的同一性、すなわち本質のその他の諸規定と対立しているような同一性であるか、それとも自己内で具体的な同一性であるか、はっきりしないからである。後者の場合には、後でわかるように、それはまず根拠であり、より高い真理においては概念である。―絶対的という言葉さえ、抽象的という意味しか持たないことが多い。絶対的空間、絶対的時間というような言葉は、抽象的な空間、抽象的な時間を意味するにすぎない。
  ・・・以下、省略・・・

  §128
 (ハ) 質料は、現存在の自己との直接的統一であるから、規定性にたいして無関心でもある。したがって、さまざまの質料は合して一つの質料、すなわち、同一性という反省規定のうちにある現存在となる。他方、これらさまざまの規定性、およびそれらが物のうちで相互に持っている外面的な関係は、形式(Form)である。これは区別という反省規定であるが、しかし現存在しかつ統体性であるところの区別である。
  この無規定的な一つの質料もまた物自体と同じものである。ただ異るところは、物自体が全く抽象的な存在であるに反し、前者は即自的に他者との関係、まず第一に形式との関係を含んでいる点にある。

  §128 補遺
 物を構成しているさまざまの質料は本来同じものである。これによってわれわれは、区別がそれにたいして外的なものとして、すなわち単なる形式として定立されているような一つの質料一般を持つことになる。物はすべて同一の質料をその基礎に持ち、それらの相違はただ外的にのみ、すなわち形式においてのみあるにすぎないという考え方は、反省的意識にはきわめてよく知られたものである。この場合質料は、それ自身は全く無規定的でありながら、しかもどんな規定でも受け入れることができるものであり、また絶対に永久不変で、あらゆる変転、変化のうちで自己同一にとどまるものである、と考えられている。特定の形式にたいする質料のこうした無関心は、確かに有限な事物のうちには見出される。例えば、大理石の一片にとっては、どんな立像の形が与えられようと、あるいはまた円柱の形が与えられようと、どうでもいいことである。
しかし、この場合見のがしてならないのは、大理石の一片のような質料でも、ただ相対的にのみ(彫刻家にたいしてのみ)形式に無関心なのであって、けっして、一般に無形式ではない、ということである。鉱物学者は、相対的にのみ無形式の大理石を特定の組成をもつ岩石とみ、同じく特定の組成をもつ他の岩石、例えば、砂石、斑岩などから区別している。したがって、質料をそれだけで独立させ、それ自身あくまで無形式のものと考えるのは、抽象を事とする悟性にほかならない。事実はこれに反して、質料という概念は、あくまで形式の原理を自己のうちに含んでいるのであり、だからこそ経験においても、形式のない質料はどこにも現存しないのである。なお、質料は本源的な存在であり、かつそれ自身無形式のものであるという考え方は、きわめて古く、すでにギリシャに見出される。その最初の姿はギリシャ神話のカオスであって、それは現存在の世界の没形式の基礎と考えられている。こうした考え方にしたがえば、神は世界の創造者ではなく、世界の単なる形成者、デミウルゴスと考えられなければならない。しかし一層深い見方は、神は世界を無から創造したという見方である。これは二つのことを含んでいる。一つには、質料そのものはけっして独立を持たないということであり、もう一つには、形式は外から質料に達するのではなく、統体性として質料の原理を自己のうちに持っているということである。このような自由で無限な形式は、後に示されるように、概念である。




  §130
 物はこのような統体性として矛盾である。すなわち、物は、否定的統一からすれば形式であり、質料はそのうちで規定されて諸性質にひきさげられているが(125節)、同時に物はもろもろの質料からなっており、これらは物の自己への反省のうちで、否定されたものであると同時に独立的なものでもある。かくして物は、自分自身のうちで自己を揚棄する現存在としての本質的な現存在、すなわち現象(Exscheinung)である。
  物においては、もろもろの質料の独立性と同時にそれらの否定が定立されているが、この否定は物理学では多孔性(Porosität)という姿をとってあらわれている。多くの質料(色素、嗅素、およびその他の諸質料。音素、熱素、電素等々というようなものなどまで考えている人もある)の各―は否定されてもいる。そしてこれらのこうした否定性、すなわち、これらが持っている多くの孔のうちに、他の多くの独立な質料が存在し、それらも同じく孔を持ち、かくして互に自分のうちに他のものを存在させるようになっている。この孔なるものはけっして経験的に見出されるものではなく、悟性の作りものである。悟性は、独立的な諸質料が持っている否定のモメントをこのような仕方で考え、そして矛盾のそれ以上の進展を、そのうちではすべてが独立的であるとともに、またすべてが互のうちで否定されているところの混沌をもっておおいかくすのである。―同じような仕方で精神の諸能力や諸作用が実体化される場合、それらの生きた統一は、それらが互に作用しあうという混乱となってしまう。
 孔が観察によって確証されうるものでないと同じように(ここで孔というのは、例えば木材や皮膚の孔のような有機体の孔をさすのではなく、色素とか熱素とか、あるいは金属や結晶などのような、いわゆる質料のうちにある孔である)、質料そのものとか、質料から切りはなされた形式というようなもの(その最も手近な例は、物が質料から成立しているという考え、および物はそれ自身存立していて諸性質を持つにすぎないという考えである)もまた反省的な悟性の産物である。この悟性は、観察しそして観察するものを記述すると称しながら、かえって一種の形而上学を作り出しているのであり、そしてこの形而上学は、あらゆる方面で矛盾にみちているのに、悟性はそれに気づかないのである


  §131
 本質は現象しなければならない。本質が自己のうちで反照Scheinenするとは、自己を直接態へ揚棄することである。この直接態は自己への反省としては存立性(質料)であるが、同時にまたそれは形式、他者への反省、自己を揚棄する存立でもある。反照するということは、それによって本質が有でなく本質であるところの規定であり、そしてこの反照の発展した形態が現象である。したがって本質は現象の背後または彼方にあるものではなく、本質が現存在するものであることによって現存在は現象なのである。

  §132
 現象的なものの現存在の仕方においては、現象的なものの存立性(Bestehen)が直接的に揚棄されて、それは形式そのものの単なる一モメントとなっており、形式は存立性あるいは質料を、諸規定の一つとして自己のうちに含んでいる。かくして現象的なものは、その本質としての、すなわち、その直接態に対立する自己内反省としての、質料のうちにその根拠を持ってはいるが、しかし現象的なものはこのことによって、他者内反省としての形式のうちにのみその根拠を持つ。形式という現象の根拠も同じく現象的なものであり、かくして現象は、存立性の形式による、したがってまた非存立性による、無限の媒介へ進んでいく。この無限の媒介は、同時に自己への関係という統一であり、そして現存在は、現象すなわち反省された有限性の総体、つまり現象の世界へ発展させられている。

  b 
内容と形式 (Inhalt und Form)
  §133
  現象の世界を作っている個々別々の現象は、全体として一つの統体をなしていて、現象の世界の自己関係のうちに全く包含されている。かくして現象の自己関係は完全に規定されており、それは自分自身のうちに形式を持っている。しかも、それは自己関係という同一性のうちにあるのであるから、それは形式を本質的な存立性として持っている。かくして形式は内容(Inhalt)であり、その発展した規定性は現象の法則(Gesetz)である。これに反して、現象の否定的な方面、すなわち非独立的で変転的な方面は、自己へ反省しない形式である。それは無関係的な、外的な形式である。
  形式と内容という対立において、けっして忘れてならないことは、内容は無形式なものではなく、形式は内容にたいして外的なものであると同時に、内容は形式を自分自身のうちに持っている、ということである。形式には二通りあって、それは一方自己へ反省したものとしては内容であり、他方自己へ反省しないものとしては内容に無関係な、外的な現存在である。ここには潜在的に内容と形式との絶対的相関、すなわち両者の相互転化があり、したがって内容と
は、内容への形式の転化にほかならず、形式とは、形式への内容の転化にほかならない。この転化はきわめて重要な法則の一つである。しかしそれは絶対的相関においてはじめて顕在するようになる。 

  §133 補遺
 形式と内容という規定は、反省的悟性が非常にしばしば使用する一対の規定であるが、その際悟性は主として、内容を本質的で独立的のものとみ、これに反して形式を非本質的で独立的でないものと考えている。しかし、実際は両者ともに同様に本質的なものであって、形式を持たない質料が存在しないと同じように、形式を持たない内容も存在しないのである。内容と質料とがどうちがうかと言えば、質料は潜在的には無形式ではないけれども、その定有においては形式に無関心なものとしてあらわれているに反して、内容は、内容である以上、完全な形式を自己のうちに含んでいなければならない。もっとも、内容に無関係で外的な現存在であるような形式もまた存在する。こうしたことは、現象が一般にまだ外面性を脱しないところから起るのである。例えば、本について言えば、それが書かれたものであるか、印刷されたものであるか、あるいはまた、紙表紙であるか、皮表紙であるかは、確かにその内容には無関係である。しかし、このような外的でどうでもいいような形式を別とすれば、本の内容そのものが没形式だということはけっしてない。もちろん、内容から言っても当然無形式と言いうるような本がたくさんありはする。しかしこの場合、無形式というのと同じ意床であって、形式一般がないのではなく、正しい形式がないのである。正しい形式は、内容に無関係であるどころか、むしろ内容そのものである。したがって正しい形式を欠く芸術作品は、正しいすなわち真の芸術作品ではない。或る芸術家について、かれの作品の内容はいいが(否、すばらしくさえあるが)、ただ形式が欠けていると言われるとすれば、それは弁護になっていない。真の芸術作品は、その内容と形式が全き同一を示しているようなものである。われわれは「イリアス」について、その内容はトロヤ戦争、特にアキレウスの怒りであると言うことができる。これでわれわれはすべてを言いつくしているが、しかもほんの少しのことしか言ってはいないのである。なぜなら、「イリアス」を「イリアス」とするものは、こうした内容を作りあげている詩的形式だからである。同様に「ロミオとジュリエット」の内容は、かれらの家族間の不和によってひき起された二人の恋人の破滅であるが、これはまだシェクスピアの不滅の悲劇ではない。--さらに学問の領域における形式と内容との関係について言えば、哲学とその他の科学との相違に注意しなければならない。後者の有限性は一般に次の点にある。すなわち、ここでは思惟は、単に形式的な作用として、その内容を与えられたものとして外から受け取っており、内容がその基礎に横たわっている思想によって内から規定されたものであることを意識せず、したがって形式と内容とは完全に浸透しあってはいないのである。これに反して、哲学にあっては、こうした分離はなくなっており、したがってそれは無限の認識と呼ぶことができる。にもかかわらず、哲学的思惟もまた非常にしばしば単に形式的な作用とみられており、特に、思惟諸規定そのものを取扱うと認められている論理学については、その無内容はわかりきったことだと考えられている。内容という言葉が、単に手でつかまえられるようなもの、一般に感覚によって知られるものを意味するにすぎないとすれば、哲学一般についても、また特に論理学についても、それが内容を持たないということ、すなわち感覚的に知りうるような内容をもたないということは、あまりにも明白である。しかし普通の意識や用語においてさえ、内容という言葉は、単に感覚的に知りうるものとか、単なる定有とかいう意味以上の意味をも持っている。われわれが無内容の本と言う場合、言うまでもないことだが、われわれはその言葉によって何も書いてない本を意味するのではなく、その内容が無いにひとしいような本を意味するのである。この分析をよく考えて見れば、教養ある人々にとっては、内容とはまさに思想を含んでいることを意味するということがわかる。このことは同時に次のことを意味する。すなわち、思想は、内容に無関係な、それ自身空虚な形式ではないのであり、また、芸術においてそうであるように、他のあらゆる領域においても、内容が真実で価値あるものであるか否かは、それが形式と一体をなしているか否かにかかっているのである。



  §134
  しかし、直接的な現存在は、形式の規定性でもあれば、存立性そのものの規定性でもある。したがってそれは内容の規定性にたいして外的でもあるが、しかし他方内容がその存立性というモメントによって持つところのこの外面性は、内容にとって同じく本質的でもある。このようなものとして定立された現象が相関(Verhältnis)であって、ここでは同一のもの、すなわち内容が、発展した形式として、外的で対立した独立の現存在としてあると同時に、また同一的な関係としても存在し、異った二つのものは、こうした同一関係のうちでのみそれらがあるところのものである。

  §136
 (ロ) したがってこの相関のうちにある同一なもの、すなわち自己関係は、直接に否定的な自己関係である。すなわち、それは媒介ではあるが、しかしこの媒介は、同一的なものが区別にたいして無関心でありながら、しかも否定的な自己関係であるというような媒介である。そしてこの否定的な自己関係は、自己への反省としての自分自身をつきはなして区別となり、他者への反省として現存在するようになるが、逆にまたこの他者への反省を自己への反省および無関心性へ復帰させる。こうした相関がすなわち力(Kraft)とその発現(Ӓusserung)である。
  全体と諸部分との相関は、直接的な、したがって無思想な相関であり、自己同一の差別への無思想な転化である。われわれは全体から諸部分へ、諸部分から全体へ移っていく。そして一方のうちで、それがもう一つのものへ対立したものだということを忘れ、各々をそれだけで、すなわち或るときは全体を、或るときは諸部分を、独立の存在と考える。別の言葉で言えば、われわれは、諸部分は全体のうちに存立し、全体は諸部分から成立すると考えているから、或るときは全体を本質的で諸部分を非本質的と考え、或るときは諸部分を本質的で全体を非本質的と考えているのである。機械的関係の表面的な形式は、諸部分が相互にたいしてもまた全体にたいしても独立的なものとして存在することにある。
 物質の可分性にかんする無限進行は、この相関を利用することもできる。すると、その無限進行は、この相関の二つの側面の無思想な交替となる。すなわち、或る物がまず全体的なものととられ、次にわれわれは部分の規定へ移っていく。今度はこの規定を忘れ、以前部分であったものを全体と考える。するとまた部分の規定が考えられてくる、という風にして無限に進むのである。われわれがしかしこの無限を、それが実際そうであるように、否定的なものと解すると、この無限は、全体と部分という相関の否定的な自己関係である。すなわち、自己内にあるものとして自己同一的全体でありながら、しかもこの自己内有を揚棄して発現するところの力であり、また逆に、消滅して力のうちへ帰っていくところの発現である。

 力は、このように無限であるにもかかわらず、また有限でもある。なぜなら、内容すなわち力と発現とのうちにある同一なものは、潜在的にのみ同一であるにすぎず、相関の二つの側面の各々は、まだそれ自身顕在的には相関の具体的な同一でなく、まだ統体性でないからである。したがって二つの側面は、相互にたいして異ったものであり、相関は有限な相関である。力はしたがって外からの誘発を必要とし、盲目的に作用する。そしてその形式がそうした欠陥を持っているために、内容もまた制限され偶然的である。その内容はまだ形式と真に同一でなく、絶対的に規定されている概念や目的ではない。―この区別はきわめて根本的なものであるが、その理解は容易でない。それは目的概念のところではじめて詳しく規定されるであろう。この区別をみのがすと、特にヘルダーにみられるように、神と力と混同するというようなことがおこってくる。
 人々はよく、力の本性そのものは認識できないものであって、認識できるのはその発現だけであると言う。しかし一方、力の内容規定の全体はまさに発現のそれと同じものであり、したがって現象を力から説明するのは、空虚な同語反復である。だから、人々があくまで認識できないと考えているものは、その実自己への反省という空虚な形式にすぎない。力はこうした形式によってのみ発現と区別されているのであって、それはよく知られているものでもある。こうした形式は、現象からのみ認識さるべき内容および法則に、何一つ新しいものをつけ加えはしないのである。また人々はよく、自分は力という言葉を使うが、力とはどういうものかについては何も主張しない、というようなことを言う。それでは、なぜ力という形式を諸科学に導き入れたのか理解に苦しまざるをえない。―他方、力の本性は認識できないものでもある。なぜなら、力の内容が制限されたものであり、したがってその規定性を自己以外のものによって持っているものであるかぎり、力の内容にはまだその内容の必然性も、内容のそれ自身のうちにおける連関の必然性も欠けているからである。



  §138
 (ハ) 内的なもの(das Innere)は、現象および相関の一側面という単なる形式としてあるような根拠であり、自己内反省という空虚な形式である。そしてそれには、他者への反省という空虚な規定を持ち、同じく相関のもう一つの側面という形式としての現存在が、外的なもの(das Ӓussere)として対立している。内的なものと外的なものとの同一は、実現された同一であり、内容であり、自己への反省と他者への反省との統一が力の運動のうちで定立されたものである。両者は同じ一つの総体であり、この統一が両者を内容とするのである。

  §140
 第二に、内的なものと外的なものとは、形式規定としてはまた対立しあってもいる。しかも、一方は自己同一という抽象物であり、他方は単なる多様性あるいは実在性という抽象物であるから、全く正反対のものである。しかし両者は、一つの形式のモメントとして、本質的に同一なものであるから、一方の抽象物のうちに定立されているにすぎないものは、直接にまた他方のうちに定立されているにすぎない。したがって内的なものにすぎないものは、また外的なものにすぎず、外的なものにすぎないものは、また内的なものにすぎない。
  反省は普通本質を単に内的なものと思い誤っている。本質を単にそうしたものとみる場合、その見方もまた全く外面的であって、その場合考えられている本質は、空虚な外面的抽象にぎない。

 
  §143
 現実性はこのような具体的なものであるから、それは上に述べた諸規定およびそれらの区別を含んでいる。したがってまた現実はそれらの展開であり、それらは現実においては同時に仮象、すなわち単に措定されたものとして規定されている(141節)。 (イ) 同一性一般としては現実性はまず可能性(Mӧglichkeit)、すなわち現実の具体的な統一に対峙するものとして、抽象的で非本質的な本質性として定立されている自己内反省である。可能性は現実性にとって本質的なものであるが、しかし同時に単に可能性であるような仕方でそうなのである。・・・
・・・現実性と必然性とはこれに反して、他のものにたいする様態であるどころか、まさにその正反対のものであり、単に他によって定立されているのではなく、自己のうちで完結した具体的なものとして定立されている。―可能性はまず、現実的なものとしての具体的なものにたいして、自己同一という単なる形式であるから、可能性の基準はただ、或るものが自己矛盾を含まないということにすぎない。かくしてすべてのものは可能である。というのは、われわれは、抽象によって、どんな内容にでもこうした同一性を与えることができるからである。しかしすべてのものは同様に不可能でもある。
というのは、あらゆる内容は具体的なものであるから、われわれはどんな内容においても、その規定性を特定の対立、したがって矛盾と考えることができるからである。―だからこのような可能、不可能の議論ほど空虚なものはない。特に哲学においては、或ることが可能であるとか、また他のことが可能であるとか、あるいはまたよく言われるように、或ることが考えられるとかいうような指摘に言葉を費すべきではない。以上から歴史家もまた、それ自身としてすでに真実でないことが明かになったこのカテゴリーを用うべきではないことがわかるであろう。しかし空虚な悟性の慧眼というものは、可能なこと、しかも実に多くの可能性を、役にも立たないのに、考え出して得々としているものである。


  §145
 可能性と偶然性とは現実性のモメント、すなわち、現実的なものの外面性をなす単なる形式として定立されている、内的なものと外的なものである。この二つのものは、それらの自己内反省を、自己のうちで規定されている現実的なもの、すなわち、本質的な規定根拠としての内容において持っている。したがってもっとはっきり言えば、偶然と可能との有限性は、形式規定が内容から区別されていることにあり、或ることが偶然であり可能であるかどうかは、内容にかかっている。

 §145 補遺
・・・ これまで述べたところからわかるように、偶然性は現実性の一面的なモメントにすぎず、したがってわれわれはそれを現実性そのものと混同してはならない。しかし偶然性もやはり理念の一形式であるから、それは当然客観的な世界のうちにその位置を持っている。このことはまず自然について言えるのであって、自然の表面には、言わば偶然がほしいままにはびこっている。・・・例えば、言語というものは、言わば、思惟の肉体ではあるけれども、そこにはやはり偶然もまた決定的な役割をつとめているのであって、法律や芸術、等々の諸形態についても同じことが言える。学問および特に哲学の任務が、偶然の仮象のもとにかくされている必然を認識することにあるというのは、全く正しい。・・・


  §146
 現実性の外面は、より立ち入って考えてみると、次のことを含んでいる。すなわち、偶然性は、直接的な現実性であるから、本質的に被措定有としてのみ自己同一なものであるが、しかしこの被措定有も同様に揚棄されており、定有的な外面性である。かくして偶然性は前提されているものであるが、同時にその直接的な定有は一つの可能性であり、揚棄されるという定め、他のものの可能性であるという定めを持っている。すなわちそれは条件(Bedingung)である。
§146 ▼補遺 偶然的なものは、直接的な現実性として、同時に他のものの可能性でもあるが、しかしそれはすでに、われわれが最初に持っていたような抽象的な可能性ではなく、有るものとしての可能性であり、かくしてそれは条件である。われわれが或る事柄の条件と言うとき、そこには二つのことが含まれている。一つは定有、現存在、一般的に言えば直接的なものであり、もう一つは、この直接的なものが揚棄されて他のものの実現に役立つという定めである。―直接的な現実性は真の現実性ではなく、自己のうちで分裂した、有限な現実性であり、消耗されるということがその定めである。しかし現実性のもう一つの側面は本質性である。これはまず内的なものであるが、内的なものは単なる可能性にすぎないから、同じく揚棄される定めを持っている。揚棄された可能性としては、それは一つの新しい現実の出現であって、この現実は最初の直接的な現実を前提として持っている。これが条件の概念のうちに含まれている交替関係である。われわれが或る事柄の条件を考えてみるとき、それはただそれだけのもののようにみえる。その実はしかし、こうした直接的な現実は、自分とは全く別な或るものへの萌芽をそのうちに含んでいるのである。この別なものは、最初は単に可能なものにすぎないが、やがてこの可能性という形式は自己を揚棄して現実となる。かくして出現するこの新しい現実は、それが消費する直接的な現実自身の内面である。したがってそこには全く別な姿を持った事物が生じるが、しかしそれは最初の現実の本質が定立されたものにすぎないのであるから、なんら別なものは生じないのである。自己を犠牲にし、亡びさり、消耗される諸条件は、他の現実のうちでただ自分自身とのみ合一するのである。― 現実性の過程はこうしたものである。現実は単に直接的な存在ではなく、本質的存在として自分自身の直接性を揚棄し、それによって自己を自己自らへ媒介するものである。

  §147
 (ハ) 現実性の外面性がこのように可能性および直接的現実性という二つの規定からなる円、すなわち両者の相互的媒介として展開されるとき、それは実在的可能性(die reale Mӧglichkeit)一般である。このような円としてそれはさらに統体性であり、したがって内容、即自かつ対自的に規定されている事柄(Sache)である。そしてそれはまた、このような統一のうちにある二つの規定の区別から見れば、対自的な形式の具体的な総体であり、内的なものの外的なものへの、および外的なものの内的なものへの直接的な転化である。形式がこのように動いていくということが活動(Tätigkeit)、すなわち自己を揚棄して現実となる実在的根拠としての事柄の働きであり、また偶然的な現実、諸条件の働きである。諸条件の働きとはすなわち、諸条件の自己内反省、諸条件が自己を揚棄して一つの異った現実、事柄の現実となることである。あらゆる条件が現存すれば、事柄は現実的にならざるをえない。そして、事柄はそれ自身諸条件の一つである。なぜなら、それは最初は内的なものとして、それ自身単に前提されたものにすぎないからである。展開された現実性は、内的なものと外的なものとが一つのものとなる交互的な転化、一つの運動へと合一されているところの両者の対立的な運動の交替であって、これがすなわち必然性(Notwendigkeit)である。
  必然性が可能性と現実性との統一と定義されるのは正しい。しかし単にそう言いあらわしただけでは、この規定は表面的であり、したがって理解しがたいものである。必然性という概念は非常に難解な概念である。というのは、必然性はその実概念そのものなのであるが、その諸契機はまだ現実的なものとして存在しており、しかもこれら現実的なものは同時に単なる形式、自己のうちで崩壊し移行するところの形式としてとらえられなければならないからである。で 私は次の2節において、必然性を構成する諸モメントをもっと詳細に述べなければならない。

  §149
 必然性はしたがって即自的には、自己のうちで反照しその諸区別が独立の諸現実という形式を持っているところの、自己同一的でありながらも、内容にみちた一つの本質である。そしてこの同一的なものは、同時に絶対的な形式として、直接的なものを揚棄して媒介されたものとし、媒介を揚棄して直接的なものとする活動である。―必然的であるものは、他のものによってそうなのである。そしてこの他のものは、媒介する根拠(事柄と活動)と直接的な現実、すなわち、同時に条件でもある偶然的なものとにわかれる。他のものによるものとしての必然は、絶対的でなく、措定されたものにすぎない。しかしこの媒介はまた直接に自分自身の揚棄である。というのは、根拠と偶然的な条件は、直接態へ移され、そしてこのことによって、措定されたものは揚棄されて現実となり、事柄は自分自身と合一するからである。このように自己のうちへ帰ったものとしての必然的なものは、無条件的な現実性として端的に存在する。―必然的なものは、一群の諸事情に媒介されて必然的なのである。すなわち、必然的なものは、諸事情が必然的であるから、必然的なのである。と同時に、必然的なものは、媒介されないで必然的である。すなわち、必然的であるから、必然的なのである。



  a 
実体性の相関 (Substantialitäts-Verhältnis)
  §150
 必然的なものは自己のうちで絶対的な相関である。すなわち、(上の諸節に述べたように)相関が同時に自己を揚棄して絶対的な同一となる過程である。
 その直接的な形態は実体性(Substantialität)と偶有性(Akzidentalität)との相関である。この相関の絶対的自己同一は実体そのものである。実体は必然性であるから、こうした内面性の形式の否定であり、したがって自己を現実性として定立する。しかしそれは同時にまたこうした外面性の否定であって、この面からすれば、直接的なものとしての現実は偶有的なものにすぎない。そして偶有的なものは、こうした単なる可能性であるために、他の現実へ移っていく。この推移が形式活動(148節および149節)としての実体的同一性である。

  §150
 必然的なものは自己のうちで絶対的な相関である。すなわち、(上の諸節に述べたように)相関が同時に自己を揚棄して絶対的な同一となる過程である。
 その直接的な形態は実体性(Substantialität)と偶有性(Akzidentalität)との相関である。この相関の絶対的自己同一は実体そのものである。実体は必然性であるから、こうした内面性の形式の否定であり、したがって自己を現実性として定立する。しかしそれは同時にまたこうした外面性の否定であって、この面からすれば、直接的なものとしての現実は偶有的なものにすぎない。そして偶有的なものは、こうした単なる可能性であるために、他の現実へ移っていく。この推移が形式活動(148節および149節)としての実体的同一性である。

  §152
 実体は絶対的な力であるから、単なる内的可能性としての自己に関係することによって自己を偶有性へ規定する力であり、かくして措定された外面性はこの力から区別されている。この点からみるとき、実体は、必然性の最初の形式において実体であったように、本来の相関、すなわち因果性の相関である。

  b 因果性の相関 (Kausalitäts-Verhältnis)
  §153
 実体は一方では、偶有性への移行とは反対に、自己へ反省し、かくして本源的な事柄であるが、しかし他方それは、自己内反省あるいは単なる可能態を揚棄して、自己を自己そのものの否定として定立し、かくして結果(Wirkung)、すなわち、単に定立されたものではあるが、同時に作用の過程によって必然的なものでもあるところの、現実を産出する。このかぎりにおいて実体は原因(Ursache)である。

 原因は、本源的な事柄として、絶対的な独立性と、結果にたいして自己を保持する存立性とを持っているが、その同一性は、原因の本源性そのものをなしている必然性のうちで、全く結果へ移行している。特定の内容がここでも問題となりうるかぎり、結果のうちには原因のうちにないようないかなる内容も存在しない。右に述べた同一性が絶対的な内容そのものである。しかしこの同一性はまた形式規定でもあって、原因の本源性は、そのうちでそれが自己を措定された存在とするところの結果のうちで揚棄される。しかし原因はこれによって消失するのではなく、結果のみが現実的なものとして残るのではない。というのは、この措定された存在も同様に直接的に揚棄されており、それはむしろ原因の自己すなわちその本源性への反省だからである。原因は、結果のうちではじめて現実的であり、原因なのである。したがって原因は、即時かつ対自的には自己原因(causa sui)である。―ヤコービは媒介をあくまで一面的に考えたために、原因の絶対的真理である自己原因(自己結果effectus suiも同じものである)を単に形式主義と考えた(「スピノザにかんする手紙」第2版、416ページ)。かれはまた、神は根拠と規定すべきものではなく、本質的に原因と規定されなければならないと述べているが、かれの意図したことがこれによって達成されないということは、原因の本性をもっと根本的に反省してみればわかったであろう。有限な原因およびその表象においてさえ、内容の同一は存在している。原因である雨と結果である湿りとは、同一の現在する水である。形式からすれば、原因(雨)は結果(湿り)のうちで消失する。しかしそれとともにまた結果という規定も失われてしまうのであって、結果は原因なしには無であり、そしてこの場合無関係な湿りが残るにすぎない。
 普通考えられているような因果関係の意味では、原因は有限である。というのは、その内容が有限であり(有限な実体におけるように)、また原因と結果が二つの別々の独立な存在と考えられている―これは因果関係が捨象されているからにすぎない―からである。有限の領域においては、われわれは関連のある二つの形式規定の区別ということに立ちどまっているから、一度原因とされたものが、今度は措定されたもの、すなわち結果と規定されるようになる。するとこれはまた他の原因を持つことになり、かくしてここでもまた結果から原因への無限進行が生じる。同様に下降的な無限進行も生じる。なぜなら、結果が原因そのものと同一であるという面からみれば、それは原因として、しかも同時にはじめの原因とは別の原因として規定され、そしてこの原因は再び他の結果を持つ、という風に無限に進んでいくからである。

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■単純な
1.§164―p.132―p.156

2.§171-p.142―

3.§178-p.155―

4.p.157―p.157―