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コラム13イングランド人民の歴史

    農業の革命(重商主義)から産業革命へ(1)

   ・・・「商品分析の歴史」研究のために・・・

 A・L・モートン著イングランド人民の歴史 1968年

               
未来社 1972年発行


 ■ 資本論ワールド編集部 まえがき


 
本源的蓄積の秘密 Das Geheimnis der ursprünglichen Akkumulation ・・・・   本源:Ursprung ー 水源、源泉、起源、根源、出所、原因、原産地


『資本論』第24章
 「貨幣と商品が、最初から資本でないことは、生産手段と生活手段が、初めからそうでないのと同じである。これらのものは、資本への転化を必要とする。しかし、この転化そのものは、一定の諸事情のもとでのみ行なわれうるものであって、それらの事情は、要するに次ぎのことに帰着する。すなわち、一方には、その有する価値額を、他人の労働力の購入によって増殖することを必要とする貨幣、生産手段、生活手段の所有者、他方には、自分の労働力の販売者であり、したがって、労働の販売者である自由な労働者であるという二つの非常に異なった種類の商品所有者が、相対して接触せねばならない、という事情がこれである。自由な労働者というのは、奴隷、農奴等のように、彼ら自身が直接に生産手段の一部であるのでもなく、自営農民等におけるように、生産手段が彼らに属するものでもないという、二重の意味においてであって、彼らは、むしろ生産手段から自由であり、離れ、解かれているのである。

 この商品市場の両極分化とともに、資本主義的生産の基礎条件は、与えられている。資本関係は、労働者と労働の実現諸条件の所有との分離を前提する。資本主義的生産のひとたび自己の足をもって立つようになると、それはかの分離を維持するのみではなく、たえず増大する規模で、それを再生産する。したがって、資本関係を創り出す過程は、労働者を労働諸条件の所有から、分離する過程、すなわち、一方では、社会の生活手段と生産手段を資本に、他方では、直接生産者を賃金労働者に転化する過程、以外のものではありえない。
 したがって、いわゆる本源的蓄積は、生産者と生産手段との歴史的分離過程にほかならない。それが「本源的/起源の ursprünglichen」として現われるのは、資本と資本に対応する生産様式との前史をなすものだからである。
 
 賃金労働者とともに、資本家を産み出す発展の出発点は、労働者の隷属だった。この進展は、この隷属の形態転換に、封建的搾取の資本主義的搾取への転化に、あった。この転化の行程を理解するためには、それほど遠く遡る必要はない。資本主義的生産の最初の萌芽は、すでに14世紀および15世紀に、地中海沿岸の2、3の都市で、散在的に見られるとはいえ、資本主義的生産が始まるのは、ようやく16世紀からである。この時代が出現するところでは、農奴制の廃止は、すでに実現され、中世の頂点である独立都市の存立も、久しくその実を失っているのである。

 本源的蓄積の歴史で歴史的に画期的なものは、形成されつつある資本家階級に槓杆として役立つ変革すべてがそれであるが、なかにも、人間の大群が、突如暴力的にその生計手段から引き離されて、無保護のプロレタリアとして労働市場に投げ出される瞬間は、ことにそうである。農業生産者からの、農民からの土地収奪は、全過程の基礎をなす。この収奪の歴史は、国によって異なる色彩をとり、順序を異にし、歴史的時代を異にして、異なる諸段階を通過する。それが典型的な形態をとるのは、イギリスのみであり、われわれがイギリスを例にとるものそのためである。
  
 『資本論』 第24章 いわゆる本源的蓄積 第1章 本源的蓄積の秘密・・・・

 イングランド人民の歴史
     目次

 (1) イングランドの農業 (第12章産業革命 1 農業)
 (2) 
新しい君主制とブルジョワジー ( 第6章 1. 織物工業)
 (3) 第12章 産業革命 「 2. 燃料・鉄・輸送」  
 (4) 第12章 産業革命 「 3. 織物工業」  

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  『イングランド人民の歴史

 (1) 
イングランドの農業 (第12章 産業革命 1 農業)

1. 農業は、18世紀におけるイングランドの諸産業の中でずばぬけて重要であっただけではなく、当時農業技術と農業組織に生じた諸変化および農村人口の中での階級区分に生じた諸変化産業革命の諸条件を創出したのであって、それらがなければ、産業革命は不可能であったであろう。それゆえ産業革命についてのどのような説明も、生活維持的なものから資本家的な一産業への、長くつづいた農業における転換を完成させた一連の事件をもってはじめる必要がある。これらの事件は、産業革命以前にはじまり、それを通じて継続したのである。
 1685年から、小麦輸出に対して、その価格が48シリングをこえないばあいには、すなわち飢きんの年以外のすべての年には、
1クォーク〔約288リットルで、16斗(穀物や酒などをはかる単位。1斗は1升の10倍、約18リットル。)〕当り5シリングの輸出奨励金が支払われた。17世紀の最後の7年は、雨がちで日が照らず、価格は48シリングの水準をこえて上昇したが、1700年から1765年までは、価格は低く、相対的に安定しており、平均して約35シリングで、めったに40シリング以上に騰貴することもあるいは30シリング以下に下落することもなかった。輸出は、かなりの量にのぼり、さらに増大しつつあったことは、つぎのとおりである。
  
1697―1705  1,160,000 クォータ
  
1706―1725  5,480,000 クォータ
  
1726―1745  7,080,000 クォータ
  
1746―1765  9,515,000 クォータ
 この安定した輸出市場は、麦芽や大麦の大量輸出とロンドンの食糧供給とともに、技術改良へのたえざる刺激であった対外的なはげ口を、農業に与えるものであった。安定した市場をもつようになると、農業者は、もはや「豊作を予期して」縊死(いし:首吊り死)する衝動を感じなくなった。その結果は、とくに東部および南東部諸州でいちじるしかったが、それらの州でのやり方は、適当な陸上輸送手段が欠如しているためにその生産物を容易に市場にだすことのできないミドランド東部の、いまだ囲い込まれていない穀物畑のそれと、きわだった対照をなしていた。運河が建設されたのちに、そしてヨークシャ隣接地域、すなわちブラック・カントリ〔石炭の産地で鉱工業の中心となったスタッファドシャ一帯〕 やランカシャの工業化によって新しい市場が開かれたのちに、はじめてミドランドで囲い込み運動がその絶頂に達したのであった。

2. 農業におけるあるていどの進歩は17世紀のあいだにひきおこされたが、それが急速になったのは、1688年の革命のあとのことであった。その革命は、この安全な、そして拡大しつつある市場を保証するものであり、イングランドをホラントのはるかに進んだ技術にしたしくふれさせるものであった。1世紀のあいだ珍しい物として知られていた蕪(かぶ)のようなものやクローバーのような栽培草菜類が、広大な規模で用いられはじめた。
 これらの作物の導入は、ふたつの穀作物と休閑地という旧式の輪作をやめて、穀物、根菜類、牧草を四年の順で播種するいっそう科学的な輪作に変えることを意味していた。新しい作物からその価値を充分に獲得するために、深耕と除草耕が導入され、土壌をより徹底的に砕いて、それを雑草からまもるようになったのである。

3. 羊と牛の飼育への影響もやはりいちじるしいものがあった。それらは、この時まで主にその毛のゆえと荷引用獣として価値を認められてきた。このことが事実であるかぎり、そして、多数の牛が飼料不足のために毎年秋になると屠殺され、屠殺されずに残されたものも冬のあいだは半ば飢餓状態におかれたのであるが、そうであるかぎり科学的飼育は不可能であった。いまや穀物生産におけるいかなる減少をもともなわずに、冬をとおして家畜を飼育することが可能となったのである。羊は、以前は耕作に対立するものだったが、耕作農業の正常な過程への価値ある追加物となった。牛は、休閑地にでたらめに放牧されるかわりに、畜舎で飼われた。1710年にスミスフィールドで売られた羊と牛の平均重量は、28ポンドと370ポンドであった。1795年には、それは、80ポンドと800ポンドになったのである。
 新しい飼育方法は、今度は穀物の成育に反作用した。はじめて肥料の豊富な供給が、牧草と根菜作物の上で羊を規則的に囲いにいれることと、牛と豚とを農家の庭先でふとらすこととの双方からなされ、使用されるようになった。このように、農業という一部門におけるそれぞれの前進が、他の諸部門におけるいっそうの前進の諸々の可能性を創出したのである。肉に対する需要が人口の増加につれて増大する一方、雄牛は、流行になりつつあった深耕に不適当であることがわかり、しだいしだいに馬におきかえられた。農具と農機械とが、他の諸々の進歩とならぶように改良された。19世紀のはじめまでに、全鉄製の犂(すき)が一般に使用されはじめた。早くも1730年頃、タル〔*訳者注:Jethro Tull. 1674―1741。中小地主出身の弁護士で農業改良家。主著は『新馬耕農法』(1731)〕 は、条播機で実験をおこなっており、この道具は、1780年代にはその近代的形態に似た形をとりはじめていたのである。

4. すべてこれらの変化は、ひとつのことを共通にしていた。すなわち、それらは、かなりの量の資本を適用することによってはじめてひきおこされえたのである。それらは、この国の半分で当時まだおこなわれていた原始的な開放耕地農法とまったくあいいれず、さらにいくつかの地域でそれにとってかわった小規模な独立自営農法ともほとんど両立しえぬものであった。新しい方法の開発者たちは、ジェスロータル、クック・オブ ・ホーカム、それに羊飼育の改良に道を開いたベイクウェルといった人びとで、資産家であり、おもに大所領を経営していた富裕な土地所有者であった。その結果として、技術革命は、農村的イングランドの全構造を変革した社会革命をみちびき、それとならんで発展したのであった。

 初期の囲い込みが耕地を羊の放牧地に変える目的でなされたのに対して、18世紀の囲い込みは、共同体的に耕作されていた開放耕地を、新しいかついっそう科学的な混合農法が有利におこなわれうるような、大きくそしてまとまった農場に変えたのであった。それに加えて、当時耕作されていなかった多くの共同地、すなわち村人たちが放牧や伐採や泥炭採掘の、昔から長くつづいた慣習権をもっていた土地も、以前にはたんに荒地でしかなかった他の土地と同じように、いまや囲い込まれることとなったのである。
 イングランドの他の部分では、借地農であった比較的小さな農業者の土地がしだいにとりあげられたり、慣習的な額の4倍、5倍、さらに10倍にすら騰貴した地代によって荒廃させられたりした。新しい方法で経営された土地は、これらの増大した地代を支払うことが可能であったが、これは、農場も資本もあまりに小さくて成功裏にそれらを採用することのできない人びとにとっては役にたたなかったのである。また、小自由土地保有者の多くは、かれらの富裕な隣人たちの最新の方法と競争することができないために、売りにだすことをよぎなくされた。

 重い地租は、とくに1688年以後、地主にとって、かれらの所領を200エーカ以上の農場経営をやって自ら手いれをおこたっている借地人に賃貸しする誘因として作用した。これは、保有地の全般的な整理統合と小借地農業者の締めだしという結果をもたらしたのである。
 その時期は、
100エーカ以下の農場のいちじるしい減少と300エーカ以上の農場のいちじるしい増加とがあった時期である。1740年と1788年のあいだに、独立した農場の数は4万以上も減少した、と計算されてきている。
 その過程は、前者の年代以前にはじめられ、後者の年代以後もひきつがれて加速度的に進行した。議会を通過した「囲い込み制定法」の数は、その世紀のはじめ頃に多くの土地が制定法をえられぬままに囲い込まれたことを別とすれば、大ざっぱにその運動がどれだけ進展したかをしめしている。
 1717年から1727年までは、そうした制定法は15であったが、1728年から1760年までは226になり、1761年から1796年までは1,482となった。他方、ナポレオン戦争の時期であった1797年から1820年までは、1,727であった。結局、400万エーカ以上が、これらの制定法のもとで囲い込まれたのである。

5.
 その囲い込みは、ノーファクとエシクスではじまったのだが、それらが中部諸州に深刻な影響をおよぼしはじめた時に、すなわちその世紀の終りごろに最高潮に達した。1760年頃から全体の状況が変った。人口の増加が、イングランドを穀物輸出国から輸入国に変えたが、それは、相当量の穀物余剰をもつ国がほとんどなかった時のことである。価格が急激に上昇し、やたらに変動しはじめた。1764年から1850年まで、小麦が1クォーク当り40シリング以下になったことはたった4回しかなかったが、なん年かは、とくに1800年と1813年のあいだは、100シリングをこえた。18世紀には大きな利潤がえられていたのであるが、いまや大きな財産をつくることも可能となったとともに、これを失うこともありえた。戦争がヨーロッパの穀物供給を切断した時、価格はより激しく変動し、穀物栽培は、豊かな資力をもった者のみが生き残る望みをもちうるような、ひとつの賭けとなった。このことはともに、資本家を土地財産に投資するように誘い、これまで以上に小農業者の地位を弱めたのである。

 「囲い込み制定法」は、数量と価値の点で囲い込まれる教区内の土地占有者の5分の4の同意があれば、獲得しえた。しばしばあったように、占有者のほとんどが、1人か2人の大土地所有者の借地人であった所では、この同意は容易にえられた。一般に、不当な圧力やわいろが自由に用いられた。暴力や詐術は、モアの時代の囲い込みに劣らず18世紀の囲い込みの特徴でもあったのである。
 制定法がえられたあとで、土地は保有者たちのあいだにふたたび割り当てられた。この再割当が公平におこなわれた時ですら、それは、通常かなりの苦難をともなった。任意土地保有農は、その家族が幾世代ものあいだ耕作してきた土地を失うことがありえたし、しばしば失いもしたのである。謄本土地保有農と定期借地農は、しばしば説得されて売りにだした。囲い込みの合法的な出費やかれらの新しい農場に垣根をめぐらす費用にみあったかなりの額の貨幣を見出すことの困難さは、いっそうかれらにそうする覚悟をさせるものであった。自由土地保有農ですら同様に苦しみ、その結果囲い込みは、土地の占有と所有の両方のいちじるしい集中をもたらした。囲い込みの結果は、フランスの歴史家ジョルジュ・ルナールとジョルジュ・ウーレルスによって、つぎのように要約されている―
   「議会が法を通すや否や、再分配の仕事が有力な委員会によって遂行された。その委員会は、富裕な土地所有者の影響下にあり、そのていどは、再割当が事実上は没収にひとしくなるほどであった。各々の小所有者に割り当てられた割当地は、通常、かれが奪われた土地よりもはるかに値うちの少ないものだったのである。」

 事実上の強制販売をもたらした諸条件のもとで受けとられた金額は、ふつうあまりにも小さく、たとえ農業者がそれをいかにうまく利用しうるかを知っているばあいですら、なんらかの他の事業に成功裏に使用することはできなかった。ごく少数は、とくにランカシャやヨークシャでは、成功して製造業者になったが、大多数はたちまちその金を使ってしまい、農業かあるいは新しい産業都市のいずれかの賃金労働者の地位におちたのであった。・・・

6. 農業における革命は、農業自身の範囲をはるかにこえる三つの結果をもった。
 第一は、それが土地生産性を増大させ、新しい都市の大きな工業人ロヘの食料供給を可能にしたことである。
 第二は、それが、いまや土地とのいかなる結びつきからも完全に ”自由”な、すなわち場所または財産の束縛のない人びとである賃金取得者の予備軍を創出したことであった。それは、自由な資本―その蓄積はまえの章で概説されたが― に照応する自由な労働者の一軍を準備したのである。そして、産業革命の本質となったのは、この労働とこの資本の結合であって、まさにこの時に商品の大規模生産がついに可能となったのである。
 第三は、製造された商品のための大きく拡大した国内市場の創出であった。家内工業をもち外部世界から孤立した自足型農業者は、大量の消費をするかもしれないがほとんど購買することはない。いまやかれは労働者に転化したのであって、通常、ずいぶんと少なく消費するよう強制されるが、かれは消費するすべてのものを購買しなければならなかった。堅実な国内市場という強固な土台のうえでのみ、大きな輸出産業が建設されえたのである。


 ・・・以上、「1 農業」 終わり・・・
 
 (2) 新しい君主制とブルジョワジー ( 第6章 織物工業