ホーム


 文献資料
 Ⅰ. 『大論理学』第2巻本質第3章根拠
 Ⅱ. 『大論理学』
第2巻本質論 第1章 仮象 B 仮象
          第2巻本質論 第1章 仮象 C 反省
 Ⅲ. 本質・現象・仮象

   

      ■本質・現象・仮象_ヘーゲル論理学
第2巻 本質論 
第1章仮象 B 仮象
第2巻本質論第1章仮象 C 反省

 

Ⅰ. 『大論理学』第2巻 本質 第3 章 根拠
 
  目次
 『大論理学』第2巻 本質論
 第1篇 自己自身における反省としての本質
  第1章 仮象
  第2章 本質性または反省規定
  第3章 根拠 der Grund
   A 絶対的根拠
     (a) 形式と本質
     (b) 形式と質料  ー要約ー
     (c) 形式と内容  ー要約ー
   B 規定的根拠   ー省略ー
   C 制約      ー省略ー


 
第3章 根拠 der Grund
  本質は自己自身を根拠として規定する。
 根拠はまず第一に絶対的根拠 absoluter Grund である。そして本質はこの絶対的根拠においては、まず差し当って根拠関係 Grundbeziehung に対する
根底 Grundlage 一般という一般という形で存在する。しかし、この根拠はつぎに形式 Form と質料 Materie として規定され、また内容 Inhalt が与えられる。
 第二に根拠は、或る規定的な内容の根拠として規定的根拠 bestimmter Grund である。根拠関係は、その実在化の中で一般に自己に対して外面的になることによって、制約する媒介 bedingende Vermittelung に移行する。
 第三に、根拠は或る制約を前提する。けれども制約は、また同様に根拠を前提する。そこで無制約者 das Unbedingte が、この両者の統一、即ち事物そのもの die Sache an sich であって、この事物そのものは制約関係の媒介を経て実存に移行する。


 A 絶対的根拠
  
(a)形式と本質
 反省規定が根拠に還帰するかぎり、それは出発点である最初の定有であり、直接的な定有一般である。けれども、この定有はやはり単に被措定有であるという意味をもち、本質的に或る根拠を前提する。・・・
 従って根拠としての本質の規定性は、根拠 der Grund と根拠付けられたもの das Begründete という二つの規定性である。この規定性はまず第一に、根拠としての本質である。・・・
 本質は一つの形式と、その形式の諸規定とをもつ。本質は根拠となって、はじめて一つの確乎とした直接性をもつのであり、言いかえると
基体 Substrat なのである。・・・
 或る関係付けられた存在は根拠の中ではじめて、止揚された反省の契機という面で現われてくるのである。ところが、〔何ものかに對して〕関係付けられている基体としての本質は規定された本質である。本質は、このような被措定有の故に、本質的にそれ自身の中に形式をもつことになる。―これに反して、各形式規定は、いまや本質の上にあるものとしての規定である。
本質は本質という規定からいって、各形式規定に対して無関心にあるところの無規定的なものとして、各形式規定の根底に存在する。即ち各形式規定は、その自己反省を本質においてもっている。各反省規定は、その存立をそれ自身においてもつべきであり、従って自立的であるべきだとせられる。ところが、それらの自立性は〔反省規定としての〕それらの解消である。その意味で、それらはこの自立性を或る他者においてもつ。けれども、またこの解消は、それ自身、上に述べた自己同一性である。云いかえると、この解消は各反省規定がもつところの存立の根拠である。
 一般に、
すべての規定的なものは形式に所属している。この規定的なものは、それが或る被措定者であって、従ってそれを形式としているところの存在とは区別されるものであるかぎり、形式規定なのである。質という規定性は、その基体、即ち有と一つのものである。有は直接的に規定された存在であって、それはまだ、その規定性と区別されていない。―或いは、それはまだ、その規定性において自己に反省せず、従ってまた、この規定性も有的な規定性であって、措定された規定性ではない。―ところが、本質の諸々の形式規定は反省の規定性であるから、その規定性の一々の点では、前に考察した反省の諸契機、即ち同一性と区別とであり、この区別はまた差異性と対立とである。けれどもまた、根拠関係も、この反省の契機に属する。しかしそれは、この根拠関係がもとより止揚された反省規定であるが、その点で同時に被措定者としての本質であるかぎりにおいてである。これに反して、根拠がその中にもつところの同一性、即ち止揚された被措定有としての被措定有と被措定有そのものとが、――根拠と根拠付けられたものとが、――ただ一つの反省であるという同一性は、形式には属さない。むしろ、このただ一つの反省は、形式の存立であるところの単純な根底としての本質を形成するものである。けれども、この存立は根拠の中で措定されている。云いかえると、この〔根底としての〕本質は、それ自身本質的に規定された本質として存在する。従って、この本質は、また再び根拠関係と形式との契機である。――以上が形式と本質との絶対的な交互関係である。即ち本質は根拠と根拠付けられたものとの単純な統一であるが、しかしその点でまさに、それ自身規定的なもの、または否定的なものであるという交互関係である。また本質は基礎として形式と区別されるが、しかし同時にそれ自身、形式の根拠と契機とになるという交互関係である。
 それ故に、形式は反省の完成した全体である。それはまた、止揚された反省であるという反省の規定をも含んでいる。だから形式は、その規定作用の統一であると共に、またその止揚態に、即ち或る他者に関係付けられている。即ち、この他者そのものは形式ではなくて、却ってこの他者において形式があるのである。形式は本質的な、自己自身に関係する否定性として、この単純な否定的な存在に対立して措定するものであり、規定するものである。これに反して、単純な本質は無規定的な根底であり、無活動的な根底であって、各形式規定はこの根底において存立または自己反省をもつ。――外的反省は本質と形式との以上のような区別にとどまるのが普通である。この区別は必然的なものではあるが、しかしこの区別そのものが両者の統一なのであり、また同様に、この根拠的統一が自己を自己から反発し、被措定有とする本質なのである。形式は絶對的な否定性または否定的な絶対的自己同一性である。まさにそれ故に、本質は有ではなくて、本質なのである。この同一性を抽象的にとれば、同一性は形式に對立する本質であり、否定性を抽象的に見て被措定有とすれば、それは即ち個々の形式規定である。けれども、上述のように規定は、その真相においては、全体的な自己に関係する否定性であって、従ってこの否定性は、このような同一性として、それ自身、単純な本質である。だから形式は、その形式自身の同一性において本質をもち、また本質は、それ自身の否定的な本性において絶対的形式をもっている。それ故に、如何にして形式が本質に附加するかと問うことはできない。なぜなら形式は、ただ本質のそれ自身の中における映現であり、本質に内在する固有の反省だからである。形式も同様に、それ自身において自己に還帰する反省であり、或いは同一的本質である。即ち形式は自己の規定作用において規定を被措定有としての被措定有とする。――それ故に、形式が本質から分離され、〔それ自身〕真なるものとして前提されているとでもいった意味で、形式が本質を規定するのではない。というのは、もしそうだとすれば、形式は非本質的な、絶えず没落にさらされているところの反省規定にすぎないからである。故に、むしろ形式は、それ自身自己の止揚の根拠であり、或は自己の各規定の同一的な関係なのである。それ故に、形式が本質を規定するというのは、形式がその区別作用の中において、この区別作用そのものを止揚するということであり、また形式が規定の存立としての本質であるところの自己同一性だということを意味する。即ち形式は、その被措定有の中において止揚されており、またこの止揚されていることにおいて、その存立をもつという矛盾である。従って形式は、規定または否定されていることにおいて自己同一的であるところの本質として、根拠なのである。
〔3、移行〕
 この形式と本質との区別の両者は、それ故に単純な形式関係そのものの二契機にすぎない。しかし、この両者は更に詳細に考察され、明確に規定されなければならない。規定的な形式は止揚された被措定有としての自己に関係する。従って、それは或る他者としての自己の同一性に関係するのである。言いかえると、規定的な形式は自己を止揚されたものとして措定する。従ってそれは、その同一性を前提するのである。このような契機から見れば、本質は無規定的存在であって、この存在に対して形式は一個の他者である。この意味で、その本質は、それ自身において絶対的反省であるような本質ではなくて、無形式的な同一性として規定される。即ち、それは質料 Mterie である。

  
(b) 形式と質料 ー要約ー
 1. 本質の反省が無形式的な無規定者としての本質に対して関係するものと規定されることによって、本質は質料となる。故に質料は、形式の他者であるという規定をもつところの単純な区別のない同一性である。即ち、この同一性は本質なのである。だから形式の文字通り根底 Grundlage または基体 Substrat である。
 <1>
 2. 或る物のすべての規定、すべての形式が捨象されるとき、そこには無規定な質料が残る。質料は全くの抽象物である。(質料は見たり、感じたりできない。見たり、感じたりされるものは、或る規定的な質料である。即ち、それは質料と形式との統一である。)
 3. 質料は形式に対して無関心なものではあるが、しかしこの無関心性は形式が還帰して行く根底としての自己同一性の規定性である。それで、形式は質料を前提する。
 4. 質料は形式化されなければならないが、また形式は質料化されて、質料の中で自己同一性または存立を獲得しなければならない。

 <2> [形式における形式と質料との関係]
 1. 形式の質料に対する活動性と質料の形式による被規定性とは、むしろ両者の無関心性と区別性という仮象の止揚にほかならない。
 2. 第一に、形式と質料とは相互に前提しあう。
 3. 第二に、形式は自己を止揚する。形式は自立的である同時に、本質的に或る他者に関係付けられている。――故に形式は自己を止揚し、自己を被措定有にする。そしてこの形式の他者は質料である。
 4.それ故に、質料を規定するところの形式の能動性は、形式の自己自身に対する否定的な関係の中に成り立つ。
 5.第三に、形式と質料との運動によって両者の根源的統一が一面では回復されるが、他面ではこの統一は、いまや一つの措定された統一となる。言いかえると、質料は必然的に或る形式をもつ。また形式も全く質料的な形式であり、存立している形式である。
 6. 更に言いかえると、質料が形式によって規定されることは、根拠としての本質が自己自身によってと共に、また自己自身の否定によって自己と媒介されることすることであるが、しかもその二つが一つの統一としてあることにほかならない。
 7.[移行]
  形式付けされた質料、または存立をもつ形式は、あの根拠の絶対的自己統一であるのみでなく、また措定された統一でもある。・・・故に、この統一は形式と質料との根底としての両者の統一であるが、しかも両者の規定された根底としての両者の統一である。即ち、この根底じゃ形式付けされた質料 formierte Materie であるが、しかしこの形式付けられた質料は同時に、この止揚されたものであり、非本質的なものであるところの形式と質料とに対して無関心なものなのである。即ち、この統一は内容 der Inhalt である。


 (c)
形式と内容 ー要約ー

1. 形式は、第一には本質に対立する。その意味で、形式は根拠関係一般であり、形式の規定は根拠と根拠付けられたものとである。次に、形式は質料に対立する。その点で、形式は規定的反省であって、その規定は反省規定そのものと、この反省規定の存立とである。最後に、形式は内容に対立する。ここでは、その規定は再び形式自身と質料とである。前に自己同一的な存在であったところのもの、即ち、最初は根拠であり、次に存立一般であり、最後に質料であったものは、形式の支配下にあるものとなり、のみならず、いまや更に進んで形式の二規定の一つである。
2. 内容は第二に、形式と質料との中における同一的なもの[両者の共通的内容]であって、形式と質料とは単に無関心的な、外面的規定にすぎない。
3. 根拠は最初は内容の中に消失している。けれども、内容は同時に二つの形式規定の否定的な自己反省である。だから、最初には単に形式に対して無関心であるにすぎない内容の統一も、実は形式的統一または根拠関係そのものである。
4. 内容は、この根拠関係を自己の本質的形式としてもち、また逆に根拠が内容をもつ。
5. それ故に根拠の内容は、根拠の自己との統一の中へ復帰したところの根拠である。
6. こうして、根拠は一般に規定された根拠となるのであるが、この規定性そのものが、第一に形式、第二に内容であるという両面をもつ。
7. 前者[形式としての規定性]は、この関係に対して無関心的であるところの内容に対して一般に外面的であるというような根拠の規定性であるが、後者[内容としての規定性]は、根拠がもつところの内容という規定性である。

  ・・・・ ・・・ ・・・・ ・・・ ・・・・ ・・・2021.07.19
  ヘーゲル 『大論理学』 第2巻 本質論
   第1章 仮 象 Der Schein
   ・・・・ ・・・ ・・・・ ・・・ ・・・・ ・・・



  Ⅲ. 本質・現象・仮象


 1. 本質―現象 Wesen ― Erscheinung

    
仮象 Schein    『ヘーゲル用語事典』 未来社

  一般的説明  
 哲学の課題は一般に、事物の本質を認識することにあると考えられる。このさい、事物の奥にあり、それを根拠づけているものが「本質」といわれ、直接的な所与としての事物は「現象」とよばれる。有論で考察された事物の質的変化や、質から量への叙述の進展ですべてが終わったわけでなく、「有」の背後にある変化しないもの、つまり本質を捉えねばならない。直接的に与えられ、確実とみられた事物は、じつは現象にすぎないのである。ヘーゲルはこのことについて「有の真理は現象である」という。ここに本質論の課題が生じる。
 こうして、感覚・知覚によって捉えられる、たえず変化する世界は「現象」なのであり、他方、本質は一般に「法則」として表現される。それは静かな、超感覚的な世界といえる、たとえば、抽象的な数学的公式として表現されるニュートンの万有引力の法則は、こうした本質の典型例であり、この法則が天上の世界と地上の世界のきわめて多様な現象を統一的に説明するのである。


 
ヘーゲルの批判
 ヘーゲルが本質‐現象という一対のカテゴリーを本質論に位置づけたのは、従来の形而上学や自然科学で使われたこれらのカテゴリーが限界をもっていたからである。たとえば、プラトンは本質を神の住む天上の世界(イデア界といわれる)とみなし、現象を有為転変する地上の世界と考え、両世界を切り離し、宗教的に考えた。またカントは、本質としての物自体( Ding an sich ) はけっしてわれわれに現象してこないとして、不可知論(事物の本質は認識できないという考え)を唱えた。当時の自然科学も本質‐現象、さらに原因‐結果などのカテゴリーで機械的な説明をしていた。要するにここでは、本質と現象は分断されるか、たんに外的に結合されるかであった。


 
本質は現象する 
 本質‐現象のカテゴリーに潜む、深い弁証法を洞察することは、「本質は現象しなければならない」、「本質は現象する( erscheinen )」(『大論理学』)という命題を展開することであった。もともと本質―現象は反省‐被措定有という一対のカテゴリーから生じている(反省概念が本質論の基本論理であった)。この点からすると、直接的所与としての事物を被措定有(措定されたもの)と捉え返すところに本質のダイナミズムがあり、本質が産出した被措定有こそ「現象」である。こうして、「本質は現象する」は「本質は現象を反省運動のなかで措定する」と読み代えられる。
 だが、現象は、反省の運動で生じた 《
仮象映現 Schein) 》 よりも具体的なものである。仮象はふつう「外観」、「見せかけ」、「幻影」などの否定的意味をもつ。それは人の目を惑わすものである。ヘーゲル自身も仮象を「非自立性」、「本質を欠いた存在」であるという。だが、よく考えると、この仮象もなんらかの意味で本質の現われである。こうして、仮象を本質の現われとみなすとき、それは「現象」となる。現象とはたんなる「見せかけ」ではなく、「実在的な映現」である現象は、そこに本質が現われる不可欠の現場である


 
現象の豊かさ
 現象の一片一片に本質は現われ、浸透している。現象してこない本質は、真の本質ではない。
本質を表現する法則は現象の彼岸にあるのではなく、現象のただなかに現存する。たとえば、万有引力の法則は、物体の落下・衝突・天体の運行などの多様な現象界を同じものの現われとして説明する。
 以上では、現象は本質のたんなる現われであり、本質を超える独自性をもたないと考えられるが、ヘーゲルは同時に両者の区別も強調する。法則は現象の静止的な模写像であって、そこでは現象のもつ多様な変化や運動の側面は捨象されている。この意味で、
現象は法則を含むのみでなく、運動・変化の形式をも含む。それゆえ、本質よりも現象のほうが豊かであり、またここに法則的表現のもつ抽象性と限界がある。「本質は現象する」といいながらも、現象を単純に本質に還元しないところに、ヘーゲルの現実(現象)重視の姿勢があるといえよう。 (島崎 隆) ・・・「ヘーゲル用語事典」 未来社 より・・・