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文献資料 2020.04

 『資本論』 第24章 いわゆる本源的蓄積 

   第7節 
資本主義的蓄積の歴史的傾向

  資本の本源的蓄積、すなわち、その歴史的生成は、いかなることに帰着するか? それが奴隷と農奴の賃金労働者への直接転化、したがって単なる形態転換でないかぎりは、直接生産者の収奪、すなわち自己の労働に基づく私有の解体を意味するにほかならない。
  社会的、集団的所有にたいする対立物としての私有は、労働手段と労働の外的諸条件とが、私人に属するばあいにのみ成立する。しかし、この私人が労働者であるか、非労働者であるかにしたがって、私有もまた異なる性格をもつ。一見私有の呈する無限の濃淡は、この両極のあいだに存する中間状態を反映するものにすぎない。
  労働者の自己の生産手段にたいする私有は、小経営の基礎であり、小経営は、社会的生産と労働者自身の自由な個性との発展のためには、一つの必要条件である。たしかに、この生産様式は、奴隷制度、農奴制度、その他の隷属的諸関係の内部にも存在しはする。しかし、それが繁栄し、全精力を発揮し、適切な典型的形態を獲得するのは、労働者が彼自身の扱う労働諸条件の自由な私有者であるばあい、すなわち、農民はその耕す耕地の、手工業者は彼が老練の腕をもって振う用具の、自由な私有者であるばあいのみである。

  この生産様式は、土地と、その他の生産手段の分散を前提する。それは、生産手段の集積を排除するとともに、同一生産過程の内部における協業と分業、自然にたいする社会的支配と規制、社会的生産諸力の自由な発展をも、排除する。それは、生産と社会の狭隘な自然発生的な限度とのみ、調和する。これを永遠化しようと欲するのは、ペクールが正しく言っているように、「一般的平凡を命令する」ものであろう。一定の高度に達すれば、それは、それ自身の破壊の物質的手段を産み出す。この瞬間から、社会の胎内では、この生産様式を桎梏と感ずる力と熱情とが動き出す。この生産様式は、破壊されねばならず、破壊される。その破壊、個人的で分散的な生産手段の社会的に集積された生産手段への転化、したがって、多数な人口の矮小所有の、少数の人の大量所有への転化、したがって、民衆の大群からの土地と生活手段と労働用具の収奪、この怖るべき苛酷な民衆収奪が、資本の前史をなすのである。それは、一連の暴力的方法を包括するものであって、われわれは、そのうちの画期的なもののみを、資本の本源的蓄積の方法として、考察したのである。直接生産者の収奪は、全く仮借するところのない野蛮をもって、もっとも陋劣、醜悪、卑怯な憎むべき激情の衝動の下に、遂行される。自己の労働によって得られた、いわば個々独立の労働個人と、その労働諸条件との癒合に基づく私有は、他人の、しかし形式的には自由な労働の搾取に基づく資本主義的私有によって駆逐される(注251)。

 (注251) 「われわれは、社会の全く新たな事情のもとにある。……われわれは、あらゆる種類の所有を、あらゆる種類の労働から分離する傾向にある」(シスモンディ『新経済学原理』第2巻、434ページ)。

  この転形過程が、旧社会を深さにおいても広さにおいても充分に分解してしまえば、すなわち、労働者がプロレタリアに、その労働諸条件が資本に転化されれば、資本主義的生産様式が自己の足で立つにいたれば、労働のさらにそれ以上の社会化と、土地その他の生産手段の、社会的に利用される、したがって共同的な生産手段への、さらにそれ以上の転化、したがって、私有者のさらにそれ以上の収奪は、一つの新たな形態をとる。いまや収奪されるべきものは、もはや自営的な労働者ではなく、多くの労働者を搾取しつつある資本家である。

  この収奪は、資本主義的生産自体の内在的法則の作用によって、資本の集中によって、実現される。つねに一人の資本家が多くの資本家を滅ぼす。この集中とならんで、すなわち少数の資本家による多数の資本家の収奪とならんで、ますます大規模となる労働過程の協業的形態、科学の意識的技術的応用、土地の計画的利用、共同的にのみ使用されうる労働手段への労働手段の転化、結合された社会的労働の生産手段として使用されることによるあらゆる生産手段の節約、世界市場網への世界各国民の組入れ、およびそれとともに資本主義体制の国際的性格が、発展する。この転形過程のあらゆる利益を横領し独占する大資本家の数の不断の減少とともに、窮乏、抑圧、隷従、堕落、搾取の度が増大するのであるが、また、たえず膨脹しつつ資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され結集され組織される労働者階級の反抗も、増大する。資本独占は、それとともに、かつそれのもとで開花した生産様式の桎梏となる。生産手段の集中と労働の社会化とは、それらの資本主義的外被とは調和しえなくなる一点に到達する。外被は爆破される。資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。
 
  資本主義的生産様式から生ずる資本主義的領有様式は、したがって資本主義的私有は、自己の労働に基づく個別的な私有の第一の否定である。しかし、資本主義的生産は、一種の自然過程の必然性をもって、それ自身の否定を産み出す。それは否定の否定である。この否定は、私有を再興するのではないが、しかしたしかに、資本主義時代の成果を基礎とする、すなわち、協同と土地および労働そのものによって生産された生産手段の共有とを基礎とする個別的所有をつくり出す。
  言うまでもなく、個人の自己労働にもとづく分散的私有の資本主義的私有への転化は、事実上すでに社会的生産経営に立脚する資本主義的所有の社会的所有への転化に比すれば、比較にならないほど長く、苛酷で、困難な過程である。前のばあいには、少数の簒奪者による民衆の収奪が行なわれたのであるが、後のばあいには、民衆による少数の簒奪者の収奪が行なわれるのである(注252)。

(注252) 「ブルジョアジーをその無意志にして無抵抗な担当者とする産業の進歩は、競争による労働者の孤立化に代えるに、結合による彼らの革命的団結をもってする。したがって、大工業の発展とともに、ブルジョアジーがそのうえで生産しかつ生産物を領有する基礎自体が、ブルジョアジーの足もとから奪い去られる。ブルジョアジーは、何よりもまずそれ自身の墓掘り人を生産する。ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利とは、等しく不可避である。……今日ブルジョアジーに対立するすべての階級のうちで、現実に革命的な階級は、ただプロレタリアートのみである。自余の諸階級は、大工業の発展とともに衰退衰頽し、滅亡するが、プロレタリアートは、大工業のもっとも固有な産物である。中産階級、小工業者、小商人、手工業者、農民、彼らはすべて、中産階級としての彼らの存在を没落から守るために、ブルジョアジーと抗争する。……彼らは反動的である。歴史の車輪を逆転させようとするものであるからである」 
(カール・マルクスおよびフリードリヒ・エンゲルス 『共産党宣言』 ロンドン、1848年、11・9ページ 〔ディーツ版『全集』第4巻、474・472ページ。大内兵衛・向坂逸郎訳、岩波文庫版、56・53ページ。新潮社版『選集』第5巻、15・13ページ〕
  ・・・以上で、終わり・・・