2016 資本論入門7月号
商品の物神的性格 入門・・・その2
<『経済学批判』第1章、資本論入門7月号01
第1部
『経済学批判』における
― 商品の物神的性格について― (2)
・・・商品の社会的な性質規定性と新しい形態規定性の獲得・・・
「交換価値は、使用価値の社会的な性質規定性( gesellschaftliche Naturbestimmtheit)として、 すなわち、これらの物としての使用価値に与えられる規定性として表われる。」(『経済学批判』新潮社版p.63)
「このようにすべての商品の交換価値の適合した体現であることを示している特別の商品、あるいは、諸商品の、ある特別な排他的な商品としての交換価値、これが貨幣である。それは、諸商品が交換過程そのものの中で形成するおたがいの交換価値の結晶である。したがって、一方で諸商品は、交換過程の内部ですべての形態規定性をはぎとり、その直接的な素材態容であい関係し合うことによって、おたがいのための使用価値となるとすれば、相互に交換価値として現われるためには、新しい形態規定性 neue Formbestimmtheit をとり、貨幣形成Geldbildung にすすまなければならない。」(『経済学批判』新潮社版p.76)
*8月29日追記: 「商品の物神性」を理解するために、「貨幣形成すすむ社会的生産関係」の具体的歴史過程の研究が非常に重要です。編集委員会では、6月に「古代メソポタミア文明-貨幣性商品の考古学」において、「商品生産の考古学と古代貨幣商品の源流」の研究を行なっています。こちらも是非参照下さい。
目 次
1. 『経済学批判』の一般的(allgemeine : 普遍的)労働時間の成立について
2. 『経済学批判』第1章商品、「商品の物神性」と「商品の価値形態」
3. 第1章『経済学批判』の「商品の物神性」
(1) 『資本論』 「商品の物神性」について
4. (2) 『小論理学』の形式Formについて
5. (3) 『経済学批判』 第1章の物神性関連の抄録
資本論ワールド 事務局:
今月初め第1回「商品の物神的性格」について、『経済学批判』から長い文章の読み合わせを行いました。
前回レポーターの小川さんからは、次の2点の指摘がありました。
(1)『資本論』第4節の「商品の物神性」と『経済学批判』(新潮社版)の「一般的労働時間」の実体論議では、力点の押さえどころが違っているように思われる。
(2)『資本論』は、第3節価値形態が先行し、『経済学批判』第1章では、「商品の物神性」の説明が先あり、その後に「商品の価値形態」が叙述される。
『経済学批判』第1章は大変盛りだくさんでしたので、議論の入り口として、指摘のあった2点についてコメントをお願いします。
小川レポーター:
では、『経済学批判』第1章を中心にしながら、まず「一般的労働時間」について要約してみます。 『資本論』との比較対照という観点からの報告です。
1. 『経済学批判』の一般的(allgemeine : 普遍的)労働時間の成立について
① (第7段落)運動の量的な正体(Dasein:ダーザイン)が時間であるように、労働の量的な正体(ダーザイン)は労働時間である。
労働時間は、労働の生きた正体(ダーザイン)であって、・・・その商品の使用価値に対象化されている労働時間は、これらの使用価値を交換価値とし、したがって商品とする実体である。交換価値としては、すべての商品は、膠結した〔ゲル化した〕 労働時間の一定の量であるにすぎない。
② (第11段落)交換価値の分析から生ずるこの価値を生む労働の諸条件は、労働の社会的規定である、あるいは、社会的な労働規定である。
③ (第12段落)交換価値においては個々の個人の労働時間が、直接に一般的労働時間として現われる。
そして個別的な労働のこの一般的/普遍的性格(allgemeine Charakter)が、その労働の社会的性格(gesellschaftlicher Charakter)として現われる。交換価値に表われる労働時間は、個々の人の労働時間である。個々の個人の労働時間ではあるが、他の個々の個人から、区別(Unterschied)されない個々人の、すなわち同一労働を支出する限りでのあらゆる個々の個人の労働時間である。
④ この労働時間は、一般的労働時間として、一般的生産物に、すなわち一般的等価に、すなわち、対象化された労働時間の一定量に表わされる。
このようにして、「一般的・普遍的労働時間」が成立します。特徴的なことは、「労働時間は、労働の生きた正体で、使用価値に対象化された労働時間は、使用価値を交換価値とし、したがって商品とする実体である」点です。 この論理は、非常に凝縮された形で、商品価値を形成する実体について簡潔に述べているわけです。
また『資本論』では次のように叙述しています。
「(4 単純な価値形態の総体/第4段落)労働生産物は、どんな社会状態においても使用対象である。しかし、ただある歴史的に規定された発展段階のみが、一つの使用物の生産に支出された労働を、そのものの「対象的」属性として、すなわち、その価値として表わすのであって、この発展段階が、労働生産物を商品に転化するのである。」
次に、
2. 『経済学批判』第1章商品で、
「商品の物神性」と「商品の価値形態」の前後関係についてです。
第11,12段落の「労働の社会的規定、一般的労働時間の形成」に続いて、第13段落で交換価値を生む労働の特徴として「人間と物の社会的関係」の叙述ー物神性が始まります。そして「労働の二重性」の説明の後、第20段落において「価値形態論」が開始されます。この「価値形態論」においても、やはり一般的労働時間の対象化として「使用価値の比例関係」が根底に存在しています。
『資本論』の価値形態論では、「貨幣形態の発生を証明する」、「貨幣の謎は消え失せる」という観点の叙述が正面に出ていることによって、かえって第4節商品の物神的性格への橋渡しの論理が焦点ボケしたきらいが感じられてしまうのです
それはさておき、『経済学批判』本文を見てみましょう。
商品の社会的な性質規定性
① 「(第14段落)最後に、人間の社会的関係(die gesellschaftliche Beziehung der Personen)が、いわば逆さに、すなわち、 物 (Sache)の社会的関係として、表われるというのが交換価値を生む労働の特徴となるのである。交換価値は人間の間の関係である、 ということが正しいとすれば、これに対して、物的な外被におおわれた関係である。
同一労働時間を含む商品の二つの使用価値は、同一の交換価値を表わしている。かくて、交換価値は、使用価値の社会的な性質規定性( gesellschaftliche Naturbestimmtheit)として、 すなわち、これらの物としての使用価値に与えられる規定性として表われる。」
② 「(第20段落)一商品の使用価値は、一般的な社会的労働時間の対象化として、他の商品の使用価値と比例関係(Verhältnis)におかれる。この一商品の交換価値は、このように、他の商品の使用価値で表明されている。 実際上、他の一商品の使用価値に表現された一商品の交換価値が等価 Äquivalent である。」
③ 「(第20段落)一般的労働時間の一定量は、これを表示しているのが1エルレの亜麻布であるが、同時に他のすべての商品の使用価値の無限に多様な分量に実現されている。あらゆる他の商品の使用価値が等量の労働時間を表わしている割合にしたがって、それらの商品の使用価値は、1エルレの亜麻布の等価
Äquivalent をなしている。
例えば方程式の系列 Äquivalent
1エルレ 亜麻布 = 1/2ポンド 茶
1エルレ 亜麻布 = 2ポンド コーヒー
1エルレ 亜麻布 = 8ポンド パン
1エルレ 亜麻布 = 6エルレ キャラコ
は、次のように表わされうる、
1エルレ亜麻布=1/8ポンド茶 + 1/2ポンドコーヒー + 2ポンドパン + 1・1/2エルレキャラコ 」
以上、事務局から提案された前書きとして「一般的労働時間」について感じたことを報告しました。
坂井(司会進行役):
大変ご苦労さまでした。『経済学批判』で強調された一般的労働時間と『資本論』の関係について、問題の取り上げ方について論点がすっきりしてきました。実は『資本論』では、この「一般的労働時間」の議論と使用価値がおかれる「比例関係」の説明は、この『経済学批判』で完了している、との具合の扱いとなっています。
近藤(哲学担当):
一般的労働時間による価値実体の規定について、実に興味深くお伺いしました。また「使用価値同士が比例関係におかれ、価値方程式の系列が始まる」論理構成は見事だと感心したところです。この調子で、レポートを続けてもらえると熱がこもってきますね。
小島(北部資本論研):
小川さんの報告で、一番感心したのは「労働時間は、労働の生きた正体Daseinで、使用価値に対象化された労働時間は、使用価値を交換価値とし、したがって商品とする実体である」というところです。
『資本論』第3節の価値形態でも、等価形態にある使用価値は、「その反対物の現象形態、すなわち、価値の現象形態となる」とありますが、その同一性と相等性が、『経済学批判』で展開されていた訳ですね。
坂井(司会進行役):
さて議論が先に進む前に、『経済学批判』第1章について前回事務局より出されていた『経済学批判』第1章の「商品の物神性」を最初に分析・検討を行なう課題に移りたいと思います。引き続きレポーターの小川さんにお願いしてありますので、よろしくお願いします。
小川レポーター:
それでは、前回に続いて『経済学批判』の「商品の物神性」個所からピックアップしてゆきます。価値形態論については、むしろ『資本論』の議論との兼ね合いで進めてゆきたいと考えています。
第1章 『経済学批判』の「商品の物神性」について
(1) 『資本論』の「商品の物神性」について
はじめに
『経済学批判』では「商品の物神性」という表題は見当たりませんので、まず用語を正確にとらえるため、『資本論』から引用してゆきます。その後で、『経済学批判』の検討を行ってゆきます。
(1) 『資本論』の「商品の物神性」について
1. 商品の二重性について(第3節)
(第2節商品に表わされた労働の二重性Doppelcharakter der in den Waren dargestellten Arbeit)
「商品は使用価値または商品体の形態ですなわち、鉄・亜麻布・小麦等々として、生まれてくる。これが彼らの生まれたままの 自然形態(Naturalform)である。だが、これらのものが商品であるのは、ひとえに、それらが、二重なるもの(Doppelte:doppeltの 名詞化;二重性)、すなわち使用対象(Gebrauchsgegenstände)であると同時に価値保有者(Wertträger:価値の担い手)であるからである。したがって、これらのものは、二重形態(Doppelform)、すなわち自然形態と価値形態(Wertform)をもつかぎりにおいてのみ、商品として現われ、あるいは商品の形態をもつのである。」(第3節価値形態または交換価値)
2. 第4節 商品の物神的性格とその秘密について
① 「労働生産物が、商品形態をとるや否や生ずる、その謎にみちた性質(der rätselhafte Charakter des Arbeitsprodukts)はどこから発生するのか?明らかにこの形態自身(Form selbst)からである。人間労働の等一性(Gleichheit:相等性)は、労働生産物の同一なる価値対象性の物的形態をとる。人間労働力支出の社会的諸規定が確認される大小は、労働生産物の価値の大いさの形態〔Form:形式〕をとり、最後に生産者たちの労働のかの社会的諸規定が確認される、彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態〔Form:形式〕をとるのである。」
② 「それゆえに、商品形態の神秘に充ちたものは、単純に次のことの中にあるのである。すなわち、商品形態は、 人間にたいして彼ら自身の労働の社会的性格を労働生産物自身の対象的性格(gegenständliche
Charaktere) として、 これらの物の社会的自然属性として、反映するということ、したがってまた、総労働にたいする生産者の社会的関係をも、 彼らのほかに存する対象の社会的諸関係として、反映するということである。このとりちがえquid
pro quo によって、 労働生産物は商品となり、感覚的にして超感覚的な、または社会的な物となるのである。」
③ 「人間にたいして物の関係の幻影的形態をとるのは、人間自身の特定の社会関係であるにすぎない。したがって、 類似性を見出すためには、われわれは宗教的世界の夢幻境die Nebelregion der religiösen Weltにのがれなければならない。
ここでは人間の頭脳の諸生産物が、それ自身の生命を与えられて、相互の間でまた人間との間で相関係する独立の姿に 見えるのである。商品世界においても、人間の手の生産物がそのとおりに見えるのである。私は、これを物神礼拝 Fetischismus と名づける。それは、労働生産物が商品として生産されるようになるとただちに、労働生産物に付着するものであって、 したがって、商品生産から分離しえないものである。」
④ 「商品世界のこの物神的性格 Fetischcharakter der Warenweltは、先に述べた分析がすでに示したように、商品を生産する労働の独特な社会的性格 gesellschaftlichen Charakterから生ずるのである。」
3. マルクスは商品物神性の謎について自問自答し、
「労働生産物が、商品形態をとるや否や生ずる、その謎にみちた性質( rätselhafte Charakter:謎めいた性質) はどこから発生するのか?明らかにこの形態自身(Form selbst)からである。」と述べています。
① さて、ここで大きな問題が発生しています。
すなわち「この形態自身」とは、具体的にどのように理解されるのか?という点です。「Form」は「形態」と通常翻訳されていますが、 一般的な理解について広辞苑を参照してみますと、「ありさま。かたちに現れた姿。形式」とあります。したがって、日本語の[ 形態 ] は 「かたちに現われた姿」が本来的・一般的な用語となるものと思われます。
② これに対して、第2節商品に表わされた労働の二重性(Doppelcharakter der in den Waren dargestellten Arbeit)では、「二重性(Doppelcharakter)」とあります。“Doppel”は、(名詞などにつけて)「二重の」で、“charakter”は「性格、性質」を意味しますから、まさに商品は「労働の二重の性格」を持つ事になります。先ほどの商品の「形態」とは微妙に違っているように思われます。
③ そして私たちは、ゲーテ -言葉の芸術家であり、形態学を創始した科学者-の*「形態学一般についての考察」によって 「Form:形態・形式」は、ドイツ語 Gestalt (一般的に翻訳される言葉としての“形態”「かたちに現われた姿」)との違いを学んできました。参考までに引用しておきます。
「 ドイツ人は、現実にさまざまな姿をとって現れてくる存在を集約して示すために、形態 Gestalt という言葉を用いている。 この表現を用いれば、生動し変化するものが捨象され、いいかえれば、相互に作用しあって全体を形成するそれぞれが固定され、他とのつながりを断って、一定の性格をしめすことになる。しかし、あらゆる形態、なかでも特に有機体の形態を観察してみると、そこには、変化しないもの、静止したままのもの、他とのつながりをもたないものは、ひとつも見出せず、むしろすべてが運動してやむことがないといわざるをえない。 それゆえ、われわれのドイツ語が、生みだされたものや生みだされつつあるものに対して“形成”という言葉を用いているのも、十分に理由のあることなのである。」(「形態学一般についての考察」)
このように ②と③ の理由によって、「形態自身」“Form selbst”を広辞苑のように「形態」:「ありさま。かたちに現れた姿。」とだけで 翻訳して済ます訳にはいかなくなりました。
さて、ではどのような打開策が考えられるのでしょうか?
そうです、ヘーゲル論理学と相談する方法は如何でしょうか。私たちはすでに*資本論入門5月号で「実体と形式」について研究してきました。改めて、ヘーゲル『小論理学』の“Form 形式”について簡単に紹介します。
(2) 『小論理学』の 形式 Form について
④ 第2部 本質論 B 現象 b 内容と形式 (Inhalt und Form)
「現象の世界を作っている個々別々の現象は、全体として一つの統体をなしていて、現象の世界の自己関係のうちに全く包含されている。かくして現象の自己関係は完全に規定されており、それは自分自身のうちに“形式”を持っている。しかも、それは自己関係という同一性のうちにあるのであるから、それは形式を本質的な存立性として持っている。かくして形式は内容であり、その発展した規定性は現象の法則である。」
「ここには潜在的に内容と形式との絶対的相関、すなわち両者の相互転化があり、したがって内容とは、内容への形式の転化にほかならず、形式とは、形式への内容の転化にほかならない。この転化はきわめて重要な法則の一つである。しかしそれは絶対的相関においてはじめて顕在するようになる。」
⑤ 絶対的相関について 「 a 実体性の相関(Substantialitäts-Verhältnis) 150
「必然的なものは自己のうちで絶対的な相関である。すなわち、相関が同時に自己を揚棄して同一となる過程である。 その直接的な形式〔Form〕は、実体性(Substantialität)と偶有性との相関である。」
こうして“Form”をヘーゲル哲学との対比で検討しますと、「形態」ではなく、「形式」の方が、動きのある語感を与えてくれます。
何よりも、「形態」は物としての姿 - 実物・現物という語感 - が強くなりすぎ、「価値形態」があたかも実物として固定された存在物という理解を与えてしまいます。こうした誤解が一般的にも広がっています。
(価値形態は、単純な価値形態から貨幣形態まで、休むことなく発展してゆく論理形式なのですから。)
また、商品形態と言えば、「安心して漠然と分かった気分」のままで『資本論』が読み続けられてしまっています。この誤解を解くことから、仕事を始めるべきではないでしょうか。 以上、大変長くなりましたが、今後の議論のための「たたき台」とします。
坂井(司会進行役):
いつもながら、小川さんの研究熱心には感心の極みです。どうしてそんなにエネルギーがふって湧いてくるのか不思議ですよね。
小島(北部資本論研):
正確に理解できたか心配ですが、ご指摘のように商品という「形態」を言葉の上だけで分かったような気分でいたことは事実です。しかも、『資本論』の第3節は「価値形態Wertform」という訳語ですっかり定着しています。今更変更が可能とも思えませんが。
近藤(哲学担当):
最近(2011年)、中山元さんが出版された『資本論』の訳書(日経BP社)に、これまで「剰余価値〔ドイツ語 Mehrwert 〕 (英語 surplus value)」と翻訳されていたのですが、これを「増殖価値」に切り替えました。中山元さんは、著名な「カント研究者」で、『純粋理性批判』の翻訳も出されています。なぜ、剰余価値でなく増殖価値にしたのか、その理由が次のように書かれています。
.....................................................................
「伝統的に「剰余価値」と訳されてきた語は「増殖価値」と訳した。原語はMehrwertであり、たんなる剰余ではなく、増えた部分(Mehr:英語のmore)という意味だからである。これにならって増殖価値を作りだすMehrarbeitは「剰余労働」ではなく「増殖労働」と訳し、増殖価値が含まれたMehrproduktは「剰余生産物」ではなく「増殖生産物」と訳す。」
とあります。これなども、やっと新しい時代が少しやってくるのかなって期待がもてそうですね。
。
小島:
え、そうなんですか。「剰余価値」でないなんて、信じられません。 どうしてこんな大事なことがこれまで誰も直してこなかったんですか?
近藤:
それは、たぶん中山さんが、カント研究者だったから出来たのだと思います。本格的な“論争”になっても、カント学者なら太刀打ちできますから。それにしても翻訳文化の時代遅れの実例として“他山の石”とすべき重要なポイントでしょう。
小島:
それでは、私たちの問題として、今の“Form”ですが、「形態」をヘーゲル哲学のように「形式」に変更するのですか?
近藤:
それはどうでしょう。まだまだ、ヘーゲルは一般的ではないですよ。たとえ「形式」と言ってみても中身が伝わるわけではないでしょう。しかも、まだ「商品形態」や「貨幣形態」自体が理解されていませんから。中山さんほどの勇気がぼくにはまだ湧いてこないのが、実際のところです。
坂井:
議事進行役としては、時に、「形態・形式」の具合に両論併記して注意・注目を求めるやり方でいかがでしょう。 私たちの「資本論ワールド」がいつまで続けられるのか、という問題でもありますから、当面様子を見ることにしたいと思います。
さて、小川報告に圧倒されて、議論が進みませんでしたが、時間も相当経過してしまいました。 事務局から、『経済学批判』の物神性についての準備もできていますので、本日は提案だけしていただき、 継続審議でご了解いただきたい。
事務局:
この『経済学批判』の物神性論だけでも、相当な分量があります。 議事進行の坂井さんの提案の方が、これからの討論に都合がいいと思いますが、いかがでしょうか。
近藤:
私のほうも、ヘーゲル論理学との関連資料を作ってきました。 事務局からの資料の前に、ちょっとだけ報告させていただきます。
1. 『経済学批判』は、1859年に公刊され、『資本論』は1867年に第1版が出されています。この間8年が経過しています。 しかし、先ほど小川レポートにもあったように、『経済学批判』と『資本論』の章別編成方針の基本は変更がなかったと言えます。 が、ヘーゲルとの関係から見ますと、論理性について『資本論』の方が幾分整理した形の体裁が伺えます。
その点から報告しますと、
2. 『経済学批判』では、ヘーゲル論理学の「実体、属性、区別、相等性 (岩波『資本論』では等一性)」などについて、 慎重に配置されています。商品価値から貨幣形態まで、世界史上初めて「価値形態」が発見されたわけですから、 誰もが初めて接することになっています。
3. 前回、事務局から『資本論』の第4節商品の物神的性格と第3節価値形態とを同時並行しながらでないと、 「商品の物神性」論理の整合性がとれない、との報告がありました。そのときに思ったのですが、 この資本論ワールド編集委員会のレベルは“相当高い”って。だから、探検隊メンバーにしても、議論についてゆくのが骨折りですよ。
この問題は深刻です。『資本論』解読は、ゆうに100年の歴史が日本でも経過しています。途中挫折の事例は、富士山にも相当するでしょう。
4. ちょうど今月、編集委員会から*「実体と属性の哲学史」上・下がアップされていますので、必ず次回までに参照しておいてください。
特に時間のない方は、*下の「ヘーゲル論理学」だけでも読んでおいてください。『経済学批判』の物神性に直接連動する議論となります。
以上、私からのお願いです。
・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・
事務局:
それでは、近藤さんからの依頼事項を含め、確認をいただき、『経済学批判』の第1章の中から「商品の物神性」に焦点をしぼった資料集を提案させていただきます。次回検討会をお願いします。
(3) 『経済学批判』 第1章の物神性関連の抄録
「商品の物神性」について (<>内の数字は段落を示す)
<1>使用価値と交換価値
市民社会の富は、一見して、巨大な商品集積であり、個々の商品はこの富の成素的存在elementarisches Daseinであることを示している。しかして、商品は、おのおの、使用価値と交換価値という二重の観点で現われる。
<3>使用価値の形態規定
「経済上の形態規定に対して、その範囲にはいるのは、ただ使用価値自身が 形態規定 〔形式規定:Formbestimmung〕 を持っている場合のみである。直接的には、使用価値は、特定の経済関係、すなわち交換価値が表われる素材的な基礎である。」
<4>交換価値は、まず第一に、使用価値が相互に交換される量的な比率(quantitatives Verhältnis)であることを示している(erscheint)。この比率においては、これらの使用価値は、同じ交換の大いさである。
<5>交換価値に表わされている労働の性格
「使用価値は、直接には生活手段である。しかし、逆に、これらの生活手段そのものは、社会的生活の生産物、すなわち、支出された人間の生命力の成果であり、対象化された労働である。社会的労働の物質化として、すべての商品は同じ等一物(Einheit:単位→「2022翻訳問題」参照)の結晶である。この等一物/単位、すなわち、交換価値に表わされている労働の一定の性格、これをいま考察しようというのである。」
<7>労働時間は労働の量として生きた正体(Dasein:定有、存在)
「1オンスの金、1トンの鉄、1クォーターの小麦及び20エルレの絹が、同じ大いさの交換価値または等価であるとすれば、1オンスの金、2分の1トンの鉄、3ブシェルの小麦及び5エルレの絹は、全くちがった大いさの交換価値である。そしてこの量的な相違(Unterschied
ヘーゲル『小論理学』では「区別」)ということは、これらのものがそもそも交換価値として示すことのできる唯一の相違である。これらのものは、ちがった大いさの交換価値としては、交換価値の実体をなしているかの単純な、一様の、抽象的で一般的な労働の大小、すなわち、その量が大きいか小さいかを示している。
これらの定量をどうして測るかが問題となる。あるいはむしろかの労働そのものの量的な正体(Dasien)はどういうものであるかが問題となる。というのは、商品の交換価値としての大いさの相違は、ただこれらの商品に対象化されている労働の大いさの相違にすぎないからである。運動の量的な正体が時間であるように、労働の量的な正体は労働時間である。
労働そのものの継続のちがい(ヘーゲル『小論理学』では差別:Verschiedenheit(岩波文庫p.23))が、労働の質を与えられたものと前提すれば、可能な唯一の相違(区別:Unterschied)である。労働は、労働時間としては、自然的な時間標準である。時、日、週等々というように分けて、その尺度標準をつくっている。労働時間は、労働の生きた正体であって、その形態、その内容、その個性には無関係である。それは、同時に内在的な基準をもった、労働の量としての生きた正体である。同時にその商品の使用価値に対象化されている労働時間は、これらの使用価値を交換価値とし、したがって商品とする実体であると同時に、またそれらのものの定められた価値の大いさを測るものでもある。同一労働時間が対象化されているちがった使用価値の相関的な量が等価 Äquivalenteである。
あるいはすべての使用価値は、同一の労働時間がついやされ、対象化されている割合に応じて等価 alle Gebrauchswerte sind
Äquivalente in den Proportionen である。交換価値としては、すべての商品は、膠結した労働時間 〔凝結せる festgeronnener →gerinnen ゲル化する・膠状化する・Gallertの関連語〕の一定の量であるにすぎない。」
<11>一切の労働が同一種の労働
「交換価値の分析から生ずるこの価値を生む労働の諸条件(Bedingung)は、労働の社会的規定である、あるいは、社会的な労働規定である。しかし、社会的といっても一般的にただ社会的であるというのではなく、特殊な様式をもつ社会的という意味である。それは、社会性の特殊な種である。・・・・
各個人の労働は、それが交換価値に表われる限りにおいて、等一性(Gleichhei:相等性)というこの社会的性格をもつのである。そしてこの労働は、それがすべての他の個人の労働に対して等一なるものとして相関係するかぎりでのみ、交換価値に表われるのである。
<12>個人の労働時間が一般的労働時間となる
さらに、交換価値においては、個々の個人の労働時間が、直接に一般的労働時間として現われる。そして個別的な労働のこの一般的性格が、その労働の社会的性格として現われる。・・・・ すなわち、すべての人に共通の労働時間であるかぎりにおいてのみ、彼の労働時間である。したがって、この労働時間にとっては、個々の誰の労働時間であるかは、どうでもよいことである。この労働時間は、一般的労働時間として、一般的生産物に、すなわち一般的/普遍的等価 allgemeinen Äquivalent に、
すなわち、対象化された労働時間の一定量に表わされる。
すなわち、彼等の労働がそれぞれのための社会的な固有性 gesellschaftliche Dasein をもつことになる。」
<13>交換価値を生む労働の物神性
「最後に、人間の社会的関係( gesellschaftliche Beziehung der Personen ) が、いわば逆さに、すなわち、物の社会的関係( gesellschaftliches Verhältnis der Sachen )として、表われるというのが交換価値を生む労働の特徴となるのである。一の使用価値が他のそれに対して交換価値として関係するかぎりにおいてのみ、それぞれちがった人間の労働がたがいに、等一な一般的な労働としてあい関係する。したがって、もし交換価値は人間の間の関係である、ということが正しいとすれば、これに対して、物的な外被におおわれた関係であるということが付け加えられなければならない。1ポンドの鉄と1ポンドの金とが、物理学的に化学的にちがった性質であるにもかかわらず、同一量の重さを表わすように、同一労働時間を含む商品の二つの使用価値は、同一の交換価値を表わしている。
かくて、交換価値は、使用価値の社会的な性質規定性(gesellschaftliche Naturbestimmtheit der Gebrauchswerte)として、すなわち、これらの物としての使用価値に与えられる規定性として表われる。そしてこの性質規定のために、これらの使用価値は交換過程で、ちょうど単純な化学的元素が一定の量的比率で化合し、化学的等価をなしているように、一定の量的比率で置き換えられ、等価をなしている。
社会的生産関係が対象の形態をとり、その結果人間の関係がその労働において、むしろ物相互の間及び物と人間との間にとる関係として表わされるということは、日常の生活習慣にすぎないものであって、それは少しもめずらしくない自明のこととして表われる。商品ではこの神秘化(Mystifikation)はまだ極めて単純である。ここでは商品の交換価値としての関係は、むしろ人間の相互的な生産活動に対する関係であるということが、多かれ少なかれ、まだすべての人々の目に浮ぶ。」
<20>すべての商品の使用価値がその等価をなしている無限に多数の方程式
商品の交換価値は、それ自身の使用価値のうちに表われるものではない。だが、一商品の使用価値は、一般的な社会的労働時間の対象化として、他の商品の使用価値と比例関係におかれる。この一商品の交換価値は、このように、他の商品の使用価値で表明されている。実際上、他の一商品の使用価値に表現された一商品の交換価値が等価である。例えば、1エルレの亜麻布は2ポンドのコーヒーに値するとすると、亜麻布の交換価値は、コーヒーという使用価値で、しかもこの使用価値の特定の量で表現されている。この割合が与えられているとすれば、亜麻布のいかなる分量でもその価値をコーヒーでいい表わすことができる。一商品、例えば亜麻布の交換価値は、他の特別な一商品、例えば、コーヒーがその等価をなしている比例関係でつきているものでないことは明らかである。
一般的労働時間の一定量は、これを表示しているのが1エルレの亜麻布であるが、同時に他のすべての商品の使用価値の無限に多様な分量に実現されている。あらゆる他の商品の使用価値が等量の労働時間を表わしている割合にしたがって、それらの商品の使用価値は、1エルレの亜麻布の等価をなしている。したがって、この個々の商品の交換価値を十分に表現するには、他のすべての商品の使用価値がその等価をなしている無限に多数の方程式をもってくる外ない。
これらの方程式の総計、または一商品が他のあらゆる商品と交換される種々の比例関係の総体においてのみ、この商品は一般的等価として、あますところなく表現される。
<21> 例えば方程式の系列
1エルレ 亜麻布 = 1/2ポンド 茶
1エルレ 亜麻布 = 2ポンド コーヒー
1エルレ 亜麻布 = 8ポンド パン
1エルレ 亜麻布 = 6エルレ キャラコ
は、次のように表わされうる、
1エルレ亜麻布=1/8ポンド 茶 + 1/2ポンド コーヒー + 2ポンド パン + 1・1/2エルレ キャラコ
新しい形態/形式規定性の獲得
<34>一般的労働時間の成立と一般的等価形態
「交換過程では、すべての商品が、商品一般としての排他的商品に、すなわち、ある特別の使用価値に一般的労働時間を 体現 (Dasein ダーザイン) している商品に、関係するのである。したがって、すべての商品は、それぞれ特別の商品として、一般的商品としてのある特別の商品に相対立する。
このようにして商品所有者たちがおたがいにその一般的社会的労働としての労働に関係するということは、次のような形で示されている、すなわち、彼等がその交換価値としての商品に対してあい関係しあっているということ、また交換過程における交換価値としての諸商品の相互関係が、それらの商品の交換価値の適合した表現としてのある特別な商品に対するその全面的な関係として現われているということ、このことは、逆にまた、この特別の商品の他のすべての商品に対する特殊な関係として、したがってまた、一定のいわばある物の自然発生的に社会的な性格として現われる、ということである。
このようにすべての商品の交換価値の適合した体現であることを示している特別の商品、あるいは、諸商品の、ある特別な排他的な商品としての交換価値、これが貨幣である。それは、諸商品が交換過程そのものの中で形成するおたがいの交換価値の結晶である。したがって、一方で諸商品は、交換過程の内部ですべての形態規定性をはぎとり、その直接的な素材態容であい関係し合うことによって、おたがいのための使用価値となるとすれば、相互に交換価値として現われるためには、新しい形態/形式規定性 neue Formbestimmtheit をとり、貨幣形成にすすまなければならない。貨幣は象徴ではない。
それは使用価値が商品として存在しても、象徴でないのと同じである。個人たちの外に存する対象として社会的生産関係が、すなわち個人たちの社会的生活の生産過程で結ばれる一定の諸関係が、一つの物の特殊な属性
spezifische Eigenschaften eines Dings として表わされるということ、この錯倒と想像的でない、散文的に現実的な神秘化とが、交換価値を生む労働のすべての社会形態を特徴づけている。 貨幣においては、この神秘化は、商品におけるよりはるかに驚嘆に値するものとなっているだけのことである。」
事務局:
以上、事務局で準備した『経済学批判』の「商品の物神的性格」についての簡単な抄録集です。
次回の議論の素材としてお役に立てれば幸いです。
本日はごくろうさまでした。 (2016年7月20日)
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